2015年9月23日水曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く19:詩論としての『絹と明察』(2):源泉の感情


三島由紀夫の十代の詩を読み解く19:詩論としての『絹と明察』(2):源泉の感情


聖戦哲学研究所の4人の殺人者を考察した後は、若い恋人たちの二人のうちの一人、やはり、それでも駒沢善次郎に対しては殺人者の役割を、秋山に扇動されて遂行する大槻といふ若者のことを考へてみませう。

4。大槻由紀夫
大槻といふまだ二十歳になるかならぬかの此の若者を理解する鍵語(キーワード)は、源泉の感情です。

第9章「駒沢善次郎の対話」で、駒沢善次郎に会つて、争議についての対話をする前に、この若者は、次のやうに考えます。

「しかし大槻は、ただ一ヶ所、自分の裡に、この争議をずつと早くから夢みてゐた晴れやかな個人感情を信じてゐた。すべてがその、久しく名付けられずにゐた晴朗な澄んだ心に根ざしてゐるのでなければ、争議全体が無意味に終つてしまふやうな気がした。今、九月はじめの曇つた朝、軒の低い三番町通りをゆくたつた一人の自分を、ふたたびあの源泉の感情へ向かつて鼓舞し、裸の孤独な粗金(あらがね)の形へ引戻す必要があると思はれた。さうしなければ、駒沢に会ふことはできない。」

これを読みますと、源泉の感情とは、裸であること、まだ叩かれて形をなさぬ粗金の形にあること、「久しく名付けられずにゐた晴朗な澄んだ心」であることが解ります。さうして、そのやうな心が、この『絹と洞察』との関係では、岡野によつて引かれるヘルダーリンの詩『追想』の中にあつて歌はれる源泉であることに、想を結びつけてもよいでせう。

この若者の心は、39歳の年齢から過去を振り返り、追想し追憶して得た十代の三島由紀夫の心であると思はれる。

1958年、33歳の三島由紀夫は、『裸体と衣裳』といふエッセイで、「人にすすめられて「短歌」といふ雑誌を読み、春日井健といふ十九歳の新進歌人の歌に感心」して、次のやうに述べてゐます。以下『三島由紀夫の十代の詩を読み解く15:イカロス感覚5:蛇』[http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_12.html]から[註3]を其のまま抜粋して、お伝へします。

「[註3]
「言葉は現実を抽象化してわれわれの悟性へつなぐ媒体である」といふことを、三島由紀夫は、33歳の時、剣道を始めた年のエッセイ『裸体と衣裳』の「十一月二十五日(火)」で、次のやうに述べてをります。

「いづれにしても詩は精神が裸で歩くことのできる唯一の領域で、その裸形は、人が精神の名で想像するものとあまりにも似ていないから、われわれはともするとそれを官能と見誤る。抽象概念は精神の衣裳に過ぎないが、同時に精神の公明正大な伝達手段でもあるから、それに馴らされたわれわれは、衣裳と本体とを同一視するのである。」

三島由紀夫の此の言葉と詩の関係についての理解を読みますと、実は、三島由紀夫の散文の世界が、詩の精神に拠つて書かれてゐるといふことが判ります。詩作といふ抽象概念化の裸体に、誰にでも悟性で理解ができる散文的な言葉の衣裳を纏(まと)はせたと、さう言つてゐるのです。これが、三島由紀夫の小説であり、戯曲であるといふことになりませう。

三島由紀夫のすべての散文を、言葉の本質、即ち再帰性を備えた繰り返しといふ観点から、十代の詩群と比較をして論ずることは、やはり意義も意味もあることなのです。

上の同じ日の引用の直前には、次の言葉があつて、それ故の上の引用の「いづれにしても詩は」とつながるのですが、何故三島由紀夫が小説家にならうとしたことが、生きることであつたかといふ消息の明かされてゐる文章となつてゐます。これの実現が、18歳のときに書いた『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』であり、ここに極端に造形された、そしていつも対比されて描かれる海賊頭(行動家)の友人である、殺人者(藝術家)といふ主人公です。

「春日井健といふ十九歳の新進歌人の歌に感心」をして、一連の歌を列挙したあとに、(以下傍線筆者)


「 かういふ連作は、ソネットのやうなつもりで読めばいいのであらう。私は海に関する昔ながらの夢想を、これらの歌によつて、再びさまされたが、十代の少年の詩想は、いつも海や死に結びつき、彼が生きようと決意するには、人並以上に残酷にならなければならないといふ消息が、春日井氏のその他の歌からも、私には手にとるやうにわかつた。」

春日井氏の歌のいくつかを選んでお目にかけると、次のやうなものです。

「テニヤンの孤島の兵の死をにくむ怒濤をかぶる岩肌に寝て
 渦潮が罠のごとくに巻く海の不慮の死としてかたづけられき
 潮ぐもる夕べのしろき飛込台のぼりつめ男の死を愛(いと)しめり」」


このエッセイを書いた33歳の一年前、即ち32歳のときに、何故か三島由紀夫は16歳の詩『理髪師』に手を入れ、これを改作し、改題して『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』を書いてをります(決定版第37巻、767ページ)。これは、次のやうな詩です。

「理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係

理髪師が
来る
彼は舌なめづり
する。
手足を だらりと 垂らし
ながら
地上の
ありと
あらゆる林
あらゆる森
あらゆる人類
あらゆる尖塔
刈つてゆく。

シナの女の
黒い流眄(ながしめ)と
纏足(てんそく)の
橙色の臭気と
シナ宝石の
肉の匂ひと
これらの
ものが
フットボールの
食慾を
そそつた。

彼は
夕焼の不吉な空をなめた。
赤い鏡に
舌が映つた。
歯は
おごそかに並び
苦悶してゐる太陽を
噛み
嚥(の)み下した。」


この詩の第一連が「理髪師の衒学的欲望」を歌つたものであり、第二連が「フットボールの食慾」を歌つたものであり、第三連が、これら二つの欲望と食慾の「相関関係」を歌つたものです。

16歳の同じ主題、即ち蛇である理髪師を歌つた『理髪師』と題した詩[註1]と同じ動機(モチーフ)は、この32歳の蛇である理髪師を歌つた同じ詩でも、十代の三島由紀夫があれほど大切にしてゐた塔までをも、理髪師たる蛇は「刈つてゆく」ことです。しかも、その殺人が徹底的であることには、16歳の時と同様に、「あらゆる尖塔」を「刈つてゆく」ことです。

これは、自殺に等しい行為であると、わたくしには思はれる。しかし、三島由紀夫は、さう思はないほどに真剣に思ひ、命を懸けてなすべき何かがあつた。それは、何か。

[註1]

理髪師

あまりにすべすべな皮膚のうちに白昼(まひる)の風の流れを見、呼
吸は漁(すなど)られた魚のやうにあさましく波打ち、遠く銀白の地
平を摩擦して行く空気の翼に似た音……
壺のなかにひろがる闇のひろさよ、零(こぼ)れ出てくる闇のおび
たゞしさよ。線は線に触れ、髪は夜の目のやうな暗い光に
濡れ……。
《真の幸福は神の餌にすぎない》
人間の幸福は求め得たものゝすべてであり、
(幸福がその日の呼吸なのだ)
と儂は言ふ。虚偽?......神様はよおく御承知だ(唾のなか
に幸福を吐き出し、汚なさうに投げ捨てる)
沙漠と鉱山の縦坑と、尾根と、尾根の抱く朝と、広いも
のは窒息させる、其処で、……蛇は空を自分の毒牙で量つ
てゐた。……理髪師がくる。彼は舌なめづりする。手足を
だらりとたらし乍ら、地上のありとあらゆる林、あらゆる
森、あらゆる尖塔を刈つてゆく。―――鐘の
うしろに夜が居る……わしは赤インキを顔にぶつかける、
そこで正午(まひる)が呆けた人形のやうにぶら下がる。

(決定版第37巻、685ページ)



この16歳の『理髪師』の詩と32歳のときの其の改作改題を『三島由紀夫の人生の見取り図』version3に取り入れて、version upして、4とすると、次のやうになります。今回追記したところに傍線を付しましたので、そこを注視してご覧ください。

「3.1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間:森鷗外とトーマス・マンを範型としてその小説の文体を確立したいと決心した時代」が、その散文家としての精神が徹底されて、上に述べた「十代の三島由紀夫があれほど大切にしてゐた塔までをも、理髪師たる蛇は「刈つてゆく」こと」によつて、32歳の『理髪師』の改作改題で二つに分かれるのです。


1. 1925年~1930年:0歳~5歳:幼年時代:6年間
生まれた時の木製の盥の縁に光の射すといふ記憶が既にあつた。

2. 1931年~1949年:6歳~24歳:遍歴時代:19年間
2.1 1931年~1945年:6歳~20歳: 抒情詩人の時代(ザインの時代:夜と月の時代):15年間

(1)1931年~1937年:6歳~12歳:   少年期1:7年
   ①1937年:12歳:『HEKIGA』:詩人になると自覚して書いた最初の詩集   ②1938年:13歳:『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ日付の入った日記体の叙事詩(『木葉角鴟』206~214ページ)
(2) 1938年~1940年:13歳~15歳:少年期2:3年
   ① 1939年:14歳:『日本的薄暮』(『Bad Poems』387~388ページ) といふ戯曲的科白のある典型的な詩
   ② 1940年:15歳:『少年期をわる』といふ詩(『公威詩集 III』630~631ページ)[註3]
(3) 1941年~1945年:16歳~20歳:詩文散文併存期:5年
   ①1941年:16歳:『花ざかり森』(「リルケ風な小説」):『海賊頭』の最初の創造。
   ②1941年:16歳『理髪師』といふ詩:蛇といふ「殺人者」の最初の創造。
   ③1943年:18歳:『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』(「短い散文詩風の」小説):殺人者と海賊頭の二人ながら登場する小説の最初のもの。

2. 2 1946年~1949年:21歳~24歳:詩人から散文家(ザインからゾルレンの言語藝術家)へと変身する時代:4年
この時期に安部公房に初めて会ふ。
(1)1947年:22歳:エッセイ『重症者の凶器』
(2)1948年:23歳:小説『盗賊』
(3)1949年:24歳:小説『仮面の告白』、最初の戯曲『火宅』

3. 1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間:森鷗外とトーマス・マンを範型としてその小説の文体を確立したいと決心した時代
3.1 1950年~1955年:6年間:小説家としての成功
(1)1951年:26歳:二つ目の太陽から始まつた、古代ギリシャへの出発。
(2)1955年:30歳:『小説家の休暇』所収ワットオ論『ワットオの《シテエルへの船出》』:不可視の林檎論

3.2 1956年~1963年:8年間:十代であれほど大切であつた詩人の高みを保証する「あらゆる尖塔」の(理髪師の蛇による)「刈りとり」、即ち自己の詩(die Poesie),詩情の源泉の徹底的な否定
(1)1957年:32歳:7月に、16歳の詩『理髪師』に手を入れて、『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食欲との相関関係』と改題して、改作する
(2)1958年:33歳:10月に、ヘリダーリンの次の詩3つを自分でドイツ語から翻訳する。
   ①『むかしと今』(フランクフルト 一七九六ー一七九八)
   ②『夕べの幻想』(ホムブルク 一七九八ー一八〇〇)
   ③『ソクラテスとアルキビアデス』(フランクフルト 一七九六ー一七九八)
(3)1958年:33歳:戯曲『薔薇と海賊』

4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代):ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間
(11964年:39歳『理髪師』の殺人者を『絹と明察』(ハイデッガー哲学とヘルダーリンの詩を下敷きにした世界)に登場させたハイムケール(帰郷)の時代の最初の歳
(2)1964年:40歳:『豊饒の海』の第1巻『春の雪』を書き始める。
(3)1970年:45歳:『豊饒の海』の第4巻『天人五衰』を書き終へる。


この表を見ますと、32歳で『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』を書いて、十代の詩の世界の源泉の抹殺(と言つてよいでありませう、或ひは私には殺戮とさへ言ひたい位です。しかし、この徹底性もまた三島由紀夫らしく言葉の再帰性に従つて徹底的に此れ)を行つた翌年に、ヘルダーリンの直かにドイツ語の力を借りて、心の救ひを求め、前年度の行為を何とか正当なものと考へたい三島由紀夫がゐるのです。何故ならば、その3つの詩の最初の詩は、次のやうな詩であるからです。

「むかしと今

若かりし日は朝なさな喜びあふれ
夕さればさしぐみたりし。老いし今
疑ひつその日をはじめ
神さびて晴れやかなるは日のをわり」

これは、『太陽と鉄』に率直に書かれてゐる通りに、この歳の11月に本格的に始めた剣道と關係があるのではないかと、わたしは推測します。それは、「自殺に等しい行為であると、わたくしには思はれる。しかし、三島由紀夫は、さう思はないほどに真剣に思ひ、命を懸けてなすべき」ことであつたのです。この『むかしと今』をてづからドイツ語より翻訳したのは、他の二つの詩とともに、10月、即ち其の一月前の日付が刻されてをりますから。

この詩では、やはり三島由紀夫らしく現在の時点の今からむかしの過去を振り返り、昔は朝な夕なにあつた繰り返しの始まりと終わりに感ずる喜びが、老いたる此の今はもはや無いと歌つてをります。これは、この33歳のときの三島由紀夫の偽らざる感情でもまたあつたのです。

最後の二行の、「老いし今」に立つて、この老いたる者の追想し、追憶する、

「疑ひつその日をはじめ
神さびて晴れやかなるは日のをわり」

とは、三島由紀夫の訳した日本語で此の詩を読みますと、次の二つの解釈が有りえませう。

1。解釈1:話者の疑ふ「その日」が、過去の「若かりし日」である場合
2。解釈2:話者の疑ふ「その日」が、今の「その日」である場合

前者の場合には、過去が疑はしく、当時の繰り返しの始め終わり終わり始めに思つた喜びが何ものでも実はなく、「神さびて晴れやかなる」と見えた其の若き日の思ひ出は、それらの「日のをわり」であつたといふ解釈。

後者の場合には、追想し、追憶する「その日」そのものの在ることが疑はしく、さう疑つてみれば、今日の此の日を含み過去のすべての日々も其の朝な夕なの繰り返しも皆、今かうして過去を振り返つて「神さびて晴れやかなる」と見えてゐること、このことが既に今の日も含み、それらの「日のをわり」を意味してゐるのだといふ解釈。

岡野といふ登場人物のハイデッガー解釈を読み、さうして1968年、43歳のエッセイ『太陽と鉄』を読んで、「それから精神が「終り」を認識するときには、ついに「終り」を認識しえた精神にとつては、言葉はどのやうに作用するであらうか。/ われわれはその恰好な雛型を知つてゐる。江田島の幾多の遺書がそれである。」といふ言葉を読みますと、後者、即ち解釈2が、三島由紀夫の此の詩への思ひではなかつたのかと思ひます。

この33歳のヘルダーリンの翻訳は、既に最晩年の死至るまで通じてゐるのです。

三島由紀夫の翻訳した二つ目のヘルダーリンの詩もまた、一つ目の詩と同じ動機を歌つてをります。この詩を読むと解りますが、三島由紀夫は前年に『理髪師』で自己の命である詩の源泉たる「あらゆる尖塔」を蛇に刈り取らせてゐる一方で、他方、この詩にあるやうに、源泉たる故郷へ「帰帆」しようとしてゐたのです。これは如何にも三島由紀夫らしい。しかし、この苦しみをたれぞ知る。この最後の連の最後の一行を眼にすれば、「帰帆」する先にある其れは、死であることが明らかです。これが、肉体を鍛え、剣道を始めた最終的な最初からの目標であり、到達点です。味はつて、お読み戴きたい。

「夕べの幻想

小屋の戸口の夕影に身をやすめ、
農夫は坐す。心足りた人に竃(かまど)の煙。
さすらひの旅人の耳にも晩鐘は友待顔(ともまちがほ)に、
静穏な村にひびきわたる。

今ぞ舟子たちの帰帆の時、
遠い町々の殷賑な市のぞめきも音(ね)を納め、
静かな涼亭(ちん)に
あるじまうけの佳肴は色めく。

私はいづこへ行かう?人はみな
たつきとなりはひに生き、辛苦と安息の
常ならぬままが歓び。なぜとてまた
わが胸にだけ一つの針はうづくをやめぬ?

たそがれの空は春づき
数しれぬ薔薇は花咲き、やすらかに
黄金(こがね)なす世界はかがやく。おお、かしこへ
私を率(ゐ)て行け、紫紅の雲よ。ねがはくは

恋と悩みは光と大気のうちに融け消えよ。
さはれ愚かな渇望に追ひまくられて、
幻は消え、日は暗み、いつもいつも
天つ空の下には私の孤影。

来るがいい、甘美なる仮睡(まどろみ)よ。
心の渇きは果てなく、つひには若者よ、
君たちの休みなき夢想も灼け尽く。
かくて平和と晴朗は老いにのみ。」


第三連を読めば、三島由紀夫の胸の中にある、羅針盤の一つの針だけは「うづくをやめぬ」。それは何故か?第四連で、ヘルダーリンは其の問ひに答へ、更に第五連で、この世の「愚かな渇望」の「幻と消え」ることを歌ひ、さうして其の「幻と消え」た後に、話者は「天つ空の下には私の孤影」のみとなるが、それこそ三島由紀夫の願つたことです。それ故に、最後の連がやつて来る。

この最後の連の最後の一行は、最初の詩『むかしと今』の最後の一行「神さびて晴れやかなるは日のをわり」に一致してゐることは、いふまでもありません。

さて、3つ目の三島由紀夫の訳した詩を読むと、これが何故、自分が上のやうな二つの詩を訳した上で、この詩を置き、さうして死に向かひ、死を喜んで迎ひ容れるのかが判ります。何のために死ぬのか。これが全く三島由紀夫らしいのです。

「ソクラテスとアルキビアデス

「何だつてこんな若僧に、ソクラテス先生、
あなたはぺこぺこなさるんです。
はるかに知見の高いあなたが、まるで神々を見るかのやうに
あいつに愛の眼差を注がれるのは何故なんです。」

最奥の思索を凝らした人は、最も活々としてものに惹かれ、
大徳は理会するのだ、誰が世界を見透したかを。
かくて畢竟賢人たちは、
美しい者の前に拝跪する。」


アルキビアデスといふ美しい若者の美の前に拝跪する、これが、生きることは死の練習であると説いたソクラテスといふ賢者の、矛盾のない姿であると、三島由紀夫は言つてゐるのです。

さて、この節の標題の、大槻といふ若者の源泉の感情に戻ります。

「しかし大槻は、ただ一ヶ所、自分の裡に、この争議をずつと早くから夢みてゐた晴れやかな個人感情を信じてゐた。すべてがその、久しく名付けられずにゐた晴朗な澄んだ心に根ざしてゐるのでなければ、争議全体が無意味に終つてしまふやうな気がした。今、九月はじめの曇つた朝、軒の低い三番町通りをゆくたつた一人の自分を、ふたたびあの源泉の感情へ向かつて鼓舞し、裸の孤独な粗金(あらがね)の形へ引戻す必要があると思はれた。さうしなければ、駒沢に会ふことはできない。」

これを読みますと、源泉の感情とは、裸であること、まだ叩かれて形をなさぬ粗金の形にあること、「久しく名付けられずにゐた晴朗な澄んだ心」であることが解ります。さうして、そのやうな心が、この『絹と洞察』との関係では、岡野によつて引かれるヘルダーリンの詩『追想』の中にあつて歌はれる源泉であることに、想を結びつけてもよいでせう。

この源泉は、『追想』の中で歌はれてゐる最後の連、またしても「ヘルダアリアンの頻発する「しかし(アーバー)」」で始まる最後の第四連と第五連で、次のやうに歌はれてをります。

「しかし、どこに友垣はゐるのだ?あのお伴の者がいつも一緒であつた羨ましきベラルミンは?
大勢のものたちは
源泉へと向かひ、それに触れることを厭ふこころを持ち歩いてゐる。といふのも、
つまり、富といふものが始まるのは
海の中でだからだ。あなたは、
画家のやうに、集めるのだ
地上の美を、そして、辱めることはしないのだ
神聖なる(天使の)翼の生えた戦争を、さうして
孤独に住まひするのだ、何年も何年も、
落葉した帆柱の下に、其処では、夜を光で貫き輝かせることはない
町の祝祭の日々が、
そして、琴の弦の演奏も、血沸き肉踊る土地の踊りが、夜を光で貫き輝かせることはない。」

「さて、かうして(過去を振り返つて)みれば、しかし、インド人たちのところへと
男たちは行つてしまひ
あそこの、空に接した先端
葡萄の山々に接してゐる其処では、
ドルドーニュの土地が下(くだ)つて来て
さうして、壮麗なるガロンヌ河と
一緒になつて、海の幅のままに
大河は、外へと出て行く。海は、取りもするが、しかし、
そして、記憶を与へ
そして、愛もまた、勤勉に両眼を捉へるのであるが、
変わらずに留まるものを、しかし、建立(こんりゆう)するのは、詩人たちなのである。」


この幼い若者の心は、39歳の年齢から過去を振り返り、追想し追憶して得た十代の三島由紀夫の心であると思はれる。

「しかし(アーバー)」、この若者は石戸弘子と結婚して、赤ん坊を堕胎させたとはいへ、なほ生の中へと愛する妻と歩み入る。「しかし(アーバー)」、この若者は、このやうな人生によく堪え得るでありませうか。この問ひに答へる材料を、三島由紀夫は小説の中には残してをりません。この問ひは、開かれたままになつて、小説は終はり、最後の一行で、岡野が二代目の経営者になることの決まるところで、この叙事詩は終つてをります。

駒澤善次郎とは異なる此の殺人者の下で、この若者は果たして生きてゆくことができるのでありませうか。

即ち、三島由紀夫のやうに、みづからの意志で、絹で出来た陸(おか)を離れ、一人「落葉した帆柱の下に」あつて、夜の孤独によく堪えて、「富の始まる」海の中へと出帆し、また自分で思ひ定めた人生の時の最後には、『追想』の第二連までの、康で生命力のある自然と日常の生活、町の祭りの日々にゐる日に焼けて、絹の地面にゐる、春の三月の、健康な女たちを遠く離れて、海の彼方へと、その海の縁を超えて、その先の光射す所へと「帰帆」することができるでありませうか。

                                                               (続く)



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