三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論としての『絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』
【原文】
Heimkunft
An die Verwandten
1
Drin in den Alpen ists noch helle Nacht und die Wolke,
Freudiges dichtend, sie deckt drinnen das gähnende Tal.
Dahin, dorthin toset und stürzt die scherzende Bergluft,
Schroff durch Tannen herab glänzet und schwindet ein Strahl.
Langsam eilt und kämpft das freudigschauernde Chaos,
Jung an Gestalt, doch stark, feiert es liebenden Streit
Unter den Felsen, es gärt und wankt in den ewigen Schranken,
Denn bacchantischer zieht drinnen der Morgen herauf.
Denn es wächst unendlicher dort das Jahr und die heilgen
Stunden, die Tage, sie sind kühner geordnet, gemischt.
Dennoch merket die Zeit der Gewittervogel und zwischen
Bergen, hoch in der Luft weilt er und rufet den Tag.
Jetzt auch wachet und schaut in der Tiefe drinnen das Dörflein
Furchtlos, Hohem vertraut, unter den Gipfeln hinauf.
Wachstum ahnend, denn schon, wie Blitze, fallen die alten
Wasserquellen, der Grund unter den Stürzenden dampft,
Echo tönet unher, und die unermeßliche Werkstatt
Reget bei Tag und Nacht, Gaben versendend, den Arm.
2
Ruhig glänzen indes die silbernen Höhen darüber,
Voll mit Rosen ist schon droben der leuchtende Schnee.
Und noch höher hinauf wohnt über dem Lichte der reine
Selige Gott vom Spiel heiliger Strahlen erfreut.
Stille wohnt er allein und hell escheinet sein Antlitz,
Der ätherische scheint Leben zu geben geneigt,
Freude zu schaffen, mit uns, wie oft, wenn, kundig des Maßes,
Kundig der Atmenden auch zögernd und schonend der Gott
Wohlgediegenes Glück den Städten und Häusern und milde
Regen, zu öffnen das Land, brütende Wolken, und euch,
Trauteste Lüfte dann, euch, sanfte Frühlinge, sendet,
Und mit langsamer Hand Traurige wieder erfreut,
Wenn er die Zeiten erneut, der Schöpferische, die stillen
Herzen der alternden Menschen erfrischt und ergreift,
Und hinab in die Tiefe wirkt, und öffnet und aufhellt,
Wie ers liebet, und jetzt wieder ein Leben beginnt,
Anmut blühet, wie einst, und gegenwärtiger Geist kömmt,
Und ein freudiger Mut wieder die Fittige schwellt.
3
Vieles sprach ich zu ihm, denn, was auch Dichtende sinnen
Oder singen, es gilt meistens den Engeln und ihm;
Vieles bat ich, zu lieb dem Vaterlande, damit nicht
Ungebeten uns einst plötzlich befiele der Geist;
Vieles für euch auch, die im Vaterlande besorgt sind,
Denen der heilige Dank lächelnd die Flüchtlinge bringt,
Landesleute! für euch, indessen wiegte der See mich,
Und der Ruderer saß ruhig und lobte die Fahrt.
Weit in des Sees Ebene wars Ein freudiges Wallen
Unter den Segeln und jetzt blühet und hellet die Stadt
Dort in der Frühe sich auf, wohl her von schattigen Alpen
Kommt geleitet und ruht nun in dem Hafen das Schiff.
Warm ist das Ufer hier und freundlich offene Tale,
Schön von Pfaden erhellt grünen und schimmern mich an.
Gärten stehen gesellt und die glänzende Knospe beginnt schon,
Und des Vogels Gesang ladet den Wanderer ein.
Alles scheinet vertraut, der vorübereilende Gruß auch
Scheint von Freunden, es scheint jegliche Miene verwandt.
4
Freilich wohl! das Geburtsland ists, der Boden der Heimat,
Was du suchest, es ist nahe, begegnet dir schon.
Und umsonst nicht steht, wie ein Sohn, am wellenumrauschten
Tor' und siehet und sucht liebende Namen für dich,
Mit Gesang ein wandernder Mann, glückseliges Lindau!
Eine der gastlichen Pforten des Landes ist dies,
Reizend hinauszugehn in die vielversprechende Ferne,
Dort, wo die Wunder sind, dort, wo das göttliche Wild
Hoch in die Ebnen herab der Rhein die verwegene Bahn bricht,
Und aus Felsen hervor ziehet das jauchzende Tal,
Dort hinein, durchs helle Gebirg, nach Komo zu wandern,
Oder hinab, wie der Tag wandelt, den offenen See;
Aber reizender mir bist du, geweihete Pforte!
Heimzugehn, wo bekannt blühende Wege mir sind,
Dort zu besuchen das Land und die schönen Tale des Neckars,
Und die Wälder, das Grün heiliger Bäume, wo gern
Sich die Eiche gesellt mit stillen Birken und Buchen,
Und in Bergen ein Ort freundlich gefangen mich nimmt.
