2009年12月6日日曜日

オルフェウスへのソネット(III)(第2部)

III

SPIEGEL noch nie hat man wissend beschrieben
was ihr in euerem Wesen seid.
Ihr, wie mit lauter Löchern von Sieben
erfüllten Zwischenräume der Zeit.

Ihr, noch des leeren Saales Verschwender —,
wenn es dämmert, wie Wälder weit...
Und der Lüster geht wie ein Sechzehn-Ender
durch eure Unbetretbarkeit.

Manchmal seid ihr voll Malerei.
Einige scheinen in euch gegangen —,
andere schicktet ihr scheu vorbei.

Aber die Schönste wird bleiben —, bis
drüben in ihre enthaltenen Wangen
eindrang der klare gelöste Narziß.

前のソネットが鏡を歌っていることから、このソネットも鏡を歌っている。

【散文訳】

,鏡を、今だ嘗て、お前たちが、お前たちの本質の中に何があるのかを知って、ひとは叙述したことはない。お前たち、篩(ふるい)のただ穴だけで満たされているように、満たされている時間の中間空間(時間と時間の狭間の空間)よ。

お前たち、夕暮れになるといつも、遥かなる森という森のように、まだ、空虚な大広間の浪費家であるものたちよ….

そうして、シャンデリアが、角が16に分かれた牡鹿(おじか)の如くに、行く、

お前たちの、中に踏み入られないという性質を通って。

時には、お前たちは、絵画で一杯になることもある。

幾つかの絵画は、お前たちの中、内側で、歩行しているように見える。

その他の絵画は、お前たちは、内気なことに、そうはしないで、やり過ごして、ただ行かせてしまうのだ。

しかし、最も美しい女性は、留まることになる。そこ、その女性の含まれた両の頬の中にまで、清澄な、禁忌、呪縛から解き放たれたナルシスが押し入って来るまでは。押し入ってきたのだ。

【解釈】

1連は、鏡というものの性質を歌っている。鏡は、時間と時間の間にある空間だと言っている。時間と時間の間の空間とは、変化する時間の性質を有した、変化しない空間という意味に解釈することができる。一見矛盾のようであるが。

1部のVIIIの妖精が棲む空間、あの賞賛、讃嘆の空間の中に棲んでいる妖精も、同じ空間にいるのだろうか。なぜなら、そこでは、泉から流れ出るわたしたち人間の流れを、不変(巌)の尺度で計測し、わたしたちがklar、クラール、清澄であることを見張ってくれていたからである。Klar、クラール、清澄という言葉は、このソネットの最後にナルシスの形容としても使われているので、これらふたつのソネットは、どこかで間違いなく響きあっている。

それから、悲歌2番最後の連の次の文、これが鏡という空間なのではないでしょうか。いや順序は逆で、リルケはこのような空間が時間と時間の合間にはあって、それを鏡と呼び、また次のように果実のなる豊かな土地と呼んでいるのでしょう。この巌(不易)と流れ(流行)という対比の仕方から言っても、上に述べた泉の妖精と大いに関係のある空間だということがわかります。

Fänden auch wir ein reines, verhaltenes, schmales
Menschliches, einen unseren Streifen Fruchtlands
zwischen Strom und Gestein.

もし、わたしたちが、純粋で、抑えられている、狭い、人間的なもの、すなわち、急流と巌の間にある一筆の果実のなる豊かな土地を見つけることができるならばなあ(実際にはそういうことはないのだが)。

今こうして読んでみて、人間的なものと鏡との関係をもう少し考えなければならないということに気づきました。それをしなければ、この豊かな土地が鏡であるとは言えません。しかし、リルケが、時間の中に、何かそのような、わたしたちが生きる、変わらぬ空間を思い描いていたことは否定できないでしょう。鏡もそのような、しかし一寸非人間的な感触で、歌われているように思います。非人間的な感じがするのは、それが鏡だからでしょう。

この空間は、篩の穴だけからできているような空間だと歌われています。そのような空間、それが鏡です。それは、ものとものとで構成される空間。ある時間というものと、次の時間というものとで構成される空間。さて、こう考えてくると、リルケは時間をひとつだけ念頭においているのではなく、複数の時間を念頭において、この一行を書いたのではないかと思われるのです。ひとつの時間の中で、ある時点と次の時点の間の空間という意味ではなく、一本の時間の流れがあり、別の一本の時間の流れがあり、その間の空間という意味です。どちらの解釈も可能だと思います。

2連をみると、大広間ということから、ヨーロッパにあるような何か宮殿の中の空間を連想しますが、そのような空間を思い描いてみるとよいのではないでしょうか。シャンデリアが、角の豊かな牡鹿のように、鏡の中を歩いている。悲歌でもみたように、注意すべきは、リルケはいつも空間の中に時間をおくことです。空間を設定して、そうしてその中で動きを歌う。これがリルケの順序です。

さて、シャンデリアが歩行しているのも、鏡の性質、現実のものを映すとうい性質によって、「中に踏み入られないという性質を通って」と歌われています。像は映っていても、鏡の中に入っていくことはできません。何か幻想的で美しい連だと思います。

同じように、広間には絵画が掛けられていることが多々ありますので、そのような空間では、鏡は絵画を映じることになるでしょう。これが、第3連です。第3連の最後の行、

その他の絵画は、お前たちは、内気なことに、そうはしないで、やり過ごして、ただ行かせてしまうのだ。

という一行をみると、リルケは、空間にも何か意志、意図といってよいものを認めているのではないかと思われます。この一文は、譬(たと)えとは言えない、何かぎりぎりのものがあります。このことは、第2XIIの第3連第1行でもう一度論ずることになるでしょう。そこでは、空間が認識するという言葉が書かれているのです。リルケの空間と意志の問題は、悲歌5番のところでも論じたところです。

さて、最後の連ですが、最初の一行は、しかしという接続詞で始まっています。この「しかし」の意味は何でしょうか。前の連で、鏡の中でシャンデリアが歩行したり、また現実のものを映すことをしないで、やり過ごしたりするということに対して、反対にそうではなくという意味なのでしょう。

そうではなく、美しい女性は、鏡の内側にあっても動かないままである。空間という性質の本来の性質を体現しているかのように、留まって、動かない。ただ、いつまでかというと(やはり時間があらわれて)、

そこ、その女性の両の頬の中にまで、

清澄な、禁忌、呪縛から解き放たれたナルシスが押し入って来るまで

というのです。

「清澄な、禁忌、呪縛から解き放たれたナルシス」といわれているので、このナルシスは、自分自身を愛するという呪縛から解き放たれて、女性を愛するナルシスだと考えられます。

鏡の中に自分自身ではなく、異性である女性を見ることのできるナルシス。やはり、ナルシスも、「中に踏み入られないという性質を通って」、鏡の中に入ってゆくことができるのでしょう。

「清澄な、禁忌、呪縛から解き放たれたナルシス」と同じ文を、わたしたちは、第1部ソネットIに既に見ています。それは、

Tiere aus Stille drangen aus dem klaren
gelösten Wald von Lager und Genist

沈黙の中から生まれてきた動物たちは、清澄な、禁忌を解き放たれた森、

寝床と巣であった森からから外へと切迫したように走り出た。

興味深いことは、この「清澄な、禁忌、呪縛から解き放たれた」とリルケが歌うものとの関係では、いつも、何かが、押し迫って出たり、押し迫って入ったりするということです。これは、リルケの実感なのでしょう。

この「最も美しい女性」は、ナルシスが、その頬の中に押し入ると、やはり時間の中を、ナルシスと一緒に動くのでしょう。花という主題ではなく、鏡という主題を歌っているからでしょう、リルケの筆致は、エロティックに過ぎることがなく、美的な形象を歌うことができていると思います。

「含まれた両の頬」という言葉が少しわかりにくい。それは何かに含まれているのでしょうが、含んでいるのが何かが不明です。あるいは、過去分詞になって、形容詞のような意味を持つとして、それが何を意味するのか。何かある形状を言ったものなのか。いづれにせよ、美しい頬であることには変わりがないでしょう。この女性の頬は、ナルシスが魅入られ、その中に押し入るほど魅力的な頬なのでしょう。あるいは、神話に典拠があるのでしょうか。調べましたが、そこに至りませんでした。

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