三島由紀夫の十代の詩を読み解く22:詩論としての『絹と明察』(5):ヘルダーリンの『ハイデルベルヒ』
ヘルダーリンの見た1800年頃のハイデルベルク
Friedrich Rottmann作
【原文】
(Aglaia-Fassung:Aglaia版)
Heidelberg
Lange lieb’ ich dich schon, möchte dich, mir zur Lust
Mutter nennen, und dir schenken ein kunstlos Lied,
Du, der Vaterlandsstädte
Ländlichschönste, so viel ich sah.
Wie der Vogel des Walds über die Gipfel fliegt,
Schwingt sich über den Strom, wo er vorbei dir glänzt,
Leicht und kräftig die Brüke,
Die von Wagen und Menschen tönt.
Wie von Göttern gesandt, fesselt’ ein Zauber einst
Auf die Brüke mich an, da ich vorüber gieng,
Und herein in die Berge
Mir die reizende Ferne schien,
Und der Jüngling, der Strom, fort in die Ebne zog,
Traurigfroh, wie das Herz, wenn es, sich selbst zu schön,
Liebend unterzugehen,
In die Fluthen der Zeit sich wirft.
Quellen hattest du ihm, hattest dem Flüchtigen
Kühle Schatten geschenkt, und die Gestade sahn
All’ ihm nach, und es bebte
Aus den Wellen ihr lieblich Bild.
Aber schwer in das Thal hing die gigantische,
Schicksaalskundige Burg nieder bis auf den Grund,
Von den Wettern zerrissen;
Doch die ewige Sonne goß
Ihr verjüngendes Licht über das alternde
Riesenbild, und umher grünte lebendiger
Epheu; freundliche Wälder
Rauschten über die Burg herab.
Sträuche blühten herab, bis wo im heitern Thal,
An den Hügel gelehnt, oder dem Ufer hold,
Deine fröhlichen Gassen
Unter duftenden Gärten ruhn.
【散文訳】
長いこと、云ふまでもなく、わたしはお前を愛した、お前を、戯れに、
我が母とまで呼びたい、さうして、お前に技巧のない歌を贈りたいのだ、
お前、祖国の町々の中で
その土地の最も美しいものとしてある町よ、わたしの見たなかで。
森の鳥が、山巓(さんてん)を超えて飛ぶやうに、
鳥がお前を輝きながら飛び過ぎるところで、河の流れを超えて其の身を生き生きと揺り動かすのは、
軽妙に、そして力強く斯くあるのは、橋だ、
馬車と人間たちの音の鳴り響く橋だ。
神々によつて送られて来るやうに、魔法が、かつて捕へたのだ
この橋へと、この私を、といふのは、わたしが通り過ぎ、
そして山々の中へと入ると、
私に、優美な遥けき距離が輝いたから。
そして、若者が、即ち河の流れが、前へ、平野の中へと行つた
悲しみの喜びを以つて、心臓が、もし心臓が、自分自身に対して美し過ぎる余りに
愛しながら沈み、没落すること、即ち、
時代の数々の上げ潮(満潮)の中に身を投じる其の心臓のやうに、悲しみの喜びを以つて。
数々の源泉を、お前は若者に、この逃亡者、儚き者に
冷たい数々の影を贈つた、そして、岸辺はみな
この若者を見遣り、見送つた、そして、大きく激しく動いたのだ
波々の中から現れて、お前たちの愛すべき像が。
しかし、重たく谷の中へと、巨大な
