II
So wie dem Meister manchmal das eilig
nähere Blatt den wirklichen Strich
abnimmt: so nehmen oft Spiegel das heilig
einzige Lächeln der Mädchen in sich,
wenn sie den Morgen erproben, allein, —
oder im Glänze der dienenden Lichter.
Und in das Atmen der echten Gesichter,
später, fällt nur ein Widerschein.
Was haben Augen einst ins umrußte
lange Verglühn der Kamine geschaut:
Blicke des Lebens, für immer verlerne.
Ach, der Erde, wer kennt die Verluste?
Nur, wer mit dennoch preisendem Laut
sänge das Herz, das ins Ganze geborne.
前のソネットの最後に、Blatt、ブラット、葉っぱという言葉があるので、それから連想をつないだ。それから、やはり前のソネットの詩想は連続している。それは、空間ということである。
【散文訳】
(絵の名人がではなく逆に)しばしば、急いで傍に寄ってきた葉っぱの方が、絵の名人から現実的な、本物らしい一筆のタッチを奪いとるように、丁度そのように、鏡は、しばしば娘たちの神聖に唯一である微笑(ほほえみ)をそれ自身の内に奪い取っている。
娘たちが一人で、または奉仕する光の中で、朝(の効能や能力)を試す毎に。そして、本物の顔の呼吸をすることの中に、後で、ただ反映だけが落ちるのだ。
目は、嘗て、暖炉の(火が)煤けで長く燃えて止むことの中を観た。すなわち、これは人生の、生の眼差しなのだが、(一度これを習得したら)永遠に忘れることだ。
ああ、だれが、大地の損失を知っていようか。ただ、それでも賞賛する音を以って、心臓を、こころを、すなわち全体の中に生まれ入るものを歌うものがいるとすれば、その者だけが知っているのだ。
【解釈】
最初の連の一行目から2行目は、普通は画家が現実を写し、本物以上に絵を描くものだが、そうではなく、関係が逆転していて、自然の方が、画家の方から現実的なタッチを奪いとると歌って、現実と鏡の関係を歌い始めている。
「娘たちが一人で、または奉仕する光の中で、朝(の効能や能力)を試す毎に」とあるのは、朝娘たちが髪を梳いたり、化粧をしたりする朝の光景をいっているのだろう。奉仕する光とは、光は、娘たちを美しく見せるからであろう。
最初の出だしの2行から考えると、鏡の中の娘たちの方が、時には、現実的な存在だと話者は歌っていることになる。このことを前提に、第2連の最後の2行を解釈することになる。すなわち、
本物の顔の呼吸をすることの中に、後で、ただ反映だけが落ちるのだ。
この「本物の顔」とあるのは、娘の顔が本物だといっているだろうか。それも、現実的な顔を本物だといっているのか、鏡の中の娘たちの顔を本物だといっているのか。それは、上の文脈からいって、後者だということになるだろう。
そうすると、鏡の中にある娘たちの顔が呼吸をするのだ。
わたしは、ここでも、やはり、悲歌2番の天使、鏡に変身した天使を思い出す。この地上では鏡という空間になっていた天使は、自らの身のうちから流れ出た美を汲み戻すのであった。
鏡と現実の間の交換という主題が、このソネットにもあると考えることができる。
さて、また、悲歌4番第3連14行目にあるように、リルケは、顔の中に空間があると考え、そのように観て、歌っている。顔というと直ぐ空間なのだ。この顔という空間が呼吸をしている。その顔、鏡の中の娘の顔の呼吸の中に、後で現実の反映が落ちる。逆に、現実の娘の顔の反映が、鏡の娘の顔の呼吸の中へと落ちる。
後でとはどういうことであろうか。娘が立ち去っても、その鏡には、本当の娘が映っている、現実の娘の姿が消えずに、本当の娘の姿がそこにあるということではないだろうか。
第3連で、暖炉の火が出てくる。これは、暖炉の火をみて、わたしたちは、人生と生のことを思う。これは、暖炉のあるひとの生活なのだろう。ここは日本で暖炉はないが、場合によっては、焚き火であるか、田舎へ行って囲炉裏の火をみることに、そのような契機が隠れているかも知れない。デカルトが、オランダで冬の日に、暖炉の火を見て、ある観想を得たことを思い出す。
リルケのおもしろいところは、この生と人生の眼差しを、覚えたら忘れろといっていることです。これは、真理だと思う。あるいは、格言だと思う。あるいは、人生の、生を生きているひとの格律であると思う。なんという贅沢な人生、豊かな人生であろうか。
第2部ソネットVIII第4連に同じ詩想が歌われていて、リルケが人生にどのように対したのかが窺われる箇所があります。子供たちがボール遊びをしているのですが、キャッチボールをするそのボールよりも、そのボールの描く軌跡、Bogen、ボーゲンにリルケの関心は集中するのです。詳細を論ずるのは、またそのソネットへ行ったときに。
さて、そう思って考えれば、これは、単なるボールの話しではなく、暖炉の火の話しではなく、リルケの詩法の骨法かも知れないと思います。リルケの詩の書き方です。表を書くのではなく裏を書く。対象をではなく、その影を書くという方法です。そうして、それを荘厳するということによって歌い切る。
また、第1部ソネットIV第2連でも、矢よりも、矢の描く弧を話者は褒め称えていました。これも同じこころだと思います。
そうしてみると、やはり、この連想から、最後の連では、「それでも賞賛する音を以って」と歌われています。Preisen、プライゼン、賞賛するとは、他にも出てきたRuehmen、リューメンと同じ語義の言葉ですから、わたしが荘厳と訳したいと思っていることは既に前に書いた通りです。表と裏の関係、対象と影または蔭、こうなると、陰と陽の関係を褒め讃え、その全体を言葉で荘厳する。これが、リルケの詩なのではないでしょうか。そう思います。
確かに、このソネットは、対象、現実と、影、鏡に映るものの関係を歌い、最後の連で荘厳しています。あるいは、荘厳そのものを歌っている。わたしは、リルケの詩に、言葉が本来持っている古代的なものを思います。あるいは、詩本来の姿、社会的な役割というべきかも知れません。
その荘厳する者とは、歌うという動詞がドイツ語の文法でいう接続法II式であって、現実には存在しないと歌われているのですが、もし存在するとしたら、それは、オルフェウスでありますが、そのような者は、こころを歌うといっています。こころとは、「全体の中に生まれ入るもの」と言い換えられています。
こころをそのように言い換えているということは、こころと言う言葉で、実は人間のことを言っていると解釈することもできます。人間とは、もともと全体の中へと生まれ出でたものなのだ。しかし、そのこころが第1部ソネットIIIに、また同じくソネットXIに歌われているように、全体、すなわちひとつであったこころが二つに分かれているのが、普通の人間だとソネット全体で歌っているのだと思います。こうしてみると、第1部の最後のソネットXXVIで、オルフェウスがその身を引き裂かれるのも、高次の人間の象徴的な姿だと解釈することもできると思います。
最後に、もうひとつ。第3連の「それでも」とは、忘れるということに対して発せられた言葉です。忘れることは、第4連にある通り、「大地の損失」ですが、しかし、それにもかかわらず、褒め称え、賞賛し、荘厳することを、無償の人は、なすのです。あるいは、そのような行為が無償の行為であり、その行為と引き換えに、新しい生命が生まれ、何かに宿り、樹木のように成長し、果実をつけるとリルケは考えているのだと思います。死から生まれる生。こうして考えると、暖炉の火を見ることを忘れよとは、生よりも死のことを考えよという言葉にも解釈することできます。
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