リルケの『形象詩集』を読む
(連載第13回)
『天使』『Die Engel』
【原文】
Sie haben alle müde Münde
und helle Seelen ohne Saum.
Und eine Sehnsucht (wie nach Sünde)
geht ihnen manchmal durch den Traum.
Fast gleichen sie einander alle;
in Gottes Gärten schweigen sie,
wie viele, viele Intervalle
in seiner Macht und Melodie.
Nur wenn sie ihre Flügel breiten,
sind sie die Wecker eines Windes:
als ginge Gott mit seinen weiten
Bildhauerhänden durch die Seiten
im dunklen Buch des Anbeginns.
【散文訳】
天使たちは、皆疲れた口唇(くちびる)を持っていて
そうして、縁(へり)の無い明朗な魂もそれぞれに持っている。
そして、ある憧れが(罪への憧れであるような憧れが)
折々に、天使たちの夢を通って行く。
ほとんど互いに似ているのだ、天使たちは皆、というのは
神の庭々の中で、天使たちは沈黙しているからなのであり、
それは、神の権力と旋律の中にある
たくさんの、たくさんの間(あいだ)のように。
天使たちが、その翼を広げる場合だけ、
天使たちは、一つの風の眼を覚ますものたちなのだ、即ち、
恰も神が、自分の、広い
彫刻家の両手を以って
最初の、始源の、暗い書物の中のページたちを通って
歩むかの如くに。
【解釈と鑑賞】
『形象詩集』には、天使という言葉が、単数複数を問わず、この詩の天使も含み、全部で8回出てきます。
天使は、本来は此の世のものではなく、God(仮に日本語の神と訳し措くことにしましょう)に仕えて天上に住む者です。リルケは、そのような存在である天使を好んで詠んだのでしょう。
前回第12回の『静寂』で引用した『ドゥイーノの悲歌』の天使像、即ち上位接続者、差異を埋め、接続する透明な関数としての統合接続者としての天使像を、ここでも用いることにして、8つの天使を通覧して論じまとめることの代わりと致しまます。
前回と今回の天使以外に6つの天使が此の詩集には登場します。そして、天使という言葉の登場する回数は6回ですが、詩の数は3つ、それぞれの詩に均等に2度づつ出てきます。次のような詩です。
1。『布告 天使の言葉』(『Die Verkündigung, Die Worte des Engels』)
2。『最後の審判 ある修道僧の手紙の中から』(『Das Jüngste Gericht, Aus den Blättern eines Mönchs』)
3。『観る者』(『Der Schauende』)
さて、天使のことを此のように備忘に録した上で、第1連から読むことにします。
「天使たちは、皆疲れた口唇(くちびる)を持っている」
とある最初の一行の「疲れた口唇(くちびる)を持っている」という意味は、口数少なく、あるいはまたものを言わずにいるものだという意味です。その原因が、確かに選択された形容詞の通りに、実際に疲れていてもの言わぬものなのか、譬喩(ひゆ)として、そのように表すことによって、もの言わぬことの程度の大きさや強さを言いあらわしたいのかは、どちらも解釈があり得るでしょう。
前者の場合の理解と解釈は、しゃべり疲れたということになります。後者の場合には、それほどまでに、何かもの言わぬ大きな、または強い理由や原因があるのだということになりましょう。
と、このように読んできて、さて、第二行は、
「そうして、縁(へり)の無い明朗な魂もそれぞれに持っている。」
この縁(へり)とは何を、リルケは言いたいのでしょうか。
天使たちにも魂がある。そうして、その魂は明朗で明るく、縁(へり)がないというのです。この詩集中に、この縁(ヘリ)という言葉は、全部で15回出てきます。その中から幾つかを取り出して、その共通した意味、即ち概念を読み解いてみましょう。
すると、早速同じ言葉が上記の『布告 天使の言葉』(『Die Verkündigung, Die Worte des Engels』)にも出てくるのです。どうも、天使と縁とは、リルケの言葉の世界では、縁語なのです。この『布告 天使の言葉』という詩では、縁は、次のように歌われます。
【原文】
Du bist nicht näher an Gott als wir;
wir sind ihm alle weit.
Aber wunderbar sind dir
die Hände benedeit.
So reifen sie bei keiner Frau,
so schimmernd aus dem Saum:
Ich bin der Tag, ich bin der Tau,
du aber bist der Baum.」
【散文訳】
お前(人間)は、わたしたち天使よりももっと近く神(Gott)の傍(そば)にいるというわけではない。
わたしたち天使は皆、神に対しては遥かなるものなのだ。
しかし、すばらしいのは、お前(人間)には
両手が祝福されてあることだ。
かくも、お前の両手は、ご婦人(成熟した女性)の許(もと)では成熟しないのであり、
縁(へり)の中から外へと、かくもきらきらと輝いていて、即ち、
わたしは日であり、わたしは朝露であり、
お前は、しかし、樹木なのだ。
【解釈と鑑賞】
これは、この詩の第一連ですが、この第一連の概念連鎖は次のようになります。
①天使
②神(Gott)
③遥かなるもの
④祝福された両手[註1]
⑤(性的に)成熟した女性
⑥そもそも成熟ということ
⑦縁(へり)
⑧内部と外部
⑨日と朝露と輝き
⑩(人間は)樹木であること
[註1]
この詩でも、両手が歌われております。両手に関係してどのような言葉があるのでしょうか。思い出せば、既に此の連載の第10回、第11回、第12回と、連続的に両手が歌われておりました。
第10回の『花嫁』(『Die Braut』)にある両手の縁語は、
①花嫁
②両手
③家
④窓
⑤花嫁、即ち処女、乙女
⑥夕暮れ
という概念連鎖を表し、
また、第11回の『静寂』(『Die Stille』)にある両手の縁語は、
①神聖なる、さやけき音(rauschen:ラオシェン)
②小さな身振り手振り
(1)両手
(2)両目
(3)両まぶた
(4)手首
(5)呼吸
(6)唇
③孤独な人々
そして、第12回の詩『音楽』(『Musik』)にある両手の縁語は、
①聖女:
身振り(お辞儀)ー両手ー神聖ーさやけき音ー孤独な聖女(乙女)ー夜ー無名ー血
②少年:
身振りー両手ー神聖ーさやけき音ー孤独な少年ー夜ー無名
という孤独な聖女(処女)と少年、即ち安部公房の言葉で云う未分化の、しかも互いに異性である実存を巡る上のような概念連鎖でありました。
以上の言葉の連鎖連想に、両手を巡るリルケ独自特有の概念があるわけです。
『形象詩集』の中から此の詩以外からも天使に関するその他の詩を参照して、この詩の第一連以外の天使の形象を一つにまとめますと、次のような言葉を並べて、更に此の概念連鎖を作り込むことが出来ます。天使とは、次のようなものです。天使とは、
①日(day)であり、朝露であり。これに対して人間は樹木であるといわれている。
②神(Gott)から遥かに遠い者
③始めるもの、始めているものであり
④黄金の装身具に身に纏(まと)うた偉大なるもの、即ちGott(神)が何であるのかをお前(人間)に伝えることを忘却したものである。
(この第二連のこの一行を読むと、天使は至高の存在を忘れるものであるのに対して、人間は両手を以って沈思黙考する(sinnen)もの[註2]であるといわれている。天使は忘れ、人間は思い出すと言っても良いでしょう。)
⑤翼を広げると、天使は遥かなものではなくなった。過去形で事実が歌われていることに注意。
⑥お前(人間)の小さな家が、天使の飛翔する翼によって滑るように流れてしまう。この際に、人間は嘗てない程に孤独であり、天使を見ることがほとんどない。このことによって、天使は神聖な森、神域の森の吐息になるのだ。
⑦天使は、お前(人間)の中で、天使自身の言葉を喪失する
⑧お前(人間)の千と一つの夢を叶えた者である(過去形であることに注意)
[註2]
既に論じた『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の中の二つ目の「騎士」の第2連においても、死神は甲冑の内部の暗闇の中に蹲って、沈思黙考する、あるいは瞑想(sinnen)するのでした。どうも、sinnennすると云う動詞は、死、人間の寿命のあること(有限であること)、両手を以って沈黙の中に瞑想することに関係があります。