5
Dort empfangen sie mich. O Stimme der Stadt, der Mutter!
O du triffest, du regst Langegelerntes mir auf!
Dennoch sind sie es noch! noch blühet die Sonn' und die Freud' euch,
O ihr Liebsten! und fast heller im Auge, wie sonst.
Ja! das Alte noch ists! Es gedeihet und reifet, doch keines
Was da lebet und liebt, läßet die Treue zurück.
Aber das Beste, der Fund, der unter des heiligen Friedens
Bogen lieget, er ist Jungen und Alten gespart.
Törig red ich. Es ist die Freude. Doch morgen und künftig
Wenn wir gehen und schaun draußen das lebende Feld
Unter den Blüten des Baums, in den Feiertagen des Frühlings
Red' und hoff' ich mit euch vieles, ihr Lieben! davon.
Vieles hab' ich gehört vom großen Vater und habe
Lange geschwiegen von ihm, welcher die wandernde Zeit
Droben in Höhen erfrischt, und waltet über Gebirgen
Der gewähret uns bald himmlische Gaben und ruft
Hellern Gesang und schickt viel gute Geister. O säumt nicht,
Kommt, Erhaltenden ihr! Engel des Jahres! und ihr,
6
Engel des Hauses, kommt! in die Adern alle des Lebens,
Alle freuend zugleich, teile das Himmlische sich!
Adle! verjünge! damit nichts Menschlichgutes, damit nicht
Eine Stunde des Tags ohne die Frohen und auch
Solche Freude, wie jetzt, wenn Liebende wieder sich finden,
Wie es gehört für sie, schicklich geheiliget sei.
Wenn wir segnen das Mahl, wen darf ich nennen, und wenn wir
Ruhn vom Leben des Tags, saget, wie bring ich den Dank?
Nenn ich den Hohen dabei? Unschickliches liebet ein Gott nicht,
Ihn zu fassen, ist fast unsere Freude zu klein.
Schweigen müssen wir oft; es fehlen heilige Namen,
Herzen schlagen und doch bleibet die Rede zurück?
Aber ein Saitenspiel leiht jeder Stunde die Töne,
Und erfreuet vielleicht Himmlische, welche sich nahn.
Das bereitet und so ist auch beinahe die Sorge
Schon befriediget, die unter das Freudige kam.
Sorgen, wie diese, muß, gern oder nicht, in der Seele
Tragen ein Sänger und oft, aber die anderen nicht.
【散文訳】
帰郷
血族の者たちに宛てて
1
そこ、アルプスの山中では、まだ明るい夜があり、雲は、
歓ばしきことを詩に吟じながら、欠伸(あくび)する谷を覆ふてゐる。
彼方の、彼処(あそこ)では、戯れを言つてゐる山の気が立ち騒ぎ、そして、墜落する。
樅木々を通つて険しく降りて来て輝き、消えるのは、一条の光だ。
歓び身震ひしてゐる混沌が、ゆつくりと急ぎ、そして、闘つてゐて、
姿は若く、とはいへ強く、混沌は、岩々の下での、愛してゐるが故の戦いを祝福し、永遠の岩棚といふ岩棚の中にあつて発酵し、そして、ゆらめく、
といふのは、バツカス神の様により一層酩酊し騒ぎ狂つて、その中では、朝が、次第に立ち昇るからだ。
といふのは、そこにあつては、際限なく一年が成長し、さうして、神聖なる時間といふ時間が、日々が、これらが、より一層大胆に秩序立てられ、混交されてゐるからだ。
