2015年9月1日火曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く11: イカロス感覚2:記号と意識(1):「………」(点線)

イカロス感覚2:記号と意識(1)


十代で書いた詩の中で、三島由紀夫は次のやうな記号を使つてをります。

1。「………」(点線)
2。「――――――」(実線)
3。「”  ”」(引用符)
4。「( )」(丸括弧)
5。「「 」」(一重鉤括弧)
6。「《 》」(二重山弧):http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_21.html
7。「『 』」(二重鍵弧):http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_86.html


以下、あなたが三島由紀夫の十代の詩を読むときに、その詩の中で重要な意味を持つてゐる記号について、例を以つて示しながら、整理をしてお伝へします。

1。「………」(点線)

この点線で表す記号は、現在から過去への追想、追憶を示します。

過去への時差(時間)を思ふ意識を示します。

即ち、この記号を三島由紀夫が記する時には、それが次の文章の前であれば、さあこれから書き始め、話始めることは、わたしが今此処に立つてゐてお話しする過去のこと、過去の思ひ出ですよといふ意味です。

また、「………」のあとに文章がなければ、書き手としての三島由紀夫の意識は、そのまま過去の追想、追憶へと入つて行きます。

もし「………」という記号が、「………。」として「。」で打ち止めになつてゐる場合は、この追憶、追想は、その段落の中の時間に留まることを示してゐます。

しかし、「………」という記号のままに、ひとつの段落が終わるのであれば、それは次の段落の文章を追想、追憶である可能性を示唆してをります。

これによつて、三島由紀夫は、言葉の意識上の重層化を図つてゐるのです。整理しますと、「………」を巡つては、次のやうな場合があります。

1。「………」が文初にある場合
「………文字」

2。「………」が文中にある場合

(1)「文字………文字」
(2)「文字………、文字」

3。「………」が文末にある場合。
(1)「文字……」
(2)「文字……。」
(3)「文字。……」


さて、この「………」を使つた最初の詩が、三島由紀夫が7歳のときに書いた『秋(「秋が来た……」)』という詩です。この詩には既に、「………」に加え、上記5にある「 」(一重鉤括弧)が使はれてをります。:


秋(「秋が来た……」)

     (一)
    秋が来た
    秋が来た
 おにはの柿はあかい顔
 木の葉もまねしてあかい顔

     (二)
    秋が来た
    秋が来た
 一人で庭に立つてると
 木の葉はさらさらよつてくる
 ぼくをめがけてよつてくる


この『秋(「秋が来た……」)』といふ詩のこの題辞の形式は、その後も同様の形式の題の詩が幾つも書かれてゐます。

また、この『秋(「秋が来た……」)』とあるこの題(秋)と一重鉤括弧の関係を交換して、安部公房ならば外部と内部を交換するといふところですが、一重鉤括弧の中の言葉を表に出して「秋が来た……」とする、そのやうな題字とする詩もあります。

一重鉤括弧の意味は幾つかあり、これについては後述致しますが、これは科白を表してゐます。

秋といふ題で詩を書いたところ、いや順序は逆で、詩を書いたら其れは秋といふ題名の詩であつたのであるが、この秋といふ主題の詩は、「秋が来た」と、この詩の話者が思つてゐて、既に終わつた過去の時間の中に秋を追憶し、追想してゐるのだ、それが「秋が来た……」といふ「……」との意味なのです。

そして、それを科白として題に歌つてゐる。これは、科白でありますから、直接話法を一重鉤括弧で示してゐるのです。

このやうに、直接話法といふことから、三島由紀夫の意識はいつも現在にあるのです。さうして、現在の時点から過去を振り返り、そこに生じる時間の差異、即ち時差を設けてから、繰り返しの呪文を唱へて、本来の詩の世界、即ち美と静寂を招来するのです。

これは丁度、一桁の年齢の安部公房が、「クリヌクイ クリヌクイ」と繰り返しの呪文を唱へて、その「クリヌクイ」と「クリヌクイ」の間に一文字文の空白といふ、空間的な差異を設けて、その差異に存在を招来するといふ、遺作にまで通じてゐる其の詩の歌ひ方と全く同じです。異なるのは、安部公房が空間的な差異を設けるのに対して、三島由紀夫は時間的な差異、即ち時差を設けるといふことです。

さて、さうして、時差に招来されるのは、一体何でありませうか。

第一連と第二連を見ますと、第一連では、

1。庭
2。柿の実
3。実のあかい色
4。その柿のあかい色は顔の色であること

第二連では、

1。木の葉
2。木の葉が自分に寄つて来ること、それも、
3。自分を目掛けて寄つて来ること、しかも、
4。さらさらといふ繰り返しの音を立てて寄つて来るといふこと

といふことになりませう。

これらのことが、既に後年の三島由紀夫の詩の世界と、ここから生まれた小説と戯曲の世界の様子を示してをります。

「秋が来た……」といふ直接話法の現在の意識から過去を追想することの中に繰り返される「秋が来た」といふ呪文によつて、7歳の三島由紀夫は、その時差に静謐の庭を招来し、それによつて、詩人としての高みを獲得してゐるのだといふことができませう。(何故詩人三島由紀夫に此の高みがあるのか、どのやうにあるのかは、この三島十代詩論の第1回で詳述した通りです。)

この庭には高みがある、或ひは、この高みには庭があるのです。

これが何故月修寺が高いところにあるのか、また『天人五衰』の最後に、年老いた本多繁邦がよろめきながらも高所にある此の寺へ参つて、喪はれた性愛の記憶とともに、そのことの驚きとともに、最後に到頭静謐の庭を目にするのか、その訳なのです。月修寺の季節は夏、この7歳の庭は秋といふ違ひがありますけれど。

さて、この秋の庭には落ち葉が落ちてゐて、それが「さらさら」と詩人の元に「めがけてよつてくる」のですから、この「さらさら」といふ音からいつても、さやけき音であり、皐月のさであり、早乙女のさの音であつて、それは神聖な、美しい、すがすがしい、清らかな庭なのです。

この木の葉は、『花ざかりの森』の最後にあるやうな、大空の青色を映すことを妨げるやうな枯れて汚れた落ち葉ではありません。(三島由紀夫は、この枯れて汚れた落ち葉を、自分は取り除けるのだといふ動機(モチーフ)を含む複数の詩を書いてをります。)

そのすがすがしい静かな庭に、柿の実は高く、木の葉(落ち葉)は低い。実に此処にも『ウンドウクヮイ』にある対照的な様式美があるのです。

柿の実は天に高くあり、木の葉は地に低くある。

さうして、この景色としての様式の美しさは、静かな庭にあり、その庭には「あかい」柿の実がなつてゐる。

三島由紀夫は、既に此の年齢のときから「あかい」色が好きであつたのですし、この「あかい」色は、生涯に亘つて大切な色でした。

「あかい」色を備えたものの典型のひとつは、林檎でありませう。しかし、誠に興味深いことには、三島由紀夫は、「あかい」物体の向かうに林檎の本質(芯)を透視したいと思つてゐることです。「あかい」色は、ただの「あか」ではない。

三島由紀夫は、『ワットオの《シテエルへの船出》』といふ30歳の古典主義の時代(ゾルレンの時代)のときに書いたエッセイの中では、「不可視の林檎」について論じ、また後年、ハイムーケール(帰郷)の時代、ダーザイン(現存在)の時代にあつた43歳のときのエッセイ『太陽と鉄』でも再び林檎を論じますが、しかし今度は、不可視であつた筈の林檎の芯を我が物とするためには何を如何にすべきかといふ問ひから、「あかい」林檎の可視と存在の関係を論じて、「林檎の芯は、見るために存在を犠牲に供したのである」と此の時既に過去形で此の一文を書いて[註1]自分は林檎の芯をみるために生きて存在することを犠牲にするのだと明言してをります。

[註1]

この三島十代詩論の第1回の「1。安部公房と三島由紀夫の言語能力について」で、わたしの次のやうに書きました。下線部にご注目下さい。

「隠喩は従い、掛け算ですので、時間が存在しないのです。上のような言葉の無限、言葉の数かぎりない列挙、言葉の果てしなさを見て、その本質(関係、差異)を抽象化して、一つの名前で呼ぶこと、これが、全く異なる二つのものを接続する(積算:conjunction)ことの意義(sense)なのです。

さて、その名前を言うことによって、或いは名付けることによって、あなたは対象と自分との距離(差異)を0にすることができると思っているのです。それが、わたしの言い方で言えば、対象の名前を言えば、それは自分の延長(extension)であることを意味するという言葉の意味です。

一次元の時間の中で、即ち日常の生活の中で生きている私たちは、そのように思っているのです。

このこと、即ちこの足し算の世界の論理と感覚を、哲学の世界では外延(extensive)、即ち普通の言葉では延長と言い、掛け算の世界を内包(intensive)と言います。

内包とは、上の説明でお分かりの通り、果物という言葉、上位概念、即ち意義(sense)の発見です。この内包である意義(sense)に対して、足し算の和、外延のことを意味(meaning)と言います。(肯定する世界では、結局、掛け算か足し算しかないのです。)

言い換えれば、内包、即ち積算とは、この日常からの脱出であり、非日常と非現実の創造なのです。

わたしたちは、りんごを食している一瞬一瞬にはりんごを食べていると思っているのであって、果物を食べていると感じているのではないということです。


もしりんごを食べながら、これは果物であって、わたしが一瞬一瞬食しているのはりんごではない、果物(という何ものか)を食べているのであり、食べながら既にして食べ終わっているのだと思う少年がいたとしたら、それが三島由紀夫であり、また同時に安部公房という少年なのです。



30歳の『ワットオの《シテエルへの船出》』の最後の第5章を次の言葉で始めます。傍線筆者。

「(略)重要なのは、彼が詩のやうな画を描いたことではなくて、詩そのものを描いたことにあると云つたはうがいい。
 セザンヌの描いた林檎は、普遍的な林檎になり、林檎のイデエに達する。ところがワットオの描いたロココの風俗は、林檎のやうな確乎たる物象ではなかつた。彼はそのあいまいな対象のなかから、彼の林檎を創り出さなければならぬ。ワットオの林檎は、不可視の林檎だつた

『ワットオの《シテエルへの船出》』と『太陽と鉄』の林檎論を読んで比較しますと、林檎の芯とは、かうしてみますと、実は詩そのもの、詩自体のことをいつてゐるのです。

三島由紀夫は、晩年の三島由紀夫は、詩そのものになりたかつた。何故なら、文学とは詩であり、詩とは文学といふ言語藝術の精華であるから、その粋であるから、十代の其の詩の世界であり、その精華であるから。[註2]

[註2]

この三島十代詩論の第1回の第7章の最後、第8章の最初に、わたしは次のやうなインタビューを引用して書きました。

「しかし、最後の最後に、死の1週間前に、古林尚によるインタビューの中で次のように「十代の思想への回帰」を言う、これも率直なる三島由紀夫がいるのです。このインタビューは三島由紀夫の死後一週間後に記事となって図書新聞の掲載されましたので、当然のことながら、安部公房も読んでいることは間違いがありません。


8。十代の詩のこころへの永劫回帰
「ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)するわけですね。ハイムケールすると、十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、いろんなものが、パンドラの箱みたいに、ワーッと出てくるんです。だから、ぼくはもし誠実というものがあるとすれば、人にどんなに笑われようと、またどんなに悪口をいわれようと、このハイムケールする自己に忠実である以外にないんじゃないか、と思うようになりました」」


それ故に、三島由紀夫は『太陽と鉄』の最初の一行に於いて「私はもはや二十歳の抒情詩人ではなく、第一、私はかつて詩人であつたことがなかつた。」と書いてゐるのです。

「第一、私はかつて詩人であつたことがなかつた。」といふこの文のこころは、これから私は詩そのものになつて、自分といふ「あかい」色をした林檎の芯である詩(die Poesie)を、本来不可視である此の「あかい」色をした林檎の本質を、たとへ私の存在を喪失してでも、見ることによつて、詩そのもの(die Poesie)になるのだ、即ち本当の詩人になるのだと言つてゐるのです。[註3]だから、「私はかつて詩人であつたことがなかつた。」と言ふのです。

これが、三島由紀夫の切腹でした。[註4]

そして、これが何故自分の腹を、古式には則らずに、深く刺したのかといふ唯一の理由です。

これほどに、先の戦後の時代は、三島由紀夫の詩の世界を全く否定する時代(時間)であつた。

[註3]

仮面の告白についての、三島由紀夫の次の言葉があります。

この本は私が今までそこに住んでゐた死の領域へ遺さうとする遺書だ。この本を書くことは私にとつて裏返しの自殺だ。飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る。この本を書くことによつて私が試みたのは、さういふ生の回復術である。

私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的証明である。私は詩人だと自分を考へるが、もしかすると私は詩そのものなのかもしれない。詩そのものは人類の恥部(セックス)に他ならないかもしれないから。

三島由紀夫「『仮面の告白』ノート」(『仮面の告白』月報)(河出書房、1949年)」[https://ja.wikipedia.org/wiki/仮面の告白]

更に、

横尾忠則は、三島由紀夫の死の三日前に電話で三島由紀夫と話しをしてをります。Wikipediaによれば、それ次のやうな会話でした。

「その3日前の11月22日深夜に横尾忠則は三島に電話をしている。当時三島は必ず0時前に帰宅する習慣があり、電話をしたのはやはり午前0時前であった。その日は楯の会のメンバーと5人と、パレスホテルで自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入のリハーサルを行っていた日であった。そうとは知らず横尾は「こんな雨の中、遅くまでごくろうさんです」といった。この電話で三島は、横尾が担当した『新輯 薔薇刑』の装幀とイラストについて話した。横尾は十字架の形に枠取りし、そこに裸の三島が身体に薔薇を刺され、ヒンズーの神々によって天上へと高く揚げられている情景を描いていた。裸体の背後には魔人たちが大挙して蝟集し蠢く構図だった。三島はこの絵について「これは俺の涅槃像だろう」と言ったが、横尾は「そんなつもりで描いたのではない」と返答するが三島は「俺の涅槃像だ」といって譲らなかった。

横尾忠則『死の向こうへ』(光文社 2008年)」

7歳の此の秋の詩を読みますと、三島由紀夫が何故横尾忠則に「これは俺の涅槃像だろう」と言つたかがおわかりでせう。魔人たちは、『秋(「秋が来た……」)』で歌はれた木の葉たちのやうに「さらさらよつてくる/ぼくをめがけてよつてくる」のです。この「十字架の形に枠取りし、そこに裸の三島が身体に薔薇を刺され」てゐる絵は、まさしく静謐の庭なのであり、また既に論じた十字架といふ形象と相俟つて、三島由紀夫の「涅槃図」なのです。

また、『私の遍歴時代』の第13章の最後のところに、次のやうな詩と詩人であることについての文章があります。

「「仮面の告白」のやうな、内心の怪物を何とか征服したやうな小説を書いたあとで、二十四歳の私の心には、二つの相反する志向がはつきりと生まれた。一つは、何としてでも、生きなければならなぬ、といふ思ひであり、もう一つは、明確な、理知的な、明るい古典主義への傾斜だつた。

 私はやつと詩の実体がわかつてきたやうな気がしてゐた。少年時代にあれほど私をうきうきさせ、そのあとであれほど私を苦しめてきた詩は、実はニセモノの詩で、抒情の悪酔だつたこともわかつてきた。私はかくて、認識こそ詩の実体だと考へるにいたつた

「認識こそ詩の実体だと考」へた24歳の三島由紀夫の此の考へは、古典主義の時代を経て、晩年のダーザインの時代、ハイムケール(帰郷)の時代には、更にこれを徹底して、存在することよりも見ることを行ひ、認識によつて自分自身が詩そのものになる、即ち『仮面の告白』について述べてゐるやうに、「もしかすると私は詩そのものなのかもしれない。」といふ漠たる思ひを明らかな確たるものにしたひと思つたといふことになりませう。



[註4]

安部公房は、三島由紀夫の映画『憂国』を観て、『映画「憂国」のはらむ問題』と題して映画評を書き、このとき既に三島由紀夫の死を予見し、その理由も正確に指摘してをります。傍線筆者。

「(略) 作者が主役を演じているというようなことではなく、あの作品全体が、まさに作者自身の分身なのだ。自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆にこの作品に、自己を転位させようとしたのかもしれない。

 むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させてしまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。ぼくに、羨望にちかい共感を感じさせたのも、おそらくその不敵な野望のせいだったに違いない。
 
 いずれにしても、単なる作品評などでは片付けてしまえない、大きな問題をはらんでいる。作家の姿勢として、ともかくぼくは脱帽を惜しまない。」(安部公房全集第20巻、177ページ下段)



さうしてみれば、さて、以上のことを思ひますと、その最晩年に於いて、上の『太陽と鉄』の「第一、私はかつて詩人であつたことがなかつた。」といふ引用の直前に、「このごろ私は、どうしても小説といふ客観的藝術ジャンルでは表現しにくいもののもろもろの堆積を、自分のうちに感じてきはじめた」と言ひ、「かつて詩人であつたことがなかつた」自分と本当の詩人、即ち詩そのものになりたいと思ふ自分のことを伝へるために、「表白に適したジャンルを模索し、告白と批評との中間形態、いはば「「秘められた批評」とでもいふべき、微妙なあいまいな領域を発見し」て、このエッセイを書き始めてゐる理由がよくわかります。

何故なら、この「「秘められた批評」とでもいふべき、微妙なあいまいな領域を発見し」て、この「告白の夜と批評の昼との堺の黄昏の領域であり、語源通り「誰(た)そ彼」の領域であるだらう」場所で、三島由紀夫が「私が「私」といふとき、それは厳密に私に帰属するやうな「私」ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけではなく、そこに何がしか、帰属したり還流したりすることのない残滓があつて、それをこそ、私は「私」と呼ぶだらう」と考え詰める程に探究した此の括弧付きの「私」とは、その二つ目の林檎論でいふ林檎の芯のことなのであり、それはそのまま詩そのものなのであり、美といふものであり、それは存在を壊してでも、見ることによつて、即ち30歳のときには不可視であつた林檎の芯を認識するによつて可視されるものとなし、林檎の芯、即ち詩そのもの、美そのものに「なつた」、過去形で語られる、本物の詩人としてある「私」であるからです。

さうして此の「「秘められた批評」とでもいふべき、微妙なあいまいな領域を」書き終えた後に、「エピロオグ---F104」といふ文章を置いて、その最後に到頭一生の最後の詩『イカロス』を置くことができたのです。

1969年、三島由紀夫の死の前年、44歳のときのエッセイ『日本文学小史』の最後に歌物語の最大最高のものである源氏物語を採り上げて論じ、源氏五十四帖のうち特に、『花の宴』と『胡蝶』を名指して、ここにもののあはれの「片鱗もない快楽が、花やかに、さかりの花のやうにしんとして咲き誇つてゐるのはこのふたつの巻である。それらはほとんどアントワヌ・ワットオの絵を思はせるのだ。いづれの巻も「艶なる宴」に充ち、快楽(ヴォリプテ)は空中に漂つて、いかなる帰結をも怖れずに、絶対の現在のなかを胡蝶のやうに羽搏いてゐる。」とあります。

「さかりの花のやうにしんとして咲き誇つてゐるのはこのふたつの巻である」といふ言葉からは、16歳の、既に一生の間に亘つて完成してゐた小説『花さかりの森』の主題を思ひだすことは、誠に自然なことと思はれますし、また、その静けさが「アントワヌ・ワットオの絵を思はせる」とあるのは、その通りでありませう。さうして、この静謐は、最晩年の『豊饒の海』の第4巻『天人五衰』の、読者周知の通りに、最後の一行にまで至つてをります。

さうして、快楽に「快楽(ヴォリプテ)」とフランス語のルビを振り、これを調べますと此の「あかい」色は、口紅にも使ふ紅の色のやうでありますから、確かに三島由紀夫の十代の詩には、紅といふ文字が「あかい」色として頻出してをりますので、その理由が鮮明によく理解されるのです。

逆に言ひますと、三島由紀夫が十代の詩のなかで紅といふ文字を使つて「あかい」色を歌つたら、それは、「あかい」色の林檎を論じたワットオの絵と同じ静謐、さやけき過ぎゆかぬ時間の存在する庭といふ空間と、そのやうな静謐の時間の象徴たる「快楽(ヴォリプテ)」を宿す永遠の島への出発を願ひ、歌つてゐるのだといふ三島由紀夫の十代の詩に関する理解が生まれます。

これを、『日本文学小史』の最後に、「快楽(ヴォリプテ)」は「絶対の現在のなかを胡蝶のやうに羽搏いてゐる」と言つてゐるのです。[註5]

[註5]


三島由紀夫は、ダリの『最後の晩餐』についても同じ赤葡萄酒の「紅の色」の煌めきの素晴らしさと、それの齎す官能と酔ひの実在の此の「快楽(ヴォリプテ)」を、次のやうに述べてゐます。:

「ダリの「最後の晩餐」を見た人は、卓上に置かれたパンと、グラスを夕日に射貫かれた赤葡萄酒の紅玉のやうな煌めきとを、永く忘れぬにちがひない。それは官能的ほどたしかな実在で、その葡萄酒はカンヴァスを舐めれば酔ひさうなほどに実在的に描かれてゐる。

(三島由紀夫「ダリの葡萄酒」)」






羽搏きとは、繰り返し繰り返し同じ韻律を以つて繰り返されることです。三島由紀夫は幼児の時から、其の羽ばたきと羽ばたきの時間の差異、即ち時差に美を見、美を感じ、抒情を覚えるのです。[註6]

[註6]

このことから、24歳の『仮面の告白』の冒頭に「ながいあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。」とあるのは、事実の告白なのだということが判ります。

今Wikipeidaから、次のやうな学習院初等科のときに同級生であつた友人の言葉を引くことができます。上の本文で此のやうに考察し、それから此の6歳の三島由紀夫の言葉をみますと、間違いなく0歳から5歳までの間に、この記憶があるのです。

「初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。」
三谷信「第一部 土曜通信―三島由紀夫からの便り―」(三谷 1985-07、三谷 1999-12, pp. 11-133)[https://ja.wikipedia.org/wiki/三島由紀夫#cite_note-mitani1-36



わたしの作成した三島由紀夫の人生の見取り図によれば、0歳から5歳の間の幼年期に、三島由紀夫は既にして時間と時間の隙間(時差)に美を覚える幼児であつたことになりませう。[註6](『仮面の告白』の冒頭が何を意味するかは、三島由紀夫の世界観と併せて稿を改めて論じます。)


[註6]


『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)』を参照下さい。:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html



これが、今典拠を示すことができませんが、どこかで、幼年時代といふものが大切なのだと、三島由紀夫のいつてゐる言葉の真意です。

さて、従い、『秋(「秋が来た……」)』といふ此の詩に於いては、第一連で、「あかい」色、即ち紅の色が歌はれれば、成人してからの三島由紀夫と同様に必然的に、繰り返しとして「絶対の現在のなかを胡蝶のやうに羽搏いてゐる」木の葉が、「さらさらよつてくる/ぼくをめがけてよつてくる」のです。

以上総てのことが、何故その題辞に、「………」といふ点線を以つて、過去への追想追憶の、現在の時点から見ての時差の中に起こつた、三島由紀夫の人生といふことになりませう。

次回は、「―――」(実線)について論じます。








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