2009年12月27日日曜日

オルフェウスへのソネット(X)(第2部)

X

ALLES Erworbne bedroht die Maschine, solange
sie sich erdreistet, im Geist, statt im Gehorchen, zu sein.
Daß nicht der herrlichen Hand schöneres Zögern mehr prange,
zu dem entschlossenern Bau schneidet sie steifer den Stein.

Nirgends bleibt sie zurück, daß wir ihr ein Mal entrönnen
und sie in stiller Fabrik ölend sich selber gehört.
Sie ist das Leben, — sie meint es arn besten zu können,
die mit dem gleichen Entschluß ordnet und schafft und zerstört.

Aber noch ist uns das Dasein verzaubert; an hundert
Stellen ist es noch Ursprung. Ein Spielen von reinen
Kräften, die keiner berührt, der nicht kniet und bewundert.

Worte gehen noch zart am Unsäglichen aus...
Und die Musik, immer neu, aus den bebendsten Steinen,
baut im unbrauchbaren Raum ihr vergöttlichtes Haus.

【散文訳】

すべての苦労して手に入れたものを、機械は脅(おびや)かす、

命令に従順に従うことの中にいないで、精神の中にいようとする限り。

素晴らしい、主人のように堂々たる手も、(機械に比べれば)より美しく躊躇して、

もっと見事に光輝やくことはないということ、より断固たる構築のために

機械は、より堅く(頑固に)、石を切るのだ。

機械は、どこにあっても、遅れたり、留まったり、引っ込んでいるということがないので

わたしたちは、一度は(一度だけだ)機械から逃れようとするし、また機械は静かな工場の中で、油をさしながら、自分自身に帰属している。

機械は、生である。同じ決心を以って秩序を整え、そして創造し、そして破壊する機械は、最善の形で生を可能ならしめるように考える。

しかし、わたしたちにとっては、今ここにこうしてあるということが魔法にかけられていることなのだ。百もの場所で、これは、まだ源泉である。跪(ひざまづ)き、驚くことのない者は触れることのない純粋な諸力の遊びだ。

言葉は、まだ柔らかく、言葉では言い得ぬものを頼りにして、外へ出てゆく

そして、音楽は、いつも新しく、最も激しく震える(複数の)石の中から

実用を離れた空間の中で、その神聖な、荘厳された家を建築するのだ。

【解釈】

リルケの生きた時代は、現代の技術的な製品が生まれた時代なので、それらを一言で表わして機械といっているのだと理解することができる。映画、自動車、電車、電信電話等々。

1連で、機械が人間の命令に従うだけではなく、精神の領域を侵食しているといっている。これは何を具体的に言っているのか。上に挙げた商品は、確かに見えない場所のものを見せてくれ(映画)、時間と空間と人間の距離をより一層近いものにし(電信電話)、同様に行きたいところへ速く行けるようにする(自動車、電車)ということでは、精神の出る幕の数を少なくしていると言える。こうして使っているインターネットなどというものは、時間と空間的な距離をゼロに果てしなく近づけたので、機械の最たるものということになります。結局、時間と距離をゼロにするということは、便利になったということで、そのすべてをいうことができるのでしょうか。一度手に入れた利便性を人間は手放すことができません。

リルケのいうGeist、ガイスト、精神とは何でしょうか。次にみるように、芸術的な創造に欠くことのできない人間の遊びの空間を創造し、その中で純粋、神聖な構築物、すなわち作品を生み出す、人間の本源的な力のことをいっているということになります。

さて、第1連ではまた、手がものを創造するときの迷うに美しさに対比して、機械の仕事の冷酷さ、決然たる様子を対比させている。機械が切る目的語である石は、他のソネットの中では、沈黙の縁語であり、それはどこか死をも連想させ、静かな創造を思わせる物であるが、機械はそのような石であれ、有無を言わせずに切るのだ。

2連では、機械の遠慮のなさと、機械が生そのものであることが歌われている。

しかし、これに対して、第3連では、わたしたち人間にとっては、今ここにこうしてあること、これをドイツ語では一言、das Dasein、ダス・ダーザインといい、生硬な哲学用語では現存在などと訳していますが、これが人間にとっては大切なことだと言っている。それは、魔法にかけられた状態であって、諸力の働き、湧き出る源泉であるという。それは、遊び、遊戯なのだ。

4連では、言語と音楽が歌われている。遊びの最たるものということなのでしょう。同じ石からつくる建物ではあっても、機械がつくる建物と、これら芸術のつくる建物とでは、このように違うということを言っているのだと思います。面白いことは、言語は、言語で言い得ぬことを頼りに外へと出て行くことであり、音楽は、全く実用を離れた空間で、神聖な家を建築すると歌われていることです。これらは、全くその通りではないでしょうか。

神聖な家とは、第1部ソネットIおよびIIIに歌われているTempel、テンペル、寺院のことです。ここでは、二つに分かれている人間のこころが、ひとつになるのでした。そのような治癒の空間、全体を取り戻す空間が寺院なのでした。音楽はそのような構造物を建立する。言語もまた。

0 件のコメント: