2014年11月16日日曜日

【Eichendorfの詩92】An die Waldvoegel(森の鳥達へ)



Eichendorfの詩92An die Waldvoegel森の鳥達へ)  
  

【原文】


Konnt mich auch sonst mitschwingen
Uebers grüne Revier,
Hatt ein Herze zum Singen
Und Flügel wie ihr.

Flog über die Felder,
Da blüht’ es wie Schnee,
Und herauf durch die Wälder
Spiegelt’ die See.

Ein Schiff sah ich gehen
Fort über das Meer,
Meinen Liebsten drin stehen−
Dacht miner nicht mehr.

Und die Segel verzogen,
Und es dämmert’ das Feld,
Und ich hab mich verflogen
In der weiten, weiten Welt.



【散文訳】


わたしは、実際、普通に、一緒に鳴動し、飛び上がることができた
緑の区域を超えて
わたしは、歌ふために、ひとつの心臓を持つてゐた
そして、お前たちのやうに、翼を持っていた。

わたしは、数々の野原の上を飛んだ
そこには、雪のやうに花が咲いていた
そして、それから、こちらへと、数々の森の中を通つて
海が輝いてゐた。

一艘の船が往くのを、わたしは見た
海の上を超えて、前進するのを
わたしの一番愛する男が、その船の中に立ってゐるのを見た
わたしは、わたしのことを、もはや憶えてはいなかった。

そして、帆船が、どこかへとゐなくなつた
そして、野原が夕暮れた
そして、わたしは、飛び迷つた
遥かな、遥かな世界の中を。


【解釈と鑑賞】


第1連の緑の区域と訳したドイツ語の動詞は、revierenといって、これは外来語ですが、その意味は、狩猟犬が猟区内で獲物を探し廻るという意味ですので、当然のことながら、区域と訳したこの名詞Revierにも、やはり、その意味が備はっていて、これは自分の森の中で子供時分より親しんだその狩りのことが、それとなく示されていると考えてよいでせう。

かうして訳しながら考えてみますと、第1連と第2連の主語は、ich、即ちわたしはといふのですが、それが文字として示されておりません。

普通ドイツ人が、いや日本人もさうでありませうが、主語を書かないときには、その一行が、極く私的な、例えば日記や備忘のやうなものであるか、伝聞体で、簡単明瞭に用件のみを丁度電報のやうに伝えるといふ、そのやうな場合でありませう。

この詩の話者は、そのやうな親しい相手、既に意思疎通の手順を共有している相手に向かって発せられた、そのやうな第1連、第2連だと考えることができます。自分自身をも含めて。

第1連の第1行目のmitschwingenのschwingeは、英語でいうならばswingですから、ジャズのスィングを思い出してみると、その言葉の意味の感じがわかるのではないでせうか。黙っていても、自然に体と心が動き、鳴動するといふことです。

この詩人にとって、森とは、それほどに親密で、深い世界なのです。

第3連の、

わたしは、わたしのことを、もはや憶えてはいなかった。

と歌うこの一行が、この詩の全体の意味の自註となつてゐます。

この一行は、詩人にとって本質的な、自己喪失、自己忘却を歌つてゐるのです。それも、最初にでも最後にでもなく、第3連の中にそつとをくことによつて。

その前の行の、一番愛する者(男)が船の中に立つてゐるのを見たといふ一行の後に、この忘却の一行の来ることに深い意味があります。

ひとを愛することと、自己を忘れることとは、裏と表の関係にあるのです。

すべての行は、過去形で歌われてゐること、既に起こった出来事として歌ってゐることもまた、詩人の忘却と喪失の経験の深さを物語るやうに思われます。







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