2014年11月29日土曜日

Weihnacht in Adjaccio(アジャクシオのクリスマス):第50週 by Conrad Ferdinand Meyer(1825 ー 1898)


Weihnacht in Adjaccio(アジャクシオのクリスマス):第50週 by  Conrad Ferdinand Meyer(1825 ー 1898)





【原文】

Reife Goldorangen fallen sahn wir heute, Myrte blühte,
Eidechse glitt entlang der Mauer, die von Sonne glühte.

Uns zu Häupten neben einem morschen Laube flog ein Falter-
Keine herbe Grenze scheidet Jugend hier und Alter.

Eh das welke Blatt verweht ist, wird die Knospe neu geboren-
Eine liebliche Verwirrung, schwebt der Zug der Horen.

Sprich, was träumen deine Blicke? Fehlt ein Winter dir, eine bleicher?
Teures Weib, du bist um einen lichten Frühling reicher!

Liebst du doch die langen Sonnen und die Kraft und Glut der Farben!
Und du sehnst dich nach der Heimat, wo sie längst erstarben?

Horch! Durch paradieseswärme Lüfte tönen Weihnachtsglocken!
Sprich, was träumen deine Blicke? Von den weissen Flocken?



【散文訳】

豊かな黄金の蜜柑(みかん)が落ちるのを、今日わたしたちは見た、ミルテ(桃金嬢)の木が花咲いていた
蜥蜴(とかげ)が、太陽で輝く壁に沿って滑った。

朽ちた葉っぱの側(そば)の、わたしたちの頭のところに、孔雀蝶が飛んでいたー
辛(から)く酸(す)いた境界が、ここでは、青春と老年とを分けることがない。

枯れ凋(しぼ)んだ葉っぱが、吹き飛ばされる前に、木の芽が新しく生まれるー
愛すべき混乱、季節の行列が浮かんでいる。

話せ、お前の眼は何を夢見ているのだ?冬がお前に欠けているのか、青白い冬が?
高価な女よ、お前は明るい春の分だけ、もっと豊かなのだ!

お前は、勿論長い太陽と、そして力と、そして色彩の白熱を愛しているのだ!
そして、お前は故郷を憧憬しているのではないか、そこではとっくの昔に、それらのものが死に絶えてしまっている故郷を?

静かに!天国の温かい空気を通って、響いてくるのは、クリスマスの鐘の音だ!
話せ、お前の眼は何を夢見ているのだ?白い雪の片々の夢を見ているのか?


【解釈と鑑賞】


この詩人の、Wikipediaがあります。スイスの詩人です。

日本語のWiki:


ドイツ語のWiki:



また、このクリスマスの歌われている町、アジャクシオは、フランスのコルシカ島の町です。港町です。幾葉かの写真を掲示します。







300px-Ajaccio_Cité1JPG.jpgajaccio_the_port_and_the_town_hall.jpg

【Eichendorfの詩94】Frühe(朝まだき)


Eichendorfの詩94Frühe朝まだき)  
  

【原文】


Im Osten graut's, der Nebel fällt,
Wer weiss, wie bald sich's rühret!
Doch schwer im Schlaf noch ruht die Welt,
Von allem nichts verspüret.

Nur eine frühe Lerche steigt,
Es hat ihr was geträumet
Vom Lichte, wenn noch alles schweigt,
Das kaum die Höhen säumet


【散文訳】

東が白み、霧が落ちる
どのように直(ぢ)きに物事が生動するのかを誰が知らうか!(たれも知らない)
何と言っても、世界は、まだ、眠りの中に重く憩っているのだ
全てについて、何も感じることもなく。

ただ一羽の朝の雲雀が昇る
雲雀は何かを夢見たのだ
光について夢見たのだ、もしまだ全てが沈黙しているならば
高みを、ほとんど押し度止めることのない、あの全てが。


【解釈と鑑賞】

短い詩ですが、含蓄のある詩です。

このように歌われると、第2連の雲雀は既にもはや鳥である雲雀ではなく、それ以上の何かになって朝の霧と灰色の白んだ空間を昇って行くように見えます。

第2連では、その雲雀が夢を見ていると歌っている。それは、光についての夢を見ているのだという。何故ならば、まだ全てが朝まだき時間であって、沈黙しているからなのです。

ぢきに物事の生動することになる前の、それ以前の時間、というよりは、空間の中を昇る一羽の雲雀です。

この空間で沈黙するのは、全てであり、万有であり、これは、雲雀の飛翔して昇るその高さをほとんど押しとどめることがない。すなわち、高速で上昇することをゆるすのだと歌われております。

この詩は、何か言葉を超えた言葉以上の言葉になっております。


このような詩が、アイヒェンドルフという詩人の真骨頂なのだと思います。

2014年11月24日月曜日

石原明詩集『雪になりそうだから』と『パンゲア』を読む(2)


石原明詩集『雪になりそうだから』と『パンゲア』を読む(2)

石原さんの前者の詩集への批評に引き続き、後者の、即ち『パンゲア』を読むことに致します。

やはり、この詩集を読むことは、既に前回の前者の論で言いましたように、このふたつの詩集は裏表の関係にある詩集でありますから、やはりそのように前者との関係で読みたいということと、それから句集『ハイド氏の庭』との関係でも、やはり読んでみたいと思います。

前回の批評で、わたしは次のように書きました。

「目次を見ますと、前者、即ち『雪になりそうだから』は、最初に同じ名前の詩を配置し、後者、即ち『パンゲア』では、同じ名前の詩を最後に配置しております。

後者のあとがきでは、「現代詩の最前線にいた詩人の中に帷子耀と支路遺耕治がいて一部の若い詩人たちの支持を集めていた。私もその一人であった。」とありますので、後者の詩集は、現実に対したときに、その事実を言語に変換する詩集であるの対して、前者の詩集は、冒頭に引用したように、更に全く有り得ない異次元の物語の世界を、言わば独白で自由に創造しようという試みなのです。」

この詩集は、一言でいいますと、前者の詩集の独白の、その居心地のいい安らかな中間空間である、始めも無く終わりもない、扉が常にOPENになっている場所であり同時にその空間を出るときにもその扉は永遠にOPENのままでいるその場所にいる話者のもう一つの自己が、現実に向かって目にし体験した物事を言語に変換したときに生まれた詩群から成っていると言うことができます。

この詩集に納められた詩は、敢えて思い切って言えば、次の7つの詩を除くと、一つ一つの詩篇はみな何か、一行一行は俳句の一行であるような一行詩の集合であるような一つの詩篇であると、そのように見えます。

1。六月のラフレシア
2。幽霊
3。発語練習
4。アンドロギュノス
5。2001年の私の旅は
6。だからもうコレッキリとは言わないで
7。パンゲア

全部で21の詩篇がありますから、その内の3分の2は俳句という一行詩からなる詩篇であると言うことができます。

これは、この詩人にとって、やはり俳句という古典的な言語藝術が、生きるために必要な様式であったということを示しているのではないかと思います。

独白の、メビウスの輪の物語を一人で歌うときには、敢えて俳句を必要としないのですが、現代の現実に相対したときには、この詩人は俳句の古典的な様式を必要とするのです。これは、余りにも図式的な理解でしょうか。わたしは、そうではないと思います。

この詩集の最後に置かれていて、そしてこの詩集の題名にもなってこの詩集を代表している詩『パンゲア』を見てみましょう。

一読、『雪になりそうだから』よりも、遥かに性愛と死の臭いのむせ返るような世界が現出することに、読者は気づき、驚きます。

その性愛と死の臭いは、この『パンゲア』という詩の、次の最初の2行に発していて、この臭いは、この詩集の詩のすべてに凝縮して立ち昇って来るのです。

「パンゲアと呼ばれて目覚めた
 名前をつけられて初めてわたしはわたしになった」

パンゲアとは、仮想の、仮説の大陸で、今の世界の分裂した大陸がもともとは一つであったそのときの大陸の名前です。

それは、この世にはやはり存在しない大陸の名前です。しかし、その大陸の名前を呼ばれて、初めてわたしがわたしになったと歌われています。

このことを、もう少し解釈すると、「雪になりそうだから」と思って、雪の降り始めない永遠の空間、即ち「ラプラタ河」の土手の小さな穴に籠って外界を眺める話者が、ここでは、既に嘗て分裂をしていたものとして、その名前を呼ばれて、一者としてこの世に目覚めるのです。

この一者であるパンゲアは、次々と分裂して行き、「ああ、ローラシア ゴンドワナ わたしの子供たち」と歌われ、「千切れたわたしを脅かす恐竜の足音」が歌われ、「わたしはクロノスのように腹を割かれて」、「わたしはばらばらに切り刻まれ」て、「無機質の海洋を漂うだろう」と予感し、あなたと呼ぶその人間よって、「そのひとつひとつに名前を付けてくれるまで」は、そうであると歌われています。

そのひとつひとつに分裂したわたしに、名前を付けられたら、わたしは海洋を漂うことをやめ、また大陸となり、確たるものとなるのです。

この詩集の性愛と死の香りは、この分裂から生まれています。

『発語練習』でも、その最初の三行は、『パンゲア』と同じ次の言葉で始まります。

「ロゴスのない世界を望むなら
 発語練習をしなさいと
 大股開きで硫黄の川を跨いだ少女が言う」

ロゴスの無い、一者で居ることの出来るラプラタ河の土手の穴のような世界を望むならば、発語の練習が必要だというのです。

従い、ここでの話者であるわたしは、既にパンゲアのように、既に分裂しているわたしなのです。

そうして、その話者に発語の練習を命ずるのは、まだ性的に未分化な、性愛を知らない少女であって、この少女が大股開きをして、即ち自己を分裂させて、しかも川という時間の流れの譬喩にふさわしい現実の変化の連続の上に性的な分裂をして、そのことを命ずるというところに、この詩の話者のいる場所、発語の練習の場所が示されています。

このことを思って、この三行の後の詩行を読みますと、この詩をよく理解することができます。

「川面に出血のように卵黄が廻りだす
 もう遅すぎたかしら
 生む前に世界は割れてしまったわ
 いいやまだだよ
 少女の股間に手を伸ばすと
 では割れたのは私かしらと
 振り向いた背中から溢れ出す黄泉のエロス
 ああ今こそ発語して
 二人だけの世界だけを定義して
 皮膚呼吸のできる酸素のある蒼い世界を
 よもつひらさか
 桃の実はまだ紫か
 たったひとつ残された時間の無い世界
 割れたのは少女
 割れたのは世界
 割れたのはたぶん私
 ああ今こそ発語して
 ロゴスのない世界を望むなら」

この分裂は、性愛(エロス)の故の分裂であって、前回論じた詩集では一人でいた者が、もう一対の相手である女性を求めて、「二人だけの世界を定義して/皮膚呼吸のできる酸素のある蒼い世界を」求めます。

この桃の実は、この詩人にとってはとても大切な形象です。

この桃は、『ハイド氏の庭』のうち「第六章 季節なき庭」の最初に置かれた句にも歌われています。

桃割れでヨモツヒラサカ越えて来よ

この桃は、「季節なき庭」の最初に歌われているように、時間のない世界にある果実なのです。

この桃は、時間の無い世界、黄泉の国にある桃なのです。桃の実の形象は、やはりその形状から女性の生殖器を思わせ、またその線状から割れることをも連想させ、そうして丸みを帯びていて完璧である形状でもあります。

支那の古代の『詩経』という詩集に、「桃之夭夭 桃の夭夭たる/灼灼其華 灼灼たり其の華/之子于歸 この子ここに歸(とつ)がば 宜其室家 其の室家に宜しからん」とあるように、やはり完璧な形状で美しく、これは成熟した女性が嫁ぐ詩でありますから、またやはり性愛に満ちた古代の詩ということが言えましょう。

同様に、その桃が、「桃割れで」という意味は、この言葉だけで、江戸時代のこの十代の髪型で飾る少女の性の未分化と、更にその性愛への分化を連想させるeroticな形象であるのです。

