2009年12月26日土曜日

オルフェウスへのソネット(IX)(第2部)

IX

RÜHMT euch, ihr Richtenden, nicht der entbehrlichen Folter
und daß das Eisen nicht länger an Hälsen sperrt.
Keins ist gesteigert, kein Herz —, weil ein gewellter
Krampf der Milde euch zarter verzerrt.

Was es durch Zeiten bekam, das schenkt das Schafott
wieder zurück, wie Kinder ihr Spielzeug vom vorig
alten Geburtstag. Ins reine, ins hohe, ins thorig
offene Herz träte er anders, der Gott

wirklicher Milde. Er käme gewaltig und griffe
strahlender um sich, wie Göttliche sind.
Mehr als ein Wind für die großen gesicherten Schiffe.

Weniger nicht, als die heimliche leise Gewahrung,
die uns im Innern schweigend gewinnt
wie ein still spielendes Kind aus unendlicher Paarung.

【散文訳】

お前たち、裁く者たちよ、無くても済ませられる拷問具を自慢するな、

それから、鉄のくびきが、もはやそれ以上長く人間たちの首にくびきしないということを自慢するのぢゃない。

それでは、何も高められてはいないのだ、どんなこころも。というのは、柔らかさの、波打つ痙攣がお前たちを一層優しく歪めるからだ。

こころが、数多くの時間、時間という時間を通じて何を得たか、その得たものを、処刑台は、再び返してよこす。子供たちが、以前の古い誕生日の、自分の玩具を返してよこすように。そうなれば、純粋な、高貴な、雷神の如く開いたこころの中へと、オルフェウスならば、

すなわち現実の柔らかさの神であるならば、全く異なって歩みいることであろう。彼ならば、荒々しく、力強くやって来て、そして、神々しい者たちがそうであるように、自分自身の身の廻りを一層輝かしく掴(つか)むことだろう。それは、大きな、安全に造られている船々のために吹く順風以上のものである。

それは、密かに、そっと気づくこと、すなわち静かに遊んでいるひとりの子供が、無限の一対の均衡することの中から獲得するように、内側で、沈黙して、わたしたちを獲得するそのような気づき以下のものではないのだ。

【解釈】

このソネットでは、主題は、前のソネットの子供から大人へ、そうして人間のこころが主題となっています。しかし、前のソネットを受けて、子供という主調は一貫して脈打っています。

しかし、処刑台(死刑台)と子供の対比は、苛烈である。生の可能性の充実、生の可能性の横溢と生の断絶。生と死。あるいは、最後の連にある通りに、子供であることは、宇宙の均衡の体現であるので、そのような体現と死。

死については、第2部ソネットXIにも再び主題として歌われています。このソネットでの対比が苛烈であるように、リルケの、死が生を奪うということに対する態度もまた苛烈です。そのことは、精神という言葉をキーワードに、第2部ソネットXIにおいて歌われております。また、死、あるいは死神というべきかと思うのですが、それについては、第2部ソネットXXIVにおいても、リルケは、このソネットと同様に歌っています。試しに引用してみると、

Wir, wir unendlich Gewagten, was haben wir Zeit!
Und nur der schweigsame Tod, der weiß, was wir sind
und was er immer gewinnt, wenn er uns leiht.

【散文訳】

わたくしたちは、果てしなく冒険する者たちは、時間なんか糞喰らえだ!

しかし、沈黙がちな死神だけが、わたしたちの正体を知っているし、

死神がわたしたちに貸与するならば、何をいつも獲得するかを知っているのだ。

死にどのように対するか、死をどのように受け容れるかについては、第2部ソネットXIにも歌われているので、そこでも考察を続けてみたい。そこでは、狩をするという人間の殺生、生き物を殺すことが歌われています。

このソネットでも、第2連で、子供が処刑台と並行して譬えの関係にあるということが普通ではありません。あるいは、リルケらしいことです。「子供たちが、以前の古い誕生日の、自分の玩具を返してよこすように」とは、子供たちが自分の使い遊んだ玩具に飽きて、執着がなくなって、返却するということを意味しています。もちろん、その思い出はその玩具にあるわけです。思い出のある、懐かしい玩具を執着なく返却する。もともと持っていたひと、買ってくれたひとに返すのです。死は、一体だれに玩具を返すのでしょうか。玩具、こころが時間を閲して得たものを。

その、返された者の、死がかえす先の境地を、死をどのように受け容れるかを、オルフェウスの姿としてリルケは歌っています。それが、第2連以下の連です。

2連の「雷神の如く開いたこころ」の「雷神の如く」は、原文のthorig、トアリッヒを訳したものですが、これがThor、トア、雷神に由来するかどうか、今手元にある辞書では定かではありません。ひょっとして、後日訳を変えることがあるかも知れません。

オルフェウスと訳出した名前は、原文では、彼とだけ、指示代名詞で呼ばれています。その方が、オルフェウスの本来の姿、変身する遠い姿を、リルケの意志と詩想に従って、よく表わしていると思います。言語の本質から言って、そのものの名前を敢て呼ばずに、別のものの名前で呼ぶという人間の行為には、深甚なるものがあります。しかし、ここでは、敢て翻訳という理由によりオルフェウスと訳出しました。このソネット以前にもオルフェウスと訳出したソネットで同様の箇所が幾つもあります。それらの箇所ではいちいち断りませんでしたけれど。

オルフェウスは、八つ裂きにされたわけですが、そのことを受け容れることで、「純粋な、高貴な、雷神の如く開いたこころの中へと」歩み入ると歌われています。第1連で、死の恐怖に訴える拷問具は、どんなこころも高めないと歌っていますが、ここで言われている「柔らかさ」は、第2連から第3連にかけてのオルフェウスの持つ「柔らかさ」とは、対照的です。このように対照的に表現しようとするリルケに、わたしは相当な苦しみ、均衡を得ようという強い意志を感じます。そういう人間であればこそ、第3連から第4連にかけてのような功徳をひとに施すことができるのでしょう。日本語でいうならば、オルフェウスのこのあり方の持つ威光は、功徳を施すといってよいのではないでしょうか。その功徳がどのように歌われているかは、第3連、第4連に訳した通りです。

4連、この最後の連は、リルケの言語と詩に対する特徴をよく表わしていると思います。それは、「密かに、そっと気づくこと」と表わしたときには、リルケは、空間を意識しているということです。ドイツ語で、動詞からつくった名詞、末尾が「-ung」、ウングとなる名詞をつくって歌うときには、リルケは、空間を思っているのです。

これは、こと、ですから、それはそのまま言葉の意味、すなわち概念である、さらにすなわち、リルケのいう空間とは概念であると、わたしは言いたいのです。なぜならば、言葉は、こと、だからです。この、こと、を、リルケは、ソネットの中では、星座のFigur、フィグーア、姿といったり、その他の「-ung」の名詞で表現してきました。(もちろん、こうなると、なにも「-ung」の名詞にこだわらなくともよいことになるのですが、少なくともそのような名詞を用いたときには、特にそれを意識するとここでは述べておきましょう)

例えば、第1部ソネットVIII、あの末娘の妖精の出てくる第1連の冒頭の第1行目、

NUR im Raum der Rühmung darf die Klage
gehn, die Nymphe des geweinten Quells,
wachend über unserm Niederschlage,
daß er klar sei an demselben Fels,

der die Tore trägt und die Altäre. —

【散文訳】

賞賛することという空間の中でのみ、悲嘆は行くことが

ゆるされる。悲嘆とは、涙を流し泣かれた源泉の精、ニンフであり、

わたしたちの落下が、門を担い、祭壇を担っている同じ岩のところで、

清澄であると思って(清澄であることを)見張っているのだ。

褒め称える、賞賛するという空間を設定して、はじめて、悲嘆は行くことができると歌われている。ここでは、

Nur in der Rühmung

と歌って、Raum、ラオム、空間を書かなくてもよいのではないかと思いますが、しかし、リルケには、空間と書かなければならない動機があったのです。それを表に表わしたということなのです。(このソネットと同じ空間が、第2部ソネットXII3連にも、die Erkennung、ディ・エアケヌング、認識するということ、として出てまいります。)

このソネットの第4連では、空間という言葉は隠れています。もう少し、わたしの言いたいところへ急ぎます。

この空間、何々するということ、これが主語になるとは、どういうことなのでしょうか。リルケの空間は、ことですから、認識されたプロセスとして、何か生きているもののように見えます。

同じ空間が、同じ第4連の最後の行にも「無限の一対の均衡すること」として出てきます。この「均衡すること」は、詩の韻律上、脚韻を踏むために歌われたという側面は否定できませんが、しかし、そこには同様の事情があったと思います。この事情については、もっと明確に言葉を尽くして、悲歌5番で歌われているところです。「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(2009815日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)をご覧ください。

この「均衡すること」によって、リルケは、宇宙の均衡をいい、その均衡には、中心があるということをいっています。悲歌5番の主題は、ひとことでいうと、宇宙には中心があるということですが、このソネットでも同じことを第4連で歌い、子供はそれを知っていて体現できている存在だと歌っている。もちろん、それは饒舌より沈黙の中にある。夢中になって遊ぶそこに、宇宙の中心は現れているというのです。

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