2009年12月12日土曜日

オルフェウスへのソネット(IV)(第2部)

IV

O DIESES ist das Tier, das es nicht giebt.
Sie wußtens nicht und habens jeden Falls
— sein Wandeln, seine Haltung, seinen Hals,
bis in des stillen Blickes Licht — geliebt.

Zwar war es nicht. Doch weil sie's liebten, ward
ein reines Tier. Sie ließen immer Raum.
Und in dem Raume, klar und ausgespart,
erhob es leicht sein Haupt und brauchte kaum

zu sein. Sie nährten es mit keinem Korn,
nur immer mit der Möglichkeit, es sei.
Und die gab solche Stärke an das Tier,

daß es aus sich ein Stirnhorn trieb. Ein Horn.
Zu einer Jungfrau kam es weiß herbei —
und war im Silber-Spiegel und in ihr.

前のソネットが鏡を歌ったので、そのままこのソネットでも鏡が歌われている。

鏡と動物と空間の関係が歌われている。

【散文訳】

ああ、これは、存在しない動物だ。

鏡は、動物が存在していないことを知らなかったし、しかし、いづれにせよ動物を―

動物の悠然たる歩行、態度や姿勢、その首を

静かな眼差しの光の中にまで―愛したのだ。

なるほど、動物は存在していなかった。しかし、鏡は動物を愛したので、

一匹の純粋なる動物が存在した。鏡は、いつも空間がそうしたいままにしておいた。

そうして、空間の中で、清澄に且つ上手に空間を無駄なく節約して、

動物は、軽くその頭(こうべ)を上げ、そして、存在することをほとんど

必要とはしなかった。鏡は、動物を穀物で養いはせずに、

ただいつも、動物は存在する、存在せよ、あれかし、という可能性だけを以って、養ったのだ。

そうやって、鏡は、動物に、それほどの強さを与えることになったので、

動物は、自分自身の中から、一角獣を追い出した。角一本の一角獣だ。

ひとりの乙女のもとへと、一角獣は、白い色をして、やって来た。―

そして、銀の鏡と乙女の中に、存在した。

【解釈】

このソネットは、他のソネットには例がないのですが、前のソネットからそのまま主題も気分も文字の上で繋がっていて、つまり、最初から鏡が指示代名詞で呼ばれているのです。

このソネットでの鏡は、前のソネットと同様、複数形の鏡です。ですから、この地上にある鏡という鏡を想像することができます。この形象は、悲歌2番に出てくる天使と鏡、鏡に変身している天使を、やはりここでも、わたしには思わせます。

鏡と来れば、空間なのです。空間と言えば、動物なのです。あるいは、動物と言えば、純粋は空間なのです。これがリルケでした。

鏡という鏡は、そんな動物を、存在の可能性だけでいつも育てているのです。

このような文は、譬喩というのではない、やはり意味するところは、そのところ、そのままだ、そのままでよいというふうに思います。

このソネットは、何も解釈するところがなく、そのままだという気がします。

1連の最後の行、「静かな眼差しの光」とは、動物の目の光だと思います。

その動物の目で見る空間は、悲歌5番第1連では、純粋な空間と呼ばれていて、そこには時間は存在しないのです。リルケが、rein、ライン、純粋なという意味は、時間が存在しないという意味です。

動物や花々は、その空間を観ることができ、実際に知っている。悲歌5番の純粋な空間は、神とさへ呼ばれています。この神は、もちろんキリスト教の神ではありません。神と呼ばれえる一般名詞の神です。

そうして、純粋な空間は、開かれている。開かれているとは、外側を知っているということだと、リルケは悲歌5番で言っています。そうして、その空間の持つ外側とは、永遠なのだと歌っています。同じ思想は、ここにもあるでしょう。悲歌とオルフェウスへのソネットは同じ時間の中で同時に並行して書かれたから、尚更です。

動物の持つ強さは、こうして悲歌5番で歌われている強さと同じ、上に述べた強さなのですが、それを話者は、あれかし、ある、という存在の可能性で養われた強さだと言っている。その可能性だけで、鏡は動物を飼育したのです。

注意すべきは、時制は、このソネットでは、すべて過去で、こういったことは、みな、動かしがたい事実として歌われているということです。

最後の連で、何故一角獣が出てくるのでしょう。このソネットには、リルケ自身による註釈がありますので、それをそのまま訳して引用します。

Das Einhorn hat alte, im Mittelalter immerfort gefeierte Bedeutungen der Jungfräulichkeit: daher ist behauptet, es, das Nicht-Seiende für den Profanen, sei, sobald es erschiene, in dem «Silber-Spiegel», den ihm die Jungfrau vorhält (siehe: Tapisserien des XV. Jahrhunderts) und «in ihr», als in einem zweiten ebenso reinen, ebenso heimlichen Spiegel.

一角獣は、古い、中世にあってはいつも、女性の処女性を祝した様々な意味を持っている。それゆえ、そこで言われていることは、一角獣が、処女が自分の前に持つ「銀の鏡」(15世紀の刺繍やつづれ織りをご覧なさい)の中に現れるや、ただちに、世俗の者にとっては、一角獣、すなわち、存在していないもの(非存在)が存在するということであり、(その「銀の鏡」と」)「処女の中に」、すなわち、第2の、まさしく純粋な、まさしく密やかな、秘密の、隠された鏡の中に、一角獣という存在しないものが存在するということなのです。

哲学者や科学者は、時間を欠いた空間など存在しないということでしょう。しかし、ここが詩人と哲学者、詩人と科学者の違いです。ないもの、ある筈のないもの、非存在を創造することができる。存在する、存在あれかしという可能性があるのであれば。これが、詩人であり、詩だということを、詩そのものとして示しているソネットだと思います。

そういう意味では、詩の中に、詩への批評を含む、これもやはり、外側に開かれた、そういう意味では純粋な詩なのだということができるでしょう。リルケならば、このように言うことができることでしょう。

鏡と女性の処女性をこのように歌うリルケは、これから出てくる花と女性を歌うときに、男としてその処女性を奪うことに対する罪悪感と贖罪の気持から、エロティックに惑乱し、それでも自分自身を保とうとしながら、いつものように性愛を歌うときには動詞、すなわち時間を捨象して、時間を越えた純粋な空間の中にあるもののようにして、永遠の形象として、花と女性を歌うのです。

それで、次のソネットVからは、花が続けて主題となるのです。

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