2009年12月13日日曜日

オルフェウスへのソネット(VI)(第2部)

VI

ROSE, du thronende, denen im Altertume
warst du ein Kelch mit einfachem Rand.
Uns aber bist du die volle zahllose Blume,
der unerschöpfliche Gegenstand.

In deinem Reichtum scheinst du wie Kleidung um Kleidung
um einen Leib aus nichts als Glanz;
aber dein einzelnes Blatt ist zugleich die Vermeidur
und die Verleugnung jedes Gewands.

Seit Jahrhunderten ruft uns dein Duft
seine süßesten Namen herüber;
plötzlich liegt er wie Ruhm in der Luft.

Dennoch, wir wissen ihn nicht zu nennen, wir raten.
Und Erinnerung geht zu ihm über,
die wir von rufbaren Stunden erbaten.

【散文訳】

薔薇よ、お前、君臨する女性よ、古代のひとたちにとっては

お前は、簡素な縁を持った高脚杯(たかつきのはい)であった。

わたしたちには、しかし、お前は、全き無数の、数で表わすことのできない花であり、

汲みつくすことのできない対象である。

お前の富の中で、お前は、一枚また一枚と衣を着ているように見え、

光輝以外の何ものからなるものではない肢体に纏(まと)っているように見えるのだ。

しかし、お前のひとつひとつの葉は、同時に、どんな長衣(ガウン)を着ることの回避であり、そして拒否なのだ。

幾百年来、お前の香りは、わたしたちのところへと、オルフェウスの最も甘い名前の数々を呼び寄せてくれている。突然、オルフェウスは、名誉のように(誉高きひととして)、空気の中に(空中に)横たわっている。

それでもなお、わたしたちは、オルフェウスの名を呼ぶことはできない、わたしたちは推測して、言い当てるだけだ。そして、わたしたちが呼び出すことのできる時間から乞い求めた思い出の方が、オルフェウスのところへと、渡って行くのだ。

【解釈】

1連は、悲歌10番にもあったように、空間が異なれば、同じものを観ていても姿が異なっていることを事実として歌ったもの。

die volle zahllose Blumeの形容詞、zahllos、ツァールロースは、無数のという意味であるが、リルケは、これに「数で表わすことのできない」と入れた意味を掛け合わせていると思う。それは、第2部ソネットXIIIの第4連で、

Zu dem gebrauchten sowohl, wie zum dumpfen und stummen
Vorrat der vollen Natur, den unsäglichen Summen,
zähle dich jubelnd hinzu und vernichte die Zahl.

全き自然の、使用され、また鈍く且つ黙っている

貯蔵へと、すなわち、言葉ではいい表わせられない集算(合計)へと

お前(オルフェウス)を、歓喜を以って、算入し、そして、数(数字)を破壊せよ

と歌われているからです。これが何を意味するかは、このソネットの文脈で、またそこに行ったときに論じたいと思います。平たくいってしまえば、豊かな自然は数字で表わすことができないということを言っていると思いますが、これは一寸簡単に言い過ぎたかも知れません。

同じことが、悲歌5番でも、無から、言葉では表わすことのできない空間が立ち上がると歌われる連で、豊かな過小が空虚な過多に変ずるところでは、桁数の多い計算がzahlenlos、ツァーレンロース、無限に、数字ではなく、行われると歌われていました。この解釈については、「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)に書いた通りです。

2連は、薔薇の花びらを着衣にたとえ、光輝な肢体もあり、しかし着衣を拒むという表現で、薔薇を歌っている。これも、エロティックな表現だと思います。

そうして、薔薇がその花の中にもつ無限の宇宙を変身しながら渡り歩くオルフェウスの姿が、第3連です。オルフェウスは、無数のよい名前で呼ばれるものに変身をしてゆく。そうして、突然現れる。この突然、ploetzlich、プレッツリッヒは、悲歌の天使のときも同じ使い方をされていたように、神々しい存在がある空間から別の空間に、時間とは無関係に移動して、その空間に姿を現す場合に使われる副詞です。悲歌の天使論でこの副詞を論じましたので、興味のある方はご覧ください(「天使論」(200974日):http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)。

最後の連に、わたしたちはオルフェウスの姿を推測するだけで、何に変身してどこにいるのかは知ることができないと歌われています。思い出と訳したErinnerung、エリンネルングという名詞は、erinnern、エリンネルン、思い出させるという動詞からできた名詞なのですが、リルケが末尾「-ung」という名詞をつくるときは、それはそのまま空間を表わしています。わたしは、そう考えています。後で類似の例が、第2部のソネットXIIの第3連に出てきます。それは、

Wer sich als Quelle ergießt, den erkennt die Erkennung

源泉として我が身を注ぐ者、これを、認識するということは、認識するのだ。

ところと、その後の行なのですが、これを読んでも、認識することが認識するとは理解が行きません。ドイツ語としても普通ではありません。認識するということが、空間だと理解して意味が通るのだと思います。

オルフェウスがわたしたちの方へ来るのではなく、思い出が、オルフェウスの方へとわたって行く。その思い出は、呼ぶことのできる時間から、わたしたちが乞い願って得た思い出と言われています。第3連の、

幾百年来、お前の香りは、わたしたちのところへと、オルフェウスの最も甘い名前の数々を呼び寄せてくれている。

というところと、これを併せて考えてみると、オルフェウスとは、わたしたちは呼ぶことを通じて、交流ができるもののようです。

考えてみれば、リルケの悲歌もそうでしたが、このソネットも、その基本は、呼びかけにあります。呼びかけるということが、晩年のリルケの詩作の骨法だということは、興味深いことです。

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