また、既に読んだ『狂気』という詩でも、Marieという女王は、「私は存在する… 私は存在する…」と沈思黙考する、あるいは瞑想(sinnen)するのでした。
そして、これら二つの例にあっても、沈思黙考する、あるいは瞑想(sinnen)するのは、何かの内部に存在する場合なのです。
これに対して、人間は、
①人間は両手を以って瞑想し、沈思黙考する(sinnen)ものである。対して、天使はGott(神)を忘れてしまうものである。天使は人間に神が何かを伝えることができない。
②夢に囚われているものである[註3]
③成熟するものである
④大きな(あるいは偉大な)高い扉である[註4]
⑤天使の歌の最も愛する耳である[註5]
⑥天使の言葉が、その内部で喪われる者である
⑧樹木である
このように、またこのような、天使と人間の関係が歌われております。
[註3]
この夢の意味については、前回の詩『音楽』において、次のように言われているのでした。再掲します。
「Wie sie schon matter mit den Flügeln schlägt:
so wirst du, Träumer, ihren Flug vergeuden,
daß ihre Schwinge, vom Gesang zersägt,
sie nicht mehr über meine Mauern trägt,
wenn ich sie rufen werde zu den Freuden.
魂が翼を羽ばたかせるのにもう疲れてしまうのであれば、それは即ち、
お前、夢見る者よ、お前が、魂の飛翔を蕩尽することになるのだし
その結果、魂の振動が、歌という鋸(のこぎり)によって切り取られてしまって
魂を、もはや二度とは、私の壁を超えて運び出すことはなくなるのだ
もし私が、数々の実際の歓びへと、これから魂を、おいでと呼んで来させようとしても。
とあるからですし、またそのように魂を疲弊させるようなお前、曲を奏でる少年よ、それによって自らの魂を葦笛の中に閉じ籠めている少年よ、お前は単なるdreamerであり、夢見る者に過ぎないのだというのです。上記の「2。『Kindheit』(『子供時代』または『幼年時代』)」の(11)で見た、次のことを思い出してください。
「その大人同士の関係にあるのは、意義のない信頼、夢、恐怖、根拠のない深さである。リルケがここで歌っているのは、夢とあるように、単なる夢を大人は見ていて、夢を大人として見ているのだけでは、少年の思いや願い事や本来持っている何かは成就しないということを言ってるのです。ここでいう意味の夢は、『音楽』の最後の連の二行目にも、夢見る人、英語ならばdreamerとして少年に呼びかけられて、そのような大人のような分化した人間で夢見るのであっては、お前の魂は外に現れないぞと歌われています。即ち、魂が外へと出ることが、少年が何か願ってやまないことの実現であると、リルケは歌っているのです。安部公房の読者であるあなたが男ではなく女であれば、少女として、そうあれと言っているのです。」
男であれば少年の魂を、女であれば少女の魂を思い出せ。」
[註4]
この扉は、リルケの世界では、第2回目に『Aus einem April』(四月の中から(外へ))で既に論じたように、フランス窓と云うこのできる扉に通じる窓なのでした。存在の窓と扉は通じているのであり、従い後者もまた、存在の扉なのです。その箇所を引用します。
「わたしの方法は、リルケの他の詩で窓を歌った詩を読み、その窓と此の窓を比較して、この窓を理解するという方法、言って見れば、そのような再帰的な方法です。言葉によって言葉を語らせるという再帰的な方法です。『形象詩集』の中には、窓の出てくる詩には、次のような詩があります。
1。『Die Braut』(『花嫁』)
2。『Martyrinnen』(『殉教者の女達』)
3。『Die Konfirmanden』(『堅信礼を受ける少年達』)
4。『Vorgefuehl』(『予感』)
5。『Die Heiligen Drei Könige Legende』(『聖なる3人の王の伝説』)
6。『Ein Gedichtkreis』のIIIとV(『詩の会』)
7。『Dem Andenken von Paula Becker-Modersohn』(『パウラ・ベッカー-モーダー
ゾーンの思い出に』)
8。『Die Aus dem Hause Colonna』(『コロンナ家から出る女』)
9。『 Der Lesende』(『読む者』)
10。『Der Schauende』(『観る者』)
11。『Die Blinde』(『盲目の女』)
これら11の詩に歌われているリルケの窓についても、これを論ずるだけで一冊の本ができることでしょう。今、ざっとこれらの詩の中の窓を打ち眺めて見ると、次のような特徴のある窓だということがわかります。それは何故そうなのかという問いは、今横においておくことにします。
1。表通りに面していること。(『Die Braut』(『花嫁』))
2。表通りには、並木道や家並みと言ったような、何か整然たるものが並んでいること
3。上記2の整然たるものは、古いものであること。(『Die Braut』(『花嫁』))4。その古い整然たるものの中では、夕暮は目覚めることなく、やって来ることはなく、夕暮れになることはない。(『Die Braut』(『花嫁』))
5。その窓辺には、女性であれば、処女(をとめ)が立っていること。(『Martyrinnen』(『殉教者の女達』))
6。その処女は、声を立てずに、沈黙の言葉を話すこと。(『Martyrinnen』(『殉教者の女達』))
7。男であれば、それは少年であること。(安部公房ならば未分化の実存といったでしょう)(『Martyrinnen』(『殉教者の女達』))
8。処女も少年も、その窓辺では、謂わば眠っていて、夢を見ているような状態にあること。(『Martyrinnen』(『殉教者の女達』))
9。この時には、窓は音を立てないこと。即ち、窓は安心して、静かにしていること。(『Martyrinnen』(『殉教者の女達』))
10。或いはまた逆に、社会の中で宗教的な神聖なる儀式が執り行われて、例えば少年の様に在る物(Ding=Thing)の存在が祝福される折には、窓は通りに面していても、自づから開いて、輝くこと。(『Die Konfirmanden』(『堅信礼を受ける少年達』))
11。風が到来すれば、物が動くこと。その際には、窓も動き、震えること。それ以前には、塵(ちり)すらも、重たいこと。(『Vorgefuehl』(『予感』))
12。驚くべきことには、『Die Heiligen Drei Könige Legende』(『聖なる3人の王の伝説』)という詩には、『さまざまな父』に登場する父と「週一度の手伝い」に来る「《ケーキ屋のおねえ》」が歌われていることです。前者は呪詛を吐き、夜に通りを歩く父親であり、後者はその父親が窓辺に来て呪詛の言葉を吐くことを恐れる週一回勤務でやって来る女性(助産婦)です。そのような父親の通りすがる窓ということになります。この窓もやはり、上記1の窓です。
13。窓の向こうにではなく、窓そのものの中、内(内部)に居れば、記憶を喪うこと。何もかも忘れることができること。『Ein Gedichtkreis』のIII(『詩の会』))
14。窓は、多分夕暮という時間の隙間(差異)を通じて、やはり夜と密接に結びついていること。(『Ein Gedichtkreis』のIII(『詩の会』))
15。窓が高い所にある窓であれば、時間も輝いて在ること。(『Dem Andenken von Paula Becker-Modersohn』(『パウラ・ベッカーーモーダーゾーンの思い出に』))
16。上記の1から15のような窓が開く際には、変形して、扉(ドア)の開くように、家の敷居までもの高さ(低さ)にまで開くこと。それは、実際に事実として、草原や道(共に複数形)を備えた公園であること。窓は、そのような公園である。この公園は、「問題下降に拠る肯定の批判」で18歳の安部公房が提唱した「遊歩場」という抽象的な上位接続の道を思わせます。この道は、やはり、こうしてみると、そのような道は、上記13にあるリルケの窓の内部、窓そのものの内にあったのです。
