2009年12月31日木曜日

オルフェウスへのソネット(XIV)(第2部)

XIV

SIEHE die Blumen, diese dem Irdischen treuen,
denen wir Schicksal vom Rande des Schicksals leihn, —
aber wer weiß es! Wenn sie ihr Welken bereuen,
ist es an uns, ihre Reue zu sein.
Alles will schweben. Da gehn wir umher wie Beschwerer,
legen auf alles uns selbst, vom Gewichte entzückt;
o was sind wir den Dingen für zehrende Lehrer,
weil ihnen ewige Kindheit glückt.
Nähme sie einer ins innige Schlafen und schliefe
tief mit den Dingen —: o wie käme er leicht,
anders zum anderen Tag, aus der gemeinsamen Tiefe.
Oder er bliebe vielleicht; und sie blühten und priesen
ihn, den Bekehrten, der nun den Ihrigen gleicht,
allen den stillen Geschwistern im Winde der Wiesen.

【散文訳】
花々を見よ、この地上的なものに忠実なるもの、
わたしたちが、運命の縁(へり)から運命を貸与する当のものたちを―
しかし、だれが運命を知っていようか。もし花々が、その枯れることを後悔している
ならば、花々の後悔であることは、わたしたちのせいであるのだ。
全ては浮きたい、浮遊したいと思っている。だから、わたしたちは、重しを載せ、苦しめる者のように徘徊し、全ての上にわたしたち自身を置いているのだ、重さに魅了されて。
ああ、わたしたちは、ものにとっては、何という食い尽くす教師であることだろう、
何故ならば、永遠の子供の性質は、ものの許にあって成功するのだから。
永遠の子供の性質を誰かが内密な眠りの中にとり入れ、そして、ものと一緒に
深く眠るとすると―ああ、オルフェウスは、容易にやって来る、
別の姿をして別の日に、一緒に共有している深みの中から外へと。
あるいはまた、オルフェウスは、ひょっとしたら留まっているのかも知れない。そして、ものというものが咲き、オルフェウス、この改宗者を褒め称えていて、オルフェウスは
今やお前たちに似ているのだ、草原の風の中にいるすべての静かな兄弟姉妹のように。

【解釈】
このソネットの主題を構成する要素を挙げれば、花、重力、子供、人間、変身、オルフェウスということになるだろう。死して、なれ!という主調は、前のソネットから引き継いでいる。
1連では、花々を地上的なものに忠実なものと歌っている。それは、花が命の限りあるもので、枯れて死んでしまうからでしょう。
しかし、わたしたちは、その花々に、運命の縁(へり)から運命を貸与すると言っている。これは、わたしたちが花々を摘み採ったり、切り採ったりすることを言っているのだと思います。
運命の縁(へり)とは何でしょうか。リルケは、この縁という言葉をソネットの中でも何度か使っています。第2部ソネットVIの第1連第2行目の「簡素な縁を持った杯」、第2部ソネットXIの第2連第2行の、更に強制する者と組討して戦う、騎士の従者のよって立つ場所である縁、そうしてこのソネットの「運命の縁」。内と外を意識したリルケにとって、内側にいて外をみる場合には、この縁は、やはり意識するものであったでしょう。わたしたちは運命の内側にいるのですが、外を意識したときに、運命の縁があるのです。花を摘むこと、摘んで花を生けることは、わたしたちの運命のぎりぎりのところで、花に運命を(人間として)貸与していることになる。しかし、その運命とは、早晩萎(しほ)れて、枯れることなのであれば、わたしたちの貸与した運命に従った花の後悔、いや後悔そのものであることは、わたしたちのせいである。
2連では、同じようにわたしたちの所業を歌っている。わたしたちがものに対して何をしているか。重力といえば、第1部ソネットIVを思い出すことができます。このソネットでは、重力の重さが歌われ、それに対して、空気、空間、飛ぶ矢の痕跡、軌跡が対比されておりました。本来ものは、浮かびたいと思っている、その意志があるのに、わたしたち人間がそうはさせていない、「食い尽くす教師」である。なぜなら、わたしたちは、嘗ては子供であったことをすっかり忘れてしまって生活しているからだ。正確な引用ではないが、しかしこのようにケストナーは言っていた。
2部ソネットIXの第4連の最後の行で、オルフェウスの変身に気づくことが、そっと静かな沈黙の中で、内面の問題として獲得されるその様を
wie ein still spielendes Kind aus unendlicher Paarung.
果てしない一対の均衡の中から外へと静かに遊んでいる子供のように
と譬えて歌っているように、子供は遊びの中で、宇宙の中心の存在を知っているというのがリルケの考え方です。それは、第2部ソネットVIII、親戚の子供、Egon von Rilkeの思い出に書かれたソネットにも明らかなところです。そこでも、ものにではなく、ボールの軌跡に集中せよと歌われているのに、わたしたちはものに執着する。そうして、ものを重たくしてしまうのです。ものの本来の性質を活かさない。花に対してそうであるように。
これに対して、第3連と第4連は、どうしたらよいのかが、オルフェウスの名前とともに歌われている。
3連、第4連のオルフェウスと訳した名前は、原文ではer、エア、彼はとなっていて、オルフェウスではない。その方が奥ゆかしく、直接その人の名前を呼ばないということ、本質的なそのものの名前を敢て呼ばないという、何か深甚なる人間の知恵に基づいていることなのですが、それを敢て表に名前を出して訳しました。これは、このソネットを訳すときには、他のソネットでも同じです。
3連では「内密な眠り」が歌われている。Innig、イニッヒ、内密なという言葉のリルケの意味については、第2部ソネットXIIIの第3連第2行で説明した通りです。「永遠の子供の性質を誰かが内密な眠りの中にとり入れ、そして、ものと一緒に深く眠る」とは、今までのソネットの中で出てきた言葉で言えば、verlernen、(学んで)忘れるという言葉を思い出します。ものを覚えているのではなく、それは忘れて、その影、蔭、痕跡、軌跡を考えよ。第2部ソネットIIの第3連第3行でした。しかし、この思想は、ここばかりではなく、ソネットのあちこちに出てくるのでした。
また、眠りということから、第1部ソネットIIの娘の眠りも同じ眠りと、ここまで来ると、考えることができます。我を忘れる深い眠り。世界を眠る少女。この少女は、話者の中で眠っているのでした。しかし、眠るとはいえ、「ものと一緒に深く眠る」いい、「深く」といったときには、わたしは、オルフェウスの上昇を思います。意識無意識の境を越えて眠り覚醒し深く垂直に上昇するオルフェウス。
だから第4連では、「あるいはまた、オルフェウスは、ひょっとしたら留まっているのかも知れない。」と歌われているのでしょう。しかし、「ひょっとしたら」とありますから、その可能性は低い。しかし、わたしたちは、なかなかオルフェウスがそれに変身しているとは気づかないのですが、でもひょっとしたらそれかも知れない。そうであれば、確かにものはオルフェウスを褒め称えることでしょう。
オルフェウスは、改宗者と別の名前で言い換えられ、呼ばれていますが、これはキリスト教の内側の言葉としては、キリスト教徒に改宗することですが、しかし、リルケの場合は、そうではなく、あるいは全く逆の方向であることは、その「改宗者」を形容する言葉を読めば明らかだと思います。
最後に、もう一度第2連に戻ると、その冒頭にある、
Alles will schweben.
全ては浮きたいと欲している。
という一行は、重要です。
なぜならば、この一行は、リルケの空間には意志があることを示しているからです。

2009年12月30日水曜日

オルフェウスへのソネット(XIII)(第2部)

XIII

SEI allem Abschied voran, als wäre er hinter
dir, wie der Winter, der eben geht.
Denn unter Wintern ist einer so endlos Winter,
daß, überwinternd, dein Herz überhaupt übersteht.
Sei immer tot in Eurydike —, singender steige,
preisender steige zurück in den reinen Bezug.
Hier, unter Schwindenden, sei, im Reiche der Neige,
sei ein klingendes Glas, das sich im Klang schon zerschlug.
Sei — und wisse zugleich des Nicht-Seins Bedingung,
den unendlichen Grund deiner innigen Schwingung,
daß du sie völlig vollziehst dieses einzige Mal.
Zu dem gebrauchten sowohl, wie zum dumpfen und stummen
Vorrat der vollen Natur, den unsäglichen Summen,
zähle dich jubelnd hinzu und vernichte die Zahl.

【散文訳】
今まさに行こうとしている冬がそうであるように、別れが恰もお前の後ろにあって
過ぎてしまっているかのように、すべての別れに先立ってあれ。
というのは、冬のなかでも、ある冬は、もう限りなく冬だから、お前のこころは、
越冬しながら、そもそも堪え忍ぶことになるのだから。
いつもエウルューディケの中で死んであれ、もっと歌って昇れ、
もっと褒め称えて昇り、純粋な関係の中へと戻るのだ。
ここ、縮んで行くものたちの間では、傾きの王国にいなさい、
響きの中で既に割れてしまった響き亘(わた)る一個のグラスでありなさい。
ありなさい―そして同時に、無い存在(非存在)の条件を知りなさい、
お前の内密な振動の果てしない根拠を知りなさい、そうすれば、お前はこの振動を
この唯一一回だけ完全に執行するのだ。
一杯の自然の、使用されたまた鈍く黙した貯蔵に、即ち言葉で言い表すことのできぬ合計に
お前自身を歓喜を以って付け加えて勘定し、そして数を破壊しなさい。

【解釈】
前のソネットでは、別れも歌われていることから、同じ詩想を繋いで、このソネットでは別れが第1連で歌われる。

しかし、そのこころは、第1連から先の連を読み進めると、一言でいうと、時間を超越しなさいということを歌っているのだということがわかる。

別れも単に別れるのではなく、既にして別れよといっているのだ。第2連のグラスも、既に割れる前のグラスとして、割れた音の中に既にして響き渡るその響きを有するグラスとして存在せよといっている。哲学者ならば、この響きはa prioriな響きだというでしょう。
そのようなあり方を、第2連で「いつもエウルューディケの中で死んであれ」と言っている。エウルューディケは、オルフェウスの妻。死んで冥界にいるものだ。生きる前に、既にして死んであれと言っているのだ。それも同じ性の中で死ぬのではなく、異性の中で死んであれかしといっている。これは、普通の人間にできることではない。そのような訓練、修練をしたものだけが、人間ならば、できるということになるだろう。そのような職業の名前を挙げると、役者という名前がまづ最初に思い浮かぶ。確かに、変身をし続け、それに堪える仕事だ。

「いつもエウルューディケの中で死んであれ」とは、また、永遠に別れる前に既にして別れよといっていると解釈することもできる。これは第1連からの詩想をそのように受け継いでいるということだ。

2連の最初の2行の全体、

いつもエウルューディケの中で死んであれ、もっと歌って昇れ、
もっと褒め称えて昇り、純粋な関係の中へと戻るのだ。

をこうしてみると、死ぬこと、すなわち変身すること、姿を変えながら歌い、褒め称えて垂直に上昇すること、そうやって純粋な関係に戻ることが、無理なく一連の振る舞いとそのこころのように理解することができます。純粋な関係とは、前のソネットでも論じたentityという概念、星座やそのほかの姿のことを思い出してもよいと思います。いづれにせよ、リルケがrein、ライン、純粋なという言葉を使うときには、その空間(ここではBezug、ベツーク、関係という空間)には、時間は存在しないのでした。

また第2連では、「ここ、縮んで行くものたちの間では、傾きの王国にいなさい」と歌われていて、上で述べたこころ構えでいる者に対して、この世の私たちのあり方を「縮んで行くものたち」と呼んでいる。リルケは、死ぬひとたちとは呼ばない。生と死は別ではないと考えているからです。悲歌2番の第3連に、

Denn wir, wo wir fühlen, verflüchtigen; ach wir
atmen uns aus und dahin; von Holzglut zu Holzglut
geben wir schwächern Geruch. Da sagt uns wohl einer:
ja, du gehst mir ins Blut, dieses Zimmer, der Frühling
füllt sich mit dir... Was hilfts, er kann uns nicht halten,
wir schwinden in ihm und um ihn.

【散文訳】
(天使という鏡が自身から流れ出た美を創造して自身の顔に汲み戻すということにつき、何故天使がそうするかというと)何故ならば、わたしたちが感じるところ、感じる場所では、わたしたちは、いつも何かを発散させ、揮発させて、減ってゆき、衰えて行くからだ。ああ、わたしたちは、自分自身を、呼吸をして吐き出し、そうして、彼方へ行く(年老いて、死んでしまう)。というのも、熾(お)き火から熾き火へと、火を熾(おこ)すために息を吹きかけて、息を吐いて行くごとに、わたしたちは臭いを発散させてゆき、その臭いは、段々と弱まってゆくからだ。だから、誰かが、わたしたちに向かって、こう言うだろう。そうさ、お前さんが、わたしの血の中に入ってゆく、この部屋の中にも、この部屋も、春も、お前で一杯になる、と。だから、どうなるというんだ。春も、わたしたちを同じ状態にとどめることはできないし、わたしたちは、春の中で、春をめぐって、小さくなり、減ってゆく、衰えて行く。

とあり、また同じ悲歌9番第3連にも、わたしたちの生の一回性が歌われているところで、次のような箇所があります。今こうして、このソネットを論じるために悲歌9番の冒頭からこの第3連までを読み返してみると、このソネットと全く同じ主題が同じ詩想によって、言葉は違いますが、歌われていることがわかります。これらは互いに照応して、互いの完全な註釈となっています。主題は、時間を越えること、あるいは時間と無関係に存在することであり、それは既にしてそうあれかしということです。そうして、そのことに対比して歌われる、わたしたち人間の人生の一回性、二度と取り返しがつかない人生、生が歌われている。

Aber weil Hiersein viel ist, und weil uns scheinbar
alles das Hiesige braucht, dieses Schwindende, das
seltsam uns angeht. Uns, die Schwindendsten.

【散文訳】
(月桂樹のように変わらないこころのあり方に対して)しかし、ここにいるということは、たくさんなことであるから、そして、見かけの上では、すべてここにあるものは、わたしたちを必要とするのであるから。すべてここにあるもの、即ちほとんどわたしたちに関係のないこの縮んでゆくものは、わたしたちを、最も縮んでゆくものたちを(必要としているのだ)。

と歌われています。

このschwinden、シュヴィンデンという動詞で、リルケが概念化したものは、ここで今わたしこう述べたことよりももっと深いものがあることが、悲歌9番の冒頭の数連から既に窺えます。単に生と死が別のものではないという以上にもっと溢れた詩想をリルケは悲歌で歌っているのです。これは、もう一度悲歌に戻って論じるときに論じることにいたしましょう。

さて、そのように現世でのわたしたち人間がある中で、オルフェウスに向かって話者が、「傾きの王国」にいなさいとは何をいっているのでしょうか。Neige、傾きという言葉には、また減少、衰弱、衰微という意味もありますので、その中に生きて、その生を王国となしなさいという意味にとることにします。王国になるのは、第1連の冬にそうであるように、überstehen、ユーバーシュテーエン、堪えるということによってです。

3連は、これまで悲歌とソネットを読んできた読者には分かり易い。前のソネットでも言及しましたが、リルケがこの「振動」や「跳躍」という言葉、schwingen、シュヴィンゲン、それから生まれたSchwingung、シュヴィングングとかSchwung、シュヴングという名詞を使うときにはいつも、それは新しい生命の誕生を意味しています。新しい宇宙、新しい世界の誕生です。そのために、神々しい美しい若者が死を受け容れるということが、リルケの少なくともこの最晩年の詩の主題であることは、既に悲歌1番の最後の連で見た通りであり、オルフェウスもまた正にそのような人物として歌われています。

