2009年12月28日月曜日

オルフェウスへのソネット(XI)(第2部)

XI

MANCHE, des Todes, entstand ruhig geordnete Regel,
weiterbezwingender Mensch, seit du im Jagen beharrst;
mehr doch als Falle und Netz, weiß ich dich, Streifen von Segel,
den man hinunter gehängt in den höhligen Karst.

Leise ließ man dich ein, als wärst du ein Zeichen,
Frieden zu feiern. Doch dann: rang dich am Rande der Knecht,
— und, aus den Höhlen, die Nacht warf eine Handvoll von bleichen
taumelnden Tauben ins Licht... Aber auch das ist im Recht.

Fern von dem Schauenden sei jeglicher Hauch des Bedauerns,
nicht nur vom Jäger allein, der, was sich zeitig erweist,
wachsam und handelnd vollzieht.

Töten ist eine Gestalt unseres wandernden Trauerns...
Rein ist im heiteren Geist,
was an uns selber geschieht.

【散文訳】

幾多の、死の、静かに何の変哲もなく秩序立てられた規則が成立した、

更に強制する人間よ、お前が狩りに固執し、狩りを主張して以来。

もちろん、罠(わな)と網以上に、わたしはお前を知っている、穴の開いた

石灰岩台地の中、穴の下の方に掛けて鳥を捕らえるために使う帆布の幕を。

恰もお前が平和を祝う印(しるし)であるかの如くに、ひとはお前を招じ入れた。

しかし、そうした途端、騎士の待臣、従者が、縁のところで、お前と格闘し、

しかし、数々の獣の穴の中から外へと、夜が片手一杯の青ざめた、よたよたと歩く鳩を光の中へと投げ入れたしかし、それもまた正しさの内にあるのだ。

見る者から遠く離れて、憐れみの吐息はどの吐息も、あれ。いいタイミングで証明するものを、用心深く且つ規則に従って行うことで執行する狩人ばかりから離れているだけではなく。

殺すということは、わたしたちの遍歴する悲しみの姿なのだ

わたしたち自身の身に起きることは

より明朗な精神の内にあって、純粋なのだ。

【解釈】

ソネットXIで、死刑を宣告する裁く者に呼びかけ、死を歌い、ソネットXで機械と芸術を歌って、このソネットでは、それらのやはり連想があると思いますが、引き続き死を、狩りとの関係で歌っています。

この詩を読み始めると忽ち、最初の一行の語順が破格であることが目を惹きます。語順通りに訳せば、

幾多の、死の、成立した、静かに変哲無く秩序立てられた規則

というのです。

つまり、成立したという動詞が、「幾多の、死の、静かに何の変哲もなく秩序立てられた規則」という主語の間に挟まっているのです。これに類似した例は、リルケが花と女性を以って、性愛を歌うとき以外にはありません。ここでは、性愛ではありませんが、全く逆の意味で、時間を捨象しようとリルケに思わしめた事情が伏在するのかも知れません。しかし、時間を捨象することはできなかった。

このソネットは、何があっても徹底して死の規則に従わしめる人間に対して呼びかけ、歌われている。それは、平和の象徴だとひとびとは誤解した。そうではなかった。

また、このソネットでは、時間の取り扱いについても破格です。これは、最初の一行の語順の破格と脈絡が通じているのだと思います。死の規則が成立したと過去形で主文はあるのに、従属文である文の「お前が狩りに固執し、狩りを主張して以来」の「して」は、現在形だからです。普通に考えれば、この「して」は過去形になると思います。規則の成立は過去だが、この人間が狩りに執着することは今も続いているというのでしょうか。しかし、それでは、主文と従属文の時間の因果を引っくり返すことになる。しかし、時間の順序を引っくり返す、それこそが、ここで、リルケのしたかったことなのだと思います。

1連の、狩りのために使う帆布については、リルケによる自註があります。

Bezugnehmend auf die Art, wie man, nach altem Jagdgebrauch, in gewissen Gegenden des Karsts, die eigentümlich bleichen Grotten-Tauben, durch vorsichtig in ihre Höhlen eingehängte Tücher, indem man diese plötzlich auf eine besondere Weise schwenkt, aus ihren unterirdischen Aufenthalten scheucht, um sie, bei ihrem erschreckten Ausflug, zu erlegen.