桃割れでヨモツヒラサカ越えて来よ

この句の桃割れと黄泉比良坂という語の接合は、この微妙な性の分化と未分化の同時に存在する場所、或いは状態を歌っているのです。

それと同じ歌いぶりが、『発語練習』です。

黄泉比良坂は、「たったひとつ残された時間の無い世界」、「二人だけの世界を定義して/皮膚呼吸のできる酸素のある蒼い世界」なのです。

この微妙、精妙な場所、即ち、性愛の分化・未分化の場所での発語は、『桜幻夜』でもなされております。

「気がつくと月が蒼ざめて
 風が唐突に止む」

と最初の二行は始まります。

『パンゲア』の冒頭は、パンゲアと呼ばれて目がさめるのですが、ここでは、そうではなく、気がつくと月が蒼ざめるのですから、この蒼ざめるということから、これは『発語練習』の蒼い世界の色で、「たったひとつ残された時間の無い世界」の中で気がついたのです。

時間がありませんので、川の流れの仲間であります風も止むことになります。

この無時間の世界は「ああ今こそ発語して/二人だけの世界だけを定義して/皮膚呼吸のできる酸素のある蒼い世界」でありますから、

「酸素を吸い
 花びらを吹き出す女」

も現れ、

「花びらに
 炭酸ガスを吐き出す男」

も登場し、

ふたりは「金属のように溶け合」って、その後にまた、次のように分裂します。

「風と花びらとに分解すると
 二股の桜の幹は裂け」

この分裂した風と花びらは、ここから詩人の連想は大きく飛躍をして、広大な時間の無い、題名の通りの幻想の夜の世界を歌い上げ、花びらは卑弥呼に、風は仮装した神聖皇帝になり、風神は猿に、花神は貘になり、仮装の皇帝は、卑弥呼の舌の上に生まれる様々なもの、即ち歯、唇、手足、黒い森、目、耳が生えるのはそれが舌であるから、即ち発語する場所であるからなのですが、その発語の場所で、「一瞬の反吐/の吹き上がる花びら/は異形の懐胎」に死んでいで、「胎児の死んだふりを/死んだ胎児の男根/に暗溶する」神聖皇帝と歌われて、これらのことはみな祝祭であるので、神聖皇帝の風神は猿の神楽の月光を吸って、卑弥呼である花神は貘の神楽の月光を吸って、それぞれ花びらと化して、この桜幻夜の黄泉比良坂の暗闇、死の世界の「ああ今こそ発語して/二人だけの世界だけを定義して/皮膚呼吸のできる酸素のある蒼い世界」で「酸素を吸い」、そして、この詩はまた始めに戻って、


「酸素を吸い
 花びらを吹き出す女」

も現れ、

「花びらに
 炭酸ガスを吐き出す男」

が登場し、

ふたりは「ふたたび金属のように溶けあい」ながら、

しかし、今度のこの最後の桃は、

「かたくなに
 おわらせる
 よもつひらさか
 枯死した桃の木
 あらゆる神経繊維を
 映し
 拒否する
 壱個の桃」

となり、分裂をしない代わりに、現実の世界では、これを拒否した枯死した桃として歌われるのです。

このように、あらゆる点で、いつも対称性を大切にして、この対称的な意味の総ての点を否定し肯定し、交換し、これは、この詩人の思考と感性の然らしむるところなのだと思います。

この詩人の棲んでいる原郷の世界が偲ばれます。

そして、とはいへ、最後の二行は、やはり「気がつくと月が蒼ざめて/風は唐突に止んでいる」のですから、この微妙、精妙な場所、即ち、性愛の分化・未分化の場所での発語は、『アンドロギュノス』という題名の詩に歌われている「すこし菱形にひしゃげた白いドアのまえで/ぼくは昨夜から途方にくれている」その一人称の話者が歌っている、話者が永遠に入ることができない、産婦人科の診察室の扉の前のそのような場所でなされているのです。

『アンドロギュノス』とは、男女同性の同居する一個の人間でありますし、これが分裂して人間の男女の性愛の分化が生まれるわけですから、ここでも、この詩人の主題は、変わることがなく、この主題がどれほど豊かな形象をこの詩人に授けるものかは、一言では言うことができません。やはり、この詩集をお読み下さって、存分に味わって戴きたいと思います。

わたしの言葉では、とても全てを散文的に云い尽くすことができません。それほど、これらの詩は本当に詩になっている詩なのです。

『ハイド氏の庭』の「第六章 季節なき庭」から、最後に幾つかの俳句を挙げて、この『パンゲア』論を閉ぢることに致します。

わたしという話者の性愛と死が、その最初の状態の分裂によって生まれ、その匂いがすべての詩に通じているとしたら、この季節なき句にも、その匂いは通じ、現れている筈です。

万物に臭ひのありて火星かな

この火星もまた、『パンゲア』で歌われた、詩人が現実に相対したときに生まれる分化・未分化の絶妙精妙なる場所であり、星なのでしょう。従い、その臭いもその星にはあるのです。

鶏卵の血筋のごとき系図かな

この一句から、桃割の、川を跨いで発語の練習を命ずる少女を思い、またパンゲア大陸の分裂を思うことができます。

また、同様の主題を、主題というよりはもっと石原明という詩人の心の奥底、その根底から湧いて出てくる形象を次に。

少年は貌より孵化を始めけり

少年もまた、分化・未分化の精妙絶妙の状態の存在であり、そこから孵化を始めると、やはり相貌が分裂するというこの形象は、この詩人の核心にある、言葉の発する最初の状態であるのです。