運命に精通してゐる城が、下へと、地上に至るまで、掛かつてゐる
雷雨に引き裂かれて
しかし勿論、永遠の太陽は注いでゐた
お前たちの若返らせる力を持つ光を、老いゆく
巨人の像の上に注いでゐた、さうして、周囲は、より生き生きと
木蔦(きづた)が緑をなしてゐた。親しい森といふ森は
城を超えて、下方へと、さやけき音を立ててゐた。
潅木は下方へと向かつて花咲いてゐた、明るい谷の中で
その丘に寄りかかつて、または岸辺に優しく
お前の快活な路地といふ路地が
香り高く匂ふてゐる数々の庭の下で、安らふところまで。
【解釈と鑑賞】
ハイデルベルクは、ドイツの町の中で、わたしの一番好きな町、中世街並みの古き町です。ハイデルベルクの在るバーデンヴュルテンベルク州の今の首都がシュトゥットガルトでなければ、中世以来の古都とすら呼びたい、それほどに美しい、ネッカー河にある町です。今のハイデルベルクの写真です。
『絹と明察』第5章「駒沢善次郎の洋行」で、菊乃から、大槻といふ若者の動静を伝へる手紙を読んで思ひ出す此の詩の「第四聯」、
「そして、若者が、即ち河の流れが、前へ、平野の中へと行つた
悲しみの喜びを以つて、心臓が、もし心臓が、自分自身に対して美し過ぎる余りに
愛しながら沈み、没落すること、即ち、
時代の数々の上げ潮(満潮)の中に身を投じるならば、その心臓のやうに、悲しみの喜びを以つて。」
といふ此の聯を改めて読みますと、ヘルダーリンといふ詩人は、河そのものを若者と呼び、従ひ、若者は流れ行く河であると考へてゐたことが判ります。
これは、このまま三島由紀夫の河であり、三島由紀夫が河といふときには常に、この詩に歌はれてゐるやうな若者の形象があるといつてよいでせう。
従ひ、第5聯で、「逃亡者、儚き者」ともまた呼ばれるのでせう。
河は、流れ行き、時間の中に身を投じる若者であり、常に別れゆき、別れを告げる者である。
第6聯の「巨大な/運命に精通してゐる城」とは、上の写真のハイデルベルク城のことです。長い人間の歴史を、この山の頂上から見下ろして、また我が身自身の塔もナポレオン軍の砲弾に一部を崩落せしめられて、土地の運命も人間の運命も、よく知つてゐるが故に、そのやうに歌はれてゐるのです。それ故に「重たく谷の中へと」この城は「下へと、地上にまでに、掛かつてゐる」。
第7聯の「巨人の像」とは、このやうなハイデルベルク城か、またはハイデルベルクのこの景観を構成する自然と町のことでありませう。
何故「巨人の像」かといへば、「親しい森といふ森は/城を超えて、下方へと、さやけき音を立ててゐた」からです。この「さやけき」と訳したドイツ語のrauschen(ラウシェン)といふ動詞の持つ音は、ドイツ人の詩でも散文でも、使はれるときには、何か神聖なるものの気配を表はしてゐます。日本語ならば、さやけさの「さ」、早乙女の「さ」、皐月の「さ」といへばお解りでせう。
このやうに此の聯と次の最後の第8聯は、誠にハイデルベルクの自然と町を、その通りに美しく歌つてをります。
第8聯の「潅木は下方へと向かつて花咲いてゐた、明るい谷の中で/その丘に寄りかかつて、または岸辺に優しく」とあるのは、お城の対岸の、川縁にある、例えば次の写真のやうな景色なのです。
ヘルダーリンは、このハイデルベルクとネッカー河を共有する近傍の町、Lauffen(ラウフェン)で生まれましたので、このハイデルベルクの土地と其の景観は、ヘルダーリンの故郷といふことになります。
ヘルダーリンに関する日本語のWikipeidaです:https://ja.wikipedia.org/wiki/フリードリヒ・ヘルダーリン
ヘルダーリンに関する英語のWikipeidaです:https://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Hölderlin
ヘルダーリンに関するドイツ語のWikipeidaです:https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Hölderlin
第2聯で、
「神々によつて送られて来るやうに、魔法が、かつて捕へたのだ
この橋へと、この私を、といふのは、わたしが通り過ぎ、
そして山々の中へと入ると、
私に、優美な遥けき距離が輝いたから。」
と歌つたのは、ヘルダーリンが、この土地の者として近傍の山歩きをし、ハイデルベルク城の後ろの道からか、または反対側の岸辺の上の山を歩き、その途上で遥か下方に、美しいカルステン門のある橋を見たからでありませう。町の対岸から見た橋の景色です。前者からの景観では、橋は足下にありますから、やはり後者の景観といふべきでせう。この橋が、ヘルダーリンを魅了したのです。
橋といふ動機(モチーフ)と形象は、三島由紀夫の十代の詩の中に出てくる大切な形象の一つです。
今その詩のうちの一つを挙げれば『馬』といふ16歳の詩では(決定版第37巻、691〜693ページ)、緋色をした美そのものである奔馬が狂奔して向かつて駆けてくるさまを、「骨だけになつた橋梁(はし)」の上にゐて見るのです。骨だけになつた橋梁(はし)」とは、既に死の橋、好きだつたあのダリの十字架の交差点なのです。詳細を論ずるのは、稿を改めます。(ダリの十字架については、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』[http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html]と『三島由紀夫の十代の詩を読み解く10:イカロス感覚1:ダリの十字架(2):6歳の詩『ウンドウクヮイ』』[http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_26.html]を参照下さい。)
さうしてまた、この詩には、自分の詩の源泉である塔の、しかし毀損された塔の形象もあつて、しかし、その塔は、ヘルダーリンに歌はれて救はれてゐる。
さうしてまた、この詩には、自分の詩の源泉である塔の、しかし毀損された塔の形象もあつて、しかし、その塔は、ヘルダーリンに歌はれて救はれてゐる。
このやうな意味でも、この美しい古都を歌つたヘルダーリンの詩を、三島由紀夫は愛したのです。
最後に付言すれば、三島由紀夫が何故ヘルダーリンをこれほどに愛好し、愛誦し、ハムケール時代の最初の歳、即ち1964年、39歳にヘルダーリンの詩と詩想を根底に置いた『絹と明察』を書かうと思つたかといひますと、その理由の一つは、詩想は勿論ですけれども、それ以外にも、ヘルダーリンといふ詩人は、狂気に落ちた1807年以降1843年までの36年間を、チュービンゲンの指物師、エルンスト・ツィンマーの家に寓居し、その家にある次のやうな、後世「ヘルダーリンの塔」と呼ばれる塔の中で死ぬまで、生きたからです。
ヘルダーリンの塔
この塔を、三島由紀夫は『絹と明察』で何度か登場する彦根城の天守閣として表したものでありませう。その天守閣といふ塔をどのやうに書いたか、また登つた登場人物たちをどのやうに書いたかを、改めてお読みになることは、興味深いことではないかと思ひます。
当然のことながら、天守閣といふ塔には四方に窓があり(十代の三島由紀夫ならば、窗(まど)と書き、または高窓と書いたでありませう)、この窓からの眺望は、天守閣の出てくる度に飽きることなく書かれてゐることは、最後の作品『天人五衰』の冒頭の、灯台から孤児安永透が眺めて延々と叙述される海の景色に通じてをりませう。
32歳のときの『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』といふ詩で、あの自分の十代の詩の源泉である命の塔を刈り取つてしまつた三島由紀夫が、こころ密かに再生を期して十代にハイムケール(帰郷)したいと切に願つた39歳のこころを、このやうに、私事を語らず、作品にひそませたといふことではないでせうか。
もう一度、そのやうなことを念頭に置きながら、次の年表(『三島由紀夫の人生の見取り図(version 4)』)を眺めると、誠に感慨深いものがあります。
「4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代):ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間
(1)1964年:39歳:『理髪師』の殺人者を『絹と明察』(ハイデッガー哲学とヘルダーリンの詩を下敷きにした世界)に登場させたハイムケール(帰郷)の時代の最初の歳
(2)1964年:40歳:『豊饒の海』の第1巻『春の雪』を書き始める。
(3)1970年:45歳:『豊饒の海』の第4巻『天人五衰』を書き終へる。」
勿論、三島由紀夫にとつては、この『ハイデルベルク』の詩を流れる美しきネッカー河もまた、さうして、次に読む『絹と明察』にも引用される『追想』といふ詩の「壮麗なるガロンヌ河」の場合と同様に、遂には『豊饒の海』へと、流れ入るのでありませう。
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