17。少年は、恰も窓辺に居るようであること。その窓辺は、貧救院のすべての窓の開く前の、四月の朝のように、少年の居る窓辺であること。
18。窓辺では垂直に立っているよりは、水平に横になる場所であること。(『Der Schauende』(『観る者』))
19。窓辺で、外に雨の降る時には、風の音も聞こえないので、例えば本も重たいこと。上記11を参照のこと。(『Der Schauende』(『観る者』))
20。窓の外で風が激しく吹けば吹くほど、例えばそれが木々を揺らすほどの嵐であれば、窓は不安を覚える窓であること。しかし、そうなればこそ、遥か遠くの物の言葉を聞くことができること。それは喜びであり、その遠い物の言葉は、姉や妹やそれに相当する親しく看護して呉れる女性と共に一緒にいて、愛することのできる遥かに遠い物であり、その言葉がやって来るのであること。(『Der Schauende』(『観る者』))
21。上記20の風は、嵐という強い風であれば、それは変形する者であること。森や時間の中を通り抜け、吹き抜けると、それらとそれらの中にある物をすべて変形して、時間のないものにしてしまうということ。(『Der Schauende』(『観る者』))
22。「わたしの鳥達は、裏通りではたはたと羽を打って飛ぶことになり、見知らぬ窓(複数形)に止まって傷つくのだ」という、鳥にとっては其のような窓であること。(『Die Blinde』(『盲目の女』))鳥は、高さの中を飛翔するが故に、そうして無心であることによって、存在となっている動物の一つなのであり、群れをなして飛んでいるにも拘わらず、また群れがものに当たって別れることがあっても、自然にまた一つの飛翔に還ることのできる、無時間の空間を生きる生き物なのでした。風もまた、リルケの世界では、鳥と同じ能力を有する存在なのでした。(『ドィーノの悲歌』『オルフェウスへのソネット』)
と、このように『形象詩集』の中の窓を一覧すれば、リルケの歌った窓がどのような窓であるかは、明らかです。」
[註5]
耳が如何なる意味を持つかは、既に『静寂』の泉について『オルフェウスへのソネット』を引用して論じた通りです。耳は、泉、河や川の流れ、市場にある噴水の口に関連しています。どの概念同士の関係も関係して一つになり分かたれない、即ち存在なのです。再掲します。
「オルフェウスへのソネット(第2部)に、次の二つの詩があります。これを読みますと、リルケが泉なるものをどのように考えていたかが、わかります。説明はそれぞれの【解釈と鑑賞】に譲ります。
「XV
O BRUNNEN-MUND, du gebender, du Mund,
der unerschöpflich Eines, Reines, spricht, —
du, vor des Wassers fließendem Gesicht,
marmorne Maske. Und im Hintergrund
der Aquädukte Herkunft. Weither an
Gräbern vorbei, vom Hang des Apennins
tragen sie dir dein Sagen zu, das dann
am schwarzen Altern deines Kinns
vorüberfällt in das Gefäß davor.
Dies ist das schlafend hingelegte Ohr,
das Marmorohr, in das du immer sprichst.
Ein Ohr der Erde. Nur mit sich allein
redet sie also. Schiebt ein Krug sich ein,
so scheint es ihr, daß du sie unterbrichst.