しかし、他方、この季節なき庭で、これらの同じことを、次のように歌う、一行詩の大人の、笑いのある詩人がいるのです。

昨日から目詰まりの塩振つてゐる

この目詰まりが何を意味するか、そのような塩の小壜を振るとはいかなることなのか、以上を考察して来ると、わたしにはよく判るように思われるのです。

この昨日は、前回論じたように、今日の過去である昨日であるばかりではなく、明日の昨日である今日でもあり、昨日の未来である今日でもあるのです。

そして、この時間の無化を、目詰まりの塩と言い、その塩の出てこない小瓶を、日常の時間の中で、振っているというのです。

としてみれば、この論の最初に述べたように、俳句のような一行から成る詩篇が3分の2を占めて構成するこの『パンゲア』という詩集でありますから、そうしてこのように俳句でもふたつの詩集においても時間の無化をなさるのですから、Puffのような物語を書いてみたいという独白の言葉を発する、ラブラタ河の土手の小さな穴に憩うている孤独な話者と、他方、パンゲア大陸のように現実に相対して死と性愛に満ちて分裂し且つ分裂前の未分化の互いの反対の性と濃厚な酸素を一緒に吸う蒼い世界に永遠に留まる話者は、やはり同一の場所から言葉を発していて、この詩人が社会で生きて来て、「1960年代で止まっていた時計」がその間ずっと刻んでいた時間がどのような時間であったのか、これらふたつの詩集は、その詩的な意味を深く読者に示して呉れているのです。

そうして、やはり俳句という古典的な様式の世界が、それぞれふた色に分かれて一見みえるふたつの詩集の世界を、一種の接続する世界となっていて、ふたつをひとつに結びつけているのではないかと思います。

『パンゲア』という素晴らしい詩集で論ずべき詩はまだまだあるのですが、それはあなたに直接お読み戴くとして、まだまだ書き足りないことは重々承知の上で、しかし、まづは、以上をわたしの論のエッセンスとしてお伝えし、擱筆することに致します。





2014年11月22日土曜日

【西東詩集96】 Vollmondnacht(満月の夜)



【西東詩集96】 Vollmondnacht(満月の夜)


【原文】

HERRIN! sag’ was heiss das Flüstern?
Was bewegt dir leis’ die Lippen?
Lispelst immer vor dich hin,
Lieblicher als Weines Nippen!
Denkst du deinen Mundgeschwistern
Noch ein Pärchen herzuziehen?
  Ich will küssen! Küssen! sagt ich.

Schau! Im zweifelhaften Dunkel
Glühen blühend alle Zweige,
Nieder spielet Stern auf Stern,
Und, smaragden, durchs Gesträuche
Tausendfältiger Karfunkel;
Doch dein Geist ist allem fern.
  Ich will küssen! Küssen! sagt ich.

Dein Geliebter, fern, erprobet
Gleicherweis’ im Sauersüßen,
Fühlt ein unglückseliges Glück.
Euch im Vollmond zu begrüßen
Habt ihr heilig angelobt,
Dieses ist der Augenblick.
  Ich will küssen! Küssen! sagt ich.


【散文訳】


ご主人さま、囁(ささやき)とは何を意味するのかを教えてくれ
何が、お前の唇(くちびる)を動かすのかを
お前は、いつもひとりごちて囁いている
葡萄酒の微睡(まどろ)みよりも愛らしく!
お前は、お前の口の姉妹に
まだ、相思相愛の可愛らしい一対の男女を連れてくることを考えているのか?
 》わたしは接吻したい!接吻!と、わたしは言っているのだ。《

見よ!疑はしく不確かな闇の中に
花咲いて、すべての枝が輝いている
下方では、星が次から次へと遊んでいる
そして、緑玉(エメラルド)が、叢林を通って
幾千もの層をなす石榴(ざくろ)石が。
しかし、お前の精神は、すべてから遥か遠くにあるのだ。
 》わたしは接吻したい!接吻!と、わたしは言っているのだ。《

お前の愛する者(男)は、遠く遥かにいて、試されていて
同様に、酸っぱくも甘いものの中にいて
不幸にも至福なる幸福を感じている。
お前たちに、満月の中で挨拶することを
お前たちは、神聖に称揚した
これが、その瞬間なのだ。
 》わたしは接吻したい!接吻!と、わたしは言っているのだ。《



【解釈と鑑賞】


第1連の「お前の口の姉妹に」とは、ズーイカの両の唇のことを言っているのです。


お前は、お前の口の姉妹に
まだ、相思相愛の可愛らしい一対の男女を連れてくることを考えているのか?

とは、この一組の恋人のことをその唇に載せて話すことを言っているのでしょう。

それを、この詩を歌っている話者たる男が、女主人よとまで言って、第1連の第1行で呼びかけているのです。

是非、そうしてくれ、この一組の恋人のことを口にしてくれ、何故ならば、

 》わたしは接吻したい!接吻!と、わたしは言っているのだ。《

というのです。

この一行は、各連で繰り返されて、読むたびに、男の恋情の強さが深まるように読むことになります。

この満月という題名の意味は、第3連で読者に明かされます。

互いに離れていることに在るこの男の恋人が、幾つもの相反する感情を覚えていることを、ここでは歌い、そうして、最後には、その至福の瞬間、即ち接吻の瞬間を迎えるそのときが、満月の月の煌々と照っている、その夜だというのです。

この最後の連では、話者である者は、一対の男女の外に出ていて、外からこの二人を歌っています。

これが、詩を歌うことの、自由自在、融通無碍、70歳を超えてこのような詩を書くゲーテの境地なのでしょう。





Erinnerung(思い出):第49週 by Stefan Hoerder Grimsson(1919 ー 2002)


Erinnerung(思い出):第49週 by  Stefan Hoerder Grimsson(1919 ー 2002)





【原文】

Der Wiederkehrende
ist nie derselbe wie der
der fortging

Die Grüssende
ist nie dieselbe wie die
die sich verabschiedete

Abenteuer
sind entflammbar
lebendig wie tot


Berichte von Aschenregen
beim Wiedersehen
hat mancher bestätigt gefunden



【散文訳】


回帰する男は
決して、同じ者ではない、その
立ち去った男とは

挨拶する女は
決して、同じ者ではない、その
別れた女とは

冒険は
燃え立つものだ
死んでいるように生き生きとして

再会したときの
灰の雨についての報告は
幾多の人たちが、その報告の正しさが証されているのを発見した



【解釈と鑑賞】


この詩人の、Wikipediaがあります。



アイスランドの詩人です。

第3連で灰の雨が歌われるのは、第2連で、冒険は燃え立つものだと歌われていて、燃え立つというのは、火山のような激しい噴火を思っているからです。

それ故に、火山灰の雨が降るのです。

アイスランドには、活火山があるので、そのことを思っているのです。

何か、安部公房の世界に通じる詩です。

【Eichendorfの詩93】Vorwärts!(前進!)



Eichendorfの詩93Vorwärts!前進!)  
  

【原文】


Wie der Strom sich schwingt
Aus den Wolken, die ihn tränken,
Alle Bäche verschlingt,
Sie ins Meer zu lenken -
Drein moecht ich versenken
Was in mir ringt!

Tritt nur mit in mein Schiff!
Wo wir landen oder stranden,
Erklinget das Riff,
Bricht der Lenz aus dem Sande,
Hinter uns dann ins Branden
Versenk ich das Schiff!


【散文訳】


大河が、その身を振り動かして
大河に水を飲ませるその雲の中から飛び出して、
すべての小川を飲み込んで
それらを海の中へと操縦して連れて行く、その様の
その只中に、わたしは沈めたい
わたしの中で格闘しているものを!

何も言わずに、一緒にわたしの船に乗船せよ!
わたしたちが、接岸し、または座礁するところで
暗礁が、鳴り響き
春が、砂の中から裂け出るのだ
すると、わたしたちの背後で、波がぶつかって砕け散る中に
わたしは、この船を沈めるのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩は、不思議な詩です。

この詩人の、本来隠れいている、そして他に適切な言葉ありませんので、敢えてシュールレアリスティックなと言いますが、シュールレアリスティックな発想で書かれ、歌われた詩です。

まづ題名が、前進!、前へ!というのに、この船は、大波の砕け散る中に、船長であるわたしは最後には沈めてしまうのです。

しかし、これが前進の意味なのです。

第1連では、大きな河と雲の関係が歌われていて、この空にいる筈の雲たちが、下界の、大地をうねるように流れているその大河に水を飲ませて、養っている。

そして、地上のすべての小川を海の中へと導くのは、その大河である。

と、このような理解の順序になるでしょう。

第1連の最後の2行に、第2連の最後の2行に呼応して、同じように、versenken、沈める、沈没させるという行為が行われるのです。

即ち、第2連の最後の一行で、わたしが沈める船とは、第1連の最後の行で歌われている、「わたしの中で格闘しているもの!」、これが船だということになります。わたしは、そういう人間である。

第1連では、沈めたいと願いを歌っていたものが、第2連では成就して、実際に船を沈めるのです。


第2連で、「わたしの中で格闘しているもの!」というわたしの船が沈むのは、海の大波の砕け散る中ですし、また第1連で大河はすべての小川を飲み込んで、ひとつにまとめて海へと連れて行くとありますので、この船の沈む海というのは、大地のすべての小川の流れを含むものであり(大河が集めることによって)、そうして、そのすべての小川を集める大河は、空に浮かぶ雲たちによって、その雨の降水によって水をもたらされて養われる、この循環の中にいる、そのような海の中で、わたしの船は沈むのです。

第2連第1行の「何も言わずに、一緒にわたしの船に乗船せよ!」という一行に感嘆符を付してあるのを見、またこの詩の題名に同様に「前進!」といって感嘆符のあるのを見ますと、この前進とは、わたしのそのような船に乗船することなのであり、乗船すれば、その前進とは、海の中への沈没であるのです。

深い海の中へと沈む、わたしという船の形象。

これが、アイヒェンドルフの歌いたかった形象であるということになります。


2014年11月16日日曜日

石原明詩集『雪になりそうだから』と『パンゲア』を読む


石原明詩集『雪になりそうだから』と『パンゲア』を読む

石原明さんがふたつの詩集を同時に発刊された。

前者の、著者のあとがきによれば、この詩集は、当時大学生であったころに流行したPPM (Peter, Paul & Mary)のパフという歌を何度も聴きながら「いつか自分もこういう「物語」を書いてみたいと思っていた」その思いを結実させた詩集です。

後者のあとがきによれば、1960年代の大学生時代に詩を読み、詩を書いていたころに、卒業後34年を経て、再び2004年に詩を書き出した、その自覚のもとに書いた詩を集めた詩集です。このあとがきにある詩人の言葉によれば、その契機は、2004年秋に開催された「ヴィズコンティ映画祭」であり、この開催期間の2週間毎日催場に通ってヴィスコンティの映画を観たとのことです。

このエピソードが示すところは、詩人の言葉の通りに「異次元の世界」であるこの映画監督の創造する完璧と言ってよい美の世界を、詩の世界のこととして思い出したということを意味しております。

石原さんは、この二つの詩集の前に、2012年に句集『ハイド氏の庭』を刊行なさっています。

この句集のあとがきの最初に、次のように書かれています。

「タイトルを『ハイド氏の庭』としたのはあえて説明する必要もない単純な比喩ですが、昼間何処にでもいるようなサラリーマン生活を送ってきた私をジキル博士に、夜居酒屋の片隅で俳句を作ってきた私をハイド氏に例えてみました。」とありますように、そうして、上に書いたように、これらふたつの詩集のあとがきに、その詩の生まれる契機の書かれていますように、この詩人にとって詩を書くことは、ハイド氏として異次元の世界を創造することなのです。

俳句を作り始めたのが三十四歳と、『ハイド氏の庭』のあとがきにありますから、この句集のときにでもやはり30余年を俳人として、夜の世界で生きてきて、そうして今、今度は現代語の詩の世界で、ふたつの詩集を出したということになります。

『ハイド氏の庭』という句集と、このたびのふたつの詩集は、お互いに同じ根から生まれた昼間とは別の世界なのです。従い、句集の句を以って、これらの詩集の詩を解釈することもできましょう。

この句集の題名に庭と言う言葉を選択したことに、私は深い意味があると思っております。これは、言語藝術家の中でも言語の本質に至った詩人が、世界中どの民族どの言語とは問わずに使う共通の言葉の一つであることを、わたしは知っているからなのです。

