リルケの『形象詩集』を読む
(連載第5回)
『乙女の憂鬱』
『 Mädchenmelancholie』
【原文】
Mir fällt ein junger Ritter ein
fast wie ein alter Spruch.
Der kam. So kommt manchmal im Hain
der große Sturm und hüllt dich ein.
Der ging. So läßt das Beneiden
der großen Glocken dich allein
oft mitten im Gebet…
Dann willst du in die Stille schrein,
und weinst doch nur ganz leis hinein
tief in dein kühles Tuch.
Mir fällt ein junger Ritter ein,
der weit in Waffen geht.
Sein Lächeln war so weich und fein:
wie Glanz auf altem Elfenbein,
wie Heimweh, wie ein Weihnachtsschein
im dunkeln Dorf, wie Türkisstein
um den sich lauter Perlen reihn,
wie Mondschein
auf einem lieben Buch.
【散文訳】
わたしは、ある若い騎士のことをふと思いつく
ほとんど、古い箴言のように。
この騎士は来た。すると、幾度も神域の森の中に
大きな嵐が来て、そして、お前を包み込む。
この騎士は去った。すると、大きな鐘々の
羨望の念が、お前を一人にする
しばしば祈りの只中で…
すると、お前は静寂の中に叫びたいと思うが
しかし、実際には、全く小さな声で、泣き声を響かせるだけ
深く、お前の冷たい半巾(はんかち)の中へと。
わたしは、ある若い騎士のことをふと思いつく
遠く、武具に身を固めて行く騎士のことを。
その微笑(ほほえみ)は、かくも柔らかく、そして繊細である:
古い象牙の上の輝きのように
郷愁のように、暗い村の中にある
聖夜の輝きのように、その周りには、沢山の真珠だけが整然と並んでいる
土耳古(とるこ)石のように
愛読している本の上の
月の光のように
【解釈と鑑賞】
前の詩が騎士についての詩でしたので、この詩にも騎士が登場します。
リルケは、よくこのような連想の繋がりを大切にして、詩を配置します。
さて、最初に、この詩の構成の仕方をみてみましょう。
1。二つあるまとまりのそれぞれの最初に同じ繰り返しの二行の連を置く:
(1)古い箴言のように騎士のやって来る着想……A
(2)遥かに武具を身にまとって行くという着想……B
2。そのあとに、それぞれのまとまりAとBの中で本題の連ともいふべき詩を置く
(1)騎士が来たで始まる詩……C
(2)騎士の微笑はで始まる詩……D
3。この本題の詩CとDの中を更に次のようにそれぞれ構造化する:
(1)C
①「この騎士は来た」で書き出す……E
②「この騎士は去った」で書き出す……F
③上記①と②の結果……G
(2)D
「騎士の微笑」をすべて次のような直喩の列挙で表す。
①古い象牙の上の輝き……a
②郷愁……b
③暗い村の中のクリスマスの夜に雪の降ること……c
④土耳古(トルコ)石(その周りには沢山の真珠だけが整然と並んでい
る)......d
⑤愛する書物の上にある月の光……e
以上の構造を記号化してまとめますと、次のようになります。
『乙女の憂鬱』{A[C (〈E, F〉,G)],B[D (a,b,c,d,e)]}
こうしてみますと、この詩は3階層の建物の詩ということになります。
さて、これはこの詩の様式(形式)の話ですが、他方、その内容を見てみましょう。
結論から申しますと、この詩の乙女は、騎士といふ男性からみた乙女、即ちリルケの主題と動機の一つでありますが、最も近いものは最も遠く、最も遠いものは最も近いということを歌った、乙女の詩であるのです。
何故ならば、普通リルケが乙女の処女性という純潔を意識するときには、動詞を使わずに、ただ名詞に関係代名詞(従属節)を入籠構造にして連ねて、一切の時間を捨象して其の連を構成するということは、既に此の連載の第3回目:『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』/Zwei Gedichte zu Hans Thomas Sechzigstem Geburtstage/『月夜』にてお話しした通りです。
即ち、この詩には、乙女という主語にはやはり述語として動詞が備わっており、普通の詩行となっておりますから、この詩は処女に対して暴力的な男である其のような騎士では全くないのです。
そのような強い男性の性欲に満ちた感情を歌うときには、リルケはいつも上の『月夜』の[註1](もぐら通信第34号)で述べたような、名詞だけで一連を構成するものを、ここでは、そうはしていないからです。
やはり、この騎士は、伝統的歴史的な、日本ならば武士(さむらい)ともいうべき西洋の武士道の、中世の脈絡たる騎士であるのです。
また、リルケの主題と動機の一つでありますが、最も近いものは最も遠く、最も遠いものは最も近いということを歌った詩であるということから、この一見相矛盾するような論理と事態を解決するために、というよりは順序の因果は無く、これは並立して生まれたのでありましょうが、いづれにせよ、リルケがいつも同時に歌うのは、循環ということであったことを思い出して下さい。これは、この連載の第2回目:リルケの『形象詩集』を読む(連載第2回)『或る四月の中から(外へ)』(もぐら通信第33号)でお話しした通りです。[註1]
従い、この詩にもまた、密かに循環が歌われております。それは後述します。
[註1]
連載第2回の詩への註をそのまま引用してお伝えします。:
[註1]
『詩人たちの論じた安部公房論(連載第4回):磯田光一『詩人としての安部公房』』(もぐら通信第31号)から引用して、お伝えします。
「まづ、『孤独』という詩から見てみましょう。
【原文】
Einsamkeit
Die Einsamkeit ist wie ein Regen.
Sie steigt vom Meer den Abenden entgegen:
von Ebenen, die fern sind und entlegen,
geht sie zum Himmel, der sie immer hat.
Und erst vom Himmel fällt sie auf die Stadt.
Regnet hernieder in den Zwitterstunden,
wenn sich nach Morgen wenden alle Gassen
und wenn die Leiber, welche nichts gefunden,
enttäuscht und traurig von einander lassen;
und wenn die Menschen, die einander hassen,
in einem Bett zusammen schlafen müssen:
dann geht die Einsamkeit mit den Flüssen ...
【散文訳】
孤独
孤独は、雨のように存在する。
孤独は、海から上がって、数々の夕暮れに向かって登って行く:
遠く、そして遠く隔たり辺鄙なところに在る数々の地平から上がって
孤独をいつも抱えている天に向かって行く。
そして、やっと天から、孤独は都市(町)の上に落ちて来るのだ。
孤独は、綯(な)い交ぜの時間の中で降って来る
朝の後に、全ての小路が向きを変えるときにはいつでも
そして、何も見つけることのなかった体という体が
幻滅し、そして悲しんで、互いに無関係に放っておくときにはいつでも
そして、互いに憎しみ合っている人間たちが
一つの寝床で、一緒に眠らなければならないときにはいつでも
すると、そこで、孤独は、数ある川の流れと共に、行くのである...
【解釈と鑑賞】
この詩を読みますと、この詩が何を歌っているかを、わたしたちは知ることができます。
それは、孤独は雨のように天上と地上と海の間を循環するということです。
最晩年の傑作『オルフェウスへのソネット』にも、この生命の循環という思想が歌われています。この長編詩の中では、生命が地下から樹木を登り、果実に結実して、果実がまた地に落ちて、この循環をするものとして歌われております。そうして、その地下に棲んでいるのは、死者たちなのです。
この詩に死者は登場しません。その代わりに、循環するものとして、孤独というものが存在するのです。第1連の最初の一行が、この詩の全体の動機をあらわしています。
そして、この循環するもの(この場合は孤独)は、遥かに遠いものを、循環によって接続するのです。遠さということ、相手と遠い距離があること、即ち別れること、別離、これが10代の安部公房にとっては、大切な愛の証明であったことを思い出すことに致しましょう。この愛と別れと死については、『もぐら感覚21:緑色』(もぐら通信第25号、第26号)で詳細に論じましたので、これをお読み下さい。遠い距離というのは、リルケの動機(モチーフ)なのです。愛と別れと死とを示すのが、安部公房の場合には、緑色という色彩なのでした。
さて、この孤独の循環ということから、わたしが思い出すのは、安部公房が19歳のときに書いた次の文章です。
「 例えば今此の庭に立つ見事な二本の樹を見給え。見る見る内に生が僕の全身から流れ出して其の樹の葉むらに泳ぎ著く。何と云うゆらめきが拡がる事だろう。僕の心に繋ろうとする努力がありありと見えて来る。さあ、此処で僕達が若し最善を発揮しようとしたならば一体何うすべきなのだろうか。こんなに僕を感じさせる或るもの、そこにある秘密を見抜く可きであろうか。いやいやそんな事ではあるまい。それは限りある行為であり外面への固定に過ぎないのではあるまいか。」(『〈僕は今こうやって〉』、全集第1巻、89ページ)
こうしてこの文章を、リルケの詩のあとに読みますと、「こんなに僕を感じさせる或るもの、そこにある秘密を見抜く可きであろうか。いやいやそんな事ではあるまい。それは限りある行為であり外面への固定に過ぎないのではあるまいか。」とある安部公房の終生の考え方、即ち、自己の内部と自己の外部にある生命の在り方そのものを言語に変換することは決してしないという考え方、生命そのものを生きたものとして大切にして秘密にしておきたいという考え方を実現するための考え方が、循環という思想、即ち最初に出発した地点に最後に戻って来るという、安部公房の考え方であることが判ります。例え、この循環という思想が、安部公房の大好きな位相幾何学(Topology)に拠るものであるにせよ。
このような意味でも、安部公房はリルケを必要としたのです。」
さて、こうして考え参りますと、この詩のもの思う乙女は、詩の題名の通り、憂鬱な感情を持っている乙女でありましょう。
その乙女が、なにという脈絡なしにふと、しかし何かの無意識の脈絡で、若い騎士のことを連想し、着想するのです。
そうして、前半の連では、この騎士がやって来て、この騎士に会いますと、この乙女は、何か嵐のごとき感情が巻き起こる。乙女は苦しむのではないでしょうか。
そうして、別れた後で、教会で騎士の騎行の無事を祈る。しかし、別れは悲しい。従い、
大きな鐘々の
羨望の念が、お前を一人にする
しばしば祈りの只中で…
と歌われていて、「大きな鐘々の/羨望の念」が、この祈る乙女をひとりに、その祈りの中に孤独にさせてしまうというのです。それゆえに、乙女は大声ではなく、極く小さな忍泣きを半巾(ハンカチ)の中に漏らす以外にはない。
「大きな鐘々の/羨望の念」とは何かといいますと、この同じ大きな鐘が、この詩集中に探しますと、次の二つの詩でも歌われております。
1。『皇帝たち』の第V章(『Die Zaren』)
2。『失われた日々の中からの断片』(『Fragmente aus verlorenen Tagen』)
『皇帝たち』の第V章の「大きな鐘々」は、次のように歌われております。前後の脈絡を敢えて取り払って引用します。皇帝は、ロシアの皇帝です。
「Die grossen Glocken, die herrisch lauten,
sind seine Väter, jene ersten Zaren,
die sich noch vor den Tagen der Tataren
aus Sagen, Abenteurern und Gefahren,
aus Zorn und Demut zögernd aufgebauten.」
【散文訳】
大きな鐘々は、支配者のように威風堂々と鳴り渡っているが、
これらの鐘は、皇帝の父祖たちであり、あの最初の皇帝たちであって、
この皇帝たちは、まだタタール人たちの来る日々の前に
数々の伝説や冒険や危険の中から
怒りと恭謙の中から、怒りながら、その身代を築き上げたのだった。
その意味は、その詩を読みますと、皇帝でありますから、やはり国中に威令を及ぼすことのできる支配者の鐘の音ということになります。上の引用の其の前の連では、同じ此の鐘々は、朝に鳴り響く鐘と歌っておりますので、その帝国の首都の一日を、その帝国の一日を国中の至るところに始めるように命じる鐘の音であるのです。ヨーロッパの諸国の一日は、キリスト教の教会の鐘の音とともに始まります。ロシアであれば、ロシア正教会ということでありましょう。
また、『失われた日々の中からの断片』の「大きな鐘々」は、次のように歌われております。これは、大地が母親の乳を吸うように吸う、少年たちの「陽気な、元気付ける思い出の数々」に掛かって延々と直喩を重ねる詩行の中の直喩の一つです。
「wie Hilferufe, die im Abendwind
begegnen vielen dunklen grossen Glocken, -」
【散文訳】
(少年たちの「陽気な、元気付ける思い出の数々」は)助けを呼ぶ叫び声のようであり、それは、夕べの風の中で
数多くの暗い大きな鐘々に遭遇する助けを呼ぶ叫び声のようである。
このように考えますと、大きな鐘々とは、何か支配的な威力を有する鐘であって、安部公房の言葉でいうならば「未分化の実存」である少年たちの思い出が、助けを求めて出逢うものであり、その命を救うものなのでありましょう。
暗い、闇の鐘々という此の形容には、やはりリルケの言葉の選択眼が働いていて、「未分化の実存」の形容となっています。何故ならば、未分化の実存」は夜に棲むからです。
大きな鐘とは、このような鐘なのですが、さてこのような力を持つ鐘であっても尚、この乙女の思いを思って、羨望の念に堪えないというのです。
即ち、その鐘の支配力の及ばぬところが其の乙女の祈りという行為であるのか、または其の祈りという行為が、鐘々よりも強い支配力を備えているのかということになりましょう。
そうして、そこには、この乙女の全く純粋無垢の、この愛と別れと死という苦しみに堪えることによって証明される無償の生が、最も近いものは最も遠く、最も遠いものは最も近いという此の論理の交差点(十字路)に存在している。安部公房の語彙を用いれば、この乙女の「未分化の実存」の在る存在の十字路ということになります。
この存在の十字路に在る乙女の孤独に、大きな鐘々は羨望するのです。
さて、これに対して、後半の連では、騎士は遥かに行く。そうすると、この乙女の思いの中では、若い騎士の姿は、
暗い村の中にある
聖夜の輝きのように、
そのようにあるのです。
ドイツの地形は、南のイタリアとの国境、即ちアルプスの高山から始まって、北のバルト海へと向かうにつれて、段々と土地柄は低地となって行きます。
そうして、この低地ドイツには無数と言っていい程の小さな村々が散在しております。
クリスマスの前夜祭の夜に小さな村々の散在する此の低地ドイツを車で走りますと、その村の一つしかない表通りに並ぶおもちゃのような家々の前には、ひとつひとつクリスマスツリーが立っており、そこに電飾の光が施され、飾られていて、その可愛らしい光の列の間を走り抜ける経験は、誠に美しいものです。これが、
暗い村の中にある
聖夜の輝きのように、
という意味です。
従い、更に、このような暗い、夜の闇の中にある村の聖夜の輝きの小さく並んでいる村中の道の景色のことから、連想は受け継がれて、次の二行、即ち、
その周りには、沢山の真珠だけが整然と並んでいる
土耳古(とるこ)石のように
という直喩があるのです。
これらの直喩はみな、前で触れましたように、循環するものの形象となっております。
1。古い象牙の上の輝きのように
2。郷愁のように、
3。暗い村の中にある/聖夜の輝きのように、
4。その周りには、沢山の真珠だけが整然と並んでいる/土耳古(とるこ)石のように
5。愛読している本の上の/月の光のように
2、3、4、5は、その自然のあり方や、こころの回帰のあり方や、その配列の形態から、循環するもの、回帰するものだという理解はできましょう。
1については、どうでしょうか。
この直喩は、その直前の本文の一行、
その微笑(ほほえみ)は、かくも柔らかく、そして繊細である
という一行が招来した直喩です。
「古い象牙の上の輝き」は、騎士の微笑みのようであり、その微笑みは、「かくも柔らかく、そして繊細である」というのです。
と考えてみますと、リルケは、「かくも柔らかく、そして繊細である」ものは、回帰するものであり、循環するものであり、循環するものは、そのようなものであると考えていたことになります。
象牙で製作される文物はみな、高度な文化的産物ですから、歴史的な貴族の館を連想してもよし、それは時間が一次元に継続する家系の話となりましょうが、しかし、やはりリルケのことですから、小さきものに焦点を当てて、循環するものとしての無時間の形象に、このように其の姿を結晶させたのでありましょう。
このようなこころで書かれた詩的散文が『マルテの手記』だといっても、もうあなたには、これほど近い手記というものはなく、従い、手記の形式をとることの多い安部公房の小説にも近いところに既に立っていることが知られるでありましょう。
次回は、リルケの乙女の連想の続くままに、『乙女たちについて』と題した詩です。
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