2009年12月31日木曜日

オルフェウスへのソネット(XIV)(第2部)

XIV

SIEHE die Blumen, diese dem Irdischen treuen,
denen wir Schicksal vom Rande des Schicksals leihn, —
aber wer weiß es! Wenn sie ihr Welken bereuen,
ist es an uns, ihre Reue zu sein.
Alles will schweben. Da gehn wir umher wie Beschwerer,
legen auf alles uns selbst, vom Gewichte entzückt;
o was sind wir den Dingen für zehrende Lehrer,
weil ihnen ewige Kindheit glückt.
Nähme sie einer ins innige Schlafen und schliefe
tief mit den Dingen —: o wie käme er leicht,
anders zum anderen Tag, aus der gemeinsamen Tiefe.
Oder er bliebe vielleicht; und sie blühten und priesen
ihn, den Bekehrten, der nun den Ihrigen gleicht,
allen den stillen Geschwistern im Winde der Wiesen.

【散文訳】
花々を見よ、この地上的なものに忠実なるもの、
わたしたちが、運命の縁(へり)から運命を貸与する当のものたちを―
しかし、だれが運命を知っていようか。もし花々が、その枯れることを後悔している
ならば、花々の後悔であることは、わたしたちのせいであるのだ。
全ては浮きたい、浮遊したいと思っている。だから、わたしたちは、重しを載せ、苦しめる者のように徘徊し、全ての上にわたしたち自身を置いているのだ、重さに魅了されて。
ああ、わたしたちは、ものにとっては、何という食い尽くす教師であることだろう、
何故ならば、永遠の子供の性質は、ものの許にあって成功するのだから。
永遠の子供の性質を誰かが内密な眠りの中にとり入れ、そして、ものと一緒に
深く眠るとすると―ああ、オルフェウスは、容易にやって来る、
別の姿をして別の日に、一緒に共有している深みの中から外へと。
あるいはまた、オルフェウスは、ひょっとしたら留まっているのかも知れない。そして、ものというものが咲き、オルフェウス、この改宗者を褒め称えていて、オルフェウスは
今やお前たちに似ているのだ、草原の風の中にいるすべての静かな兄弟姉妹のように。

【解釈】
このソネットの主題を構成する要素を挙げれば、花、重力、子供、人間、変身、オルフェウスということになるだろう。死して、なれ!という主調は、前のソネットから引き継いでいる。
1連では、花々を地上的なものに忠実なものと歌っている。それは、花が命の限りあるもので、枯れて死んでしまうからでしょう。
しかし、わたしたちは、その花々に、運命の縁(へり)から運命を貸与すると言っている。これは、わたしたちが花々を摘み採ったり、切り採ったりすることを言っているのだと思います。
運命の縁(へり)とは何でしょうか。リルケは、この縁という言葉をソネットの中でも何度か使っています。第2部ソネットVIの第1連第2行目の「簡素な縁を持った杯」、第2部ソネットXIの第2連第2行の、更に強制する者と組討して戦う、騎士の従者のよって立つ場所である縁、そうしてこのソネットの「運命の縁」。内と外を意識したリルケにとって、内側にいて外をみる場合には、この縁は、やはり意識するものであったでしょう。わたしたちは運命の内側にいるのですが、外を意識したときに、運命の縁があるのです。花を摘むこと、摘んで花を生けることは、わたしたちの運命のぎりぎりのところで、花に運命を(人間として)貸与していることになる。しかし、その運命とは、早晩萎(しほ)れて、枯れることなのであれば、わたしたちの貸与した運命に従った花の後悔、いや後悔そのものであることは、わたしたちのせいである。
2連では、同じようにわたしたちの所業を歌っている。わたしたちがものに対して何をしているか。重力といえば、第1部ソネットIVを思い出すことができます。このソネットでは、重力の重さが歌われ、それに対して、空気、空間、飛ぶ矢の痕跡、軌跡が対比されておりました。本来ものは、浮かびたいと思っている、その意志があるのに、わたしたち人間がそうはさせていない、「食い尽くす教師」である。なぜなら、わたしたちは、嘗ては子供であったことをすっかり忘れてしまって生活しているからだ。正確な引用ではないが、しかしこのようにケストナーは言っていた。
2部ソネットIXの第4連の最後の行で、オルフェウスの変身に気づくことが、そっと静かな沈黙の中で、内面の問題として獲得されるその様を
wie ein still spielendes Kind aus unendlicher Paarung.
果てしない一対の均衡の中から外へと静かに遊んでいる子供のように
と譬えて歌っているように、子供は遊びの中で、宇宙の中心の存在を知っているというのがリルケの考え方です。それは、第2部ソネットVIII、親戚の子供、Egon von Rilkeの思い出に書かれたソネットにも明らかなところです。そこでも、ものにではなく、ボールの軌跡に集中せよと歌われているのに、わたしたちはものに執着する。そうして、ものを重たくしてしまうのです。ものの本来の性質を活かさない。花に対してそうであるように。
これに対して、第3連と第4連は、どうしたらよいのかが、オルフェウスの名前とともに歌われている。
3連、第4連のオルフェウスと訳した名前は、原文ではer、エア、彼はとなっていて、オルフェウスではない。その方が奥ゆかしく、直接その人の名前を呼ばないということ、本質的なそのものの名前を敢て呼ばないという、何か深甚なる人間の知恵に基づいていることなのですが、それを敢て表に名前を出して訳しました。これは、このソネットを訳すときには、他のソネットでも同じです。
3連では「内密な眠り」が歌われている。Innig、イニッヒ、内密なという言葉のリルケの意味については、第2部ソネットXIIIの第3連第2行で説明した通りです。「永遠の子供の性質を誰かが内密な眠りの中にとり入れ、そして、ものと一緒に深く眠る」とは、今までのソネットの中で出てきた言葉で言えば、verlernen、(学んで)忘れるという言葉を思い出します。ものを覚えているのではなく、それは忘れて、その影、蔭、痕跡、軌跡を考えよ。第2部ソネットIIの第3連第3行でした。しかし、この思想は、ここばかりではなく、ソネットのあちこちに出てくるのでした。
また、眠りということから、第1部ソネットIIの娘の眠りも同じ眠りと、ここまで来ると、考えることができます。我を忘れる深い眠り。世界を眠る少女。この少女は、話者の中で眠っているのでした。しかし、眠るとはいえ、「ものと一緒に深く眠る」いい、「深く」といったときには、わたしは、オルフェウスの上昇を思います。意識無意識の境を越えて眠り覚醒し深く垂直に上昇するオルフェウス。
だから第4連では、「あるいはまた、オルフェウスは、ひょっとしたら留まっているのかも知れない。」と歌われているのでしょう。しかし、「ひょっとしたら」とありますから、その可能性は低い。しかし、わたしたちは、なかなかオルフェウスがそれに変身しているとは気づかないのですが、でもひょっとしたらそれかも知れない。そうであれば、確かにものはオルフェウスを褒め称えることでしょう。
オルフェウスは、改宗者と別の名前で言い換えられ、呼ばれていますが、これはキリスト教の内側の言葉としては、キリスト教徒に改宗することですが、しかし、リルケの場合は、そうではなく、あるいは全く逆の方向であることは、その「改宗者」を形容する言葉を読めば明らかだと思います。
最後に、もう一度第2連に戻ると、その冒頭にある、
Alles will schweben.
全ては浮きたいと欲している。
という一行は、重要です。
なぜならば、この一行は、リルケの空間には意志があることを示しているからです。

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