このふたつの現代語による詩集も、実は、庭の中で書かれた詩群であることを最初にこころに銘記して、先へと話を進めます。

さて、まづ最初にこのふたつの詩集同士の関係ですが、やはりこの詩人の本来持っている対称性を大切にする、均衡を大切にする考え方からなっていることが判ります。ジキルとハイドも、昼と夜も、サラリーマンと詩人もそうでありますが、そうしてそれ以外にも、それ以上にも、この構造は単なる言葉づらの言葉ではなくして、これらの詩群を支える構造となっております。

目次を見ますと、前者、即ち『雪になりそうだから』は、最初に同じ名前の詩を配置し、後者、即ち『パンゲア』では、同じ名前の詩を最後に配置しております。

後者のあとがきでは、「現代詩の最前線にいた詩人の中に帷子耀と支路遺耕治がいて一部の若い詩人たちの支持を集めていた。私もその一人であった。」とありますので、後者の詩集は、現実に対したときに、その事実を言語に変換する詩集であるの対して、前者の詩集は、冒頭に引用したように、更に全く有り得ない異次元の物語の世界を、言わば独白で自由に創造しようという試みなのです。

従い、このふたつの詩集は、ともに裏表の関係にあると言うことができるでしょう。

石原さんは、後者の詩集のあとがきで、「この詩集で、私の中で六十年代で止まっていた時計を今更のように動かしてみた」とおっしゃっております。この時計は、聊かも錆びつくことなく、この詩人の夜の世界で毎日夜の世界の昼に、毎日昼の世界の夜に、静かに時を刻んでいたことが、ふたつの詩集を読むと、読者には伝わって参ります。

「ヴィズコンティ映画祭」が、現代語で詩を書く契機であったということから、この詩人の求めたきたものは、やはり美であり、美しさであったということは、間違いのないことだと思います。

以下、わたしの好きな詩を挙げて、言葉を付し、ご恵送戴いた、お礼と致します。

前者の詩集、即ち『雪になりそうだから』を読んで参りますと、共通している思想のあることに気づきます。

それは、現在という時間にない不在の自己を、この詩集の詩群は歌っているということです。これが、上で私が独白と言い、またこの詩人の言葉で言えば、PPM (Peter, Paul & Mary)のパフという歌を何度も聴きながら「いつか自分もこういう「物語」を書いてみたいと思っていた」その思いと物語の本質なのです。

この物語、この思いは、それ故に『雪がふりそうだから』であり(未だ雪は現在降ってはいない)、『ラプラタ河』に歌われているこの河についての話者の秘密なのであり、「ラプラタ河の土手の小さな穴から/この世界に目を見張っている/仔ウサギ」の棲む小さな空間なのであり(これは庭の中で詩を書くと上でいったことに通底します)、『精霊兔』で歌われる「君に探しあてて」もらいたいと話者が願っている「精霊になってしまった私」の隠れ棲むこの「精霊園」なのであり、『君に会ってから』で歌われる「君」に「一周早すぎて出会って」、「周回遅れなのに気がつかなくて」というこの時間の不在の、時間の間なのであり(この時間の間、時間の無い空間のことをリルケは、中間空間と言っております)、この詩で更に歌っているように「明日がまだ昨日なら」、そして同じ論理で、この詩人は、今日は昨日の未来だと考えているのです。

このように、時間を無化して、この詩集の詩群は成り立っております。わたしは、素晴らしい詩群であると思いました。

若き石原さんが願ったPuffの「物語」とは、それは誰のものでもない「僕の時間」であって、そして「メビウスの輪のように手に負えない」時間を内包する物語であったことが、こうして三十有余年を経て、わたしたち読者の眼に、明らかになりました。当時の青年石原明という人間の、人生に賭けた思いが伝わって参ります。

『渚にて』の渚、『恋唄』の第1連で「あなたの心のなかで発条が弾けて/全てが元に戻った時/わたしも弾けとんだ」とあるこの自分のこころの中のもう一人の自分との、上のわたしの言い方で言えば、「現在という時間にない不在の自己」の在り方、その在り方を許容する場所。この場所、この中間空間を、詩人は、渚と呼び、精霊園と呼び、ラプラタ河の土手の小さな穴と呼び、いづれもみな安心して、こころ安らかに入られる場所として歌っております。

これらの時間のない空間の名前を、『五月』という詩では、その名前(名詞)を列挙して連ね、この詩人のいる場所の意義を読者に伝えております。この名前の中に、マグリットとダリという二人のシュールレアリスムの画家の名前のあるのは、偶然ではありません。シュールレアリスムの運動の、本質とは、隠喩(metaphor)を創造することによる時間の無化であったからです。そうして一次元上の、時間の無い空間を創造しようとした運動だからです。

この『五月』で歌われる朝も昼下がりも時間も宵もみな、名前はすべて時間の名前でありますが、しかし、そのような空間化の中で、静寂の中に安らいでいるように思われます。

『恋唄』の後『五月』までの間に置かれている『悲しいお話は、四歳のみいに』『君なんて』『零れるナイフについて』『エンドレス・パークにて』『墓はいらない』、これらの詩は、その異次元の空間での、話者の激しい感情と思いが、上で述べたようなメビウスの輪の結節点の場所で、いつもこの現在の時間では一致することのない、言わば旅人の生に対する嘆きであり悲しみである、そのような叙情の一層表に出た詩となっております。これは、これらの詩をお読み戴いて、その感情を共有する以外には、この拙文の読者に伝える術がありません。

このメビウスの輪の結節点の接続の感情は、次の詩『あなたはわたしの胸に手を置いて』でも、地球の生まれる「最初の酸素と水素」として歌われ、これ以降に列挙されるすべて最初の、夢、涙、言葉、沈黙の名前を列挙されてから、これらが「記憶の地底の苦い酸の海から/拾い上げた化石の輝き」と一言で隠喩(metaphor)で置き換えられていて、これらの名前で言われる時間の無い空間に棲むことの意味を読者に開示してくれるのです。

