リルケの『形象詩集』を読む(連載第3回)
『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の二つの詩のうちの最初の詩『月夜』
この詩は、この題名にある通りに、ハンス・トマスという人間の60歳の誕生日を祝うために、リルケの書いた詩でありましょう。
この誕生日の詩もまた、毎年繰り返し迎えることになる誕生日ということから、リルケの好む循環の詩なのであり、従い、そしてしかし、ここには無時間の空間が、純粋空間が再た歌われることになるのでしょう。
「ハンス・トマスの60歳の誕生日に際して」と訳した此の「際して」とあるドイツ語のzuという前置詞は、英語ならばtoであり、その意味は場所を表しますので、時間ではなく場所(空間)を表すということが、何もこれという特別な前置詞の置き方ではないものの、尚一層リルケの感覚を思わせませす。
東京でみるレストランのチェーン店に、To The Herbsという名前の店を見かけますが、英語ならば此のToに当たります。この店の名前は、日本語ならば、薬草亭ということになるでしょう。
さて、この時間無く循環する此の人物の誕生日の60回目の其の日に、リルケの詠んだ二つの詩を読むことにしましょう。ひとつは『月夜』、もうひとつは『騎士』という詩です。
まづ最初の『月夜』という題の詩です。
【原文】
Mondnacht
Süddeutsche Nacht, ganz breit im reifen Monde,
und mild wie aller Märchen Wiederkehr.
Vom Turm fallen viele Stunden schwer
in ihre Tiefen nieder wie ins Meer, -
und dann ein Rauschen und ein Ruf der Ronde,
und eine Weile bleibt das Schweigen leer;
und eine Geige dann (Gott weiß woher)
erwacht und sagt ganz langsam:
Eine blonde...
【散文訳】
月夜
南ドイツの夜は、成熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。
塔からは、たくさんの時間が重たく落ちて来て
海の中へと落ち入るように、時間たちの其の深淵の中へと落ち入り
と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして
暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている
すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
或る金髪の女が...
【解釈と鑑賞】
普通に散文的な言葉で表せば、月の光が夜の南ドイツの此の土地を広く照らしている、ということになるでしょう。
リルケの最晩年の、そうして一生の最高傑作である『ドウィーノの悲歌』と『オルフェウスへのソネット』という長編詩の後者を読みますとよく分かりますし、今ここでは詳述しませんが、結論を言いますと、この冒頭の二行のように、動詞を欠いて、名詞だけを並べるリルケの詩句の書き方は、この書き方をする時には、リルケは女性の性、それも処女たる無垢の若い女性の性を意識し、歌う時には、動詞を使わずに、いつも名詞だけを置いて、そのeros、その恋情、その欲情に発する感情と自分の女性に対する論理と其の論理に対する思いを歌うのです。動詞を欠くことによって、その女性の美と女性なるものを永遠の不動のものにしておきたいと思っているからです。
そうして、それから、リルケの現実の幾つもの恋愛のあり方から来たものなのでしょう、処女と、処女を男が奪うものだということに対する(男としての)罪悪感を覚えていることが、複数の其のような処女についての詩を読むと解ります。[註1]
[註1]
リルケの最晩年の傑作ふたつの詩集のうちの一つ『オルフェウスへのソネット』の第二部の第五番目の詩に、上で言っている通りの詩があります。:
V
BLUMENMUSKEL, der der Anemone
Wiesenmorgen nach und nach erschließt,
bis in ihren Schooß das polyphone
Licht der lauten Himmel sich ergießt,
Wiesenmorgen nach und nach erschließt,
bis in ihren Schooß das polyphone
Licht der lauten Himmel sich ergießt,
in den stillen Blütenstern gespannter
Muskel des unendlichen Empfangs,
manchmal so von Fülle übermannter,
daß der Ruhewink des Untergangs
Muskel des unendlichen Empfangs,
manchmal so von Fülle übermannter,
daß der Ruhewink des Untergangs
kaum vermag die weitzurückgeschnellten
Blätterränder dir zurückzugeben:
du, Entschluß und Kraft von wieviel Welten!
Blätterränder dir zurückzugeben:
du, Entschluß und Kraft von wieviel Welten!
Wir, Gewaltsamen, wir währen länger.
Aber wann, in welchem aller Leben,
sind wir endlich offen und Empfänger?
Aber wann, in welchem aller Leben,
sind wir endlich offen und Empfänger?
【散文訳】
花の筋繊維、それは、アネモネの草原の朝を次第に開く
その子宮の中へと、響く天の多声音楽的な光がみづからを注ぎ込むまで
すなわち、果てしない受容の、張りつめた筋繊維の、静かな花芯の星の中へと入るまで。
花の筋繊維は、時には、充溢で一杯になり、もっと圧倒され、打ち負かされて、
下へ向かえという没落の合図、静かな合図(あるいは、静かにせよという合図)が、
遠くまで行ってそこから撥(は)ね返される葉という葉の縁(へり)をお前に返すことがほとんどできないほどだ、お前、どれほどたくさんの世界の決心と力であるものよ
わたしたち、暴力的で無法なものたちは、(アネモネの花よりも)より長く存続するだろう。
しかし、いつ、すべての生活のどの生活において、わたしたちは、ついに、開いており、且つ受け容れる者であるか?
【解釈】
冒頭に出てくる、Blumenmuskel、ブルーメン・ムスケルという言葉は、ドイツ語をそのまま直訳すると、花の筋肉というのである。しかし、この無粋な訳語はないであろう。試しに、Googleの画像検索でこの言葉を検索すると、ヒットした数はたった47件、文字の検索で727件。いづれも、やはり、リルケのこの詩が検索されて、この言葉そのものが、リルケのこのソネットの言葉で、一般的な言葉ではないし、専門の言葉でもないのだということがわかる。画像としてみようとしても、やはり花の画像としては出てこない。ただ、それを思わせるデザインの、放射状の梁の走った何かの天井の写真をみることができた。
しかし、他に言いようもないのだと思う。この言葉は、花びらの根元にある肉厚の、内側と外側の部分で、そこに走っている、花びらの開閉を支え、維持する筋(きん)繊維部分を言っているのだ。それは、詩からも明らかだと思う。花の筋肉ということばは、いささか抵抗があったので、花の筋繊維という訳語をあてました。
一寸話しが横道に入りますが、Google検索をすると、リルケのこのオルフェウスへのソネットからいくつかのソネットを歌曲にしたてた作曲家がいて、ちなみに、それは、次のようなことになっています。無料体験でこれらの曲を聴くことができました(http://ml.naxos.jp/album/BCD9178)
リーバーソン:リルケ歌曲集/6つの王国/ホルン協奏曲(リーバーソン/ピーター・ゼルキン/パーヴィス)
作曲されているソネットは、次のソネットです。既にこれまで読んだソネットもありますし、これから読むソネットもあります。
No. 1. O ihr Zartlichen(第1部ソネットIV:おお、柔らかき者たちよ)
No. 2. Atmen, du unsichtbares Gedicht(第2部ソネットI:呼吸せよ、お前、眼に見えぬ詩よ)
No.3. Wolle die Wandlung(第2部ソネットXII:変身を求めよ)
No. 4. Blumenmuskel, der der Anemone(第2部ソネットV:花の筋繊維、それがアネモネの)
No.5. Stiller Freund(第2部ソネットXXIX:静かなる友よ)
さて、性愛を歌うリルケの常で、アネモネという花を歌っている第1連、第2連、第3連は、すべて、冒頭の花の筋繊維という名詞にかかっているだけで構成されています。なんという構成でしょう。
「下へ向かえという没落の合図、静かな合図(あるいは、静かにせよという合図)」と註釈的に訳したところは、花びらが反り返って下に行くという意味と、没落するという意味が掛け合わされているのではないかと思い、そう訳しました。何か、そのような女性の姿態を想像せしむるものがあります。静かにせよという合図というのも、エロティックに響きます。
