2014年2月8日土曜日

【Eichendorfの詩 54】Wehmut(哀傷)

【Eichendorfの詩 54】Wehmut(哀傷)

【原文】

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Ich kann wohl manchmal singen,
Als ob ich fröhlich sei,
Doch heimlich Traenen dringen,
Da wird das Herz mir frei.

So lassen Nachtigallen,
Spielt draussen Fruehlingsluft,
Der Sehnsucht Lied erschallen
Aus ihres Käfigs Gruft.

Da lauschen alle Herzen,
Und alles ist erfreut,
Doch keiner fühlt die Schmerzen,
Im Lied das tiefe Leid.


【散文訳】

わたしは、確かにしばしば歌うことができる
恰もわたしが陽気であるかの如くに
しかし、密かに涙が切迫して
するとわたしの心臓が自由になるのだ。

このように夜啼鶯が啼くのを止めると
外では、春の空気が遊ぶ
憧れの歌が鳴り響く
憧れの鳥籠の墓の中から。

すると、すべての心臓が聞き耳を立て
そして、すべてが歓び
しかし、誰も苦痛を感ずることなく
歌の中に深い悲嘆を感ずることがない


【解釈と鑑賞】

この詩も、詩人という人間とありかたと、世間との逆説、というよりは、倒錯といってよい関係について歌われています。

それが、第1連から直に始まります。

詩人が歌を歌うときは、それは現実に陽気なのではなく、恰も陽気であるかの如くに陽気に歌うのだというところが味噌です。

実際には、こころ密かに涙しているにもかかわらず、恰も陽気であるかのように、歌は歌わねばならなぬというのです。

第2連の1行目の「このように夜啼鶯が啼くのを止めると」と「このように」とあるのを読みますと、第1連との関係で、詩人が普通の人間の状態にあることを夜啼き鴬と呼んでいることがわかります。

どうもアイヒェンドルフの詩の世界では、夜啼き鴬は、通常の人間としての詩人であるらしい。夜に普通に人間に戻っている詩人、ということは詩人は夜に棲む人間だということにもなりますが、その詩人が夜に啼けば、それは世間や世界の歓びをもたらす歌にはならないということを歌っていることがわかります。

しかし、昼間に恰も陽気なように歌うと、春の空気が訪れ、憧憬の歌が鳴り響く。昼間に生きることは詩人としては苦しみであり、悲しみなのです。

これが、アイヒェンドルフの詩の世界のようです。

そうして、第3連にあるように、誰も苦しまず、歌を聴いて、それの中に深い悲嘆を感じることなく、愉悦の感情を抱くことができるのです。

こうしてみますと、題名のWehmut、哀傷、悲しみという題名は、詩人の哀傷、そして世間の人間には知られない、その哀傷ということになるでしょう。


全3作連作のうちの、これが第1番目の詩です。

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