2009年8月9日日曜日

リルケの空間論(個別論2):悲歌5番




悲歌5番をとりあげることにします。



悲歌5番は、旅芸人、旅の曲芸師たちのことを歌っています。第1連のことばから考えると、毎年繰り返しその時期になると、どこからか、多分、当時のことですから、馬車に乗ってやってきて、町の城門の外に広く大きな絨毯を敷いて曲芸を見せるものとみえます。

この第1連の歌い方によって、この詩は、そのまま、単なる城門の外に敷かれた絨毯の話ではなく、宇宙空間の中の、ある場所の話に変位しています。この悲歌は、彼ら旅の曲芸師の演技する抽象的な絨毯というもの、絨毯という空間、絨毯という場所についての悲歌なのです。

これまで時間をかけて、あれこれと考えたことは、ひとことでいうと、登場人物相関論に行かずに、そのようなリルケの空間を論ずるには、一体どうしたらよいかということでした。それは、この悲歌の最後の連に、愛する者たちという人間の集合があらわれているからです。そうして、この愛する者たちは、その空間との関係で、死者と対比的に歌われているからです。

それゆえ悲歌10篇を通して、愛する者たちが、どのように歌われているか調べたのですが、リルケという詩人は、この愛するという人間の行為に余程興味と関心を惹かれていると見えて、(そうして、悲歌5番の最後の連をみると、それは何故かがよくわかるのですが)、単数形の形も含めると、全部で14回出てくるのです。これは、悲歌の中で同じ言葉が繰り返し歌われるという回数としては、一番多い数字だと思います。

さて、わたしは、空間と死者たちとの関係において、愛する者たちを論ずるということに限定をすれば、登場人物相関論に陥る弊を避けることができると思いました。もちろん、これは登場人物相関論そのものを回避するということではなく、リルケ自身の書き方からしても、必ず、何かに関して、誰かと誰かの関係を対比的に歌うということを必ずしていますので、登場人物同士を、それぞれの物事との関係において、対比的に理解し、説明することは、そんなにむつかしいことではないのです。しかし、一挙にそこへ行ってしまうと、空間論から逸脱してしまうということ、これをどう回避するかということが、わたしの苦心でありました。

この悲歌の第9連、第10連と最後の連、これらの連は、ある同じひとつの空間について、リルケは歌っているのですが、それでは、リルケは一体何を歌っているのでしょうか。この問いに答えることが、この個別論の目的ということになります。しかし、個別の悲歌を論ずるということでは個別論ですが、そのために空間を一般論で論ずるということもまた、しなければならないことでしょう。まづ第9連と第10連を訳し、この2つの連について、悲歌5番の中で、考えてみましょう。

結局、わたしの流儀らしく、結論を最初に述べるということに致しましょう。

これらの連でリルケが歌っているのは、一言でいうと実に単純なことで、宇宙には中心があるということを歌っているのです。その中心、バランスの中心のことと、それが存在する場所のことを歌っているのです。このことはまた、第9連、第10連で空間の無限とは何かということを歌い、最後の連では、そのことを納める空間、場所があるのだという、最後の連に歌われているリルケの思想ともなっています。第9連と第10連は、その前の連の最後のところに関連して、その文脈の中から生まれていますので、前の連の後半から、散文訳して、論を始めることにします。

リルケは、文字通りに老若男女という順番で、旅の曲芸師を、その人間としての全体の姿として、またその全体の姿を提示するために、歌っていますが、第9連の前の連(第8連)とは、その最後の、若い女性の曲芸師についての連なのです。

Du,
immerfort anders auf alle des Gleichgewichts schwankende Waagen
hingelegte Marktfrucht des Gleichmuts,
öffentlich unter den Schultern.

Wo, o wo ist der Ort - ich trag ihn im Herzen -,
wo sie noch lange nicht konnten, noch von einander
abfieln, wie sich bespringende, nicht recht
paarige Tiere; -
wo die Gewichte noch schwer sind;
wo noch von ihren vergeblich
wirbelnden Stäben die Teller
torkeln.....

Und plötzlich in diesem mühsamen Nirgends, plötzlich
die unsägliche Stelle, wo sich das reine Zuwenig
unbegreiflich verwandelt -, umspringt
in jenes leere Zuviel.
Wo die vielstellige Rechnung
zahlenlos aufgeht.