【散文訳】
おお、泉の口よ、お前与える者よ、お前、尽きることなく
一つのもの、純粋なものを話す者よ―
お前、水の、流れる顔の前の、大理石の仮面よ。そして、背景には
水道橋からの由来、由緒がある。ずっと遠くから来て墓場の傍らを過ぎ、
アペニン山脈の崖から、水道橋は、お前に、お前の伝説を運んで来るのだが、
その伝説は、次に、お前の顎の黒く歳をとることの傍を通り過ぎて、顎の前の
器の中へと落ちるのだ。これは、眠りながら差し出された耳、お前がいつも
話しをその中にする大理石の耳だ。
大地の耳。かくして、ただ自分自身とだけ、耳は話をする。もし壺が押し入れられたら、
お前が耳のしていることを中断したと、耳には見えることだろう。
【解釈と鑑賞】
前のソネットの後半、即ち第3連と第4連の詩想を受け継いでいるのでしょう。これは、噴水の水流れ出る泉の口を巡るソネットです。
アペニン山脈から流れてくる水もオルフェウス、写真などでみるとよくイタリアなどの市場にある噴水などの水の装置についている、水の流れ出る口もオルフェウス、そして、その水を受ける器もオルフェウス。
この詩想は、次のソネットにQuelle、クヴェレ、源泉、泉として、やはり、受け継がれています。」
そうして、上の[註4]をお読みください。この16番目をお読みになれば、扉は窓と同様に、また窓にはフランス窓という扉のような高い窓もあるわけですから、従い、人間が高い扉であるならば人間は内部と外部の通路であり、何故通路たり得るかといえば、それはリルケの世界では呼気の出入りによっていつも内部と外部が交換され、その交換の場所が人間なのであり、従い人間は透明な函数であるからです。
これは、このままついに一生涯の、人間の一人称である私という主観(subject)についての、安部公房の不変の認識でありました。ジュリー・ブロックによるインタヴューでの、安部公房の次の回答をお読みください。この発言は、何度引用しても引用過ぎることのない、安部公房の考え抜いた本質と実存という概念の関係を理解するためには、大変重要なテキストです。『奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』(もぐら通信第33号)より引用します。
「[註7]
(略)
また、中埜肇の言う「当時の安部は「解釈学」という言葉をむしろデカルト的な懐疑の方法に近い意味に解していた。」という正確な理解については、晩年安部公房自身が、デカルト的思考と自分独自の実存主義に関する理解と仮面についての次の発言がある(『安部公房氏と語る』全集第28巻、478ページ下段から479ページ上段)。ジュリー・ブロックとのインタビュー。1989年、安部公房65歳。傍線筆者。
「ブロック 先生は非常に西洋的であるという説があるけれども、その理由の一つはアイデンディティのことを問題になさるからでしょう。片一方は「他人」であり、もう片一方は「顔」である、というような。
フランス語でアイデンティティは「ジュ(私)」です。アイデンティティの問題を考えるとき、いつも「ジュ」が答えです。でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでてきませんでした。それで私は、数学のように方程式をつくれば、答えのXが現れると思いました。でも、そのような私の考え方すべてがちがうことに気づき、五年前から勉強を始めて、四年十ヶ月、「私」を探しつづけました。
安部 これは全然批評的な意見ではないんだけど、フランス人の場合、たとえば実存主義というような考え方をするのはわりに楽でしょう。そういう場合の原則というのは、「存在は本質に先行する」ということだけれども、実は「私」というのは本質なんですよ。そして、「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観念論になってしまうということです。
ブロック それは、西洋的な考えにおいてですか。
安部 そうですね。だけど、これはどちらかというと、いわゆるカルテジアン(筆者註:「デカルト的な」の意味)の考え方に近いので、英米では蹴られる思考ですけどね。」
既に18歳の安部公房は、この晩年の発言にある認識に至っていたということがわかります。そうして、何故ジュリー・ブロックが「でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでて」来ないかという理由については、[註35](リルケに教わった内部と外部の交換)も併せて参照下さい。」
「[註35]
この内部と外部の交換を、20歳のときの論文『詩と詩人(意識と無意識)』では、意志的な交換の場合には、次元展開と呼び、また「急激に」やって来る自己の意志とは無関係な次元展開を転身と呼んでいます。
この方法を自覚したのは、安部公房19歳のときです。『〈僕は今こうやって〉』という短い文章に、次のように書いています(全集第1巻、88ページ)。
「 僕は今こうやって孤独になって見て、やっと解った様な気がするのだ。
転身とか変容とか云う事に対して今迄何と言う誤解をしていたものだろう。
僕は今迄総てを内と外に分けなければ気が済まなかった。
勿論内と外とに分ける事はこれから先も永久に続く事には異いないけれども、もっと大きな事があるのを忘れていたのだ。よく考えて見れば僕達が普段内面と言っている様なものは、すべて外面から来る想像に過ぎなかったのではないだろうか。」
この考えは、『詩と詩人(意識と無意識)』では、次元展開と呼んでいる命を賭けた創作方法論となっています。次元展開という同じ意味の言葉を、『無名詩集』では、上の引用でいっているように、変容とか転身と言い換えて表現しております。転身と変容は、リルケを読み耽り、リルケに学んで独自に概念化した、10代の安部公房が詩作の方法と詩人の有り方に関する、特に上記本文の2、3、4に関係する詩作の言葉なのです。
このリルケから学んだ主体と客体の交換、作者と読者の交換の、動態的な交換可能な関係は、終生の安部公房の読者論・作者論でした。『無名詩集』の最後に置かれた『詩の運命』で論じたことです。同じことを、三島由紀夫との対談『二十世紀の文学』で、安部公房は次のように語っています(全集第20巻、82ページ上段)。
「読者は自己の主体で、作者は客体化された自己なんだよ」
この同じ考えを、『方舟さくら丸』刊行後のインタビューで次のように言っています(全集第28巻、38ページ下段)。1985年、安部公房61歳。
「 精神主義的に聞こえるかもしれないけれど、そうじゃない。きわめて政治的なものも含めて、僕は他者を生きるつもりだし、またそれが求められている時代だといいたいのです。」(傍線筆者)
この安部公房の、無私のこころ、無私の精神、無私の感情、この世に生きる人間としての此の悲しみが、安部公房の読者であるあなたの胸に、遥かに遠く届くことを、わたしは願っております。」
縁(へり)の話でした。
「【原文】
Du bist nicht näher an Gott als wir;
wir sind ihm alle weit.
Aber wunderbar sind dir
die Hände benedeit.
So reifen sie bei keiner Frau,
so schimmernd aus dem Saum:
Ich bin der Tag, ich bin der Tau,
du aber bist der Baum.」
【散文訳】
お前(人間)は、わたしたち天使よりももっと近く神(Gott)の傍(そば)にいるというわけではない。
わたしたち天使は皆、神に対しては遥かなるものなのだ。
しかし、すばらしいのは、お前(人間)には
両手が祝福されてあることだ。
かくも、お前の両手は、ご婦人(成熟した女性)の許(もと)では成熟しないのであり、
縁(へり)の中から外へと、かくもきらきらと輝いていて、即ち、
わたしは日であり、わたしは朝露であり、
お前は、しかし、樹木なのだ。」(『布告 天使の言葉』(『Die Verkündigung, Die Worte des Engels』)
この連に再度目を向けますと、縁とは、内部と外部の間の、どちらからみても、その内部からは縁であり、外部からも縁である、数学的には其の積算の値を(中学校の数学で教わったベン図の集合論の図を思いだして下さい)意味しており、人間の身体の一部である両手に関して言えば、「ご婦人(成熟した女性)の許(もと)では成熟しないのであ」るから、それは未分化の実存である少年や、詩人に対するに同じ未分化の実存である乙女のみが知っていて、見ることのできる境界線であり境界域であるということになります。
従い、この両手は、「祝福されてある」以上、「天使は皆、神に対しては遥かなるもの」であるのに対して、未分化の実存たる其の様な人間は、「わたしたち天使よりももっと近く神(Gott)の傍(そば)にいる」のだと『布告 天使の言葉』では歌われることになるのです。
