XII
WOLLE die Wandlung. O sei für die Flamme begeistert,
drin sich ein Ding dir entzieht, das mit Verwandlungen prunkt;
jener entwerfende Geist, welcher das Irdische meistert,
liebt in dem Schwung der Figur nichts wie den wendenden Punkt.
Was sich ins Bleiben verschließt, schon ists das Erstarrte;
wähnt es sich sicher im Schutz des unscheinbaren Grau's?
Warte, ein Härtestes warnt aus der Ferne das Harte.
Wehe —: abwesender Hammer holt aus!
Wer sich als Quelle ergießt, den erkennt die Erkennung;
und sie führt ihn entzückt durch das heiter Geschaffne,
das mit Anfang oft schließt und mit Ende beginnt.
Jeder glückliche Raum ist Kind oder Enkel von Trennung,
den sie staunend durchgehn. Und die verwandelte Daphne
will, seit sie lorbeern fühlt, daß du dich wandelst in Wind.
【散文訳】
変身を欲せよ。ああ、炎に歓喜せよ、
その中では、幾多の変身を見せびらかし、誇示する物が、お前から遠ざかるのだ。
地上的なるものを支配する、企図する精神、企画する精神は、姿の振動と跳躍の中に、転回点のような無を愛しているのだ。
留まることの中に閉じ籠るもの、それは既に硬直したものだ。
硬直したものは、みすぼらしい白髪の老人の庇護のもとに、安心して妄想に耽っているのだろうか。待て、最も厳しいものが、遠くから、厳しきものを警告している。
傷ましいことだ、不在の鉄鎚(かなづち)が、打ち下ろそうと待ち構えているのだ。
源泉として自分自身を注ぐ者、この者を、認識することは、認識しているのだし、
認識することは、この者を魅了して、明朗に創造されたものを通じて導くのだが、
この明朗に創造されたものは、しばしば始めで閉じ、終りで始まるのだ。
どの幸せな空間も、分かれていることの子供であり、また孫であり、その空間を、子供や孫は驚きながら通って行くのだ。そして、変身したダフネは、自分が月桂樹を感じて以来、お前が風の中で変身するということを欲しているのだ。
【解釈】
前のソネットが、より明朗なる精神を歌っているので、ここでも精神と、明朗に創造されたるものが歌われています。
お前と呼びかけられている相手は、オルフェウスです。
第1連のFigur、フィグーア、姿、第3連のdie Erkennung、エアケンヌング、認識すること、第4連のRaum、ラウム、空間、リルケの宇宙では、これらは縁語です。一言で言えば、みな同じこと(ものではない!)を意味しています。
Figurと言えば、entity、実在、存在を、entityと言えば、「-ung」で終わる動詞であり、即ち、そのまま空間を意識するのです。これらは一連の概念のあり方です。ですから、
「認識するということ」は空間なのであり、空間が何かを認識しているという意味になります。第1部ソネットXIの第1連第1行に歌われている
SIEH den Himmel. Heißt kein Sternbild «Reiter»?
天を見よ。騎士座という星座はないのだろうか?
と歌われた星座、この星座というものは、点を結合して意味あるものとなされたこと、すなわちentity、実在に他なりません。大熊座、小熊座、天秤座、これらはentityです。あるいは、それらのentityの間に関係があれば(それは神話と呼ばれる)、それもentityです。また父と母という関係、親子という関係もentityです。そうすると家族もentity。そうです、これは関係概念なのです。人間が認識してそこにひとつの纏まりを知ったならば、それはentityと呼ばれます。そこには不思議な話しも生まれることでしょう。これは認識することの結果、生まれることです。認識の対象として、結合されて存在することなのです。これをリルケは、ソネットの中では、Figur、フィグア、姿と言っています。また、第1部ソネットXIIの第2連、
HEIL dem Geist, der uns verbinden mag;
denn wir leben wahrhaft in Figuren.
【散文訳】
精神において快癒せよ。精神は、わたしたちを結びつける。
なぜならば、わたしたちは、真に、(結ばれて初めて形をなす)姿として生きているからだ。
このソネットXIIの第2連は、ひとことでいうならば、わたしたち人間は、entity、実在に生きている、存在に生きていると歌っていることが、あらためてわかります。そうして、それをなさしめているのが精神であるといっている。そうして、精神は明朗なるものである。
さて、第1連で、「転回点」と一語に訳した言葉は、分かれる点と訳すことができます。むしろ、この方が原文の意味の流れに沿っていることでしょう。この分かれるという動詞のドイツ語は、wenden、ヴェンデンというのですが、この言葉は、やはり同じ第1部ソネットXIに、次のように歌われて出てきました。
Ist nicht so, gejagt und dann gebändigt,
diese sehnige Natur des Seins?
Weg und Wendung. Doch ein Druck verständigt.
Neue Weite. Und die zwei sind eins.
【散文訳】
この、(名誉心という)存在の憧憬の性質は、このように、(狩猟でのように)狩り立てられ、そして、(手綱で)制御され、抑えられているのではないか?
道と分岐点。しかし、そんなことはない、ある圧力が教え、解らせるのだ。そうして、新たなる先へと続く。こうして、ふたり(の騎士)は、ひとつになる。
ここで「分岐点」と訳した名詞、wendung、ヴェンデゥングが、動詞wenden、ヴェンデンから生まれた言葉だということは、その言葉の姿を見ればわかるでしょう。
それで、第4連の第1行に「分かれることの子供や孫」として出てくるのです。リルケがこのWendungやwendenという言葉を使うときにはいつも、それは別れではなく、全く逆のこと、即ちひとつになること、意思疎通、コミュニケーションを完全にして一体となることを意味しています。このソネットでも同じです。転回点とは、分岐点なのですが、それは、オルフェウスがひとつのものから次のものへ、ひとつの姿から次の姿へと変身するその変化点を言っています。それは、無です。変身は、無私の、私を喪う無償の行為でありました。そうして、その無、nichts、ニヒツは、「姿の振動と跳躍の中に」あるのですが、リルケがこの「振動」や「跳躍」という言葉、schwingen、シュヴィンゲン、それから生まれたSchwingung、シュヴィングングとかSchwung、シュヴングという名詞を使うときにはいつも、それは新しい生命の誕生を意味しています。新しい宇宙、新しい世界の誕生です。そのために、神々しい美しい若者が死を受け容れるということが、リルケの少なくともこの最晩年の詩の主題であることは、既に悲歌1番の最後の連で見た通りであり、オルフェウスもまた正にそのような人物として歌われています。
第3連の第1行「源泉として自分自身を注ぐ者、この者を、認識することは、認識している」とは、一見普通に考えると奇妙な文に見えるかも知れませんが、既に上でentityという概念を説明しましたように、また今までのソネットで何度か言及してきましたように、何々することという動詞を名詞化した名詞を使うときには、リルケはいつも空間を意識しており、この空間が認識するのであれば、それはドイツ語の言葉の使いかたとしては、あるいは英語もそうであると思いますが、少しもおかしいことではないのです。
認識するということがentityとして存在し、それはひとつの姿である。その姿が、惜しみなく我が身を与える者を認識するのです。認識によって創造された関係概念が、何かを認識する。わたしが、リルケの空間とは、言語の世界でいう概念のことを実は言っているのだということは何度か言及してきた通りです。そして、ひとつの概念は、ひとつの次元なのです。この次元をリルケはRaum、ラウム、空間といっています。このことを説明するには、もっと別の機会に言葉を尽くさなければなりません。
それでは、この空間は認識する以上何か意志ともいうべきものがあるのでしょうか。それは生きているのでしょうか。そのことにリルケは正面から答えません。悲歌5番の曲芸師の歌で、かろうじてこのことに触れていますが、しかし、そこでもやはり正面から回答してくれておりません。しかし、リルケのこのような文を見ると、生命とは何かという問いは今仮に横に措いておくとしても、この空間は主語になり得る以上、わたしには生きているように見えます。さらにしかし、リルケの空間は、内と外の交換、即ち息をする、atmenということによって交換されるのでした。ですから、交換ということによって移動する空間です。この交換をなさしめている力があることをリルケは知っていたでしょう。さらにしかし、その力を何かの名前で呼ぶことをリルケはやはりしないのです。神とは呼ばない。神もまた悲歌8番でみたように、そう呼べば、それは空間なのです。なぜならば、神もまた概念であり、ひとつの次元だからです。これがわたくしのリルケの空間の解釈です。
第3連の「この明朗に創造されたものは、しばしば始めで閉じ、終りで始まるのだ。」という意味は、精神は明朗であり、そのような精神の創造したものは、offen、オフェン、開かれていると言っているのです。「始めで閉じ、終りで始まる」点があれば、それは「分岐点」でありましょう。同時に、それは、無私の変身の無の一点。それを企図する精神は愛するのだ。それをリルケは歌っています。この企図する精神は、第2部ソネットXXIVには、冒険者たちと呼ばれて歌われています。その冒険者たちの精神は、次のように歌われている。
Götter, wir planen sie erst in erkühnten Entwürfen,
die uns das mürrische Schicksal wieder zerstört.
【散文訳】
神々を、わたしたちは、神々を、敢然たる企図の中で計画するが、
その企図、企画は、気むつかしい運命が再び破壊してしまう。
さて、第4連、最後の連では、もしそのひとが幸せであるならば、つまりリルケ流に言えば、幸せの空間にいるならば、それは、別れ、分離、Trennung、トレヌングがあって、その功徳の御蔭だといっています。功徳の御蔭とは、日本人のわたしのものの言い方ですが、リルケならば、上に散文訳したように表現するのです。わたしたちの精神がもし無私の変身を遂げる努力をするならば、世代を隔てて、その因果はわからないけれども、必ず結実するということなのでしょう。それは、その空間は、ひとびとを幸せにすることなのです。そうであれば、アポロンの求愛を逃れるために月桂樹に変身したダフネも、オルフェウスが風の中で変身することを欲している。わたしたちは、それぞれ一体誰なのでしょうか。わたしたちは、それぞれ誰かの変身した姿ではないでしょうか。そのように思われてなりません。そのような変身した姿の者として、わたしたちは会っているのではないでしょうか。
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