しかしながら、雷雨を告げる鳥は、その(雷鳴の)時に気づき、さうして、山々の間に
空中高く其の鳥は留まり、そして、その日を叫び、呼ぶのだ。
今や、また、深みに、その中に、小さな村が眠らずに起きてゐて、さうして見上げるのだ
恐怖心なく、高きものに親しく、数々の山巓(さんてん)の下より。
成長を予感しつつ、もう既にかうなつたのであるからには、雷(いかづち)の如くに、古い
(水の)源泉といふ源泉が落流し、墜落して行くものたちの下の地面が水煙を上げ、木霊が周囲に響き渡り、さうして、この測り知れぬ仕事場は、
夜も昼も、賜物の数々を送り届けながら、その腕を動かすのだ。
2
さうしてゐる内に、安らかに、数々の銀の高みが、彼処(あそこ)に輝いてゐる。
たくさんの薔薇の花に満ちて、既に、あの上方には、光輝く雪がある。
そして、更にまだ高くあの向かふには、その光の上には、神聖なる光線たちの遊戯の神、純粋なる至福の神が、喜び住まふてゐる。
静かに、この神は、一人で住まふてゐて、そして、明朗に、その顔(かんばせ)は姿を現はし、
エーテルである此の神は、生命を与へることに好意を持つてゐるやうにみえ、
私たちと一緒に、それがよくあるが如くに、歓びを創造することに好意を持つてゐるやうにみえる、もし尺度と節度に精通して、
呼吸するものたちに精通して、躊躇もしながら、いたはりながら、この神が、
よく堅牢なる幸福を町々と家々に送るときには、、さうして、柔らかな雨を町々と家々に送つて国を開くときには、開くことを待つて抱卵して凝つと覆ひかぶさる雲々を町々と家々に送り、さうならば次に、お前たちに、
最も信頼する空気を送り、お前たちに柔らかな春の数々を送るときには、
そして、ゆつくりとした手つきで、悲しむものたちを再び歓ばせるときには、
この神が、数々の時代を新たにするときには、この創造主が、
老いて行く人間たちの静かな心臓を恢復させ、そして掴んで、
そして、深みの中へと働かせて、此の神が其れを愛するままに、
開き明るくするときには、そして、この神が今や再び一つの生命を始めるときには、
嘗てのやうに典雅が花咲くときには、そうして、現前する精神が来るときには、
さうして、歓びの勇気が再び翼を膨らませるときには。
3
多くのことを、わたしは、現前する精神に話した。といふのは、詩作するものたちもまた思ふのであり
または歌ふのであるからであり、多くの場合、天使たちと現前する精神にあつては、その通りであるからだ
多くのことを、わたしは請ひ求めた、祖国のために、それによつて
請ひ求められることのない者たち、即ちわたしたちに、いつか突然に、精神が命令をすることがないようにと
多くのことを、祖国で世話をされてゐる御前たちのためにもまた多くのことを、
神聖なる感謝が微笑みながら亡命者を連れて来る其の御前たちのために、(わたしは請ひ求めた)
祖国の人々よ!御前たちのために、その間、湖は私を揺すり
さうして、舟子(かこ)は安らかに坐して、舟の航行を賞(ほ)めた。
遥か、湖の水面の中に、一つの歓びの波立ちが在つた
帆柱といふ帆柱の下で、そしてその波は今や花咲き、そして町は
そこ、その朝早くに、明るくなり、間違ふことなく、影を帯びたアルプスの山々から此方(こちら)へと
随伴され導かれて、港にかうして今安らふのは、船である。
ここの岸辺は暖かく、そして、親切に開いた谷といふ谷は、
数々の小径(こみち)に美しく明るくされて緑をなし、わたしを仄(ほの)かに光らせる。
庭といふ庭は、仲良く集(つど)ひてあり、そして、輝く蕾は既に始まつてをり、
そうして、鳥の歌が、旅人を招く。
全ては親密に見え、行き過ぎて急ぐ其の挨拶もまた
数々の歓びに輝き、どの表情も血縁のものであるやうにみえる。
4
勿論、さうさ!これが生まれた国だ、故郷の大地(地盤)だ、
お前が探し求めてゐるもの、それは近くに在り、お前に必ず巡り逢ふのだ。
さうして、一人の息子が、波が周りを音立てて洗ふ門のところに
立つてゐることは無駄ではく、そして、一人の息子が、お前(生まれた国)のために、愛する数々の名前を見、探し求めることは無駄ではないのだ
詩歌を歌へば、放浪する男よ、そこに、至福の町リンダウがあるではないか!
この土地の客人用の小門の一つが、これだ、
優美に外へと出て行くこと、たくさんの約束をしてくれる遥か彼方の中へと、
遥か彼方とは其処、数々の奇蹟のある其処では、其処、神々しい雌鹿が
高くあつて、その高みから平野の中へと降りて来るとライン河が冒険的な向こう見ずの軌道を開く其処であり、
さうして、岩々の中からは、ヤッホーと叫ぶ谷は立ち上がり、
其処へと入り行くと、明るい山脈を通り抜けて、コモへと旅するために、
または、その谷は、其処へ下方へと、日が移り変はるに従つて、開けた湖を引き寄せる。
しかし、わたしにとつてもつと優美なのは、お前だ、清められて神聖なる小門よ!
故郷へ帰るということ、其処では、よく知られて花咲く道々が、わたしのためにあり、
其処を訪れるといふこと、あの土地を、そしてネッカー河の美しい谷の数々を(訪れるといふこと)、
そして、数々の森を、聖なる樹木たちのあの緑を、其処では、喜んで
柏の木が寄り集ふ、静かな白樺と山毛欅(ぶな)の木たちと、
そして、山々では、ある場所が親しくわたしを捕まへるのだ。
5
其処では、これらのものたちが私を歓迎する。おゝ、町の声よ、母なる町の声よ!
おゝ、お前はぴたりと当てたな、お前は、わたしが長いことかけて学んだことを、鼓舞するといふのだな!
(こんなに長いこと故郷を離れてゐたのに)それでも尚、これらのものはたちは、まだ在るのか!まだ太陽は花咲き、そして歓びがお前たちに花咲いてゐる、
おゝ、最愛のものたちよ!さうして、以前と変わらずに、眼に著(しる)く全くといつていい位に一層明るくなつてゐる。
さうだ!老いといふものが、正(まさ)しく未だこれなのだ!繁茂し、成熟し、しかし
ほら其処で生き、そして愛するものは何も、後悔を後に残さないのだ。
しかし、最良のもの、神聖なる平安の穹窿(きゆうりゆう)の下にある掘り出し物、
これが、老いにも若きにも貯えられてある。
愚かにも私は饒舌だ。それは歓びだ。しかしながら、明日と未来に
もしわたしたちが出かけて、そして外に生きてゐる野原を見るならば
樹木の花々の下に、春の祝祭の日々に
わたしは饒舌に話し、希望する、お前たちと一緒に多くのことを、お前たち愛する者たちよ!、そのことについて。
偉大なる父親について多くのことを、、わたしは聞いた、そして
わたしは、父親のことについて長い間沈黙してゐた、父親は、放浪の時間を
あの上、数々の高みの中で恢復してくれ、そして山脈と山々を支配する父親のことについて
わたしたちに、間も無く、天の賜物を授けてくれ、さうして
より明るい者たちに歌を叫び、たくさんの善き精霊(精神)を送つてくれる父親にのことについて。おゝ、躊躇(ためら)ふてはならぬ、
来るのだ、お前たち!、一年の天使たちよ、そして、お前たち、
6
家の天使たちよ、来るのだ!生命の総ての血管の中へ、
総ての者を同時に歓ばせながら、そこで(お前は)天上的なものを分かち合ふがいいのだ!
(お前は)高貴なものとなせよ!若返へらせよ!それによつて人間的に善であるものはなにも、それによつて一日の一時間も、この陽気なくしてはまた今のやうな此の歓びなくしては、適切にまた礼儀作法に適つて清められて神聖であることはないのだ、もし愛する者たちが、その者たちにとつて当然のことのやうにして、再びお互いを見つけるのならば。
もしわたしたちが食事を言祝(ことほ)ぐのであれば、わたしは誰の名を挙げようか、そしてもしわたしたちが一日の命の栄光について話すとすれば、わたしはどうやつて感謝を運んで来たら良いのだらうか?
そのときには、わたしは高みにゐる男、高き男の名を挙げるのだらうか?不適切なもの、無作法で見苦しいものを、神は愛することはないのだし、
高き男をとらへ理解すること、それは、わたしたちの歓びとするには余りにも小さ過ぎるからである。
沈黙を、わたしたちはしばしばせねばならぬ。といふのは、聖なる数々の名前が欠けて足りないからだ。
心臓が打ち鳴り、そしてそのくせ、話は先へと進まぬといふのか?
しかし、竪琴の弦の演奏は、どの一時間にも数々の響きを貸与する
そして、ひよつとしたら、近づいて来る天上人たちを歓喜させるかも知れない。
これが準備をするのだ、さうしてまたほとんど憂慮は
歓びの下にやつて来た憂慮は、既に満たされてゐるのだ。
数々の憂慮を、この憂慮の通りに、好まうが好まなからうが、魂の中に
歌を歌ふ一個の者(詩人)は運ばねばならぬ、そしてしばしば、しかし、(この詩人は)それ以外の憂慮を運ぶ必要はないのだ。
【解釈と鑑賞】
これは、キリスト教圏の聖書の話として読むと、旧約聖書の時代からの放蕩息子の話に連なる詩だといふことができませう。
同じこの主題は、終生、安部公房もまた三島由紀夫と共有をしてゐた主題です。既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く20:詩論としての『絹と明察』(3):駒沢善次郎』の[註3]に書いた通りに、三島由紀夫の家長像は、仮令この小説では疑似家族であらうとも、陽画の家長像であり、対して、安部公房の家長像はすべて陰画の家長像です。
更に、安部公房の描く家族もまたすべて例外なく、その処女作『終わりし道の標べに』以前の習作時代の最初の作品以来、すべて疑似家族なのです。例えば、1962年の『砂の女』も男と女の疑似家族であり、1964年の『他人の顔』も仮面を被つた夫と其の妻との疑似家族の話であり、1967年の『燃えつきた地図』に至つても、主人公の探偵は離婚話を進めてゐる妻と別居してをり、赤の他人同然の疑似家族なのです。1970年に三島由紀夫が自決してからの後期20年の作品『箱男』『密会』『方舟さくら丸』『カンガルー・ノート』、遺作の『飛ぶ男』『さまざまな父』もみな、その父と息子の関係も含めて(何しろ「贋の父親」と呼ばれる父親や父親たる「贋の医者」が頻出する)、疑似家族といふ三島由紀夫と同じ観点から論じることができます。
これは何か、この大才ふたりの小説が、同じこれらの特徴を抱えてゐるといふことは、非常に奇妙なことではないでせうか。
明治維新といふ近代の最初の「断絃の時」以来、先の敗戦の二つの目の「断絃の時」をも経て、日本の男は家長であることを、しかし独身者として其の役割を並行して果たすこと、即ち血縁共同体原理から毟(むし)りとられるやうに我が身を傷つけられて生きることを強ひられて生きて来たのではないでせうか。これについては、森鷗外の初期のドイツでの話を書いた『舞姫』以下の3部作その他を稿を改めて論じたいと思ひます。
さて、掲題の『帰郷』といふ詩を一読しますと、これが何故三島由紀夫が愛好し愛読したものかがよく解ります。
1。自然を歌つてゐる。しかも、
2。歌はれてゐる自然は単なる叙景叙情に留まる自然ではなく、もつと奥深い生命そのものである言葉の命を体現してゐる。
3。長いこと旅に出てゐた家長たる男が、再び其の古里である美しい、自分の象徴的な意味での血族の棲む故郷へと還つて来る。(長の古典主義の時代を離れて、再び詩に戻らうと決心した三島由紀夫の詩情に訴へる詩でありませう。)そして、
4。その故郷の町は、三島由紀夫が『絹と名刹』で「父なる自然」と呼んだ「愛の鞭」打つ自然であるのに対して、「母なる町」であり、「私を歓迎する」生きた象徴的な血族の住まふ場所である。[註1]
5。詩人の高みがあり、
6。詩人は家長として、その高みにあり、さうして、
7。詩人は故郷の憂慮を魂の内に運び
8。竪琴の弦の演奏の音があり(「断絃の時」は無い)、また、
9。源泉があり、うみ(湖)があり、船があり、河があり、
10。町の小さな門を潜って、自然の中へと入り行くことの優美があり、
11。老いと永遠の若さがあり、
12。沈黙がある。
[註1]
全部で6章からなる此の詩でヘルダーリンが歌ひたい帰郷の場所は、頻出して出てくる「其処」といふ場所なのです。「其処」が、放蕩息子の帰還する「ある場所」(第4章)なのです。
これらの詩行を書くために、ヘルダーリンは、掛詞や縁語を幾つも使つてをります。これもまた、浄瑠璃や歌舞伎や能を愛好した三島由紀夫の趣味に誠に適つたことでありませう。
ここで『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の人生の見取り図2』で最初に紹介した十代の三島由紀夫の詩の特色を再掲しますので、ご覧ください。ヘルダーリンの詩は、その様式美と相俟つて、実に三島由紀夫に通つてをり、この言語藝術家を魅了したことがお判り戴けるのではないでせうか。
「1。三島由紀夫の詩の特徴:様式と素材
三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴は、6歳のときに書いた最初の『ウンドウクアイ』(決定版三島由紀夫全集第37巻。以下「決定版第37巻」と略称す。同巻17ページ)に既にあるやうな、言葉、即ち音声と文字の繰り返しによる様式化です。
言葉の繰り返しと、そこに現れる時間の差、即ち時差に美を感じ叙情を感じてゐるのです。
これが、三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴であり、特色です。
さうして、この様式化された様式は、強い対比と対照によつてなされてゐますが、その後小学校に入りますと、その様式化された音声と文字の対比の構図の中に、更に次のやうな自然の素材、もつといへば、自然の構成要素が歌はれるやうになるのです。曰く、
海、山、川、空、鳥、森、泉等々。
詩を読むと直に伝わつて参りますが、これらの形象には、三島由紀夫といふ少年の持つ、生命への強烈な憧れと渇仰があります。
自然の中に、鷲、梟等々の鳥が住み、空を飛んでゐる
さうして、春夏秋冬といふ四季の循環があり、その時間の永遠の繰り返しと其の季節の間(差異)の中で、これらのものが歌われてゐる。
さうして、この自然と四季との関係で、その中にあるのが、三島由紀夫の対比的な様式であつて、それは、これらの自然の構成要素の中に、また外に、生と死、昼と夜、光と闇といつた組み合わせを歌つてゐるのですし、更に、これらの生命に関する対比的な言葉(概念)の配置に加えて、その中に、その外に、金、銀、黒、白、青、赤、臙脂色等々のきらびやかな色彩が、更に廃墟の城やその他の事物が、数多く歌われてゐます。
少年三島由紀夫は、このやうに自分の詩の、言葉の世界を創造したのです。」
また、このヘルダーリンの詩を読んで思ふことは、三島由紀夫の終生の重要な主題の一つは、放蕩息子といふ主題から言つても、血族といふ自然の関係も含めての、自然との和解ではなかつたのだらうかといふことです。
それ故に、『絹と明察』の最後には、仮令疑似家族としてではあれ、妻の房江との経済的な紐帯によつて、駒沢善次郎を見舞つた石戸弘子といふfull nameを作者によつて与へられた娘が、この疑似家長としての経営者を訪ね、女性として、母なる自然として、和解をするのではないでせうか。(大槻といふ若者の子供を堕胎させられた女性といふ残酷な作者の企みがあるとはいひながら。)
わたしが此の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く18:詩論としての『絹と明察』(1):殺人者たち』で書いたやうに、
「full nameがきちんと文字で最初から明示されてゐて、そのfull nameを読者が知ることのできるのは、
1。駒沢善次郎
2。石戸弘子
といふ、この二人だけといふことになります。
この小説は、疑似家族としての父と娘の物語なのです。
いや、もう一人、駒沢善次郎の妻房江は、駒沢善次郎の妻ですから、作中で呼ばれるときにはいつも房江とのみあるけれども、読者が頭の中で、房江のfull nameは駒沢房江だと形づくることはできるのだから、房江を入れれば三名ではないかといはれれば、三名といふことになります。
