2016年5月29日日曜日

29. MAI:Immer wieder, ob wir der Liebe Landschaft auch kennen(何度も何度も、私たちは愛の景色を実際に知つているのだらうか)by Rainer Maria Rilke

29. MAI:Immer wieder, ob wir der Liebe Landschaft auch kennen(何度も何度も、私たちは愛の景色を実際に知つているのだらうか)by  Rainer Maria Rilke



Rilke and Klossowska at Chateau Muzot 1923


【原文】

Immer wieder, ob wir der Liebe Landschaft auch kennen
und den kleinen Friedhof mit seinen klagenden Namen
und die furchtbar verschweigende Schlucht, in welcher die
   andern
enden: immer wieder gehen wir zu zweien hinaus
unter die alten Bäume, lagern uns immer wieder
zwischen den Blumen, gegenüber dem Himmel.


【散文訳】

何度も何度も、私たちは愛の景色を本当に知つてゐるのか
そして、悲嘆に暮れてゐる名前たちを有する其の小さな墓地を本当に知つてゐるのか
そして、恐ろしいほどに秘密にしてゐる山峡を知つてゐるのか、そこでは
他のものたちが終るのであるが、即ち、何度も何度も、私たちは二人で出て行くのだ
古い木々の下へと、何度も何度も、私たちは野営をして、横たはるのだ
花々の間で、天に向かつて。


【解釈と鑑賞】

ドイツの、いふまでもなく、また日本でも、高名な詩人です。

日本語のWikiです:

英語のWikiです:

1行目で、愛の景色を実際に、本当に、知っているのかと問ふた次の2行で、詩人は実際の愛の景色を歌つてをります。それが、死による別れを悼み嘆いた、死者たちの名前を持つ墓地であり、その墓地のある峡谷なのです。

山峡と訳し、峡谷と今書いたSchlucht(シュルフト)といふドイツ語の語は、その音からして、何か本当に飲み込まれるやうな隙間、谷間といふ感じがします。辞書には、狭間といふ訳語も載つてゐることから、そのやうな景色の様子の、やはり谷間といふよりは山峡であり峡谷といふべき、隙間なのです。

さうして、隙間といへば、安部公房の読者には既に馴染み深いことに、その凹の窪みには、存在が隠れてゐるのです。これが、リルケの世界の論理であり、形象です。

従ひ、そこは既に世俗ではなく、世間でもなく、墓のある凹であり、その他の生者の来るところではないのですし、かうしてみれば、愛だけが宿ることのできる場所であるのです。

かうしてみれば、リルケの愛とは、ほとんど其の人間の死に等しいと言へませう。

さて、さうであれば、

即ち、何度も何度も、私たちは二人で出て行くのだ
 古い木々の下へと、何度も何度も、私たちは野営をして、横たはるのだ
 花々の間で、天に向かつて。

とある最後の3行は、その峡谷で野営をし、野営をするのですから横たはつて、それも花々の間に横たわつて、天を仰ぐ姿勢となります。

この私たち」が男女だとして、しかし此処には、男女が性愛を交はすといふ姿を読み取ることはできません。

それは、やはり此の土地は、墓地のある、それも大きい墓地ではなく、小さな墓地のある山峡であり、山峡である以上凹の景色であり風景であり、従ひ、存在の存在する隙間であるからです。

この二人は、存在に棲む男女なのです。

他のどの詩の場合もさうであるやうに、存在の中にゐるのであれば、この二人は、永遠に会ふことはないのです。最も近い者は最も遠く、最も遠い者は最も近いと云ふ事を言つたリルケの愛なのです。二人が男女が性愛を交はすことはないのです。

そして、この隙間の空間は存在であり、そこには時間が無い事を明瞭に意識して、また其れを読者にも詩の表現として伝へるために、リルケは、最初の3行には動詞を使つてをりません。この読み手側の意識へ及ぼす効果は、「何度も何度も、私たちは愛の景色を実際に知つているのだらうかと」読者が胸のうちで、本当は間接話法ですが、しかし恰も直接話法であるかの如くに、即ち自分自身の声(voice)で声調で、この詩の此処を読みながらみづからに問ふことをことをなさしめるのです。

従ひ、このimmer wieder、何度も何度もといふ実際繰り返される繰り返しの言葉が、実は、あなたが自分自身で存在を招来するための呪文であることに気づくのです。あなたが、本当の愛を知ることができるために。


追記

即ち、何度も何度も、私たちは二人で出て行くのだ
 古い木々の下へと、何度も何度も、私たちは野営をして、横たはるのだ
 花々の間で、天に向かつて。

とある此の3行のうちの、「木々」も、恋人たちが「野営をして、横たはる」「花々」も、リルケの詩の世界では、時間のない空間、即ち純粋空間の中に存在することのできる、噴水と同じやうに永遠の循環の中に生きてゐる、植物なのでした。

従ひ、木々の古さについていへば、これは単に古いといふ意味ではなく、日本語でいふならば、苔むしたといふ日本語の意味に近い意味になるでせう。樹木の古さには、時間がないのです。

従ひ、二人について使はれる「何度も何度も」も、この二人が永遠に循環する、純粋空間の中の、存在であることを示してゐるのです。








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