そうして、この第3連の最後でも歌われているのは、平俗な言い方をすれば、人生は一度しかない、二度繰り返さないという、生の一回性の強調です。そのための、無私の生を生きるということ、それを「無い存在(非存在)の条件」といい、「お前の内密な振動の果てしない根拠」と言っています。「振動」、Schwingung、シュヴィングングについては、既に触れました。

また、innig、イニッヒ、内密なという言葉も、リルケが独特に概念化して使っている言葉です。悲歌7番第1連で、die innige Himmel、内密なる天と歌われ、悲歌9番の第5連にも「どのように、物という物が、存在することを一度も内密に思わなかった」と歌われ、なによりも悲歌1番第1連の最後の行では、鳥は「内密な飛行」をするのでした。それは、オルフェウスへのソネットでは、風の性質として歌われている状態を意味しています。それは、分かれ別れることなくいつも一体である状態です。それは、人間ならば、呼吸によって空間を交換して、その人間の成長、即ち上昇することによって増大して行く内側の純粋な空間を意識した言葉です。それから悲歌3番第1連では、そのような洞察をした洞察が「内密な洞察」と言われています。

さて、第4連は、悲歌5番の次の連に正確に呼応しているとわたしは思います。

Und plötzlich in diesem mühsamen Nirgends, plötzlich
die unsägliche Stelle, wo sich das reine Zuwenig
unbegreiflich verwandelt -, umspringt
in jenes leere Zuviel.
Wo die vielstellige Rechnung
zahlenlos aufgeht.

【散文訳】
そうして、そこに突然、不意に、この疲れたどこにもない場所の中に、突然、不意に、言いがたき場所、名状しがたい場所、言葉では言い表すことのできない場所が、現れ、そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。

この第4連の3行は、リルケが詩人である以上、リルケの生理を離れぬ、リルケの経験した3行であると思います。悲歌5番のこの連の解釈については、「リルケの空間論(個別論2):悲歌5番」(200989日)(http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/2.html)以下に詳述しましたので、それをご覧下さるとうれしく思います。

また、この3行は、前のソネットの、

Worte gehen noch zart am Unsäglichen aus...

【散文訳】
言葉は、まだ柔らかく、言葉では言い得ぬものを頼りにして、外へ出てゆく
を思わせます。

一杯の自然の、使用されたまた鈍く黙した貯蔵」という表現は、自然の豊かさを歌っている。その豊かさは、数に関係したもので、しかも数を破壊するものだというのです。

1,2,3...と数を数えることは、一体何を意味しているのでしょうか。もしこれが時間の順序を意味しているとしたら、純粋な空間を求めるリルケは、言葉を頼りにそれを破壊し、人間の縮まざるを得ないこの空間の外に出てゆくのです。それが言葉の力だとでも言うかのように。

2009年12月29日火曜日

オルフェウスへのソネット(XII)(第2部)

XII

WOLLE die Wandlung. O sei für die Flamme begeistert,
drin sich ein Ding dir entzieht, das mit Verwandlungen prunkt;
jener entwerfende Geist, welcher das Irdische meistert,
liebt in dem Schwung der Figur nichts wie den wendenden Punkt.

Was sich ins Bleiben verschließt, schon ists das Erstarrte;
wähnt es sich sicher im Schutz des unscheinbaren Grau's?
Warte, ein Härtestes warnt aus der Ferne das Harte.
Wehe —: abwesender Hammer holt aus!

Wer sich als Quelle ergießt, den erkennt die Erkennung;
und sie führt ihn entzückt durch das heiter Geschaffne,
das mit Anfang oft schließt und mit Ende beginnt.

Jeder glückliche Raum ist Kind oder Enkel von Trennung,
den sie staunend durchgehn. Und die verwandelte Daphne
will, seit sie lorbeern fühlt, daß du dich wandelst in Wind.

【散文訳】

変身を欲せよ。ああ、炎に歓喜せよ、

その中では、幾多の変身を見せびらかし、誇示する物が、お前から遠ざかるのだ。

地上的なるものを支配する、企図する精神、企画する精神は、姿の振動と跳躍の中に、転回点のような無を愛しているのだ。

留まることの中に閉じ籠るもの、それは既に硬直したものだ。

硬直したものは、みすぼらしい白髪の老人の庇護のもとに、安心して妄想に耽っているのだろうか。待て、最も厳しいものが、遠くから、厳しきものを警告している。

傷ましいことだ、不在の鉄鎚(かなづち)が、打ち下ろそうと待ち構えているのだ。

源泉として自分自身を注ぐ者、この者を、認識することは、認識しているのだし、

認識することは、この者を魅了して、明朗に創造されたものを通じて導くのだが、

この明朗に創造されたものは、しばしば始めで閉じ、終りで始まるのだ。

どの幸せな空間も、分かれていることの子供であり、また孫であり、その空間を、子供や孫は驚きながら通って行くのだ。そして、変身したダフネは、自分が月桂樹を感じて以来、お前が風の中で変身するということを欲しているのだ。

【解釈】

前のソネットが、より明朗なる精神を歌っているので、ここでも精神と、明朗に創造されたるものが歌われています。

お前と呼びかけられている相手は、オルフェウスです。

1連のFigur、フィグーア、姿、第3連のdie Erkennung、エアケンヌング、認識すること、第4連のRaum、ラウム、空間、リルケの宇宙では、これらは縁語です。一言で言えば、みな同じこと(ものではない!)を意味しています。

Figurと言えば、entity、実在、存在を、entityと言えば、「-ung」で終わる動詞であり、即ち、そのまま空間を意識するのです。これらは一連の概念のあり方です。ですから、

「認識するということ」は空間なのであり、空間が何かを認識しているという意味になります。第1部ソネットXIの第1連第1行に歌われている

SIEH den Himmel. Heißt kein Sternbild «Reiter»?
天を見よ。騎士座という星座はないのだろうか?

