【西東詩集121】余語
19歳の歳に此の詩集を初めて読んだときの感想が、かうして訳して来た此の『西東詩集』の表紙の扉の裏に、この詩集の言葉の特徴と特性について、当時、43年前のわたしが備忘のやうに書き記してゐるのを転記して、この一連の翻訳と解釈の最後の話と致します。
これらのメモはすべて当たつてゐると思はれる。この確信を深めるための此の3年間であつたといふことになります。
記録によれば、最初の詩、即ちBuch des Sängers(歌手の書)を訳して上梓したのが、2012年6月21日でありますから、今日は2015年5月24日とて、丁度そのやうな3年といふ時間であつたのです。
以下に、19歳のときのメモです。
1。Goetheがもう一人のGoetheに話しかける形式/体裁をとつてゐること。即ち、Goetheが自分の中にもう一人の読者を持つてゐること。
即ち、
2。詩(文藝)が明らかに、遊び、遊戯であること。その結果、日本語でいふ軽みがある。それらの要素は次の通りである。
Humor/Ironie/das Leben(=trinken, singen, wandeln, Liebe, Gott und Mensch, Natur)/Wort(-spiel), Satire
更に、
Geist, Wort (Ausdruck), Lied, Leben.
例えば65ページの『ズーライカの巻』の最初の詩『招待』を見よ。
{[(月、太陽)、(夜、昼)]、[(わたしは思つた、思ひがけなく)、(眠り、目覚めて)]、[(ズーライカ、ハーテム)、(マリアンネ、ゲーテ)]}といふ対照的・対比的な語彙の配列がなされてゐる。
さうして、これらの、意識と無意識の、覚醒と睡眠の境界が、溶けあって一つになつてゐる。
第一連の、
Aber wenn du froh verweilest
Wo ich mir die Welt beseitige
Um die Welt an mich zu ziehen,
Bist du gleich mit mir geborgen:
しかし、世界をわたしに引き寄せるために
わたしが自らに世界を示したその場所に
お前が喜んで留まるならば
お前は直ちにわたしと共に安全に庇護されるているのだ。
というこの行は、Taugenichts(のらくらもの、役立たず、無為なる者)という動機(モチーフ)である。トーマス・マンの世界に通じてゐる。即ち、遊びの世界といふ意味は、これである。
3。「成熟した」表現であること。
4。(即ち、)言葉が単なる描写ではなく表現になつてゐること。即ち、言葉の二重性、即ちどんな具象を述べても常に象徴の影があること。即ちどんな象徴も具体的なこと(プラトンの書いたソクラテスの言葉のやうに)。
5。(従つて、)この作品は徹頭徹尾Goetheの私人の言葉に頼つてゐること。
Oh! Freundin, es wurde Eins zu Zwei, Zarathustra ging an mir vorbei.
おお!(女性の)友よ、一が二になったのだ、ツァラツゥストラが、わたしの傍(そば)を通つたのだ。
(ニーチェの『ツァラツゥストラ』の一節)
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