古い狩りの習慣に従って、石灰岩台地の或る地方では、もともと青ざめた色の、洞窟に棲む鳩を、慎重に(鳩たちの)穴に掛け入れた布を使って、この布を突然ある特別な方法で揺れ動かして、地下にとまっているところを無理やり追い出して、驚いて飛び出すところを殺す、その方法を言っている。

さて、この死の規則の男、多分男でしょう、この男は、平和の象徴と思って、この世界の中に入ることを許されたといっています。ところがそうではなかった。入った途端に、騎士の従者と縁(へり)で格闘することになった。

この騎士の従者は、第1部ソネットXIの騎士の従者と考えることができます。隣にいる者こそ最も遠い者だと知っている騎士。孤独にあるのではなく、遠くあって且つこころを通わせ、互いを結びつけ結びつけられ、意思疎通、コミュニケーションすることを願っている騎士、その騎士の従者だと思いましょう。騎士はもちろんですが、従者もこのような男の入場と、そのような死の規則の適用をさせまいと戦ったのです。そこが、普通の、世間の人間たちとは最初から違います。縁でというのは、ぎりぎりのところで、何があってもそうはさせないという意味に理解するができます。

しかしそれでも、夜に、きっとこの洞窟に棲む鳩の狩りは夜行われたのでしょう、驚いて光の中に飛び出してくる鳩たちは、そこで殺されてしまう。しかし、これも正しいことなのだと話者は歌う。わたしには、この殺生も現実だといっているように聞こえる。

狩人ばかりではなく、またその狩りを見物しているひとからも遠く離れたところにも、お悔やみの、悲しみの吐息はあれよかしと祈願され、歌われています。狩人は、ただ、タイミングよくなすべきことをなしているだけなのです。同じことは、狩りだけではなく、そこから遠い、普通の、普段の生活の中にもあるだろうと言っている。それは、その通りではないでしょうか。

この狩人や見物人から遠くあってもなおあれかしと歌われているのは、Hauch、ハオホ、吐息です。ほっとか、ほうとかいって出す小さな息のことです。この息といえば、空気、空間、風が、その類語であったことをもう一度思い出しましょう。第1部ソネットIIIの第4連、同じ部のソネットIVの第1連と第4連を思い出すことにしましょう。これらは、全体を備えて分かれることのないものでした。

このソネットの吐息は、悲しみの吐息ではありますが、ふたつに分かれることなく、いつもひとつになっている空間、すなわちこころの平安が、語義の矛盾のように見えますが、悲しみのこころの平安があれよかしと歌われています。これは、祈りの文です。

何故ならば、最後の連、

殺すということは、わたしたちの遍歴する悲しみの姿なのだ

とあるように、殺生は、生きている限り避けることはできないものだからです。

この一行は、斜字体になっていますので、リルケの思いが一層籠められています。一種、箴言のように響きます。

さて、最後の2行は、そうであればこそ、わたしたち自身が殺されることになろうと、それは、精神の中で起きる事件であるならば、純粋であるのだ、そのように私達の身に死が起きても、そのように考えよと歌っています。

2連の「それもまた正しさの内にあるのだ。」と、最後の第4連の「より明朗な精神の内にあって、純粋なのだ。」という二つの文は、何々の内においてという言葉の使い方の点で、明らかに共通させて、ものごとの両面を表現しようとしています。鳥を追い出して殺すことも正しければ、わたしたち人間がなにかの理由で鳥のように殺される側になるとしても、それもまた精神の中では、正しいとは言わないが、しかし、それを受け容れることは、純粋なことであるのだ。

リルケがrein、ライン、純粋なという形容詞を使うときには、いつも時間を捨象するという意味です。精神の内、精神の中とは、精神の空間の中と考えても間違いではないし、そう考えることができます。そのような空間は、時間がなく、永遠で、神とさへ言い換えられていることは、既に悲歌8番の第1連で見た通りです。動物や花の知っている、死から自由な、開いている空間。

「殺すということは、わたしたちの遍歴する悲しみの姿なのだ」から、殺生する人間よ、自らが殺されるときには、死を精神において受け容れよという思想は、苛烈な思想であるとわたしは思います。これがリルケなのでしょう。

オルフェウスが身を引き裂かれて、殺されたこと、ソネットで歌われているその意義もここにあるのでしょう。オルフェウスの死を思えとリルケは言っているようです。

1部ソネットXIIで、「精神において快癒せよ。精神は、わたしたちを結びつける。」と歌われていることを、ここで思い出しましょう。リルケの考えは、思想というべきでしょうが、首尾一貫しています。(もちろんそうでなければ、思想とは言えません。)

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