2016年5月25日水曜日

25. MAI:Namenkunde(名辞学)by Hans Magnus Enzensberger

25. MAI:Namenkunde(名辞学)by  Hans Magnus Enzensberger






【原文】

Mein Hund, mein Mondkrater, mein Ententümpel:
Alles getauft, in Besitz genommen,
mit ruf-, Haus-, spitz- und Flurnamen eingedeckt.
Tukkum zum Beispiel, Tasso oder Zum Schiefen Eck.
Sogar die Wüste, leer wie sie ist,
heißt Soundso-Wurste, Tögrög, Burget Tuyur,
Betpak-Dala. Auch das Meer ist beziffert.
Mit Fliegendreck sind die Karten gesprenkelt.
Nur für die Mücken hat es nicht mehr gereicht,
oder kennt ihr Moskitos, die Adalbert
oder Gustav hießen? Dagegen Kometen,
Nebel, Galaxien. Oh, wir vergewissern uns!
Als wüssten wir, was Babylon war,
wenn wir Babylon Babylon nennen.
Als wüßten wir nicht: Das meiste,
fast alles, wäre auch ohne uns da.


【散文訳】

私の(飼つている)犬、(の見つけた)月面のクレーター、(知つて狩場にしてゐる)鴨の棲む私の
全ては、洗礼式で命名されてゐるものばかりで、つまりは誰かの所有に帰したものばかりで、
呼び名や、(定住と所有を表す)土地の族の名や、渾名(あだな)や、耕作地名ですつかり覆はれてゐる。
例へばTukkumが其れだし、Tasso、または斜角亭」といふ名前の店がある。
おまけに、荒地がある、その通りに空虚で、
何々荒地という名前で、Tögrög, Burget Tuyuといふのも
Betpak-Dalaといふ名前もある。海だつて、付番されてゐる。
蠅の糞で、地図といふ地図には斑(まだ)ら模様ができてゐるのだ。
ブヨにとつてだけは、もはや、それだけでは十分ではなかったのだ、
あるいは、お前たちは蚊を知っているか?
アーダルベルトとかグスターフという名前だつた蚊を?反対に、流星、
霧、銀河についての名前といふ奴もある。ああ、我々はかうやつて確かめているのだ!
恰も私たちは、バビロンが何であつたのかを知つてゐるかの如くに、
もし私たちがバビロンをバビロンと呼べば。
恰も私たちは知らないかの如くに、即ち、大方のものは
ほとんど総てのものは、私たちがゐなくても、そこに現にあるのだといふことを(知らないかの如くに)。


【解釈と鑑賞】

ドイツの、先の敗戦後の、有名な詩人です。

ドイツ語のWikiです:

ドイツ語のWikiです:

詩の題名が名辞学といふ通りで、世にある名前と、そのやうに名前を付ける人間との関係を書いた詩です。

最初の3行は、ゲルマン民族に土俗的な古代からの村や居住地や耕作地や其の所有に纏(まつ)はる伝統的な名前のことから始まつて、次々に何々とそれぞれに前綴りのやうに名前を冠されて呼ばれるものの名前を挙げてゐます。
日本ならば、さしづめ何々銀座とか、何々小町とか、まあ、さういふやうな名前でありませう。

そのあとに挙げられてゐる、

Tukkumは不明です。Tassoはゲーテの戯曲『Torquato Tasso』で有名であり、これは16世紀のイタリアの高名な詩人といふ事ですから、何々のタッソーなどといふ名前が安易に口にされるのでありませう。斜角亭」といふ名前は、レストランや居酒屋やバーの、またその他の店の名前です。ネットで検索するとスイスのバーゼルに同じ名前のレストランがありました。Tögrögは、蒙古の貨幣の単位ですので、例えば10Tögrög、100Tögrögといつたやうに、やはり同様に数字と番号の位をつけてTögrögと呼ばれるのです。チンギスハンの紙幣です。




Burget Tuyuといふのもスーダンにある有名な石の事で、Burgetの石といふ意味となりませう。



Betpak-Dalaはカザフスタンの砂漠の名前で、さうなると何々といふ名前が前について、世界のあちこちに、いや多分白人種のヨーロッパ人にはめづらしいので、その知る限りに於いてさうである砂漠を、多分そのやうに呼ぶのでせう。



ブヨにとつてだけは、もはや、それだけでは十分ではなかったのだ』といふ意味は、ブヨの場合には、人間のことを巡る名前だけでは足りなくて、もつとたくさんの名前が付けられてゐるといふのです。更には、蚊も然り、更に、流星、霧、銀河にも、何々流星、霧にも狭霧、朝霧の類あり、銀河にも楕円銀河に螺旋銀河があるといふ具合です。

要するに、名前をつけることによつて、我々は安心してゐるのだ。

と、以上のことを列挙式に例示をして来て、言ひたいことは、最後のの4行でありませう。

これが私たち人間の日常であり生きることであるといへば再た、軽薄日常、憂鬱日常、ノンビリ日常、愚劣人生、幸福人生……。






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