かうして考へると、この小説は、
1。駒沢善次郎
2。駒沢房江
3。石戸弘子
といふ三人の、父と母と娘の疑似家族の物語だといふことになるでせう。」
といふ推論は、間違つてはゐないのではないかと思ひます。
『絹と明察』は、父親と子供との和解の物語であるのです。或ひはまた、母娘の和解の物語。
『近代能楽集』の中の『道成寺』にも、踊り子が、女性としての美である自分の顔に硫酸をかけて、美しさといふ、さうして若さといふものに自然が与へる美といふものを否定して醜い顔にしようと思ふて、若い恋人が年上の人妻に殺されて血を流した合わせ鏡の部屋ともいふべき衣装箪笥の中に籠りますが、それをせずに外に出てきてからの、踊り子の科白のある骨董屋の主人との次の会話があります。
「清子 いいえ。我に返つて、また小瓶の蓋をしめたの。勇気がなくなつたからではないは。そのとき私にはわかつたの。あんな怖ろしい悲しみも、嫉妬も、怒りも、悩みも、苦しみも、それだけでは人間の顔を変えることはできないんだつて。私の顔はどうあらうと私の顔なんだつて。
主人 ごらん、自然と戦つて、勝つことなんかできやしないので。
清子 いいえ、負けたのぢゃありません。私は以前と和解したんです。
主人 都合のいい口実です。
清子 和解したんです。(その手から小瓶がポロリと落ちる。主人はあはてて、それを蹴とばす)......今は春なのね。はじめて気がついたは。永いこと私には季節がなかつた。あのひとがこの箪笥に入つてから。(略)」
ここに書かれてゐることは、若い美しい女が、愛する男に合わせ鏡の空間に入られると、時間といふ繰り返しが奪はれてしまひ、季節がなくなつてしまふといふことです。その男を合わせ鏡の(これもまた時間の無い無限の空間的な繰り返しの世界の)世界から取り戻し、自分の季節の繰り返しを取り戻すには、自分の美を醜いものに、美の対極のものにしなければならないといふ考へです。これを徹底することが、時間の繰り返しのある自然に対抗して生きることです。
しかし、自然と和解をすれば、即ち自分の美を自分の美であると知ることができれば、即ち此の再帰的な一行の文をこころの中で書くことができて、それを認めることができれば、自己を取り戻し、世界の季節といふ繰り返しも取り戻し、思ひ出すことができる。つまり、自分自身が繰り返して自分自身に再帰する人間であるといふことを思ひ出しさへすれば、即ち自己の若さの再帰的な美を否定さへしなければ、喪はれた愛する男も不要であり(何故なら、再帰的人間として自足してゐるから)、次の男のところへ行つても、「平気だは。どんなことになつても平気。誰がこのさき私を傷つけることができるでせう。」「でももう何が起こらうと、決して私の顔を変へることはできません。」といふのです。
一言で言へば、美しいものは、自己が再帰的なものであることを知り(或ひは思ひ出し)、自然と和解しさへすれば、即ち時間の繰り返しといふ再帰性の中に生きることを決心すれば、その美は不変であり不壊であるといふ思想です。[註2]
[註2]
禁色に次の箇所がある。
「悠一君、この世には最高の瞬間というものがる」――と俊輔は言った。「この世における精神と自然との和解、精神と自然との交合の瞬間だ」
この一節を見ますと、(精神、自然、美)がやはり一式の概念連鎖に、三島由紀夫にあつては、なつてゐることがわかります。
さうして思ふべきことは、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く20:詩論としての『絹と明察』(3):駒沢善次郎』でいひましたやうに以下に引用すれば、三島由紀夫のいふ自然とは、普通わたしたちが思ふ母なる自然、地母神ではなく、父親である自然ではないかといふことです。
「それから、経営環境を取り巻く自然を「父なる自然」と呼び、そのもたらす恵みを「父なる自然の恵み」と呼んでゐる(第8章「駒沢善次郎の憤怒」)ことも、やはり此のわたしの考へを裏付けるものです。
普通には、自然といふものを、わたしたち日本人は、母に喩へるものではないでせうか。父に喩へるとしたら、それは過酷な自然環境に生きて来た民族でありませう。勿論、日本には台風も来れば、地震も起きるとはいいながら。
この「心は一方通行で足り、水は低きへ流れる。それが自然といふものだ。」といふ自然観、「父なる自然」といふ駒沢善次郎の考へは、三島由紀夫の自然についての考へ方なのではないでせうか。」
さうすると、自然と和解するための上の概念連鎖の一式は、次のやうに増築することができます。
{両親(父、母)、[(精神、自然)、美(肉体)]、血族共同体}
三島由紀夫の十代の15歳の詩に、踊り子の出てくる『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』と題した詩があります(決定版第37巻、552ページ)。この踊り子も、美しいのでありませうが、しかし、『道成寺』の踊り子と同様に貧しい踊り子です。傍線筆者。
「「夕暮は煙草のやうな匂ひがしますね
……どつか、とほい、……あのピアノの音は
ドとファがぬけてゐます
古いピアノのある、……褪せたカァテンの……古い家、
大きなおほきな木彫の卓子(テーブル)がおいてあるのぢゃありませんか?
