石原明詩集『雪になりそうだから』と『パンゲア』を読む
石原明さんがふたつの詩集を同時に発刊された。
前者の、著者のあとがきによれば、この詩集は、当時大学生であったころに流行したPPM (Peter, Paul & Mary)のパフという歌を何度も聴きながら「いつか自分もこういう「物語」を書いてみたいと思っていた」その思いを結実させた詩集です。
後者のあとがきによれば、1960年代の大学生時代に詩を読み、詩を書いていたころに、卒業後34年を経て、再び2004年に詩を書き出した、その自覚のもとに書いた詩を集めた詩集です。このあとがきにある詩人の言葉によれば、その契機は、2004年秋に開催された「ヴィズコンティ映画祭」であり、この開催期間の2週間毎日催場に通ってヴィスコンティの映画を観たとのことです。
このエピソードが示すところは、詩人の言葉の通りに「異次元の世界」であるこの映画監督の創造する完璧と言ってよい美の世界を、詩の世界のこととして思い出したということを意味しております。
石原さんは、この二つの詩集の前に、2012年に句集『ハイド氏の庭』を刊行なさっています。
この句集のあとがきの最初に、次のように書かれています。
「タイトルを『ハイド氏の庭』としたのはあえて説明する必要もない単純な比喩ですが、昼間何処にでもいるようなサラリーマン生活を送ってきた私をジキル博士に、夜居酒屋の片隅で俳句を作ってきた私をハイド氏に例えてみました。」とありますように、そうして、上に書いたように、これらふたつの詩集のあとがきに、その詩の生まれる契機の書かれていますように、この詩人にとって詩を書くことは、ハイド氏として異次元の世界を創造することなのです。
俳句を作り始めたのが三十四歳と、『ハイド氏の庭』のあとがきにありますから、この句集のときにでもやはり30余年を俳人として、夜の世界で生きてきて、そうして今、今度は現代語の詩の世界で、ふたつの詩集を出したということになります。
『ハイド氏の庭』という句集と、このたびのふたつの詩集は、お互いに同じ根から生まれた昼間とは別の世界なのです。従い、句集の句を以って、これらの詩集の詩を解釈することもできましょう。
この句集の題名に庭と言う言葉を選択したことに、私は深い意味があると思っております。これは、言語藝術家の中でも言語の本質に至った詩人が、世界中どの民族どの言語とは問わずに使う共通の言葉の一つであることを、わたしは知っているからなのです。
このふたつの現代語による詩集も、実は、庭の中で書かれた詩群であることを最初にこころに銘記して、先へと話を進めます。
さて、まづ最初にこのふたつの詩集同士の関係ですが、やはりこの詩人の本来持っている対称性を大切にする、均衡を大切にする考え方からなっていることが判ります。ジキルとハイドも、昼と夜も、サラリーマンと詩人もそうでありますが、そうしてそれ以外にも、それ以上にも、この構造は単なる言葉づらの言葉ではなくして、これらの詩群を支える構造となっております。
目次を見ますと、前者、即ち『雪になりそうだから』は、最初に同じ名前の詩を配置し、後者、即ち『パンゲア』では、同じ名前の詩を最後に配置しております。
後者のあとがきでは、「現代詩の最前線にいた詩人の中に帷子耀と支路遺耕治がいて一部の若い詩人たちの支持を集めていた。私もその一人であった。」とありますので、後者の詩集は、現実に対したときに、その事実を言語に変換する詩集であるの対して、前者の詩集は、冒頭に引用したように、更に全く有り得ない異次元の物語の世界を、言わば独白で自由に創造しようという試みなのです。
従い、このふたつの詩集は、ともに裏表の関係にあると言うことができるでしょう。
石原さんは、後者の詩集のあとがきで、「この詩集で、私の中で六十年代で止まっていた時計を今更のように動かしてみた」とおっしゃっております。この時計は、聊かも錆びつくことなく、この詩人の夜の世界で毎日夜の世界の昼に、毎日昼の世界の夜に、静かに時を刻んでいたことが、ふたつの詩集を読むと、読者には伝わって参ります。
「ヴィズコンティ映画祭」が、現代語で詩を書く契機であったということから、この詩人の求めたきたものは、やはり美であり、美しさであったということは、間違いのないことだと思います。
以下、わたしの好きな詩を挙げて、言葉を付し、ご恵送戴いた、お礼と致します。
前者の詩集、即ち『雪になりそうだから』を読んで参りますと、共通している思想のあることに気づきます。
それは、現在という時間にない不在の自己を、この詩集の詩群は歌っているということです。これが、上で私が独白と言い、またこの詩人の言葉で言えば、PPM (Peter, Paul & Mary)のパフという歌を何度も聴きながら「いつか自分もこういう「物語」を書いてみたいと思っていた」その思いと物語の本質なのです。
この物語、この思いは、それ故に『雪がふりそうだから』であり(未だ雪は現在降ってはいない)、『ラプラタ河』に歌われているこの河についての話者の秘密なのであり、「ラプラタ河の土手の小さな穴から/この世界に目を見張っている/仔ウサギ」の棲む小さな空間なのであり(これは庭の中で詩を書くと上でいったことに通底します)、『精霊兔』で歌われる「君に探しあてて」もらいたいと話者が願っている「精霊になってしまった私」の隠れ棲むこの「精霊園」なのであり、『君に会ってから』で歌われる「君」に「一周早すぎて出会って」、「周回遅れなのに気がつかなくて」というこの時間の不在の、時間の間なのであり(この時間の間、時間の無い空間のことをリルケは、中間空間と言っております)、この詩で更に歌っているように「明日がまだ昨日なら」、そして同じ論理で、この詩人は、今日は昨日の未来だと考えているのです。
このように、時間を無化して、この詩集の詩群は成り立っております。わたしは、素晴らしい詩群であると思いました。
若き石原さんが願ったPuffの「物語」とは、それは誰のものでもない「僕の時間」であって、そして「メビウスの輪のように手に負えない」時間を内包する物語であったことが、こうして三十有余年を経て、わたしたち読者の眼に、明らかになりました。当時の青年石原明という人間の、人生に賭けた思いが伝わって参ります。
『渚にて』の渚、『恋唄』の第1連で「あなたの心のなかで発条が弾けて/全てが元に戻った時/わたしも弾けとんだ」とあるこの自分のこころの中のもう一人の自分との、上のわたしの言い方で言えば、「現在という時間にない不在の自己」の在り方、その在り方を許容する場所。この場所、この中間空間を、詩人は、渚と呼び、精霊園と呼び、ラプラタ河の土手の小さな穴と呼び、いづれもみな安心して、こころ安らかに入られる場所として歌っております。
これらの時間のない空間の名前を、『五月』という詩では、その名前(名詞)を列挙して連ね、この詩人のいる場所の意義を読者に伝えております。この名前の中に、マグリットとダリという二人のシュールレアリスムの画家の名前のあるのは、偶然ではありません。シュールレアリスムの運動の、本質とは、隠喩(metaphor)を創造することによる時間の無化であったからです。そうして一次元上の、時間の無い空間を創造しようとした運動だからです。
この『五月』で歌われる朝も昼下がりも時間も宵もみな、名前はすべて時間の名前でありますが、しかし、そのような空間化の中で、静寂の中に安らいでいるように思われます。
『恋唄』の後『五月』までの間に置かれている『悲しいお話は、四歳のみいに』『君なんて』『零れるナイフについて』『エンドレス・パークにて』『墓はいらない』、これらの詩は、その異次元の空間での、話者の激しい感情と思いが、上で述べたようなメビウスの輪の結節点の場所で、いつもこの現在の時間では一致することのない、言わば旅人の生に対する嘆きであり悲しみである、そのような叙情の一層表に出た詩となっております。これは、これらの詩をお読み戴いて、その感情を共有する以外には、この拙文の読者に伝える術がありません。
このメビウスの輪の結節点の接続の感情は、次の詩『あなたはわたしの胸に手を置いて』でも、地球の生まれる「最初の酸素と水素」として歌われ、これ以降に列挙されるすべて最初の、夢、涙、言葉、沈黙の名前を列挙されてから、これらが「記憶の地底の苦い酸の海から/拾い上げた化石の輝き」と一言で隠喩(metaphor)で置き換えられていて、これらの名前で言われる時間の無い空間に棲むことの意味を読者に開示してくれるのです。
さて、このような「記憶の地底の苦い酸の海から/拾い上げた化石の輝き」への思いは、次の詩『ノスタルジア』では、文字通りの郷愁として表現されています。しかし、ここに列挙されているジャズの巨人たちの名前や有名な映画の名前を知った場所、即ちバーボンの飲めるバーという安らぎの場所では、若きこの詩人の単なる郷愁ではなく、やはり造形的に、上の述べたように対称性を重んじて、この様式を自分の感情よりも優先させているために、有り勝ちな通俗に堕することを回避して、それ故に懐かしい、いい詩になっております。この対称性の優先は、そのまま社会の中での、即ちジキル博士として生きるこの人間の、生きるための原則であったのではないでしょうか。その同じこころが、このような詩群を生んでいるのだと思います。