(愛すべき女性である)お前よ、
いつも絶え間なく次々と様々な格好にその姿態を変えている、バランスの揺れ動く、すべての秤の上に置かれている、冷静の、市場の果物よ、そうやって、両肩の下で、公然と、秘密でもなんでもなく、市場の秤にかけられてで売られている果物よ。

どこに、ああ、その場所はどこにあるのだ―わたしならば、その場所は、心臓に、こころの中に持っているのだが―、彼らがもっと長くそうしていることが出来なかった場所は、丁度飛び跳ねながら正しく一組としての動きができない動物たちのように、やはり互いにバラバラになって落ちてしまった場所は、どこにあるのだろうか。
重さが、まだ、やはり重いものとして存在している場所は、
まだ芸人たちのむなしく(いつかは失敗するのだが)渦巻いて回転している棒によって、数多くの皿が落ちそうになりながら廻っている、その場所は、どこにあるのだろうか。

そうして、そこに突然、不意に、この疲れたどこにもない場所の中に、突然、不意に、言いがたき場所、名状しがたい場所、言葉では言い表すことのできない場所が、現れ、そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。


さて、上に歌った空間、場所は、抽象的な、天上とまではいいませんが高位の場所ですが、これに対して、次の第11連では、リルケは対比的に、また第10連で歌った無限、果てしの無さという言葉の連想から、世俗の場所ではありますが、同じように無限に、数限りない歓楽の場所を擁しているパリという都会の流行のことを歌っています。そこに流行するいわばモードは、芸術の果実、すべて様々な美しい色彩にいろどられて、運命という過酷な現実から都会のひとたちが仮初めに、その寒さから身をまもるための安っぽい冬の帽子のためのモードだといっています。

こうして、リルケは、ある種の天上、宇宙空間、宇宙の場所と地上の場所のことを歌いましたので、このふたつを接続する働きをする天使を呼び出し、天使に呼びかけて、最後の連をはじめるのです。そしてまた、曲芸という、常に死と隣り合わせの生ということから、生と死を接続するものとして、天使を呼び出してもいます。そのことによって、最後の連を、リルケは書くことができたのだと思います。ですから、死者が出てまいります。最後の連を引用して、また散文訳をいたし、論を続けることにしましょう。

Engel!: Es wäre ein Platz, den wir nicht wissen, dorten,
auf unsäglichem Teppich, zeigten die Liebenden, die's hier
bis zum Können nie bringen, ihre kühnen
hohen Figuren des Herzschwungs,
ihre Türme aus Lust, ihre
längst, wo Boden nie war, nur an einander
lehnenden Leitern, bebend, - und könntens,
vor den Zuschauern rings, unzähligen lautlosen Toten:
Würfen die dann ihre letzten, immer ersparten,
immer verborgenen, die wir nicht kennen, ewig
gültigen Münzen des Glücks vor das endlich
wahrhaft lächelnde Paar auf gestilltem
Teppich?

天使よ。わたしたちが知らないある場所があるのだ、そこに、すなわち、名状しがたき場所、つまり言葉では言い表すことのできない絨毯の上に、その場所はあるのだという、そのことを、愛する者たちは示した。しかし、愛する者たちは、ここで、この場所で、こころの高揚の、気高い数々の、自分たちの勇敢な姿を、実現するところまでは決して持ってゆけなかった。快楽の中から生まれ出た数々の自分たちの塔も、そうである。また、床がそもそもなかった場所で、自分たち自身が互いにただ身を寄せ掛けあっているだけで成り立っている、振るえている梯子も、そうである。しかし、今この廻りにいる、数え切れない、物音ひとつ立てることのない死者たちの前では、愛する者たちは、それができるかも知れない。そうであれば、死者たちは、そのとっておきの、いつも節約してきた、そうやっていつも隠してきた、わたしたちの知らない、永遠に通用する幸福の硬貨の数々を、(曲芸をするという、空間的なバランスの実現を必要とする過酷な現実にもかかわらず、それに打ち勝って、作った微笑みではなく)とうとう本当の意味で微笑むことのできている一対の(旅の曲芸師の)カップルの前に、(宇宙のバランスの中心を捉え、安定して)静かになった、静謐の領する絨毯の上に立つそのカップルの前に、(その技を祝福するために、)投げ与えることだろう。

今日解釈した散文訳をもとに、次回は、そのリルケの空間の中へ、一歩脚を踏み入れることに致します。

0 件のコメント: