2014年11月24日月曜日

石原明詩集『雪になりそうだから』と『パンゲア』を読む(2)


石原明詩集『雪になりそうだから』と『パンゲア』を読む(2)

石原さんの前者の詩集への批評に引き続き、後者の、即ち『パンゲア』を読むことに致します。

やはり、この詩集を読むことは、既に前回の前者の論で言いましたように、このふたつの詩集は裏表の関係にある詩集でありますから、やはりそのように前者との関係で読みたいということと、それから句集『ハイド氏の庭』との関係でも、やはり読んでみたいと思います。

前回の批評で、わたしは次のように書きました。

「目次を見ますと、前者、即ち『雪になりそうだから』は、最初に同じ名前の詩を配置し、後者、即ち『パンゲア』では、同じ名前の詩を最後に配置しております。

後者のあとがきでは、「現代詩の最前線にいた詩人の中に帷子耀と支路遺耕治がいて一部の若い詩人たちの支持を集めていた。私もその一人であった。」とありますので、後者の詩集は、現実に対したときに、その事実を言語に変換する詩集であるの対して、前者の詩集は、冒頭に引用したように、更に全く有り得ない異次元の物語の世界を、言わば独白で自由に創造しようという試みなのです。」

この詩集は、一言でいいますと、前者の詩集の独白の、その居心地のいい安らかな中間空間である、始めも無く終わりもない、扉が常にOPENになっている場所であり同時にその空間を出るときにもその扉は永遠にOPENのままでいるその場所にいる話者のもう一つの自己が、現実に向かって目にし体験した物事を言語に変換したときに生まれた詩群から成っていると言うことができます。

この詩集に納められた詩は、敢えて思い切って言えば、次の7つの詩を除くと、一つ一つの詩篇はみな何か、一行一行は俳句の一行であるような一行詩の集合であるような一つの詩篇であると、そのように見えます。

1。六月のラフレシア
2。幽霊
3。発語練習
4。アンドロギュノス
5。2001年の私の旅は
6。だからもうコレッキリとは言わないで
7。パンゲア

全部で21の詩篇がありますから、その内の3分の2は俳句という一行詩からなる詩篇であると言うことができます。

これは、この詩人にとって、やはり俳句という古典的な言語藝術が、生きるために必要な様式であったということを示しているのではないかと思います。

独白の、メビウスの輪の物語を一人で歌うときには、敢えて俳句を必要としないのですが、現代の現実に相対したときには、この詩人は俳句の古典的な様式を必要とするのです。これは、余りにも図式的な理解でしょうか。わたしは、そうではないと思います。

この詩集の最後に置かれていて、そしてこの詩集の題名にもなってこの詩集を代表している詩『パンゲア』を見てみましょう。

一読、『雪になりそうだから』よりも、遥かに性愛と死の臭いのむせ返るような世界が現出することに、読者は気づき、驚きます。

その性愛と死の臭いは、この『パンゲア』という詩の、次の最初の2行に発していて、この臭いは、この詩集の詩のすべてに凝縮して立ち昇って来るのです。

「パンゲアと呼ばれて目覚めた
 名前をつけられて初めてわたしはわたしになった」

パンゲアとは、仮想の、仮説の大陸で、今の世界の分裂した大陸がもともとは一つであったそのときの大陸の名前です。

それは、この世にはやはり存在しない大陸の名前です。しかし、その大陸の名前を呼ばれて、初めてわたしがわたしになったと歌われています。

このことを、もう少し解釈すると、「雪になりそうだから」と思って、雪の降り始めない永遠の空間、即ち「ラプラタ河」の土手の小さな穴に籠って外界を眺める話者が、ここでは、既に嘗て分裂をしていたものとして、その名前を呼ばれて、一者としてこの世に目覚めるのです。

この一者であるパンゲアは、次々と分裂して行き、「ああ、ローラシア ゴンドワナ わたしの子供たち」と歌われ、「千切れたわたしを脅かす恐竜の足音」が歌われ、「わたしはクロノスのように腹を割かれて」、「わたしはばらばらに切り刻まれ」て、「無機質の海洋を漂うだろう」と予感し、あなたと呼ぶその人間よって、「そのひとつひとつに名前を付けてくれるまで」は、そうであると歌われています。

そのひとつひとつに分裂したわたしに、名前を付けられたら、わたしは海洋を漂うことをやめ、また大陸となり、確たるものとなるのです。

この詩集の性愛と死の香りは、この分裂から生まれています。

『発語練習』でも、その最初の三行は、『パンゲア』と同じ次の言葉で始まります。

「ロゴスのない世界を望むなら
 発語練習をしなさいと
 大股開きで硫黄の川を跨いだ少女が言う」

ロゴスの無い、一者で居ることの出来るラプラタ河の土手の穴のような世界を望むならば、発語の練習が必要だというのです。

従い、ここでの話者であるわたしは、既にパンゲアのように、既に分裂しているわたしなのです。

そうして、その話者に発語の練習を命ずるのは、まだ性的に未分化な、性愛を知らない少女であって、この少女が大股開きをして、即ち自己を分裂させて、しかも川という時間の流れの譬喩にふさわしい現実の変化の連続の上に性的な分裂をして、そのことを命ずるというところに、この詩の話者のいる場所、発語の練習の場所が示されています。

このことを思って、この三行の後の詩行を読みますと、この詩をよく理解することができます。

「川面に出血のように卵黄が廻りだす
 もう遅すぎたかしら
 生む前に世界は割れてしまったわ
 いいやまだだよ
 少女の股間に手を伸ばすと
 では割れたのは私かしらと
 振り向いた背中から溢れ出す黄泉のエロス
 ああ今こそ発語して
 二人だけの世界だけを定義して
 皮膚呼吸のできる酸素のある蒼い世界を
 よもつひらさか
 桃の実はまだ紫か
 たったひとつ残された時間の無い世界
 割れたのは少女
 割れたのは世界
 割れたのはたぶん私
 ああ今こそ発語して
 ロゴスのない世界を望むなら」

この分裂は、性愛(エロス)の故の分裂であって、前回論じた詩集では一人でいた者が、もう一対の相手である女性を求めて、「二人だけの世界を定義して/皮膚呼吸のできる酸素のある蒼い世界を」求めます。

この桃の実は、この詩人にとってはとても大切な形象です。

この桃は、『ハイド氏の庭』のうち「第六章 季節なき庭」の最初に置かれた句にも歌われています。

桃割れでヨモツヒラサカ越えて来よ

この桃は、「季節なき庭」の最初に歌われているように、時間のない世界にある果実なのです。

この桃は、時間の無い世界、黄泉の国にある桃なのです。桃の実の形象は、やはりその形状から女性の生殖器を思わせ、またその線状から割れることをも連想させ、そうして丸みを帯びていて完璧である形状でもあります。

支那の古代の『詩経』という詩集に、「桃之夭夭 桃の夭夭たる/灼灼其華 灼灼たり其の華/之子于歸 この子ここに歸(とつ)がば 宜其室家 其の室家に宜しからん」とあるように、やはり完璧な形状で美しく、これは成熟した女性が嫁ぐ詩でありますから、またやはり性愛に満ちた古代の詩ということが言えましょう。

同様に、その桃が、「桃割れで」という意味は、この言葉だけで、江戸時代のこの十代の髪型で飾る少女の性の未分化と、更にその性愛への分化を連想させるeroticな形象であるのです。

桃割れでヨモツヒラサカ越えて来よ

この句の桃割れと黄泉比良坂という語の接合は、この微妙な性の分化と未分化の同時に存在する場所、或いは状態を歌っているのです。

それと同じ歌いぶりが、『発語練習』です。

黄泉比良坂は、「たったひとつ残された時間の無い世界」、「二人だけの世界を定義して/皮膚呼吸のできる酸素のある蒼い世界」なのです。

この微妙、精妙な場所、即ち、性愛の分化・未分化の場所での発語は、『桜幻夜』でもなされております。

「気がつくと月が蒼ざめて
 風が唐突に止む」

と最初の二行は始まります。

『パンゲア』の冒頭は、パンゲアと呼ばれて目がさめるのですが、ここでは、そうではなく、気がつくと月が蒼ざめるのですから、この蒼ざめるということから、これは『発語練習』の蒼い世界の色で、「たったひとつ残された時間の無い世界」の中で気がついたのです。

時間がありませんので、川の流れの仲間であります風も止むことになります。

この無時間の世界は「ああ今こそ発語して/二人だけの世界だけを定義して/皮膚呼吸のできる酸素のある蒼い世界」でありますから、

「酸素を吸い
 花びらを吹き出す女」

も現れ、

「花びらに
 炭酸ガスを吐き出す男」

も登場し、

ふたりは「金属のように溶け合」って、その後にまた、次のように分裂します。

「風と花びらとに分解すると
 二股の桜の幹は裂け」

この分裂した風と花びらは、ここから詩人の連想は大きく飛躍をして、広大な時間の無い、題名の通りの幻想の夜の世界を歌い上げ、花びらは卑弥呼に、風は仮装した神聖皇帝になり、風神は猿に、花神は貘になり、仮装の皇帝は、卑弥呼の舌の上に生まれる様々なもの、即ち歯、唇、手足、黒い森、目、耳が生えるのはそれが舌であるから、即ち発語する場所であるからなのですが、その発語の場所で、「一瞬の反吐/の吹き上がる花びら/は異形の懐胎」に死んでいで、「胎児の死んだふりを/死んだ胎児の男根/に暗溶する」神聖皇帝と歌われて、これらのことはみな祝祭であるので、神聖皇帝の風神は猿の神楽の月光を吸って、卑弥呼である花神は貘の神楽の月光を吸って、それぞれ花びらと化して、この桜幻夜の黄泉比良坂の暗闇、死の世界の「ああ今こそ発語して/二人だけの世界だけを定義して/皮膚呼吸のできる酸素のある蒼い世界」で「酸素を吸い」、そして、この詩はまた始めに戻って、


「酸素を吸い
 花びらを吹き出す女」

も現れ、

「花びらに
 炭酸ガスを吐き出す男」

が登場し、

ふたりは「ふたたび金属のように溶けあい」ながら、

しかし、今度のこの最後の桃は、

「かたくなに
 おわらせる
 よもつひらさか
 枯死した桃の木
 あらゆる神経繊維を
 映し
 拒否する
 壱個の桃」

となり、分裂をしない代わりに、現実の世界では、これを拒否した枯死した桃として歌われるのです。

このように、あらゆる点で、いつも対称性を大切にして、この対称的な意味の総ての点を否定し肯定し、交換し、これは、この詩人の思考と感性の然らしむるところなのだと思います。

この詩人の棲んでいる原郷の世界が偲ばれます。

そして、とはいへ、最後の二行は、やはり「気がつくと月が蒼ざめて/風は唐突に止んでいる」のですから、この微妙、精妙な場所、即ち、性愛の分化・未分化の場所での発語は、『アンドロギュノス』という題名の詩に歌われている「すこし菱形にひしゃげた白いドアのまえで/ぼくは昨夜から途方にくれている」その一人称の話者が歌っている、話者が永遠に入ることができない、産婦人科の診察室の扉の前のそのような場所でなされているのです。

『アンドロギュノス』とは、男女同性の同居する一個の人間でありますし、これが分裂して人間の男女の性愛の分化が生まれるわけですから、ここでも、この詩人の主題は、変わることがなく、この主題がどれほど豊かな形象をこの詩人に授けるものかは、一言では言うことができません。やはり、この詩集をお読み下さって、存分に味わって戴きたいと思います。

わたしの言葉では、とても全てを散文的に云い尽くすことができません。それほど、これらの詩は本当に詩になっている詩なのです。

『ハイド氏の庭』の「第六章 季節なき庭」から、最後に幾つかの俳句を挙げて、この『パンゲア』論を閉ぢることに致します。

わたしという話者の性愛と死が、その最初の状態の分裂によって生まれ、その匂いがすべての詩に通じているとしたら、この季節なき句にも、その匂いは通じ、現れている筈です。

万物に臭ひのありて火星かな

この火星もまた、『パンゲア』で歌われた、詩人が現実に相対したときに生まれる分化・未分化の絶妙精妙なる場所であり、星なのでしょう。従い、その臭いもその星にはあるのです。

鶏卵の血筋のごとき系図かな

この一句から、桃割の、川を跨いで発語の練習を命ずる少女を思い、またパンゲア大陸の分裂を思うことができます。

また、同様の主題を、主題というよりはもっと石原明という詩人の心の奥底、その根底から湧いて出てくる形象を次に。

少年は貌より孵化を始めけり

少年もまた、分化・未分化の精妙絶妙の状態の存在であり、そこから孵化を始めると、やはり相貌が分裂するというこの形象は、この詩人の核心にある、言葉の発する最初の状態であるのです。

しかし、他方、この季節なき庭で、これらの同じことを、次のように歌う、一行詩の大人の、笑いのある詩人がいるのです。

昨日から目詰まりの塩振つてゐる

この目詰まりが何を意味するか、そのような塩の小壜を振るとはいかなることなのか、以上を考察して来ると、わたしにはよく判るように思われるのです。

この昨日は、前回論じたように、今日の過去である昨日であるばかりではなく、明日の昨日である今日でもあり、昨日の未来である今日でもあるのです。

そして、この時間の無化を、目詰まりの塩と言い、その塩の出てこない小瓶を、日常の時間の中で、振っているというのです。

としてみれば、この論の最初に述べたように、俳句のような一行から成る詩篇が3分の2を占めて構成するこの『パンゲア』という詩集でありますから、そうしてこのように俳句でもふたつの詩集においても時間の無化をなさるのですから、Puffのような物語を書いてみたいという独白の言葉を発する、ラブラタ河の土手の小さな穴に憩うている孤独な話者と、他方、パンゲア大陸のように現実に相対して死と性愛に満ちて分裂し且つ分裂前の未分化の互いの反対の性と濃厚な酸素を一緒に吸う蒼い世界に永遠に留まる話者は、やはり同一の場所から言葉を発していて、この詩人が社会で生きて来て、「1960年代で止まっていた時計」がその間ずっと刻んでいた時間がどのような時間であったのか、これらふたつの詩集は、その詩的な意味を深く読者に示して呉れているのです。

そうして、やはり俳句という古典的な様式の世界が、それぞれふた色に分かれて一見みえるふたつの詩集の世界を、一種の接続する世界となっていて、ふたつをひとつに結びつけているのではないかと思います。

『パンゲア』という素晴らしい詩集で論ずべき詩はまだまだあるのですが、それはあなたに直接お読み戴くとして、まだまだ書き足りないことは重々承知の上で、しかし、まづは、以上をわたしの論のエッセンスとしてお伝えし、擱筆することに致します。





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