このアネモネは、ドイツ名では、Windroeschen、直訳すれば、風薔薇、風の小さい可愛らしい薔薇という名前で、リルケは薔薇に似た形状の花を愛したのでしょう。
それは、花びらが幾重にも深く重なっているからで、その筋繊維を「どれほどたくさんの世界の決心と力であるもの」と呼んでいます。花びらの一枚一枚が、それから花びらと花びらの構成する空間が、それぞれひとつの世界だといっているのです。それらの決意と力であるものが、Blumenmuskel、ブルーメン・ムスケル、花の筋繊維なのです。
最後の連は、いうまでもなく、アネモネと人間を対比させて、わたしたち人間が、アネモネの花ほど、開いていて、受容するものであるかと問うています。リルケにとって、開いているとは、前のソネットで書いたように、外側を知っているということ、永遠に向かって、普通名詞としての神に向かって、開かれているということです。しかし、ここでは、このように註解しないことの方が正しいことだと思います。この詩のエロティックなものを生かすために。
そうしてみると、最後の、「わたしたち、暴力的で無法なものたち」というのは、男たちのことをいっているのではないでしょうか。
リルケは、そう意識したのではないでしょうか。それゆえ、次のソネットは、薔薇が歌われており、それを君臨する女性、女王として歌い始めます。恰も男性と均衡を保たせむかの如くに。
この詩の冒頭の二行、即ち、
Süddeutsche Nacht, ganz breit im reifen Monde,
und mild wie aller Märchen Wiederkehr.
この二行を、
南ドイツの夜は、熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。
とわたしは訳しましたが、しかし、上のような考察を思い出して、動詞がないということに力点を置いて訳しますと、
南ドイツの夜、成熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかい。
という訳に一層なるでありましょう。
これは、何か、そうして何故か知りませんが、非常にeroticな南ドイツの夜であり、成熟した月なのです。即ち、成熟した月の中にというこの成熟という形容詞には、何か女性の性の成熟ということが歌われているのです。これは、sexualな、性的な含意のある詩なのです。
それ故に、表向きに此の詩を読んできた読者にとっては、最後に唐突のように、
或る金髪の女が...
という女性のことが歌われて、それも不完全に歌われていて、余白と余韻を残しているのは、やはり成熟した月という言葉の選択の、成熟という形容詞と、南ドイツの夜という名詞だけで表現して、それに形容詞的な句を掛ける、このような性を暗示するときのリルケの表現方法に大いに関係しているからなのだと思われます。
これは些(いささ)か読みすぎかも知れませんが、
und mild wie aller Märchen Wiederkehr.
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。
という一行の童話というMärchen(メールヒェン、童話)は、また次のWiederkehr(ヴィーダーケア、再来、再帰)という言葉と相俟って、Mädchen(メートヒェン、処女)というMärchenという語に大変よく似た言葉を連想させますから、
そして、すべての娘たちの再帰再来のように、柔らかである
という思いを想起させる体験を、もしこのハンス・トマスという友人との個人的な関係の中に、この友人とリルケが共有しているのだとすれば、この一種の暗号も意味のあることかも知れません。
もしそうであれば、柔らかという形容詞もまた、女性の柔肌を思わせて、実にeroticだということになりましょう。
しかし、このような性的なことを離れて考えて、何故すべてのMärchen(メールヘェン)は回帰するのかと言いますと、現実は一次元の直線的な時間が経過して、人間は過去に戻ることはできませんが、しかし、そのような物理的な時間の中の現実のお話ではない童話(メールヒェン)は、時間を無視して回帰する、即ち同じ場所に戻って来るのだといっているのです。
この60歳の友人の誕生日も、こうして一次元の時間の中の一回限りの誕生日ではなく、繰り返しやって来る、リルケに親しい無時間の循環の誕生日に変形するのです。
さて、話を最初の一行に戻します。
この最初の一行で、大事なことは、月が熟しているということなのでありました。これは普通の言い方をすれば、その月は満月でありましょう。しかし、リルケは満月という月並みな言葉は使わずに、成熟した月というのであり、この成熟の月は、上でみた性的な感覚を含んで、尚且そのそのような月の中に、夜があるという此の順序なのです。普通ならば、夜の中に月が浮かんでいると歌うことでありましょう。ここでも、リルケは、普通の順序である筈の内部と外部を交換しているのです。
そうして何故この交換が可能であるのか、即ち何故夜の方が、月の光の中に在ることが可能であるのか、その理由は、月に掛かる形容詞である「熟している」という此の形容詞に拠っているのです。
『形象詩集』にあるreif(ライフ)、日本語で熟する、熟しているという形容詞と、reifen(ライフェン)、熟するというreifに関連する動詞を探しますと、これらの言葉を含む詩は、以下の通りに全部で8つ出て参ります。既に、最初に読みました『入口』という詩にも確かにreifen(熟する)という動詞が出ておりました。以下、これらの8つの語と其の詩の名前を列挙してから、その先へと解釈を進めます。
1。『Eingang』(『入口』)
2。『Das Lied der Bildsäule』(『彫像の歌』)
3。『Abend』(『夕暮』)
4。『Verkündigung Die Worte des Engels』(『布告 天使の言葉』)
5。『Die heiligen drei Könige』(『神聖なる三人の王』)
6。『Das jüngste Gericht aus den Blättern eines Mönchs』(『ある僧侶の手紙の中から
の最後の審判』)
7。『Der Sohn』(『息子』)
8。『Die Blinde』(『盲目の女』)
これら8つの詩に歌われてある成熟という言葉の意味を列挙すると、次のようになります。
1。沈黙の中に成熟はあること。言葉は沈黙の中で熟すること。(『Eingang』(『入口』))
2。石でできた彫像の人物像の体の中に血液が流れていて、それは葡萄酒のように熟成していること。そして、その像を愛する生きた人間がいて、その人間が海に没して死ぬようなことがあれば、石の体を脱して身代わりになり、その愛する友の身代わりになって死を選ぶこと。葡萄酒の成熟とは、沈黙する彫像のこのような覚悟であること。(『Das Lied der Bildsäule』(『彫像の歌』))
3。夕暮れに、その人間の生命が不安であり巨大であり成熟するままに委(まか)せておくと、生命はその人間の中で石になる、そのような成熟であること。『Abend』(『夕暮』)
4。その人間の両手は祝福されてあり、その祝福された両手は、女性の手を借りずに成熟して、(衣服の)縁(へり)の中から外に出てきて輝く、そのような成熟であること。そうして、そのような成熟した両手を持つ人間の私(一人称)は、天使が日であり露であるのに対して、樹木であること。(『Verkündigung Die Worte des Engels』(『布告 天使の言葉』))
5。聖母マリアがイエス・キリストを産む其の厩(うまや)に来る三人の王たちは、その長い(羊飼いのするような)旅の途上で其々(それぞれ)の支配している成熟した王国を喪失する其のような成熟であること。そして、その喪失は聖母マリアのような聖なる女性の胎内で起きること。(『Die heiligen drei Könige』(『神聖なる三人の王』))
6。その人間の成熟した愛を、光の中から生まれる朝は決して創造しないこと。同様に叫び声からは、成熟した愛は生まれないこと、さやけき音、さやさやという音、川の水音ならば潺湲(せんかん)たる流れの音から成熟した愛は生まれること。(『Das jüngste Gericht aus den Blättern eines Mönchs』(『ある僧侶の手紙の中からの最後の審判』))
7。雌馬は早朝の露の中で強くなり、そのように在る雌馬の血管の中には力と高貴が眠っていて、この馬は騎乗者が乗ることによって其の重さを成熟させる其のような成熟であること。(『Der Sohn』(『息子』))
8。世界は、事物、物の中で花咲き成熟すること。(『Die Blinde』(『盲目の女』))
