2015年9月23日水曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く20:詩論としての『絹と明察』(3):駒沢善次郎


三島由紀夫の十代の詩を読み解く20:詩論としての『絹と明察』(3):駒沢善次郎



『文化防衛論』の「文化主義と逆文化主義」といふ最初の章の冒頭に、1968年、43歳の三島由紀夫は、次のやうに書いてをります。

「 昭和元禄などといふけれども、文化的成果については甚だ心もとない元禄時代である。
 近松も西鶴も芭蕉もゐない昭和元禄には、華美な風俗だけが跋扈してゐる。情念は涸れ、強靭なリアリズムは地を払ひ、詩の深化は顧みられない。すなはち、近松も西鶴も芭蕉もゐない。われわれの生きてゐる時代がどういふ時代であるかは、本来謎に充ちた透徹である筈にもかかはらず、謎のない透明さとでもいふべきもので透視されてゐる。
 どうしてこういふことが起こつたか、といふことが私の久いい疑問であつた。外延から説明する、工業化や都市化現象から説明する、人間関係の断絶や疎外から説明する、あらゆる社会心理学的方法や、一方、精神分析的方法にわれわれは飽きてゐる。それは殺人が起つたあとで、殺人者の生ひ立ちを研究するやうなものだ。
 何かが断たれてゐる。豊かな音色が溢れないのは、どこかで断絃の時があつたからだ。そして、このやうな創造力の涸渇に対応して、一種の文化主義は世論を形成する重要な因子になつた。正に文化主義は世をおほふてゐる。それは、ベトベトした手で、あらゆる文化現象の裏側にはりついてゐる。文化主義とは一言を以つてこれを覆へば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によつて判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。」

その後にアメリカの占領政策を論じ、その政策が「菊と刀」の分断であることを言ひ当て、その政策の時流に乗つた左翼政治政党を論じ、一言でいへば戦後の其の流行の文化的に見える衰弱した「博物館的な死んだ文化」を「天下泰平の死んだ生活」と対比させ、次の章を「日本文化の国民的特色」の3つの特色の説明をして、次の章「国民文化ん三特質」と題して「再帰性、全体性、主体性」の三つの特質を挙げて、これらを纏め、更に「何に対して文化を守るか」といふ章では、「菊と刀」の関係を断たれたために、前者の「日本文化の特質の一つでもある、際限もないエモーショナルなだらしなさが現はれてをり」、「「守る」とは常に剣の原理である」ことを日本人は忘れてゐるのであるが、これを再度統一するためには、「創造することと守ることの一致」が必要であると同じ題の短い章を置いて、「創造することが守ることであるといふ、主体と客体の合一」である「文武両道」といふ思想を説き、その次に「戦後民主主義の四段階」と題した歴史的な戦後民主主義の総括の章の冒頭に、次の文章が書かれてゐる。

「さて、「菊と刀」を連続させ、もつとも崇高なものから卑近なものにまで及び、文化主義者のいはゆる「危険性」を避けないところの文化概念の母胎は、何らかの共同体でなければならないが、日本の共同体原理は戦後バラバラにされてしまつた。血族共同体と国家との類縁関係はむざんに絶たれた。しかしなほ共同体原理は、そこかしこで、エモーショナルな政治反応をひきおこす最大の情動的要素になつてゐる。それが今日、民族主義と呼ばれるところのものである。よかれあしかれ、新しい共同体原理がこれを通して呼び求められてゐることは明らかであらう。」

この章の次には「文化の全体性と全体主義」、「文化概念としての天皇」と続いて、「文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体(ヴェルト・アン・ジッヒ)だからであり、天皇が否定され、あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。」と結んで、昭和四三年五月五日の尚武の日、端午の節句に筆を擱いてゐる。

上の引用で傍線を施した、「菊と刀」の連続した共同体原理が戦後バラバラになつたといふ認識が、既に『絹と明察』を書いた38歳の三島由紀夫にはあつたことになります。[註1]

それ故に、一見、義理・人情・浪花節の代表と見える駒澤善次郎といふ人物を経営者として創造したのでせう。即ち、日本人の「断絃の時」を修復して、ヘルダーリンの詩と韻律の力を借りて、このバラバラになつた日本人の共同体原理を虚構の世界に蘇生させたかつた。

それ故に第1章を「駒沢善次郎の風雅」と題して、風流、風雅、みやびと、「資本金五十万円の田舎会社を、たちまち十億円の会社に盛り立てた」事業家であることと(第5章「駒沢善次郎の洋行」)、この二つのことが両立する人間を、父親として描きたかつたといふことになりませう。

[註1]
松岡正剛が、その『松岡正剛の千夜千冊』の1022夜(2005年4月8日)に、次のやうに『絹と明察』を取り上げて論じてゐる。この感想は、わたしにも同様に正しいものと思はれる。

「題名の『絹と明察』は、絹派としての駒澤とこれを貶めた明察派のドラマといふ対比をあらはしてゐるやうに見へる。しかしそう見るのは、三島の意圖とは違つてゐた。

 絹としての駒澤は最後になつて明察に達したのである。逆に岡野は絹にとらはれて明察を缺いたのだ。三島自身は自作の意圖をかういうふうに説明してゐる、「絹の代表である駒澤が最後に明察の中で死ぬのに、岡野は逆にじめじめした絹に惹かれて、ここにドンデン返しがおこるんです」。

 それだけではなく、三島は「この作品はこの五年あまりの僕の総決算だつた」と云つて、さらにこんな説明をした。「書きたかつたのは日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです」。

 ずいぶんあとのことになるが、三島が自決してしばらくたつていくつかの三島論を読んだとき、『絹と明察』を評論した者にこのやうな三島の意圖を予見してゐた議論はほとんど見つからなかつた。唯一、野口武彦が『三島由紀夫の世界』で岡野のキヤラタクリゼーションに注目し、三島は『林房雄論』に続いて「本質的原初的な日本人のこころ」を描いてゐたのではないかと指摘してゐたけれど、他はたいてい、愚直な駒澤の描写が秀逸だといふたぐひの批評に終始してゐた。たとへば、「描破された資本家像」(高橋和巳)、「戦後知識人の破綻を書いた」(村松剛)、「人間の愚劣への挑戦」(森川達也)、「愚かな人間を芸術的に浮き彫りにした」(奥野健男)といつたふうに。

 このことは、如何に三島が誤解されてゐるか、それとも如何に三島の文学はわかりにくいかといふことを示してゐるかのどちらかに見えるのだが、さういふことではない。三島は作家としての自覺をした當初から、実はこの『絹と明察』そのものに向かつてゐたと言ふべきなのである。それを最も端的に暗示してゐるのは、三島が『絹と明察』を終へて次に何を書いたのか、何を始めたのかといふことだ。『絹と明察』は昭和三十九年十月に完結し、その翌年から三島が「新潮」で連載にとりくんだのは、残された大作『豊饒の海』ただ一本だつたのである。

 三島が總決算に立ち向かふため、作家の決着として(後でわかつたやうに、人生の決着としても)、その生死の最終仕上げのためのスプリングボオドとしたのが『絹と明察』だつたといふことは、ぼくを驚かせた。

 三島がこれを書いたのは三九歳のときである。自決するのは昭和四十五年(1970)の四五歳の十一月だから、死の六年前のことになる。その六年間のあひだ、小説としてはずつと『豊饒の海』だけを書きつづけ、その他は、一方では自衛隊に体験入隊して「楯の会」を結成し、随筆スタイルでは『英霊の声』『太陽と鉄』『文化防衛論』などを書いただけだつた。

 あきらかに三島は「栄光の蛸のやうな死」の準備に向かつてゐたのだ。その準備は『絹と明察』の翌年の四十歳から始まつてゐた。四十歳ちやうどのとき三島が何を始めたかといへば、『憂国』を自作自演の映画にし、『英霊の声』を書いたのである。しかし、かうした準備は三島のこれみよがしの誇大な行動報告趣味からして誰の目にもそのリプリゼンテヱションがあきらかであつたにもかかはらず、その姿は滑稽な軍事肉体主義か、ヒステリックな左翼批判か、天皇崇拝の事大主義としか写らなかつた。

 ともかくも六年間、三島はひたすら「日本及び日本人」だけを問題にしてゐたのである。それなのに文芸批評家たちは、三九歳までの作品からこれらの主題を讀みとらなかつた。文芸批評なんて所詮その程度のものだと云へばそれまでだが、三島が仕込んだもうひとつのテヱゼ「父と子の問題」といふことも文芸評論家たちにほとんど伝つてゐなかつたところを見ると、そもそも三島における「日本及び日本人」が父親像の探求と裏腹の関係にあつたといふことすら、世間にも批評家にも"認知"されてゐなかつたのだらうといふことになる。なぜ、そうなつたのか。

 三島は自分の意圖を隠さない人である。昭和三十九年十一月の「朝日新聞」では、「過去数年間の作品はすべて父親像を描いたものだ」と証かし、『喜びの琴』『剣』『午後の曳航』『絹と明察』といつた作品名まで告げてゐた。」



さて、しかし、この駒沢善次郎といふ人物は、本当に家父長として、例え其れが家族としての共同体原理を体現する父親としての経営者でありませうか。次の叙事を読むと、わたしには、さうだとは全く思はれないのです。

村川といふ「日本の近代化と」戦後の「民主化」を受け入れて、やはり大きな紡績会社を経営する此のやうな競合他社の時流に乗つた経営者から見ても、駒沢善次郎といふ人間は、日本的な義理・人情・浪花節の、さうして他方同時に冷徹に商売を考えるやうな経営者では全然ないからです。前者の日本的な要素については、

「あれほどの家族主義にもかかはらず、彼(筆者註:駒沢善次郎)が子供が好きでないらしいことだつた。御愛想は言つたが、子供の扱ひも不器用で、度のすぎた悪戯をしかけると、うるささうに横を向いた。」とか、

或ひはまた、後者の冷徹な商売を考えることについては、作者自身の筆になる次のやうな地のの文章を読むと、さう思はずにはゐられない。

「 駒沢の心には、どうしても薙ぎ倒すことのできない強い楽天主義の雑草が生い茂つてゐた。その雑草のおかげで、彼は人間を愛することができた。寒帯に住む人が象を見たことがないやうに、彼は孤独といふものの姿を見たことがなかつた。人間世界はひろびろとしてゐて、まことに景色がよく、彼が呼べば谺(こだま)が答へ、要するに、人間同士の心の交流などといふものはあまり意に介しなかつた。(略)善意や慈愛は、必ず人の心に届くのだ。(略)『何しろ広重みたやうに、風景の心をぐいとつかんでるさかい』(略)心は一方通行で足り、水は低きへ流れる。それが自然といふものだ。」

「心は一方通行で足り、水は低きへ流れる。それが自然といふものだ。」といふ考へ方では、駒沢善次郎の心は社員のみならず、普通には他人にも通じないでありませう。

それから、経営環境を取り巻く自然を「父なる自然」と呼び、そのもたらす恵みを「父なる自然の恵み」と呼んでゐる(第8章「駒沢善次郎の憤怒」)ことも、やはり此のわたしの考へを裏付けるものです。

普通には、自然といふものを、わたしたち日本人は、母に喩へるものではないでせうか。父に喩へるとしたら、それは過酷な自然環境に生きて来た民族でありませう。勿論、日本には台風も来れば、地震も起きるとはいいながら。

この「心は一方通行で足り、水は低きへ流れる。それが自然といふものだ。」といふ自然観、「父なる自然」といふ駒沢善次郎の考へは、三島由紀夫の自然についての考へ方なのではないでせうか。

社員に教養を身につけさせるために「愛の鞭」が必要だと考へる此の人物は、日本の企業のどこにもゐない、虚構の経営者なのです(第4章「駒沢善次郎の家族」)。[註2]

[註2]

幼少の頃から父親が文学に反対したために、本名の平岡公威ではなく、三島由紀夫といふ名前を筆名としたといふ経緯(いきさつ)は、やはり後者の名前の元に生きる三島由紀夫に何事かを強ひた筈です。

三島由紀夫が11歳のときに書いた詩に『父親』といふ詩がある。これは、父親に詩を書くことをこっぴどく叱られて、その詩作といふ行為と其の道具と場所そのものを否定された非常に辛い体験を書いた詩です。以下『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』より引用して、お伝へします。

「さて、もう一つ11歳のときの詩を読んで終わりにします。『父親』という詩です。

7。『父親』という詩を読む
これまでの考察では、三島由紀夫の詩文と散文の叙述の根底には次のことが伏在していることがわかります。

(1)夜である。恰も夜である。
(2)木枯らしという強風が吹きすさぶ
(3)それが原因で、木々が狂っている
(4)冬の木枯らしは気違いであるり、木々を気違いにしてしまう
(5)蛾である、夜に生きる命あるものもふるえている
(6)その震えるものを助けたい、窓を開けて、解き放してやりたい、自由にしてやりたいという思い
(7)その思いの本は、「可哀さうにな」感情を持ったからであること
(8)そうして、上記の酷い状態を解決するのが雪であって、例え木枯らしが冬の気違いであって、強く吹いていても、雪を呼んでくれば、救われるということ。何故ならば、雪の白は、夜の黒とは違って、清浄であり、そのような酷い狂気を浄化して救ってくれるからでありましょう。

この8つのことは、やはりこの詩にも伏在しているに違いありません。


「父親

母の連れ子が、インク瓶を引つくり返した。
インク瓶はころがりころがり机から落ちて、硝子の片が四方に飛び散つた。
子供は驚いた。
ペルシャ製だといふじゆうたんは、真ッ黒に汚れた。
そして、破れた硝子は、くつ附かなかつた。

母の連れ子の脳裡に恐ろしい父の顔が浮び出た。

書斎のむち、今にもつぎはぎだらけのシャツを脱がされて、むちが……
喰ひ附くやうに、

母の連れ子の、目の下に、黒いじゆうたんが、わづかな光りに、ぼやけてゐる」

この詩では、気違いのように、木枯らしに揺さぶられている対象が木ではなく、「ころがりころがり机から落ちて、硝子の片が四方に飛び散つた」インク瓶になって歌われております。

その原因をなすのが、母の連れ子ですから、この連れ子は狂気を宿した子供なのでしょう。これは、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』にそうであったように、このまま殺人者の持つ他人との距離を表しています。その距離という差異は、母の連れ子と其の子のことを語る話者、即ち普通に考えれば、11歳の三島由紀夫の持つ差異です。この距離、この差異が、三島由紀夫が作中人物と持つ距離であり、作中人物の狂気であるのです。

この詩で三島由紀夫は、話者としての立場を手に入れて、話を仮構することができています。このことは重要なことです。

これを言葉の技術の進歩と呼んでもよいし、詩の中へ、『花ざかりの森』と『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』で明瞭に自覚をした、三島由紀夫という人間の高みの位置を、初めて獲得したのが、この『父親』という詩であることになるからです。

即ち、この三島由紀夫独自の高みを肯定しようが(『花ざかりの森』)、否定しようが(『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』)、この高みのある限りにおいて、三島由紀夫のこころと意識の中では、詩はそのまま散文なのであり、散文はそのまま詩の延長であるということになるからです。

「母の連れ子」という、話者にとっては血縁ではない、三島由紀夫の源泉の感情の発露する距離(差異)を持った赤の他人であるという設定をしたことが、11歳の少年三島由紀夫のこころと意識をそのまま物語っております。

その詩の題名が『父親』であるというのも、誠に興味深い。

赤の他人の連れ子が、(木枯らしの詩での木々のように)気の狂ったように散乱するインク壺の破片を拾い集めても元には復元できず、父親の罰が待っているという此の仮構の設定は、表面上の人物関係は横においていたとしても、三島由紀夫の小説や戯曲の仮構の才能そのものを示しているのだと、わたしは思います。

これは恐らくは、父親に文学的な作品の執筆を酷く否定された経験を言葉に変換して、高みの位置を得ることを知って、人間関係を変形させて仮構して、自分のこころを救うために書いた、そのような詩であるのです。

(安部公房の夢にも同じ事情があったことを思わせる『思い出』という短い文章があります。両親から罰としてもらった鉛筆を削ると、削る端から、鉛筆がばらばらになり、折れてしまったという幼年の思い出を夢として書いています。この二人は本当によく似ています。(全集第4巻、312ページ))

さて、この11歳の詩にある話者の、この詩を歌う話者のこころは、間違いなく18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の殺人の論理です。それ故に、

「母の連れ子の脳裡に恐ろしい父の顔が浮び出た。

書斎のむち、今にもつぎはぎだらけのシャツを脱がされて、むちが……
喰ひ附くやうに」

と書くことができるのですし、書かねばならないのです。

「ペルシャ製だといふじゆうたんは、真ッ黒に汚れた」という其の絨毯は、木々が木枯らしに吹き荒さんで揺れに揺れてばらばらにはりそうな、いやばらばらになっている其の木々に相当する「ころがりころがり机から落ちて、硝子の片が四方に飛び散つた」インク瓶がある其の絨毯は、その色から言って、木々の揺れる狂気の夜の色と同じ色なのです。

これが、三島由紀夫が、『太陽と鉄』の冒頭に、すでに十五歳の私は次のような詩句を書いていたと言っていることに通じていることなのです。

「それでも光は照ってくる
  ひとびとは日を讃美する
  わたしは暗い坑のなか
  陽を避け 魂(たま)を投げ出(い)だす」

なんと私は仄暗い室内を、本を積み重ねた机のまわりを、私の「坑」を愛していたことだろう。何と私は内省を楽しみ、思索を装い、自分の神経叢の中のかよわい虫のすだきに聴き惚れていたことだろう。

太陽を敵視することが唯一の反時代的精神であった私の少年時代に、私はノヴァーリス風の夜と、イエーツ風のアイリッシュ・トゥワイライトとを偏愛し、中世の夜についての作品を書いたが、終戦を堺として、徐々に私は、太陽を敵に回すことが、時代におもねる時期が来つつあるのを感じた。」と、率直に語っている十代の時代の詩と真実であるのです。」



従ひ、この小説は、事業家の小説なのではなく、家族小説として読まれるべきものなのではないか。それも、疑似家族としての家族の小説、従ひ、虚構の家族小説として、です。

[註1]の引用にもある通りに、「三島は「この作品はこの五年あまりの僕の総決算だつた」と云つて、さらにこんな説明をした。「書きたかつたのは日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです」」(「著者と一時間」朝日新聞、昭和39年11月23日)といふ著者の言葉は、率直に此の小説の意図を話してゐるのです。勿論実際のではなく、虚構の父親、虚構の息子の話として。

このインタビューの発言によれば、大槻といふ若者を、その恋人石戸弘子とともに、子供のゐない自分の養子にしようと思ひつきのやうに不図考へる駒沢善次郎から見れば、後者と前者の関係を描いたといふことになりませう。

また、その恋人石戸弘子とともに、子供のゐない自分の養子にしようと思ひつきを思へば、父と母と息子と娘といふ疑似家族となります。

さうして、駒沢善次郎は、死の間際になつて、すべての敵対者を恕(ゆる)します。この場面の駒沢善次郎は、血の通った登場人物になつてゐます。特に、その、岡野が見ても「ちつとも亀裂を見つけ出さない」程の寛恕の「完全な感情の球形」を実現した此の家長が思ふ次の事柄は、みな三島由紀夫自身のことを述べてゐると、わたしには思はれます。即ち、家長たる男とは、

1。家族のために、仮令それが疑似的な家族であらうとも、自分の力で考へ、決断する人間である。
2。この自分の力で考へ、決断することは恐ろしい負荷を自分に引き受ける人間である。
3。上記1と2を我が身に引き受けることは、孤独と猜疑の苦しみの裡に生きて行かねばならぬ人間である。
4。他者である家長の眼からしか正確に見えない(その意味では、恰も顔のやうな)幸福を保証する人間である。
5。上記4の幸福を自分で味ははうと家族の一員がすると、狂気に陥ることを知つてゐる人間である。それ故の4である。
6。上記4の幸福を自分で見ようとすると、目前に直面するのは鏡だけであり、「血の気のない、心のない、冷たい鏡だけ、際限もない鏡、鏡……それだけ」であることを知つてゐる人間である。[註3]
7。上記5と6から家族を救ふ意志を有する人間である。
8。上記6の場合、家族の構成員一人一人を、その合わせ鏡の恐ろしい冷たい心の無い世界から救い出す人間である。
9。上記8の場合には、自らの死を以つて、自己を犠牲にして、その救助救済を成し遂げる人間である。

といふことになります(第10章「駒沢善次郎の偉大」)。

余りにも平凡なまとめ方になりませうけれども、これは、一言でいへば、媒介者としての父親であり、媒体としての家長です。平俗な言ひ方をすれば、自分一人のことは忘れ、家族のすべての人員の面倒をみ、親身に世話をし、みなのために身を粉(こ)にして働き、生きる父親像です。

(さて、しかし、この作品中の以上述べ来つた総ての登場人物に共通のものは、駒沢善次郎も含めて、駒沢善次郎の妻房江のいふ「現実を変改することの情熱」です(第9章「駒沢善次郎の対話」)。

これらの男たちの此の共通する情熱に対して、この、いつも離れて療養所に暮らしてゐ、一年に一度しか夫に会はぬ女性、恰も赤の他人のやうである此の女性が、均衡を保つて、一人で其の対局にゐる。何故ならば、「現実を改変することの情熱ほど、房江の信条に反するものはなかつた」からです。(第9章「駒沢善次郎の対話」)

この男と女の対立対抗の構図がまた、この小説の重層的な其の複数の層の一つとして隠れてゐる、もう一つ別の構図の層です。)


[註3]

この1から9の家長像を眺めますと、さうして特に6の合わせ鏡の世界の家長像を思ひますと、安部公房の全ての主人公は此の合わせ鏡の世界から、それ以外の人間たち、社会、宇宙の蘇生のために、自己を犠牲にして、さうしてほんどの場合其の死を以つてそれらに無償で報ひることをし、自分自身は次の次元へと転生して存在となるのですが、そのやうな安部公房の主人公たちのことを思はずにはゐられません。

この三島由紀夫の家長像を陽画としての家長像といふとすると、安部公房の主人公は一つの例外もなく、陰画としての家長像であることに気づきます。

確かに、安部公房曰く、あれほど論理と感情をお互いに理解することのでき、そして安部公房とはあらゆる接点を共有していながら安部公房とはすべての接点で正反対の方向(「彼との接点は、全部うらがえしになっている。」全集第29巻、73ページ下段)を持っていた、そして互いにその差異をも愉快に理解し合い共有していたこころの通った親しき友三島由紀夫でありました。



このことは、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く18:詩論としての『絹と明察』(1):殺人者たち』の冒頭で、

「この小説の第一行が「昭和二十八年九月一日」といふ日付で始まつてゐることは、三島由紀夫の十代の詩の書き方と名付け方から言つて、この小説が叙事詩であることを示してゐる。或ひは、叙事詩の感覚で、この散文を書いたといふことです。従ひ、ヘルダーリンといふ三島由紀夫の愛好するドイツの詩人の詩の引用されることに必然的な理由が生まれるのです。」

と書いた通りに、やはり、詩の力を借りて、この戦後の、「戦後バラバラにされてしまつた」「日本の共同体原理」を、三島由紀夫が、祈るやうな気持ちで虚構に再現した小説なのではないか。

さうして、この第一行の書き方から言つて、現在に立つて「昭和二十八年九月一日」に始まる過去を追想し、追憶するといふのが、この作品の趣向です。

このやうな作品の体裁が、やはりそのまま、三島由紀夫の詩の感覚を表はしてをります。

さて、作中繰り返し引用されてゐるヘルダーリンの詩に『帰郷』といふ詩があります。

その副題は、”An die Verwandten”とあつて、これは、普通にいへば「親類縁者に宛てて」といふ意味です。即ち、故郷に住む親類縁者に向かつて、私は今まで故郷を離れ、旅に出てゐたが、さあ皆のもの、 一族郎党、血族たるお前たちよ、これから私は故郷(ふるさと)に帰るぞといふ詩なのです。

三島由紀夫は、ヘルダーリンの此の詩を小説の底流とすることで、さあ、皆の者よ、私は今まで故郷を離れ、私が古典主義時代と呼んだ小説といふ散文の旅に出てゐたが、さあ皆のもの、一族郎等よ、血族たるお前たちよ、お前たちの住む共同体に、私の故郷(ふるさと)に、即ち詩文の世界に帰るぞといふ、これが『絹と明察』と題した小説なのです。

三島由紀夫は、この副題を文字にはせず、巧みに隠した。いや、隠したといひたい位に表には出さず、自分の愛唱した詩行をのみ作中に引用した。

しかし、この帰郷者の此の詩を読みながら、三島由紀夫は、この詩の話者を家長としての自分と為して読んだことでありませう。

ヘルダーリンの『追想』といふ詩で既に見たやうに、絹は太陽と生命と健康と町と女たちと祭りの陸(おか)を表はし、他方、さうしてみれば、明察とは、これに対してある夜と月と孤独と落葉した帆柱の下の一人居の男の船と、実り豊かな葡萄園のあるフランスの高みの土地土地から流れ下つて一つになつて流れ入る当の其の未知の自己喪失の豊饒の海と、春風の吹く昼間の絹の陸(おか)と静謐の孤独の、「しかし(アーバー)」豊饒なる記憶の夜の海との対比的な関係についての明るい明晰なる洞察、即ち明察を意味するでありませう。

さう、この詩の最後にあるやうに「変わらずに留まるものを、しかし、建立(こんりゆう)するのは、詩人たちなのである。」といふ認識です。[註4

ハイムケール(帰郷)時代の晩年の7年間の三島由紀夫は、確かに此のやうに生きたのではないでせうか。唯々『豊饒の海』四部作を書いて「変わらずに留まるものを、しかし、建立(こんりゆう)するのは、詩人たちなので」あり、自分が其の詩人の一人であること、それも、存在よりも認識を選び、不可視の林檎の其の芯となつて、表に外に存在の全体を現はしめることによつて、自分が本物の詩人、詩そのもの、美そのものに遂にはなるといふことによつて(『太陽と鉄』)。

[註4]

駒沢善次郎の作らせた自分自身の胸像は、「変わらずに留まるものを、しかし、建立(こんりゆう)するのは、詩人たちなのである。」といふ認識に基づいて、作者が製作させたものでありませう(第章「駒沢善次郎の胸像」)。

これに対して、岡野は、留まるものが嫌いである。何故ならば、この地平には時差が満ち満ちてゐて、「ヘルダリアンの憧憬に」ひかれて遥か地平線を求めるといふのが、岡野のハイデッガー解釈であり、地平線を水平線に置き換へれば、それはヘルダーリンの『追想』と同じやうに、海への出帆となるからです。

同じ殺人者であつても、やはりかうして見ると、岡野が一番駒沢に親しく、また相反する者として描かれてをります。

さうして、最後の駒沢の社長の地位を襲つて、二代目の経営者になるところで小説は終はつてをります。

しかし、この岡野の哲学で会社の経営をすることはできません。このものの考えへ方では、人を組織化して動かすことができない。何よりも、その論理と現実の背反と乖離に、岡野自身が堪へられず、この男の論理を其のまま敷衍して、経済社会の一等上の階層にゐ続けようとすれば、戦前には若者に死を使嗾した此の人間は、遂には自らの死を選ぶ以外にはないでありませう。

そのやうな人間に、生きた人間たちが従ひ、従(つ)いて行くことはありません。やはり、この世で、生きてゐるものたちが会社といふ結社に求めるものは、絹なのであり、絹である太陽と生命と健康と町と女たちと祭りの陸(おか)であるからです。

従ひ、この小説の次が書かれるとしたら、やはり岡野の死で終はり、三代目の経営者が、唸るほど金を持つてゐる村川によつて指名されることになるのでありませう。



しかし、三島由紀夫は、32歳のときに、16歳のとき詩『理髪師』を改作改題した『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』を書いてをります(決定版第37巻、767ページ)。この後者の詩で「あらゆる尖塔」を蛇が刈り取ってしまつたあとでは、三島由紀夫は言葉の人であり、隠喩(metaphor)の人ですから、もはや時差の間に垂直方向に飛翔するといふよりも、『絹と明察』で岡野が考へてゐるやうに、

「『ハイデッガーの脱自(エクスターゼ)の目標は』と彼は考へ続けた。
 『決して天や永遠ではなくて、時間の地平線(ホリツォント)だつた。それはヘルダアリンの憧憬であり、いつまでも際限のない地平線へのあこがれだつた。俺はかういふものへ向つて、人間どもを鼓舞するのが好きだ。不満な人間の尻を引つぱたいて、地平線の向つて走らせるのが好きだ。あとから俺はゆつくり収穫する。それが哲学の利得なのだ。』」

とあるやうに、「決して天や永遠ではなくて、時間の地平線(ホリツォント)」に向かふこと、垂直方向にではなく、水平方向に向かふことになる以外にはありませんでした。

32歳の三島由紀夫は、時差に在つて(十代の詩人であつたときのやうに)垂直方向の昇るのではなく、水平方向に、地盤と水盤の上にある、しかしこれもまた神聖な時差の間に美を求めて、その地平水平の縁を超えようとして、残りの人生の時間を生きるのです。

『三島由紀夫の世界像1』を示しますので、これをご覧になつて、このことをお考へ下さい。



しかし、この32歳のときの『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』を書いて、あの詩を豊かに生み出した高みの塔をすべて刈り取つてしまつた時こそが、日本民族にとつてではなく、三島由紀夫自身にとつての「断絃の時」ではなかつたのでせうか。

(これは痛恨の極みでありますが、しかし他方、これをしなければ、肉体の鍛錬による均衡を求めて、再帰的な腐食作用のある言葉に対抗する距離を置くことができなかつた。)

從ひ、ハイムケールの時代、ダーザイン(現存在)の時代の最後の時代の1970年の『暁の寺』の最後には、虚構の世界の主人公の転生輪廻が起きなかつたのではないでせうか。このことを再度『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』より引用してお伝へします。

「『暁の寺』を書き終えた三島由紀夫は、次のように言っております。

「つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻「暁の寺」を脱稿した。これで全巻を終わったわけでなく、さらに難物の最終巻を控えているが、一区切がついて、いわば行軍の小休止といったところだ。
人から見れば、いかにも快い休息と見えるであろう。しかし私は実に実に実に不快だったのである。この快不快は、作品の出来栄えに満足しているか否かということとは全く関係がない。では何の不快かを説明するには、沢山の言葉が要るのである。
私は今までいくつかの長編小説を書いたけれども、こんなに長い小説を書いたのははじめてである。今までの三巻だけでも、あわせて優に二千枚を超えている。長い小説を書くには、ダムを一つ建てるほどの時間がかかる。
従って、『豊饒の海』を書きながら、私はその終わりのほうを、不確定の未来に委ねておいた。この作品の未来はつねに浮遊していたし、三巻を書き了えた今でもなお浮遊している。しかしこのことは、作品世界の時間的未来が、現実世界の時間的未来と、あたかも非ユークリッド数学における平行線のように、その端のほうが交叉して溶け合っていることを意味しない。
作品世界の未来の終末と現実世界の終末が、時間的に完全に符号するということは考えられない。ボオの「楕円形の肖像画」のような事件は、現実には起こりえないのだ。」(傍線筆者)

しかし、この文の語るところは、作品世界の未来の終末と現実世界の終末が、時間的に完全に符号するということは考えられない。ボオの『楕円形の肖像画』のような事件は、現実には起こり」得ないという確信のもとに生きてきた三島由紀夫の確信が根底からくつがえって、作品世界の時間的未来が、現実世界の時間的未来と、あたかも非ユークリッド数学における平行線のように、その端のほうが交叉して溶け合ってしまって、その平行線の間の差異が0になったということを言っているのです。


このことは、

「追憶は「現在」のもっとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純するぎるような感情は、追憶なしにはそれを占ったり、それに正しい意味を索(もと)めたりすることはできはしないのだ。それは落葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつようなものである。泉のうえにおちちらばっていたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。」

と『花ざかりの森』で主人公の思っているこの追憶が、それまでの小説はみな殺人者の修辞によって書いてきていたものを、『豊饒の海』では(未知なる未来への恐怖を克服するために)海賊頭の命令に従って「未知」へと渡る決心をして同類の行動家になったために、この追憶という過去の時間に対する距離のない十代の(恐怖心のない幸せな)関係に戻っても、もはや三島由紀夫は十代の少年ではなく、たとえ修練を重ねた言語藝術家であろうとも43歳の大人である人間には、もう過去の時間に対する距離のない十代の(恐怖心のない幸せな)関係は失われてしまい、追憶に頼っても虚構の「現在」は戻ってこなかったということを意味しています。

それが、三島由紀夫が「しかし私は実に実に実に不快だったのである。」と書いた理由です。」

この『花ざかりの森』といふ16歳の処女作の上の言葉で判る通り、「追憶は「現在」のもっとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純するぎるような感情は、追憶なしにはそれを占ったり、それに正しい意味を索(もと)めたりすることはできはしない」といふこと、これは此のまま、39歳の『絹と明察』に在り、ハイムケールの時代の『豊饒の海』全四巻に一貫して求められる転生輪廻の原理であることを知るのです。


さて、その『帰郷』(Heimkunft:ハイムクンフト)といふ詩の其の内容は如何なるものであるのか。次に読み解くことに致します。三島由紀夫が思ひ描いた家長像を、わたしたちも、読者として思ひ描きながら。

                                                                   (続く)


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