2009年12月30日水曜日

オルフェウスへのソネット(XIII)(第2部)

XIII

SEI allem Abschied voran, als wäre er hinter
dir, wie der Winter, der eben geht.
Denn unter Wintern ist einer so endlos Winter,
daß, überwinternd, dein Herz überhaupt übersteht.
Sei immer tot in Eurydike —, singender steige,
preisender steige zurück in den reinen Bezug.
Hier, unter Schwindenden, sei, im Reiche der Neige,
sei ein klingendes Glas, das sich im Klang schon zerschlug.
Sei — und wisse zugleich des Nicht-Seins Bedingung,
den unendlichen Grund deiner innigen Schwingung,
daß du sie völlig vollziehst dieses einzige Mal.
Zu dem gebrauchten sowohl, wie zum dumpfen und stummen
Vorrat der vollen Natur, den unsäglichen Summen,
zähle dich jubelnd hinzu und vernichte die Zahl.

【散文訳】
今まさに行こうとしている冬がそうであるように、別れが恰もお前の後ろにあって
過ぎてしまっているかのように、すべての別れに先立ってあれ。
というのは、冬のなかでも、ある冬は、もう限りなく冬だから、お前のこころは、
越冬しながら、そもそも堪え忍ぶことになるのだから。
いつもエウルューディケの中で死んであれ、もっと歌って昇れ、
もっと褒め称えて昇り、純粋な関係の中へと戻るのだ。
ここ、縮んで行くものたちの間では、傾きの王国にいなさい、
響きの中で既に割れてしまった響き亘(わた)る一個のグラスでありなさい。
ありなさい―そして同時に、無い存在(非存在)の条件を知りなさい、
お前の内密な振動の果てしない根拠を知りなさい、そうすれば、お前はこの振動を
この唯一一回だけ完全に執行するのだ。
一杯の自然の、使用されたまた鈍く黙した貯蔵に、即ち言葉で言い表すことのできぬ合計に
お前自身を歓喜を以って付け加えて勘定し、そして数を破壊しなさい。

【解釈】
前のソネットでは、別れも歌われていることから、同じ詩想を繋いで、このソネットでは別れが第1連で歌われる。

しかし、そのこころは、第1連から先の連を読み進めると、一言でいうと、時間を超越しなさいということを歌っているのだということがわかる。

別れも単に別れるのではなく、既にして別れよといっているのだ。第2連のグラスも、既に割れる前のグラスとして、割れた音の中に既にして響き渡るその響きを有するグラスとして存在せよといっている。哲学者ならば、この響きはa prioriな響きだというでしょう。
そのようなあり方を、第2連で「いつもエウルューディケの中で死んであれ」と言っている。エウルューディケは、オルフェウスの妻。死んで冥界にいるものだ。生きる前に、既にして死んであれと言っているのだ。それも同じ性の中で死ぬのではなく、異性の中で死んであれかしといっている。これは、普通の人間にできることではない。そのような訓練、修練をしたものだけが、人間ならば、できるということになるだろう。そのような職業の名前を挙げると、役者という名前がまづ最初に思い浮かぶ。確かに、変身をし続け、それに堪える仕事だ。

「いつもエウルューディケの中で死んであれ」とは、また、永遠に別れる前に既にして別れよといっていると解釈することもできる。これは第1連からの詩想をそのように受け継いでいるということだ。

2連の最初の2行の全体、

いつもエウルューディケの中で死んであれ、もっと歌って昇れ、
もっと褒め称えて昇り、純粋な関係の中へと戻るのだ。

をこうしてみると、死ぬこと、すなわち変身すること、姿を変えながら歌い、褒め称えて垂直に上昇すること、そうやって純粋な関係に戻ることが、無理なく一連の振る舞いとそのこころのように理解することができます。純粋な関係とは、前のソネットでも論じたentityという概念、星座やそのほかの姿のことを思い出してもよいと思います。いづれにせよ、リルケがrein、ライン、純粋なという言葉を使うときには、その空間(ここではBezug、ベツーク、関係という空間)には、時間は存在しないのでした。

また第2連では、「ここ、縮んで行くものたちの間では、傾きの王国にいなさい」と歌われていて、上で述べたこころ構えでいる者に対して、この世の私たちのあり方を「縮んで行くものたち」と呼んでいる。リルケは、死ぬひとたちとは呼ばない。生と死は別ではないと考えているからです。悲歌2番の第3連に、

Denn wir, wo wir fühlen, verflüchtigen; ach wir
atmen uns aus und dahin; von Holzglut zu Holzglut
geben wir schwächern Geruch. Da sagt uns wohl einer:
ja, du gehst mir ins Blut, dieses Zimmer, der Frühling
füllt sich mit dir... Was hilfts, er kann uns nicht halten,
wir schwinden in ihm und um ihn.

【散文訳】
(天使という鏡が自身から流れ出た美を創造して自身の顔に汲み戻すということにつき、何故天使がそうするかというと)何故ならば、わたしたちが感じるところ、感じる場所では、わたしたちは、いつも何かを発散させ、揮発させて、減ってゆき、衰えて行くからだ。ああ、わたしたちは、自分自身を、呼吸をして吐き出し、そうして、彼方へ行く(年老いて、死んでしまう)。というのも、熾(お)き火から熾き火へと、火を熾(おこ)すために息を吹きかけて、息を吐いて行くごとに、わたしたちは臭いを発散させてゆき、その臭いは、段々と弱まってゆくからだ。だから、誰かが、わたしたちに向かって、こう言うだろう。そうさ、お前さんが、わたしの血の中に入ってゆく、この部屋の中にも、この部屋も、春も、お前で一杯になる、と。だから、どうなるというんだ。春も、わたしたちを同じ状態にとどめることはできないし、わたしたちは、春の中で、春をめぐって、小さくなり、減ってゆく、衰えて行く。

とあり、また同じ悲歌9番第3連にも、わたしたちの生の一回性が歌われているところで、次のような箇所があります。今こうして、このソネットを論じるために悲歌9番の冒頭からこの第3連までを読み返してみると、このソネットと全く同じ主題が同じ詩想によって、言葉は違いますが、歌われていることがわかります。これらは互いに照応して、互いの完全な註釈となっています。主題は、時間を越えること、あるいは時間と無関係に存在することであり、それは既にしてそうあれかしということです。そうして、そのことに対比して歌われる、わたしたち人間の人生の一回性、二度と取り返しがつかない人生、生が歌われている。

Aber weil Hiersein viel ist, und weil uns scheinbar
alles das Hiesige braucht, dieses Schwindende, das
seltsam uns angeht. Uns, die Schwindendsten.

【散文訳】
(月桂樹のように変わらないこころのあり方に対して)しかし、ここにいるということは、たくさんなことであるから、そして、見かけの上では、すべてここにあるものは、わたしたちを必要とするのであるから。すべてここにあるもの、即ちほとんどわたしたちに関係のないこの縮んでゆくものは、わたしたちを、最も縮んでゆくものたちを(必要としているのだ)。

と歌われています。

このschwinden、シュヴィンデンという動詞で、リルケが概念化したものは、ここで今わたしこう述べたことよりももっと深いものがあることが、悲歌9番の冒頭の数連から既に窺えます。単に生と死が別のものではないという以上にもっと溢れた詩想をリルケは悲歌で歌っているのです。これは、もう一度悲歌に戻って論じるときに論じることにいたしましょう。

さて、そのように現世でのわたしたち人間がある中で、オルフェウスに向かって話者が、「傾きの王国」にいなさいとは何をいっているのでしょうか。Neige、傾きという言葉には、また減少、衰弱、衰微という意味もありますので、その中に生きて、その生を王国となしなさいという意味にとることにします。王国になるのは、第1連の冬にそうであるように、überstehen、ユーバーシュテーエン、堪えるということによってです。

3連は、これまで悲歌とソネットを読んできた読者には分かり易い。前のソネットでも言及しましたが、リルケがこの「振動」や「跳躍」という言葉、schwingen、シュヴィンゲン、それから生まれたSchwingung、シュヴィングングとかSchwung、シュヴングという名詞を使うときにはいつも、それは新しい生命の誕生を意味しています。新しい宇宙、新しい世界の誕生です。そのために、神々しい美しい若者が死を受け容れるということが、リルケの少なくともこの最晩年の詩の主題であることは、既に悲歌1番の最後の連で見た通りであり、オルフェウスもまた正にそのような人物として歌われています。

そうして、この第3連の最後でも歌われているのは、平俗な言い方をすれば、人生は一度しかない、二度繰り返さないという、生の一回性の強調です。そのための、無私の生を生きるということ、それを「無い存在(非存在)の条件」といい、「お前の内密な振動の果てしない根拠」と言っています。「振動」、Schwingung、シュヴィングングについては、既に触れました。

また、innig、イニッヒ、内密なという言葉も、リルケが独特に概念化して使っている言葉です。悲歌7番第1連で、die innige Himmel、内密なる天と歌われ、悲歌9番の第5連にも「どのように、物という物が、存在することを一度も内密に思わなかった」と歌われ、なによりも悲歌1番第1連の最後の行では、鳥は「内密な飛行」をするのでした。それは、オルフェウスへのソネットでは、風の性質として歌われている状態を意味しています。それは、分かれ別れることなくいつも一体である状態です。それは、人間ならば、呼吸によって空間を交換して、その人間の成長、即ち上昇することによって増大して行く内側の純粋な空間を意識した言葉です。それから悲歌3番第1連では、そのような洞察をした洞察が「内密な洞察」と言われています。

さて、第4連は、悲歌5番の次の連に正確に呼応しているとわたしは思います。

Und plötzlich in diesem mühsamen Nirgends, plötzlich
die unsägliche Stelle, wo sich das reine Zuwenig
unbegreiflich verwandelt -, umspringt
in jenes leere Zuviel.
Wo die vielstellige Rechnung
zahlenlos aufgeht.

【散文訳】
そうして、そこに突然、不意に、この疲れたどこにもない場所の中に、突然、不意に、言いがたき場所、名状しがたい場所、言葉では言い表すことのできない場所が、現れ、そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。

この第4連の3行は、リルケが詩人である以上、リルケの生理を離れぬ、リルケの経験した3行であると思います。悲歌5番のこの連の解釈については、「リルケの空間論(個別論2):悲歌5番」(200989日)(http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/2.html)以下に詳述しましたので、それをご覧下さるとうれしく思います。

また、この3行は、前のソネットの、

Worte gehen noch zart am Unsäglichen aus...

【散文訳】
言葉は、まだ柔らかく、言葉では言い得ぬものを頼りにして、外へ出てゆく
を思わせます。

一杯の自然の、使用されたまた鈍く黙した貯蔵」という表現は、自然の豊かさを歌っている。その豊かさは、数に関係したもので、しかも数を破壊するものだというのです。

1,2,3...と数を数えることは、一体何を意味しているのでしょうか。もしこれが時間の順序を意味しているとしたら、純粋な空間を求めるリルケは、言葉を頼りにそれを破壊し、人間の縮まざるを得ないこの空間の外に出てゆくのです。それが言葉の力だとでも言うかのように。

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