2016年5月21日土曜日

第20週:Wasser(水)by Philip Larkin(1922 - 1985)


第20週:Wasser(水)by  Philip Larkin(1922 - 1985)




【原文】

Wär ich berufen,
Einen Glauben zu gründen,
Würde ich Wasser mir wählen.

Kirchgang wäre
Waten hin zu
Trockner, anderer Kleidung;

Zur Liturgie benutzte ich
Bilder von Durchnässung,
Einen wilden, frommen Wasserguss,

Und im Osten erhöb ich
Ein Glas voll Wasser,
In dem jedes gebrochene Licht
Sich sammelte, immerfort.


【散文訳】

もし私の天から授かつた使命が、
一つの信仰を打ち立てよということであるならば
私は、私ならば、水を選ぶだらう。

教会への道があるのだから、その道があれば
それは、水ある河を渡つて向かうへと
乾いた、もう一つの衣装へと、向かふ徒渉であらう、といふのは、

教会への道とは、すつかりと濡れそぼつことの形象の数々であり、
或る野生の、敬虔なる下水道なのだから。

さうして、東方にあつて、私が掲げるのは
満杯に水を湛(たた)えた一つの杯(グラス)であり、
その杯の中にあつては、砕けたどの光も
集まり集まつて、止まないのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩人は、イギリスの詩人です。

英語のWikiです:

一読、誠にイギリス人らしい詩だと思ひました。

端正な詩であり、静かで地味な言葉の使ひ方をしてをりますが、誠に静謐であり、深いものがあります。

すべての行は、ドイツ語の文法でいふ接続法II式で書かれてをり、これは英文法でいふ非現実話法なのですが、その効果が十分に発揮されてゐます。

キリスト教の信仰と教会といふ事から、この詩を読んだ読者の思ふのは、水といへば聖水でありませうし、東方といふ言葉を読めば、やはり読者はイエス・キリストの誕生を祝福しに遥々(はるばる)と東方より参じた3人の博士でありませう。

このやうな日常の生活と聖書の故事を踏まえて二重構造にして詩を作るといふ、これはやはり年功年季の入つた詩人の技(わざ)であると思ひます。優れた藝術家は、常に此のやうに神話や聖典の世界を踏まえて、新しい世界を創造するものです。これを言葉の本義に於いて、Parodie(パロディー)といひます。

第2連と第3連にある、

教会への道があるのだから、その道があれば
それは、水ある河を渡つて向かうへと
乾いた、もう一つの衣装へと、向かふ徒渉であらう、といふのは、

教会への道とは、すつかりと濡れそぼつことの形象の数々であり、
或る野生の、敬虔なる下水道なのだから。」

この言葉の意味は、水といふ連想から、

1。教会への道は河の向かうに続いてゐるといふ事
2。向かう岸には、乾いた、もう一つの衣装あるのだといふ事。それが、
3。信仰であるといふ事。
4。信仰とは(私たちの日本語でいへば)、このやうに河を渡つて彼岸へ行く事であり、行って其の乾いた衣装を身にまとふ事であり、その道は、
5。高い位置にあるやうな道ではなく、水に濡れそぼつた下水道に他ならないといふ事
6。その日々を生きる事が、「教会への道」を歩む事なのであり、それ故に其の道は「すつかりと濡れそぼつことの形象の数々」からなつてゐるのだといふ事
7。私とは、そのやうな、人知られぬ、日常の生活では、すつかり忘れられてゐる下水道であるといふ事

しかしながら、そのやうな道を歩んで彼岸に至り、さうして、イエス・キリストの生誕を祝福した3人の博士のゐる東方に」自分がゐて、さうなれば、その同じお祝ひの心で「私が掲げるのは」、さうやつて濡れそぼつた水を「満杯に」「湛(たた)えた一つの杯(グラス)であり、/その杯の中にあつては、/砕けたどの光も/集まり集まつて、止まないのだ。

この第2連と第3連は、新約聖書のルカ伝の冒頭にあるヨハンネスといふ若者の人生を思はせます。ヨハンネスは信仰の道を歩み、さて最後に何が起きたか。ルター訳の聖書には、Das Wort ward Fleischとあります。誠に含蓄の深い一行でした。言葉が肉体になつた。と訳する事ができます。

この詩人は、最後には、東方で祝福のための一杯のグラスの水を掲げる。さうして、その杯の水は、確かに自分自身である。これが信仰であるといつて、第1連に其の詩想は戻るのです。第1連はどうであつたか。

もし私の天から授かつた使命が、
一つの信仰を打ち立てよということであるならば
私は、私ならば、水を選ぶだらう。

今の日本の詩人には、上述の如くに読み解いた此のやうな静謐で深い詩行を書くことは、特に若ければ若い人ほど、できないでせう。それが、何故かは、この詩人の詩が、そのままに示してゐます。










0 件のコメント: