Dreitausend Schreiber(3000人の書き手):第36週 by Annette v. Droste-Hülshoff(1797~1848)
【原文】
Dreitausend Schreiber auf Teppichen sassen
Und rührten den Bart mit der Feder:
Sie schrieben, schrieben so manchen Tag,
Dass grau geworden die Bärte,
Dass trüb geworden die Augen längst
Und längst erkrummet die Finger;
Wer aber, was sie geschrieben, liest
Und liest das, was sie geschrieben,
Der spricht: ist es ein Schatten wohl?
Oder ist es der Schatten des Schattens?
【散文訳】
三千人の書き手が、絨毯の上に座つてゐた
そして、鵞ペンで髭を触つてゐた
三千人の書き手は、書いた、それほど幾日も書いたので
髭は、白くなつてしまひ
眼は、とつくの昔に霞んでしまひ
そして、とつくの昔に、指はすっかり曲がつてしまつた
しかし、三千人の書いたものを、読んだ者は、
さうして、三千人の書いたものを読んだ者は
かう言ふのだ:これは、影なのか?
それとも、これは、影の影なのか?
【解釈と鑑賞】
この詩人は、ドイツの詩の歴史に著名な女流の詩人です。
このWikipediaを読みますと、詩のみならず、作曲もしたことがわかります。
書き手と訳したドイツ語のSchreiberとふ名詞は、普通ドイツ語ではこのやうには、このやうには言はない。これは英語のwriterですが、しかしwriterでは既に職業の名前、仕事の名前に等しい。
しかし、このSchreiberといふドイツ語は、書く人といふ意味である。上の詩の書き手は、書く人と読み替えて読んで下さい。日本語の言葉の調子(流れ)と意味の連続を再現するために、書く人を書き手と敢えて訳したのです。
さて、
三千人の書き手が、絨毯の上に座つてゐた
そして、鵞ペンで髭を触つてゐた
としてあつて、髭を筆で触るのですから、この数多き人間たちは、男たちといふことになります。
「鵞ペンで髭を触」はるといふ表現は、ドイツ語の特定の慣用句ではありませんので、これは、書くことをする髭のある男が、書きながら考へるときによくする仕草、poseなのでありませう。髭のある男が何かものを書いてゐて、さてどうしたものか、この先どうやつて書かうかといふときに、ふと手を休めて、目をあらぬ方へやつて、「鵞ペンで髭を触つてゐ」る。
そんな仕草をした男が三千人もゐる。
さうして、みな、絨毯の上に座つてゐる。
普通は、机に向つて筆を執るでありませうから、これは普通の様子ではありません。椅子に座らずに、床に、絨毯の上に座つてゐる。
従ひ、絨毯の上で書くとは、実は机の上で書くのではありませんから、何か目に見えないものの上に、紙ならぬものの上に書いてゐるといふことになります。さうだとして、
三千人の書き手は、書いた、それほど幾日も書いたので
髭は、白くなつてしまひ
眼は、とつくの昔に霞んでしまひ
そして、とつくの昔に、指はすっかり曲がつてしまつた
ドイツ語の原文では、書いたといふ過去形の動詞は二度しか出てをりませんが、そのドイツ語を読むと、もう何日も何日も書き、書き、書いたといふ感じが致します。
さうして当然のことながら、髪は白くなり、眼は朦朧となる。この言ひ方は、歳をとるといふ理由で、時間が経つたから髪が白く、眼を霞むといふこともありますが、書くことによつてさうなつたと読むことができます。しかも、長い間、毎日毎日書くことによつて、さうなつてしまつた。
そして、とつくの昔に、指はすっかり曲がつてしまつた
といふ此の行の冒頭の「そして」が、そのことを示してゐるでせう。
しかし、三千人の書いたものを、読んだ者は、
さうして、三千人の書いたものを読んだ者は
かう言ふのだ:これは、影なのか?
それとも、これは、影の影なのか?
この「しかし」といふ逆説の接続詞は、それ以前に、さうして上のやうに理解して来た其の書く者たちの労であるのに、しかし、読み手は、書かれたものを影なのか?と思ひ、更にまた、影の影なのか?と問ふといふのです。
文字で書かれたものは、影である。影であるといふよりも更に影の影である、といふこの最後の二行は、何か書かれた物事の有り方を、わたしたちに伝へてゐるのではないか?
言葉を連ねて書くことは、さうして、さうやつて書かれた物事は、影である。これは、かう書いてみると実に正しい。確かに、書かれた物事は、影である。さうして、影であるばかりではなく、更に奥が有り、上の世界があつて、それは影の影なのである。
最後の二行の疑問符は、勿論既に肯定の回答が予感され、予め答へられてゐるのです。
この最後の二行の疑問文は、この影の影である此の詩の読み手である貴方への問ひかけであるのです。
2500年前に、ソクラテスは書かなかつた。仏陀も書かなかつた。孔子も書かなかつた。
何故書かなかつたのかを、ソクラテスの弟子のプラトンは、ソクラテスの言葉として、書いてをります。さうして、詩は、現実の複製であり、写しであると言ひ、もつと言へば、それは影であるといふことで有りませう。
この詩は、さうしてみると、人間が文字を以つて書くことの意味を、文明論的な階層に於いて、非常に抽象化した詩であり、その本質、即ち、人間と書くといふ行為と書かれたものが何であるのかといふ此の三つの関係を、髭ある男の姿を借りて歌つたものといへませう。
かのやうに考へて参りますと、何故Schreiber、書く者といふ言葉を選んだのか、その理由もわかります。
更に考へますと、何故髭ある男は絨毯の上に座つてゐるのか、何故机の前に、詩人は座らせなかつたのかもわかります。
これは、非常に強い造形の意志によつて書かれた詩だといふことがわかります。この女流詩人は、そのやうな強い意志を持つた詩人である。
何故ならば、そんな絨毯の上に座つて書くといふ髭の男、しかも三千人もの書く者など、この世にはないからです。最初からそのやうな世界を現出せしめた。
わたしの此の文章もまた、影の影といふことになりませう。
さうであればこそ、写しではなく、本物。
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