と歌われた星座、この星座というものは、点を結合して意味あるものとなされたこと、すなわちentity、実在に他なりません。大熊座、小熊座、天秤座、これらはentityです。あるいは、それらのentityの間に関係があれば(それは神話と呼ばれる)、それもentityです。また父と母という関係、親子という関係もentityです。そうすると家族もentity。そうです、これは関係概念なのです。人間が認識してそこにひとつの纏まりを知ったならば、それはentityと呼ばれます。そこには不思議な話しも生まれることでしょう。これは認識することの結果、生まれることです。認識の対象として、結合されて存在することなのです。これをリルケは、ソネットの中では、Figur、フィグア、姿と言っています。また、第1部ソネットXIIの第2連、

HEIL dem Geist, der uns verbinden mag;
denn wir leben wahrhaft in Figuren.

【散文訳】

精神において快癒せよ。精神は、わたしたちを結びつける。

なぜならば、わたしたちは、真に、(結ばれて初めて形をなす)姿として生きているからだ。

このソネットXIIの第2連は、ひとことでいうならば、わたしたち人間は、entity、実在に生きている、存在に生きていると歌っていることが、あらためてわかります。そうして、それをなさしめているのが精神であるといっている。そうして、精神は明朗なるものである。

さて、第1連で、「転回点」と一語に訳した言葉は、分かれる点と訳すことができます。むしろ、この方が原文の意味の流れに沿っていることでしょう。この分かれるという動詞のドイツ語は、wenden、ヴェンデンというのですが、この言葉は、やはり同じ第1部ソネットXIに、次のように歌われて出てきました。

Ist nicht so, gejagt und dann gebändigt,
diese sehnige Natur des Seins?
Weg und Wendung. Doch ein Druck verständigt.
Neue Weite. Und die zwei sind eins.

【散文訳】

この、(名誉心という)存在の憧憬の性質は、このように、(狩猟でのように)狩り立てられ、そして、(手綱で)制御され、抑えられているのではないか?

道と分岐点。しかし、そんなことはない、ある圧力が教え、解らせるのだ。そうして、新たなる先へと続く。こうして、ふたり(の騎士)は、ひとつになる。

ここで「分岐点」と訳した名詞、wendung、ヴェンデゥングが、動詞wenden、ヴェンデンから生まれた言葉だということは、その言葉の姿を見ればわかるでしょう。

それで、第4連の第1行に「分かれることの子供や孫」として出てくるのです。リルケがこのWendungwendenという言葉を使うときにはいつも、それは別れではなく、全く逆のこと、即ちひとつになること、意思疎通、コミュニケーションを完全にして一体となることを意味しています。このソネットでも同じです。転回点とは、分岐点なのですが、それは、オルフェウスがひとつのものから次のものへ、ひとつの姿から次の姿へと変身するその変化点を言っています。それは、無です。変身は、無私の、私を喪う無償の行為でありました。そうして、その無、nichts、ニヒツは、「姿の振動と跳躍の中に」あるのですが、リルケがこの「振動」や「跳躍」という言葉、schwingen、シュヴィンゲン、それから生まれたSchwingung、シュヴィングングとかSchwung、シュヴングという名詞を使うときにはいつも、それは新しい生命の誕生を意味しています。新しい宇宙、新しい世界の誕生です。そのために、神々しい美しい若者が死を受け容れるということが、リルケの少なくともこの最晩年の詩の主題であることは、既に悲歌1番の最後の連で見た通りであり、オルフェウスもまた正にそのような人物として歌われています。

3連の第1行「源泉として自分自身を注ぐ者、この者を、認識することは、認識している」とは、一見普通に考えると奇妙な文に見えるかも知れませんが、既に上でentityという概念を説明しましたように、また今までのソネットで何度か言及してきましたように、何々することという動詞を名詞化した名詞を使うときには、リルケはいつも空間を意識しており、この空間が認識するのであれば、それはドイツ語の言葉の使いかたとしては、あるいは英語もそうであると思いますが、少しもおかしいことではないのです。

認識するということがentityとして存在し、それはひとつの姿である。その姿が、惜しみなく我が身を与える者を認識するのです。認識によって創造された関係概念が、何かを認識する。わたしが、リルケの空間とは、言語の世界でいう概念のことを実は言っているのだということは何度か言及してきた通りです。そして、ひとつの概念は、ひとつの次元なのです。この次元をリルケはRaum、ラウム、空間といっています。このことを説明するには、もっと別の機会に言葉を尽くさなければなりません。

それでは、この空間は認識する以上何か意志ともいうべきものがあるのでしょうか。それは生きているのでしょうか。そのことにリルケは正面から答えません。悲歌5番の曲芸師の歌で、かろうじてこのことに触れていますが、しかし、そこでもやはり正面から回答してくれておりません。しかし、リルケのこのような文を見ると、生命とは何かという問いは今仮に横に措いておくとしても、この空間は主語になり得る以上、わたしには生きているように見えます。さらにしかし、リルケの空間は、内と外の交換、即ち息をする、atmenということによって交換されるのでした。ですから、交換ということによって移動する空間です。この交換をなさしめている力があることをリルケは知っていたでしょう。さらにしかし、その力を何かの名前で呼ぶことをリルケはやはりしないのです。神とは呼ばない。神もまた悲歌8番でみたように、そう呼べば、それは空間なのです。なぜならば、神もまた概念であり、ひとつの次元だからです。これがわたくしのリルケの空間の解釈です。

3連の「この明朗に創造されたものは、しばしば始めで閉じ、終りで始まるのだ。」という意味は、精神は明朗であり、そのような精神の創造したものは、offen、オフェン、開かれていると言っているのです。「始めで閉じ、終りで始まる」点があれば、それは「分岐点」でありましょう。同時に、それは、無私の変身の無の一点。それを企図する精神は愛するのだ。それをリルケは歌っています。この企図する精神は、第2部ソネットXXIVには、冒険者たちと呼ばれて歌われています。その冒険者たちの精神は、次のように歌われている。

Götter, wir planen sie erst in erkühnten Entwürfen,
die uns das mürrische Schicksal wieder zerstört.

【散文訳】

神々を、わたしたちは、神々を、敢然たる企図の中で計画するが、

その企図、企画は、気むつかしい運命が再び破壊してしまう。

さて、第4連、最後の連では、もしそのひとが幸せであるならば、つまりリルケ流に言えば、幸せの空間にいるならば、それは、別れ、分離、Trennung、トレヌングがあって、その功徳の御蔭だといっています。功徳の御蔭とは、日本人のわたしのものの言い方ですが、リルケならば、上に散文訳したように表現するのです。わたしたちの精神がもし無私の変身を遂げる努力をするならば、世代を隔てて、その因果はわからないけれども、必ず結実するということなのでしょう。それは、その空間は、ひとびとを幸せにすることなのです。そうであれば、アポロンの求愛を逃れるために月桂樹に変身したダフネも、オルフェウスが風の中で変身することを欲している。わたしたちは、それぞれ一体誰なのでしょうか。わたしたちは、それぞれ誰かの変身した姿ではないでしょうか。そのように思われてなりません。そのような変身した姿の者として、わたしたちは会っているのではないでしょうか。

2009年12月28日月曜日

ツィンマー家の人々にお世話になって

An Zimmern

Von einem Menschen sag ich, wenn der ist gut

Und weise, was bedarf er? Ist irgend eins,

Das einer Seele gnüget? ist ein Halm, ist

Eine gereifteste Reb auf Erden

Gewachsen, die ihn nähre? Der Sinn ist des

Also. Ein Freund ist oft die Geliebte, viel

Die Kunst. O Teurer, dir sag ich die Wahrheit.

Dädalus Geist und des Walds ist deiner.

【散文訳】

ツィンマー家の人々にお世話になって

ひとりの人間について、わたしが何かをいうとして、

その人が善良で、聡明な人であったならば、その人に

何が不足することがあろうか。一個の魂を満足させる

何かがあるだろうか?一本の藁だろうか、いや、その人を養う

地上で最も熟した葡萄が成長したのだろうか?その意味は、こうだ。

つまり、一人の友人が、よく愛する女性であることがあり、非常に

多くの場合、その女性とは芸術である。おお、親愛なる人よ、お前に

わたしは真実を言はう。デーダルスの精神と森の精神とは、お前の精神のことだ。

【解釈】

ヘルダーリンは、同じ題名で、幾つかの詩を書いている。これは、そのふたつ目の詩です。

取り上げている詩は、それからこれから取り上げる詩も、みな、ヘルダーリンが狂気に落ちてからの期間、34歳から73歳までに書かれた詩です。

この詩も、独白というべき詩だと思う。親愛なる人に呼びかけている。孤独に陥ると、誰かに呼びかけなければ、文を歌い、書くことができなくなるのだ。その最たる誰かとは、もうひとりの私のことだろう。そのような、三人称としての私、二人称としての私がいるとして。いるだろう。

2連で、友人として愛する女性に譬えられているのは芸術であるが、それは、同時にドイツ語で、芸術が女性名詞であるから、その譬えが生きている。

この詩を書いているヘルダーリンの思考の速度は性急だ。ヘルダーリンと一緒に文字を読んでいて、そう、思う。

デーダルスとは、辞書によれば、ギリシャの伝説的な名匠の名前で、クレタ島に迷宮を造った匠である。

ヘルダーリンという人は、自分自身にとっての人間の理想像を創造しようとした人だということがわかる。一人の人物を、ヴィジョンを以って、造形することは、詩人の使命であり、詩人はそれを成し遂げるものだ。これは、リルケの詩を読んで、教わったこと。しかし、真の芸術家ならば、このことをするだろう。

また、「デーダルスの精神と森の精神」とは、お前の精神だと、目に見えない相手、自分自身の創造している相手に向かって言っているが、これはどのような精神であろうか。

迷宮も森も、ひとが踏み迷う場所だが、それを厭わぬものが、精神だというのだろうか。しかし、デーダルスが迷宮の設計者であれば、そのような複雑怪奇な世界の創造者であもあるとも言っているのだろう。森をも又創造する精神であれ。複雑で豊かな世界の創造者の精神と言っているように聞こえる。そうであれば、そのような精神とは、非常に単純な思考形式を持った精神だという気が、わたしには、する。それで、気が狂ったのだろうか。

翻って、第1連を読めば、そのような人間、善良で聡明な人間である、そのような精神は、一本の藁でも養われると言っている。そのような精神にとっては、一本の藁でも、成熟しきった葡萄と同じだといっている。それが友であり、即ち、愛する女性であり、更に即ち、芸術であると。ヘルダーリンは、そういっている。

Wunsch

Hier ist die Uebersetzung von Rachels Gedicht, ""Wunsch", ins Japanische. Mein Versuch.


Wunsch


ab und zu

bevor ueberhaupt geschrieben

nimmt die zeit

das wort

mit sich fort

worte

wortgedanken

werden dabei gewesen sein

die nicht haltbar waren

die den einfluessen von aussen

nicht standhielten

keinesfalls

zu mir passten

dann bleibt die suche

nach neuen worten

und

mein wunsch

ihnen bis auf den grund zu kommen

ihnen mein denken einzuflechten

sie mit meinem eigenen rhythmus

zu bestuecken

ich wuenschte

es sollte mir

oftmals

aufs neue gluecken


【散文訳】

願い

時折

そもそも書く前に

時間が言葉を時間と一緒に連れて行ってしまう。

言葉たち、言葉による思想が

あったに違いないのだが

それが留まらなかったのだし

それが外側からの影響に堪ええなかったのだし

全然わたしには合わなかったということなのだ

だから、新しい言葉を求め続ける

そして

わたしの願いは、新しい言葉たちをその根底にまだ至ること

新しい言葉たちに私の思考を織り込むこと

新しい言葉たちを、わたしの独自の韻律で武装することなのだ

わたしは

しばしば

それが、新たに、うまく行けばよいと

願った

オルフェウスへのソネット(XI)(第2部)

XI

MANCHE, des Todes, entstand ruhig geordnete Regel,
weiterbezwingender Mensch, seit du im Jagen beharrst;
mehr doch als Falle und Netz, weiß ich dich, Streifen von Segel,
den man hinunter gehängt in den höhligen Karst.

Leise ließ man dich ein, als wärst du ein Zeichen,
Frieden zu feiern. Doch dann: rang dich am Rande der Knecht,
— und, aus den Höhlen, die Nacht warf eine Handvoll von bleichen
taumelnden Tauben ins Licht... Aber auch das ist im Recht.

Fern von dem Schauenden sei jeglicher Hauch des Bedauerns,
nicht nur vom Jäger allein, der, was sich zeitig erweist,
wachsam und handelnd vollzieht.

Töten ist eine Gestalt unseres wandernden Trauerns...
Rein ist im heiteren Geist,
was an uns selber geschieht.

【散文訳】

幾多の、死の、静かに何の変哲もなく秩序立てられた規則が成立した、

更に強制する人間よ、お前が狩りに固執し、狩りを主張して以来。

もちろん、罠(わな)と網以上に、わたしはお前を知っている、穴の開いた

石灰岩台地の中、穴の下の方に掛けて鳥を捕らえるために使う帆布の幕を。

恰もお前が平和を祝う印(しるし)であるかの如くに、ひとはお前を招じ入れた。

しかし、そうした途端、騎士の待臣、従者が、縁のところで、お前と格闘し、

しかし、数々の獣の穴の中から外へと、夜が片手一杯の青ざめた、よたよたと歩く鳩を光の中へと投げ入れたしかし、それもまた正しさの内にあるのだ。

見る者から遠く離れて、憐れみの吐息はどの吐息も、あれ。いいタイミングで証明するものを、用心深く且つ規則に従って行うことで執行する狩人ばかりから離れているだけではなく。

殺すということは、わたしたちの遍歴する悲しみの姿なのだ

わたしたち自身の身に起きることは

より明朗な精神の内にあって、純粋なのだ。

【解釈】

ソネットXIで、死刑を宣告する裁く者に呼びかけ、死を歌い、ソネットXで機械と芸術を歌って、このソネットでは、それらのやはり連想があると思いますが、引き続き死を、狩りとの関係で歌っています。

この詩を読み始めると忽ち、最初の一行の語順が破格であることが目を惹きます。語順通りに訳せば、

幾多の、死の、成立した、静かに変哲無く秩序立てられた規則

というのです。

つまり、成立したという動詞が、「幾多の、死の、静かに何の変哲もなく秩序立てられた規則」という主語の間に挟まっているのです。これに類似した例は、リルケが花と女性を以って、性愛を歌うとき以外にはありません。ここでは、性愛ではありませんが、全く逆の意味で、時間を捨象しようとリルケに思わしめた事情が伏在するのかも知れません。しかし、時間を捨象することはできなかった。

このソネットは、何があっても徹底して死の規則に従わしめる人間に対して呼びかけ、歌われている。それは、平和の象徴だとひとびとは誤解した。そうではなかった。

また、このソネットでは、時間の取り扱いについても破格です。これは、最初の一行の語順の破格と脈絡が通じているのだと思います。死の規則が成立したと過去形で主文はあるのに、従属文である文の「お前が狩りに固執し、狩りを主張して以来」の「して」は、現在形だからです。普通に考えれば、この「して」は過去形になると思います。規則の成立は過去だが、この人間が狩りに執着することは今も続いているというのでしょうか。しかし、それでは、主文と従属文の時間の因果を引っくり返すことになる。しかし、時間の順序を引っくり返す、それこそが、ここで、リルケのしたかったことなのだと思います。

1連の、狩りのために使う帆布については、リルケによる自註があります。

Bezugnehmend auf die Art, wie man, nach altem Jagdgebrauch, in gewissen Gegenden des Karsts, die eigentümlich bleichen Grotten-Tauben, durch vorsichtig in ihre Höhlen eingehängte Tücher, indem man diese plötzlich auf eine besondere Weise schwenkt, aus ihren unterirdischen Aufenthalten scheucht, um sie, bei ihrem erschreckten Ausflug, zu erlegen.

古い狩りの習慣に従って、石灰岩台地の或る地方では、もともと青ざめた色の、洞窟に棲む鳩を、慎重に(鳩たちの)穴に掛け入れた布を使って、この布を突然ある特別な方法で揺れ動かして、地下にとまっているところを無理やり追い出して、驚いて飛び出すところを殺す、その方法を言っている。

さて、この死の規則の男、多分男でしょう、この男は、平和の象徴と思って、この世界の中に入ることを許されたといっています。ところがそうではなかった。入った途端に、騎士の従者と縁(へり)で格闘することになった。

この騎士の従者は、第1部ソネットXIの騎士の従者と考えることができます。隣にいる者こそ最も遠い者だと知っている騎士。孤独にあるのではなく、遠くあって且つこころを通わせ、互いを結びつけ結びつけられ、意思疎通、コミュニケーションすることを願っている騎士、その騎士の従者だと思いましょう。騎士はもちろんですが、従者もこのような男の入場と、そのような死の規則の適用をさせまいと戦ったのです。そこが、普通の、世間の人間たちとは最初から違います。縁でというのは、ぎりぎりのところで、何があってもそうはさせないという意味に理解するができます。

しかしそれでも、夜に、きっとこの洞窟に棲む鳩の狩りは夜行われたのでしょう、驚いて光の中に飛び出してくる鳩たちは、そこで殺されてしまう。しかし、これも正しいことなのだと話者は歌う。わたしには、この殺生も現実だといっているように聞こえる。

狩人ばかりではなく、またその狩りを見物しているひとからも遠く離れたところにも、お悔やみの、悲しみの吐息はあれよかしと祈願され、歌われています。狩人は、ただ、タイミングよくなすべきことをなしているだけなのです。同じことは、狩りだけではなく、そこから遠い、普通の、普段の生活の中にもあるだろうと言っている。それは、その通りではないでしょうか。

この狩人や見物人から遠くあってもなおあれかしと歌われているのは、Hauch、ハオホ、吐息です。ほっとか、ほうとかいって出す小さな息のことです。この息といえば、空気、空間、風が、その類語であったことをもう一度思い出しましょう。第1部ソネットIIIの第4連、同じ部のソネットIVの第1連と第4連を思い出すことにしましょう。これらは、全体を備えて分かれることのないものでした。

このソネットの吐息は、悲しみの吐息ではありますが、ふたつに分かれることなく、いつもひとつになっている空間、すなわちこころの平安が、語義の矛盾のように見えますが、悲しみのこころの平安があれよかしと歌われています。これは、祈りの文です。

何故ならば、最後の連、

殺すということは、わたしたちの遍歴する悲しみの姿なのだ

とあるように、殺生は、生きている限り避けることはできないものだからです。

この一行は、斜字体になっていますので、リルケの思いが一層籠められています。一種、箴言のように響きます。

さて、最後の2行は、そうであればこそ、わたしたち自身が殺されることになろうと、それは、精神の中で起きる事件であるならば、純粋であるのだ、そのように私達の身に死が起きても、そのように考えよと歌っています。

2連の「それもまた正しさの内にあるのだ。」と、最後の第4連の「より明朗な精神の内にあって、純粋なのだ。」という二つの文は、何々の内においてという言葉の使い方の点で、明らかに共通させて、ものごとの両面を表現しようとしています。鳥を追い出して殺すことも正しければ、わたしたち人間がなにかの理由で鳥のように殺される側になるとしても、それもまた精神の中では、正しいとは言わないが、しかし、それを受け容れることは、純粋なことであるのだ。

リルケがrein、ライン、純粋なという形容詞を使うときには、いつも時間を捨象するという意味です。精神の内、精神の中とは、精神の空間の中と考えても間違いではないし、そう考えることができます。そのような空間は、時間がなく、永遠で、神とさへ言い換えられていることは、既に悲歌8番の第1連で見た通りです。動物や花の知っている、死から自由な、開いている空間。

「殺すということは、わたしたちの遍歴する悲しみの姿なのだ」から、殺生する人間よ、自らが殺されるときには、死を精神において受け容れよという思想は、苛烈な思想であるとわたしは思います。これがリルケなのでしょう。

オルフェウスが身を引き裂かれて、殺されたこと、ソネットで歌われているその意義もここにあるのでしょう。オルフェウスの死を思えとリルケは言っているようです。

1部ソネットXIIで、「精神において快癒せよ。精神は、わたしたちを結びつける。」と歌われていることを、ここで思い出しましょう。リルケの考えは、思想というべきでしょうが、首尾一貫しています。(もちろんそうでなければ、思想とは言えません。)