これらを一連なりにすれば、成熟は、沈黙の内部にあり、石像の内部にあり、自己の命を投げ出す無償の愛によって永遠に石像となる愛であり、縁(周辺)から輝き出る両手(安部公房の大好きだったリルケの『秋』という詩に歌われている、落下するすべてのものを優しく受け止める唯一者(神)の両手))であり、その両手を持つ人間は樹木であり、神聖なる存在の誕生の祝福のために所有する王国の喪失を代償とする其のような王の手にするものであり、聖なる女性の胎内で起こるものであり、それは夜に在る愛であり、さやけき音の内部から生まれる愛であり、雌馬が騎乗者の重さを成熟させることなのであり、事物の内部で世界が熟する其の成熟である、という意味になるでしょう。
この成熟という形容詞の意味が、この詩の冒頭の二行、即ち、
南ドイツの夜は、成熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。
と、夜の月に掛かっていることの意味が、わたしたちには知られることになります。
さて、そのように成熟した月であればこそ、「南ドイツの夜」の方がその月の中にあり、「すべての童話の再来のように、柔らかである」と歌うことができるのです。
また、「柔らかである」という言葉は、上に列挙した成熟の言葉の意味の一覧の中では、「さやけき音、さやさやという音、川の水音ならば潺湲(せんかん)たる流れの音」が其れに相当するでありましょう。それ故に第5行目に「と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして」とあるように「さやけき音」が連語として縁語として連想語として必然的に出てくるのです。
さて、第3行目から第6行目までを読んでみましょう。
塔からは、たくさんの時間が重たく落ちて来て
海の中へと落ち入るように、時間たちの其の深淵の中へと落ち入り
と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして
暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている
とある最初の此の行は、安部公房の読者には知られている通りに、安部公房の大好きであったリルケの『秋』という詩と同じ発想から生まれた一行です。まづ『秋』を読んでから、この複数の行の解釈に入ります。『秋』という詩です。
「秋
数々の葉が落ちる、遠くからのように
恰(あたか)も、数々の天にあって、遥かな数々の庭が凋(しぼ)み、末枯 (すが)れ
るかの如くに
葉は、否定の身振をしながら、落ちる
そして、数々の夜の中で、重たい地球が落ちる
総ての星々の中から、孤独の中へと。
わたしたちは皆、落ちる。この手が、落ちる。
そして、他の人たちを見てご覧 落ちるということは、総ての人
の中に在るのだ。
そうして、しかし、この落下を、限りなくそっと柔らかく、
その両手の中に収めている唯一者がいるのだ。」
前の詩の『四月の中から(外へ)』という詩では、雲雀という春の鳥が、本来ならば垂直に飛ぶところを、リルケは順序を逆にして、即ち内部と外部を交換することによって、雲雀が天を垂直に持ち上げて歌っていることを見ました。それによって時間の無い純粋空間を創造した。
また、垂直に樹木が成長するとは、やはり時間のない空間の中で起きることなのでありました。
リルケにとって、垂直という方向は、そのような方向であるのです。勿論、安部公房にとって、最晩年に至るまで同様です。
さて、これに対して、落ちるとは、逆に垂直の方向に、上ではなく下に、『秋』という詩に歌われた私達や星々や地球と同じように、落ちるということ、落下するということを意味しています。
しかし、こうしてみますと、この垂直方向の落下もまた、時間の無い空間の創造なのではないでしょうか。垂直であれば、雲雀のように上へ昇ろうが、星のように下へ落ちようが、同じではないでしょうか。
しかし、そこに差異があるとすれば、落下の場合には、最初に純粋空間が想定されていることです。上昇方向の垂直は、雲雀のように主語(主体)が内部と外部を交換して純粋空間を創造するのに対して、落下方向の垂直は、最初から其の落下を受け止めてくれる両手の窪み、それも唯一者(神)の両手の窪みを想定しております。当然のことながら、この神の両手の窪みには、『砂の女』のあの砂の穴という窪みがそうであるように、時間が存在していない、存在の窪みなのです。
リルケの詩では、高い塔から落下する時には(この時という時間に関する言葉もリルケならば使用することを避けるでありましょうから、場所という言葉を使って言い換えてみますと)、高い塔から落下する場所では、存在の中に落下するのです。
従い、「たくさんの時間」の其の落下の後で、これらの時間は皆、「海の中へと落ち入るように、時間たちの深淵の中へと落ち入」ることになるのです。
何故ならば、海は、また水は、別れても分かれても必ずいつも一つに、即ち1になる、即ち存在でありますから、当然のことながら、時間は「海の中へと落ち入」り、またそのように「時間たちの深淵の中へと落ち入」るのですから、この深淵もまた存在であるのですし、それは単なる存在であるのみならず、「時間たちの其の深淵」と呼ばれているように、時間たちにとっては、再帰的な深淵なのです。存在であるとは、存在とは、常に再帰的なのです。
この存在の再帰性は何もリルケに限らず、ヨーロッパ大陸の哲学の世界では、存在を論ずる論者が知っても知らなくても、気付いても気付かなくても、常に存在の此の再帰性を巡って、古代ギリシャのソクラテスの時代以来、いやソクラテス以前の哲学者の時代以来、延々と2500年以上の時を超えて議論をしている当の主題なのです。[註2]
[註2]
プラトンの描いたソクラテスの議論の仕方、その対話の仕方を読みますと、ソクラテスもまた再帰的な人間であることが判ります。何故ならば、ソクラテスの立てる問いは、S・カルマ氏の立てる問いと同じで、いつも、それは何か?という問いであるからです。
S・カルマ氏の場合であれば、S・カルマと呼ばれるわたしとは何かという問いに対する答えが、わたしは壁(という存在)であるという現実であるわけです。
この日本の島の上で、それは何か?という問いを日常生活の中で問い続けると、西洋の古代のギリシャに発する哲学と日本人が明治時代に訳したこの学問の本質、即ち関係を、差異を考えるという単純な科学の本質を容易に理解することができます。
しかし、安部公房の読者でいることは、実に幸せなことです。安部公房は、リルケを読み耽った十代の終わり二十代の初めに、既に此の議論に解答を出していて、その上で書かれた作品群をわたしたちは日本語読むことが出来るからです。わたしたちは、リルケに感謝しなければなりませんし、そのリルケの詩を読んで、特に此の『形象詩集』を読んで、奉天の窓という数学の世界の論理を言語と文学の世界の言葉に変換することの出来た安部公房という、この大変な人間に感謝しなければなりません。
塔からは、たくさんの時間が重たく落ちて来て
海の中へと落ち入るように、時間たちの其の深淵の中へと落ち入り
と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして
暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている
この4行をこうして読んで参りますと、段々とリルケと安部公房の世界に入って参ります。
即ち、上で見たような夜の月の成熟、上の4行の中にある落下、存在の海、時間自身の存在の深淵、さやけき音、沈黙、「暫くの間」という副詞的な時間の差異、時間の隙間に存在する空虚なるものとしての沈黙という連語が、わたしたちの目の前にあることに気が付くからです。
このように美事な(美事でなければなりません)一行を書くことが、詩作という行為なのです。あなたも、このような考えで、日本語の一行を書くことをすれば、安部公房のこころに近づくことができるのです。あなたも、一行の詩をお書きになってはいかがでしょうか。
さて、「さやけき音」と訳した此のドイツ語では、rauschen、ラオシェンと発音される言葉の説明を致します。何故ならば、この言葉と此の発声の音は、ドイツ人にとっては、大変神聖な尊い言葉であり音であるからなのです。
どの詩人の詩を読んでも、このrauschen、ラオシェンという言葉が出てくると、それだけで一つの世界が生まれるのです。この音は、ドイツの森の中で樹木の葉擦れの音であり、自然の中を流れる潺湲(せんかん)たる川の流れの音なのであり、何か神聖性を宿している事物の立てる音だと詩人が思えば、そこに其のような神聖なる事物として存在が現れるのです。勿論、詩のみならず、散文の世界でも同様です。ドイツ人は何かこう、自然の中で閑(かん)たる中にささやかに響く、何か神聖な感覚を、この言葉と其の響きに、持っているのです。
わたしたち日本人の世界の言葉で言えば、さやさや、さやけさ、皐月(さつき)の此の五月の月の「さ」、早乙女の「さ」に当たるような神聖なる音なのです。この「さ」の音を、そっとあなたの口から息とともに発声してみると、あなたは安部公房スタジオの一員になることができるでしょう。
さて、「夜間歩哨の叫び声がして」とあるこの叫び声は、上に列挙した成熟という言葉の一覧の番号でいえば6番にある通りに、「叫び声からは、成熟した愛は生まれない」という其の叫び声なのです。「その人間の成熟した愛を、光の中から生まれる朝は決して創造しない」以上、夜こそは、成熟した愛の生まれる場所(時間ではなく)である筈ですが、この夜という場所で叫び声を上げる、秩序立った時間の中の巡回の声、警備の声、即ち前回の詩『四月の中から(外へ)』で見たように、存在の窓が接している表通りの整然たる昼間の景色の中にある事物たちからでは、成熟した無償の愛は生まれないのです。
「さやけき音と、夜間歩哨の叫び声」という対照と両極端の間にある此の差異は、時間としても「暫くの間」という時間の差異なのであり、その時間の差異の中に「沈黙が空虚のままに留まっている」。「沈黙が空虚のままに留まっている」のは、その差異は空虚であり、実体の無い関係であり、関数であり、空であるからです。この差異の中に沈黙は宿る。こうなると、もう全く安部公房の世界です。いや、安部公房がリルケに、これを学んだということの方が、物事の順序でありましょう。
さて、最後の3行を読みましょう。
すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
或る金髪の女が...
このように読み進めて参りますと、このヴァイオリンの音(ね)もまた、この差異で演奏されて、その音が響きでて来るのではないでしょうか。
「何処から聞こえてくるのか誰が知ろう」と括弧に入れてある一行を、そのように訳しましたが、英語の世界も同様のことですが、神のみぞ知るという意味です。原文のドイツ語を其のまま訳せば「何処から聞こえてくるのか神だけが知っている」という意味なのです。
そうしてみれば、やはりこのヴァイオリンの音は、神聖な、神的な音色であり、楽器であるということになります。試みに、この詩集の中でヴァイオリンの登場する詩は、この詩を含めると4篇あり、今残りの3篇を挙げて示します。
1。『Der Nachbar』(『隣人』)
2。『Am Rande der Nacht』(『夜の縁(へり)で』)
3。『Der Sohn』(『息子(そして、我々は夢見られたヴァイオリンになった)』)
この三つの詩を読み、ヴァイオリンの登場する箇所と其の前後を読みますと、ヴァイオリンという楽器は、次のような意味を、リルケの世界では、備えております。
1。ヴァイオリンは、異邦人であり旅人であり、町を都会を訪れるが、それは誰も知らない異質のものである。ヴァイオリンは、夜に奏(かな)でられる。ヴァイオリンは孤独に鳴る。奏でるのは、やはり孤独な私である。ヴァイオリンは、沢山の大都会で、そのように鳴る。このヴァイオリンが無ければ、都会の孤独な人々は、川の流れに身を失うように(時間の中に流されて)自己を失ってしまう。そのような隣人が、ヴァイオリンを不安にするために奏でている。その演奏によって都会の人間たちがヴァイオリンに歌わせる歌は、人生は重い、全ての物の重さよりも重いという歌である。(『Der Nachbar』(『隣人』))
2。この詩の一人称でる私は、弦であり、さやさやと音立てる幅の広い共振(共鳴)の上に張り渡されている弦である。これに対して、物はヴァイオリンの体であり、ぶつぶつ言う暗闇で満ちている。(『Am Rande der Nacht』(『夜の縁(へり)で』))
3。父親は剥落し病を得た王である。夜に息子は父親の王と小さな声でそっと話をする。この夜の中で、父と息子は、夢見られたヴァイオリンになる。ヴァイオリンは祈りを捧げる。ヴァイオリンの演奏する歌の数々の背後で(泉の背後で、風の中に在る森のように)ヴァイオリンの暗い楽器箱が、さやさやと音を立てている。(『Der Sohn』(『息子(そして、我々は夢見られたヴァイオリンになった)』)
さて、そうしてみると、
すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
或る或る金髪の女が...