さて、このような「記憶の地底の苦い酸の海から/拾い上げた化石の輝き」への思いは、次の詩『ノスタルジア』では、文字通りの郷愁として表現されています。しかし、ここに列挙されているジャズの巨人たちの名前や有名な映画の名前を知った場所、即ちバーボンの飲めるバーという安らぎの場所では、若きこの詩人の単なる郷愁ではなく、やはり造形的に、上の述べたように対称性を重んじて、この様式を自分の感情よりも優先させているために、有り勝ちな通俗に堕することを回避して、それ故に懐かしい、いい詩になっております。この対称性の優先は、そのまま社会の中での、即ちジキル博士として生きるこの人間の、生きるための原則であったのではないでしょうか。その同じこころが、このような詩群を生んでいるのだと思います。

この故郷は、詩の冒頭では、その入り口にはやはり「 OPENという札が掛かって」いて、決っして話者に対して閉ぢている場所ではなく、この詩の最後では、出て行こうとする直前「扉を閉める前に/唄はサラ・ボーンに変わり」、扉は永遠に閉ざされることなく、それによって、この詩は終わりの無い詩となっております。

こうして読んで参りますと、この詩の始めと終わりに降り続く雨は、これもまた永遠の繰り返しの、反転と逆説(本当はこの言葉は使いたくありませんが他に言葉がない)の一致することなく一致している話者ともうひとりの話者の自己の対話を許容する「ラプラタ河の土手の小さな穴」なのであり、『雪になりそうだから』と歌われたそのことの開始の無い、予感に満ちた永遠に始まらない始まりの世界、「記憶の地底の苦い酸の海から/拾い上げた化石の輝き」の存在する世界なのだと思います。

『夜の訪問者』でも、同じ雨が冒頭と最後に「沛然と」降り続いております。

Puffのような「物語」を書きたいというこの詩人の言う通りの詩が、『物語』と題した詩として歌われております。

桃割れでヨモツヒラサカ越えて来よ

『ハイド氏の庭』のうち「第六章 季節なき庭」の最初に置かれたこの句と同じように、『物語』の物語は歌われております。

この同じ思想と感性を、この現代語の詩人は、「ランプのほやにまだ残っている炎の死を/掌に残すために」と歌って、この詩を締めております。

他方、この詩の最初の一行は、「幸せは事実にすぎない」で始まり、「不幸せは果てることなき物語と/とつくにの詩人は書き記して自殺した」と続いて、この第1連が成っています。

桃割れでヨモツヒラサカ越えて来よ

この現代語の詩人の世界が、どんなにその同じ人間の俳句の世界に通じていることか。

そうして、最後に来る、残りの3つの詩、『鏡』『遺影』『挨拶』について。

こうしてこの詩集を読んで参りますと、『挨拶』という詩を一番最後に持って来たそのこころが、よく解ります。如何にも、石原明という詩人らしいと思います。

そしてこの『挨拶』という詩は、上で述べましたように、メビウスの輪の道を旅する者に対する餞(はなむけ)の言葉であるという意味の挨拶だということが、次の最初の二行で解ります。

「君は旅立て
 私たちは石を投げる」

この二行も既に見てきましたように、この詩人の一致のことについての、その一致と不一致のある場所、時間の無化されたその場所での出来事であり、挨拶なのです。

三行目は、やはりこの詩人が30有余年を経て詩心を思い出したことが「ヴィスコンティ映画祭」であったことを示しております。

「それが美しい足跡への賛辞である」

そして、更に続きます、

「振り返らずに
 挨拶せよ」

これはこのまま、このようにこの人間は生きてきたのだという、その強い思いを覚える二行です。

そうして最後まで続く、次の詩行もまた。

「挨拶せよ
 地球の回転のままに
 地平線を潜って行け
 男たちには「では」と言い
 女たちには「待て」と告げて
 一片の雲さえ追い払われた
 耳が痛くなるほどの青空に
 地に呪われたる者として
 眼差しを高くかかげて
 磁場の命ずるままに
 不浄なものとして
 ただの黒点となって
 君は旅立て
 それが君の正しい挨拶である」

この挨拶は、いや餞(はなむけ)の言葉は、これ以前のすべての詩に通じている心だと思います。

もうひとつの詩集『パンゲア』は、上で述べましたように『雪になりそうだから』と裏表の関係にありますので、以上の主題と動機(モチーフ)を同じように読み取ることが、別の語彙で構築された詩群の集合として、できるでありませう。

この『パンゲア』という詩集は、『五月』という詩で述べましたように、やはり隠喩(metaphor)の連続でできている詩群です。

『ア・センチメンタル・ジャーニー』には、この詩人にとって大切な形象であるラプラタ河も歌われ、また永遠に繰り返す一致と不一致を保証する、メビウスの輪の結節点の接続を保証する雨も歌われていて、この二つの詩集が、左右対称の双子の詩集であることを示しております。

『パンゲア』を更に詳細に読み解くことは、次回のことといたします。So weit fuer heute。












【西東詩集95】 Wiederfinden(再会)



【西東詩集95】 Wiederfinden(再会)


【原文】

IST es möglich! Stern der Sterne,
Druck ich wieder dich ans Herz!
Ach! was ist die Nacht der Ferne
Für ein Abgrund, für ein Schmerz.
Ja du bist es! meiner Freuden
Süsser, lieber Widerpart;
Eingedenk vergangner Leiden
Schaudr’ ich vor der Gegenwart.

Als die Welt im tiefsten Grunde
Lag an Gottes ewger Brust,
Ordnet’ er die erste Stunde
Mit erhabner Schöpfungslust,
Und er sprach das Wort: Es werde!
Da erklang ein schmerzlich Ach!
Als das All, mit Machtgebärde,
In die Wirklichkeiten brach.

Auf tat sich das Licht! So trennte
Scheu sich Finsternis von ihm,
Und sogleich die Elemente
Scheidend auseinander fliehn.
Rasch, in wilden wüsten Träumen,
Jedes nach der Weite rang,
Starr, in ungemessnen Räumen,
Ohne Sehnsucht, ohne Klang.

Stumm war alles, still und öde,
Einsam Gott zum erstmal!
Da erschuf er Morgenroete,
Die erbarmte sich der Qual;
Sie entwickelte dem Trüben
Ein erklingend Farbenspiel,
Und nun konnte wieder lieben
Was erst auseinander fiel.

Und mit eiligem Streben
Sucht sich was sich angehört,
Und zu ungemessnem Leben
Ist Gefühl und Blick gekehrt.
Sei’s Ergreifen, sei es Raffen,
Wen es nur sich fasst und hält!
Allah braucht nicht mehr zu schaffen,
Wir erschaffen seine Welt.

So, mit morgenroten Flügeln,
Riss es mich an deinen Mund,
Und die Nacht mit tausend Siegeln
Kräftigt sternenhell den Bund.
Beide sind wir auf der Erde
Musterhaft in Freud’ und Qual,
Und ein zweites Wort: Es werde!
Trennt uns nicht zum zweitenmal.


【散文訳】


こんなことがあるのか!星の中の星よ
お前を再び心臓に掻き抱いているとは!
ああ!何という、遠く離れていた夜は
地獄であり、苦しみであったことだろうか
そうだ、これはお前なのだ!わたしの数々の歓喜の
甘い、愛する半身なのだ
過ぎ去った苦悩を思い出して
わたしは、思わず、お前を眼の前にして、震えているのだ。

世界が最も深い根底にあって
神の永遠の胸にあったとき
神は、最初の時間を整えた
荘厳なる創造の陽気を以って
そして、神はこの言葉を発した:成れ!
すると、苦痛のああ!という声が鳴り響いた
万有が、力の身振りを以って
数々の現実の中へと押し入った。

光が現れた!かくして、
闇が光と、おずおずと分かれた
そして、直ちに、諸要素が
互いに分かれながら逃げて行く。
急激に、乱暴な荒涼たる数々の夢の中で
どの要素も、遠くを求めて格闘し
測り知れない数々の空間の中で、凝然としていた
憧憬も無く、響もなかった。

全ては沈黙していた、静かに、そして荒涼としていた
神は初めて孤独になった!
そこで、神は光(朝日)を創造した
光は、苦しみを憐れんだ
光は、暗いもののために
鳴り響く色彩の戯れを開発した
そして、こうして今や再び愛することができた
最初は互いに分かれたものが。

そして、急いで努力をして
互いに帰属するものが、互いを求める
そして、測り知れない生命へと
感情と視線が還って行く。
それが、襲って捕まえることであろうが、無理やりに自分のものにすることであろうが、
互いに捕まえて、そしてそのままに互いを抱きしめたままでいる者!
アッラーは、この者を、もはや創造する必要はないのだ
わたしたちが、アッラーの世界を創造するのだから。

と、そう、こういうわけで、光の赤い翼を以って
わたしをお前の唇(くちびる)に奪いとったのだ
そして、夜が、千もの封印を以って
星の明るさで、この結びつきを強めたのだ。
ふたりは、この地上では
歓喜と苦悩の典型である
そして、二つ目の言葉:成れ!
が、わたしたちを二度目に別れさせることは、二度とないのだ。




【解釈と鑑賞】


これ以前の幾つかの詩では、ズーライカとハーテムは、お互いに離れていて、互いが互いを求めることについての詩が続いておりました。

この詩の題名が、再会というものですから、やっとここで、ふたりは会うことができたのです。

この詩は、学生の二十歳(はたち)のときに、即ち40年前に読んで、素晴らしいと思った詩です。

今読み返し、新ためて訳してみても、その思いは変わりません。


わたしもまた、この詩と再会したのです。

Der Boden brennt(地面が燃えている):第48週 by Elke Erb(1938ー )


Der Boden brennt(地面が燃えている):第48週 by  Elke Erb(1938ー )








【原文】


Der Boden brennt. Gut.
Die Strasse ist fest, gedeckt.
Ihre Decke, die Brei war, gehärtet.
Man hat sich mit ihr einen Gefallen getan.
Und nicht gefallen wollen.

Deutlich aber Bäume in Gold und Silber,
deutlich, sie, beide, Gold mal, mal Silber,
besonders das Silber so unleugbar
Silber wie unglaublich

(es war keine Rede von ihm).
Seltene Sonne, silberne Samen, Schoten;
goldene Zweige;
Schotter; er brennt nicht. Doch.
Masse. Uebergossen, Bitumen.

Winterrasen, feuchte fruchtbare Gegend
(feucht, also fruchtbar), Sand.



【散文訳】


地面が燃えている。結構なことだ。
通りは、固く動かず、覆われている
あなたの覆い、それはお粥だったのだが、それも固くなっている。
ひとは、あなたのその覆いが気に入ったのだ。
そして、気に入るようになりたいとは思っていなかったのだが。

明らかに、しかし、木々は金と銀の色をしていて
明らかに、木々は、これらふたつの、ある時は金、ある時は銀で
特に銀は、それほどに拒否することはできない色だ
信じがたい程に銀は

(銀については、議論する余地がなかった)
稀にしか照らない太陽、銀色の種子、莢(さや)
金の枝々
歩道の敷石。これは燃えない。いや、燃える。
量があれば。注ぎかければ、瀝青があれば。

冬の芝生、湿って実り豊かな土地だ
(湿って、それ故に実り豊かなのだ)、砂があるのだ。



【解釈と鑑賞】


この詩人の、日本語とドイツ語とふたつのWikipediaがあります。




ドイツの詩人です。

ベルリンの壁のあった時代に、父親が、何を好んでか、西ドイツのラインラント州に住んでいたものを、わざわざ娘たちを東ドイツに連れて行きました。

この詩人は、共産主義国家東ドイツで育った詩人です。

シュータジ(Stasi)の監視対象になっていたとあります。

現在は、ベルリンに在住。ブランデンブルグ門の下を通ることのできる時代が来るとは、当時は、この詩人も思っていなかったことでしょう。

当時のブランデンブルグ門の写真です。わたしは、両方の側から、この門を眺めることができました。ドイツ人ではなく、外国人であったからです。




この詩は、ドイツの秋を歌った詩です。

いい詩だと思います。それは、この詩に歌われている、ドイツの秋が誠に美しいからです。

この詩の題名は、地面に落ち葉が敷き詰められている、そのことを隠喩で歌ったのです。