この故郷は、詩の冒頭では、その入り口にはやはり「 OPENという札が掛かって」いて、決っして話者に対して閉ぢている場所ではなく、この詩の最後では、出て行こうとする直前「扉を閉める前に/唄はサラ・ボーンに変わり」、扉は永遠に閉ざされることなく、それによって、この詩は終わりの無い詩となっております。
こうして読んで参りますと、この詩の始めと終わりに降り続く雨は、これもまた永遠の繰り返しの、反転と逆説(本当はこの言葉は使いたくありませんが他に言葉がない)の一致することなく一致している話者ともうひとりの話者の自己の対話を許容する「ラプラタ河の土手の小さな穴」なのであり、『雪になりそうだから』と歌われたそのことの開始の無い、予感に満ちた永遠に始まらない始まりの世界、「記憶の地底の苦い酸の海から/拾い上げた化石の輝き」の存在する世界なのだと思います。
『夜の訪問者』でも、同じ雨が冒頭と最後に「沛然と」降り続いております。
Puffのような「物語」を書きたいというこの詩人の言う通りの詩が、『物語』と題した詩として歌われております。
桃割れでヨモツヒラサカ越えて来よ
『ハイド氏の庭』のうち「第六章 季節なき庭」の最初に置かれたこの句と同じように、『物語』の物語は歌われております。
この同じ思想と感性を、この現代語の詩人は、「ランプのほやにまだ残っている炎の死を/掌に残すために」と歌って、この詩を締めております。
他方、この詩の最初の一行は、「幸せは事実にすぎない」で始まり、「不幸せは果てることなき物語と/とつくにの詩人は書き記して自殺した」と続いて、この第1連が成っています。
桃割れでヨモツヒラサカ越えて来よ
この現代語の詩人の世界が、どんなにその同じ人間の俳句の世界に通じていることか。
そうして、最後に来る、残りの3つの詩、『鏡』『遺影』『挨拶』について。
こうしてこの詩集を読んで参りますと、『挨拶』という詩を一番最後に持って来たそのこころが、よく解ります。如何にも、石原明という詩人らしいと思います。
そしてこの『挨拶』という詩は、上で述べましたように、メビウスの輪の道を旅する者に対する餞(はなむけ)の言葉であるという意味の挨拶だということが、次の最初の二行で解ります。
「君は旅立て
私たちは石を投げる」
この二行も既に見てきましたように、この詩人の一致のことについての、その一致と不一致のある場所、時間の無化されたその場所での出来事であり、挨拶なのです。
三行目は、やはりこの詩人が30有余年を経て詩心を思い出したことが「ヴィスコンティ映画祭」であったことを示しております。
「それが美しい足跡への賛辞である」
そして、更に続きます、
「振り返らずに
挨拶せよ」
これはこのまま、このようにこの人間は生きてきたのだという、その強い思いを覚える二行です。
そうして最後まで続く、次の詩行もまた。
「挨拶せよ
地球の回転のままに
地平線を潜って行け
男たちには「では」と言い
女たちには「待て」と告げて
一片の雲さえ追い払われた
耳が痛くなるほどの青空に
地に呪われたる者として
眼差しを高くかかげて
磁場の命ずるままに
不浄なものとして
ただの黒点となって
君は旅立て
それが君の正しい挨拶である」
この挨拶は、いや餞(はなむけ)の言葉は、これ以前のすべての詩に通じている心だと思います。
もうひとつの詩集『パンゲア』は、上で述べましたように『雪になりそうだから』と裏表の関係にありますので、以上の主題と動機(モチーフ)を同じように読み取ることが、別の語彙で構築された詩群の集合として、できるでありませう。
この『パンゲア』という詩集は、『五月』という詩で述べましたように、やはり隠喩(metaphor)の連続でできている詩群です。
『ア・センチメンタル・ジャーニー』には、この詩人にとって大切な形象であるラプラタ河も歌われ、また永遠に繰り返す一致と不一致を保証する、メビウスの輪の結節点の接続を保証する雨も歌われていて、この二つの詩集が、左右対称の双子の詩集であることを示しております。
『パンゲア』を更に詳細に読み解くことは、次回のことといたします。So weit fuer heute。
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