(樅がなゝめになつて……梢に夕陽のもえのこりをとまらせて……)
明取(あかりと)りのうへの空は」
ひらたい……ひらたい……なんて扁たいんでせう
みどろの一種のやうに、もつれたまゝ動かないのでせう……
ああ あなた こゝにゐらして下さい、
どこへいらつしやるんです
(おのがれになれないのですよ)
孤独はこゝろのなかにはゐません、
あなたをとりまくみえない帷(とばり)です
かはいさうに……さびしいので……こゝろははしやぎまは
るでせう
みすぼらしい踊り子のやうに
でもそれにつれて、孤独は厚くなるばつかりです、
シイツの皺にも
夜が訪れてきたのですね、」
そのとき鏡の内部(なか)には滔々と水が流れてくる、部屋はひた
され始める」
煙草の匂ひを嗅いで過去を追想するところから、この詩は始まります。煙草がそのやうな作用をもたらすことを、15歳の少年は知つてゐたことになります。
追想でありますから、「……」といふ点線による過去の追憶が始まり、この詩が過去の時間のなかで歌はれることになります。[註3]
[註3]
それも、「ドとファが抜けた」といふ、その抜けた空虚の音が響く時差の存在する古い家の中の空間が舞台です。時刻は夕暮れである。
さて、その追想の過去の時間のなかで、この詩の話者が自分の姿を現して、作中の「あなた」に、このピアノの空虚の時差の響く空間へと誘ふように呼びかけます。この「あなた」は、「踊り子のやうに」と直喩で言はれてゐますので、顔も体も若い美しい女性なのでありませう。これを今「踊り子」と呼ぶことにして論を進めます。
また、最後の二行を読みますと、どうもこの部屋は鏡の部屋、即ち壁面四面が鏡であるか、天井も床も鏡の張つてあるか、いや、それらをひつくるめても、部屋は「鏡の内部」を持つ空間であると想像されます。
この鏡の内部を備へた空間に入ると、そこには孤独がなくなるのか、または孤独になるのか、二つに一つでありませう。
「孤独はこゝろのなかにはゐません」といふ一行を考へれば、孤独は、あたなの心の中にではなく、この部屋に「あなたをとりまくみえない帷(とばり)」としてあると読むことができます。この部屋は、「鏡の内部」ですから、この部屋の「鏡の内部」にやつて来ると、踊り子は孤独になり、踊り子は「孤独は」自分の「こゝろのなかにはゐ」ないことを知るのでせう。
「シイツの皺にも/夜が訪れてきたのですね」といふ言葉には、何か非常に性愛の気配が濃厚にあります。それ故の踊り子でもあるのでせう。
この踊り子を美しい踊り子だと仮定すると、この「鏡の内部」にゐることは、実は「孤独は」自分の「こゝろのなかにはゐ」ないことを知ることであると知れば、夜が訪れるのですから、暗闇になりますので、鏡には自分の(不変の)美しい顔や肢体も映ることはなく、自己への再帰性をみることができなくなりますから、『道成寺』の踊り子のやうに鏡の部屋の外部に出て(自分の美を時間の再帰性の繰り返しの中において)積極的に自然と和解し、美としての自己を傷つけることなく男と性愛を交わすことを決心するわけではありませんが、しかし、「鏡の内部」にゐたまま消極的に、「夜が訪れてき」てみえないベッドの「シイツの皺」の上で、男と性愛を交わす準備はできてゐるといふことになります。
何故ならば、夜が訪れると、「そのとき鏡の内部(なか)には滔々と水が流れてくる、部屋はひたされ始める」からです。即ち、このとき、この踊り子の美は、夜の水の流れ、といふことは夜の河の流れと言ひ換へてもよく、更に言ひ換へれば、夜の時間の河の流れに浸されて、その時間の再帰性(繰り返し)に身を委ねて、自分の顔の美を毀損することなく、男との性愛を交わすことができる。
これが、15歳の三島由紀夫の早熟の論理であつたのではないでせうか。
この夜の論理をひつくり返すと、『道成寺』の昼間の衣装箪笥の「鏡の内部」での、踊り子の心変わりの説明になります。何故ならば、衣装箪笥の「鏡の内部」には、夜の時間の浸潤はないからです。
清子といふ踊り子は、昼間に「鏡の内部」から外に出て、そこが夜である思つてゐる若い女であるといふことになりませう。春の季節の時間の循環、その季節のたびに咲き誇る桜もまた、これらは皆夜の季節であり、夜の桜なのです。清子の叫ぶ「春はかうしてゐても容赦なく押しよてくるんだはね。こんなにおびただしい桜、こんなにおびただしい囀(略)」といふ科白に、15歳の詩の「そのとき鏡の内部(なか)には滔々と水が流れてくる、部屋はひたされ始める」といふ言葉と同じ調子を、同じ時間といふ河の水の浸潤をみることができます。