という最後の3行の最初にあるヴァイオリンは、誰かに夢見られているヴァイオリンであり、誰かが夢みているヴァイオリンであり、それは夜の中のヴァイオリンであり、「暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている」その差異、その隙間に存在している、存在のヴァイオリンであることになります。
そうして、そのヴァイオリンが、その差異の中で目を覚ます。夜の夢見られているヴァイオリンであれば、歌を歌うわけですが、例え(安部公房の『箱男』の中の贋魚のように)夢の中でまた目を覚ますとしても、やはり目を覚ますヴァイオリンであってみれば、それは歌を歌うわけではなく、物を言うヴァイオリンであるのです。それ故に、「一人の金髪の女が」と言って、話を始めるわけなのです。
それも、早口で、急いて話をするのではなく、「全くゆっくりと」話をするのです。
こうして此の詩を読んで参りますと、上で少し言及しましたように、この詩の詩想は全く『箱男』の中の話中話に登場する贋魚に大変よく通っております。以下『箱男』から引用します。
「 貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見るという。
(略)
しかし、それだけだったら、とくにどうという事もない。貝殻草の夢が、やっかいなのは、夢を見ることよりも、その夢から覚めることのほうに問題があるせいらしい。本物の魚のことは、知るすべもないが、夢の中の魚が経験する時間は、覚めている時とは、まるで違った流れ 方をするという。速度が目立って遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、数週間にも、引延ばされて感じられるらしいのだ。」
ヴァイオリンが夢みているのは、「暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている」その差異、その隙間でありますし、目を覚ますのも、その隙間の中で目を覚ますわけですが、同様にして、この贋魚もまた、その登場する『《それから何度かぼくは居眠りをした》』という、章の冒頭で、次のような隙間、即ち差異の中から生まれるのです。
「 ところで君は、貝殻草の話を聞いたことがあるだろうか。いまぼくが腰を下ろしている、この石積みの斜面の、隙間という隙間を、線香花火のような棘だらけの葉で埋めているのが、どうやらその草らしい。」
貝殻草は、隙間に存在し、その「貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見るという」のです。これは、存在の魚であり、従い贋の文字を関する有資格者となり、贋魚と呼ばれるのです。
やはり、話中話であっても、一つの話を創造する時には、まづは差異を設けて、その神聖なる空間(次元)を設けてから、その場所で、本題に入る、即ち存在を招来する安部公房がいるのです。
さて、このようにリルケの詩を読み解き、また同時に安部公房の作品の一つ、『箱男』を、このように少しばかり読み解いてみるだけでも、安部公房は、一体どれだけリルケを読み耽って、無意識の中に取り込んで、自家薬籠中のものとなしたかを、あなたは、これで理解することができるのではないでしょうか。
さて、以上のように前半の一つ目の詩を読んできて、最後にもう一度此の詩の全体を振り返って、あらためて味読することに致しましょう。
月夜
南ドイツの夜は、成熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。
塔からは、たくさんの時間が重たく落ちて来て
海の中へと落ち入るように、時間たちの其の深淵の中へと落ち入り
と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして
暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている
すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
或る金髪の女が...
この「或る金髪の女」とは、『箱男』の贋魚の世界であれば、それは、夢見られたヴァイオリンの音色に相当する貝殻草の匂いを嗅いで夢見られた存在の魚、即ち贋魚でありましょうし、従い、この「或る金髪の女」は存在の女であり、そうしてみれば、安部公房の世界の中では、例えば『砂の女』の砂の女なのであり、『燃えつきた地図』の依頼人のあの「レモン色のカーテン」のある窓の向こうの女と同じ存在の女だということになるでしょう。
これらの女が存在に棲む女であり、従い差異という余白に棲む女である以上、リルケが此の詩の最後に、
或る金髪の女が...
と「…」と符号で、余白という沈黙を以って表したことは、全く理にかなっているということなのです。
十九歳でリルケに出逢って『形象詩集』を読み耽った安部公房は、この「…」の深い意味を、十分過ぎる位に理解をしていたのです。
次回は、『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の題のもとにあるもう一つの詩『騎士』を読むことに致します。
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