それ故に、この劇は最後に清子が「でももう何が起らうと、決して私の顔を変へることはできません。」とふ一言で、この芝居は幕になるのです。
確かに、『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』と此の詩の副題にあるやうに、三島由紀夫は、ハイムケールの時代の初年に当たつて、この詩の主題を戯曲に仕立てたのです。
さうして、この「孤独はこゝろのなかにはゐません、/あなたをとりまくみえない帷(とばり)です」と歌はれる鏡は、14歳の次の詩にも、やはり同じ鏡として歌はれてをります。これが、おそらくは終生変わらぬ、三島由紀夫の鏡の形象であり、鏡の概念であつたのでありませう。
その詩は、『或る朝』といふ詩です(決定版第37巻、424ページ)。
「まつ白な裾長い闊衣で
彼女は芝生を駆けて行つた。
なにかすらつとした鳥たちは
透明な肉体のまゝ、
朝霧を切つて行く。
あらゆる鬱金色の花のおもて、
すべての森や湖や、
噴水や糸杉(サイプラス)を包んで、
目に見えぬ鏡があつた。」
『道成寺』も『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』も部屋の中の鏡ですが、この詩を読みますと、これは世界が鏡であるといつてをります。
世界は目に見えない鏡に包まれてゐる。さうして、その中にゐるものは、白い色であつたり、すらつとしてゐたり、透明であつたりしてをり、また、さうして自然を包んでゐる。
自然が鏡を包むのではなく、鏡が自然を包んでゐるそのやうな鏡、そのやうに「あなたをとりまくみえない帷(とばり)」である鏡はいつも女性と性愛と孤独と時間の再帰性(自己への、また自己の繰り返し)と、そして夜と、連鎖してゐる。
これが、鏡との関係では、14歳の三島由紀夫の世界認識でありました。
このやうに考へて参りますと、三島由紀夫にとつての自然との和解とは、鏡の世界との和解といふことになります。
即ち、自己との、自分自身との和解です。一体三島由紀夫は自己の何を赦し難いと思つたのでありませうか。
さうしてみますと、わたしの思ひ描いた『三島由紀夫の世界像』は、見えない帷としての鏡に包まれてゐるといふ世界像になります。
『絹と名刹』の作中に、岡野が「自然との和解」といふことを思ふ箇所がありました。今探しても見つかりません。透明な姿となつて、世界の鏡の中に消えたのでせうか。
しかし、このヘルダーリンの詩を読んでわかつたことは、『絹と明察』で岡野がこの詩人の詩を引用する場面では、必ず作者と、此の駒沢善次郎といふ「父なる自然」を考える経営者に対抗して、これを否定して、岡野が思ふ「世界は目に見えない鏡に包まれてゐる」といふ認識にどこか触れたときであることになりませう。
さう考へて、例へば、今『絹と明察』のページを無造作に開いて目に入つたヘルダーリンの『ハイデルベルヒ』を岡野が引用する、その詩の「第四聯」の詩行は、全く15歳の『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』といふ第2連の最後の数行の詩行と同じであることに、あなたは驚くでありませう。或ひは、その踊り子の夜の鏡を踊り子の昼の鏡に論理を交換したといふべきでせう。しかし、ただ、この詩には、同じ鏡といふ一文字が隠れてゐて、文字にはなつてゐないのだと、三島由紀夫は思つたことでありませう。
「青年の河は平野の懐深く進んで行つた、
悲しくもよろこばしく。
恋に死ぬには美しすぎる気高すぎる心臓が
時代の潮(うしほ)に身を投げ入れる時のやうに。」
以下、第1章にあるder Gewittervogel(雷雨を告げる鳥)の写真をお見せします。これで、このアルプスの麓(ふもと)の景色が想像されるでせうか。
また、YouTubeで、そのアルプスの朝を告げる、歩きながらの繊細な啼き声を聴くことができます。
また、第4章のLindau(リンダウ)といふ町は、スイスの対岸にボーデン湖を挟んで位置するドイツの町で、有名な島を有する町です。島があり、また港があり、船があり、灯台もある。この景色を歌つたといふこともまた、三島由紀夫好みの要素でありますから、愛誦したものでありませう。確かに、さうして、美しい町です。