ここにもまた、最も近いものは最も遠く、最も遠いものは最も近いというリルケの思想のあることが判ります。
このように考えて来れば、縁のある魂と、縁のない魂があり、前者は少年や乙女の、後者は天使の魂ということになります。天使は縁のないほどにGodに遠く、未分化の実存は、前者は母親に対して未分化の実存であり(安部公房と母親の関係を思わせます)[註6]、後者は未分化の実存を大人の男として喪失することなく時間の中で生きている詩人という男性に遥かな距離を以って恋する女性としての乙女たる未分化の実存なのです。
[註6]
『天使』の前にある『音楽』という詩に、この母親と少年の関係が歌われています。母親がピアノを、夜に子供部屋の中で演奏すると、息子たる少年は、その音楽の中から外部へと出ることができずに、それを夢みるだけのdreamerという、性的に分化した成熟した大人同然になってしまい、詩人のところへと、その詩人の住む場所の塀を越えて至ることができないのでした。
これが、縁の意味です。
さて、第1連の3行目に参ります。
「そして、ある憧れが(罪への憧れであるような憧れが)
折々に、天使たちの夢を通って行く。」
上述しましたように、天使は両手を持った未分化の実存たる人間ではありませんので、内部から外部へと出たいという憧れが「折々に、天使たちの夢を通って行く」のです。
しかし、それを行うと、天使は神の元へと近づくことになり、遥かな距離を以って神に仕えることができなくなり、神の意志の布告者とはなることができないのです。それ故に、「ある憧れが(罪への憧れであるような憧れが)」と、その憧れをいうのです。
今回の此の『天使』の第2連では、両手を持った未分化の実存たる人間であれば、それは様々にいることができましょうが、このような天使の身であれば、天使たちにはお互いに違いはないということになり、
「ほとんど互いに似ているのだ、天使たちは皆、というのは」
と歌われることになり、
「神の庭々の中で[註7]、天使たちは沈黙しているからなのであり、」
[註7]
『乙女たち』と題して既に読んだ詩の最後の連に、リルケの庭が出て来ました。今読み返しますと、ここに歌われている庭は、誰の庭とも言われておりません。再掲します。
「さて、詩人と乙女たちの話に戻りますと、以上のことから、詩人というものを、「その庭の中で、孤独であるがままにさせて置いてくれ」と詩人はいう。詩人は乙女たちと交わってはならない。だから、(乙女たちに)立ち去れというのです。それも、夜がやって来るからです。
夜の闇がやって来れば、「詩人の五感」は娘たちの「声と姿を」「求めることが、もはや、ない」。何故ならば、詩人は、戸外の広い野や森の中に立つ「暗い山毛欅(ぶな)の木々の下の白い色」を求めるものではなく、同じ闇に在っても、戸内に、その「沈黙した部屋」に求めるものであるからです。
こうして、最後の連の次の行を読みますと、
「そうして、暗い山毛欅(ぶな)の木々の下の白い色は愛さない
そして、沈黙した部屋を、詩人は非常に愛する
(詩人が避けて疲れてしまった其の人間たちの中にあっては)」
また、『花嫁』という二つの連からなる詩には、その最後の連に、次のように庭が歌われております。花嫁という処女が、まだ見ぬ花婿に対して、永遠の時間をかけてやってくる花婿に対して、叫ぶのです。
「そして、あなたは、わたしを、あの、夜の、暗い家の中へと
あなたの声で閉じ籠めるためにやってくるのでないのであれば、
私は、私を、私の両手の中から外へと出して
暗い青色の庭々の中へと
注ぎ込まねばならないのです。」
とあるからには、白い色とは、沈黙のことであり、これはリルケが詩のあちこちに「……」と記号で表した沈黙であり、十代の安部公房が一生の財産とした此の沈黙のことでありましょう。白い色とは、白紙のこと、全くの新(さら)の、無のある場所のこと、存在のある空間の隙間のことにほかならないのです。
これが、安部公房のいう「”物”と”実存”の対話」ということです。」
「やはり、この花嫁は、処女として存在の部屋の内部にいるのですから、未分化の実存として、そこにいて、交われば恐らくは自分自身の死を齎(もたら)すことになる筈の花婿を待っているのです。何故、そうできるかといえば、(第1連に)
「古い、プラタナスの並木道には
夕暮れがもはや目覚めることはないのよ。
プラタナスの並木道は空っぽなのです。」
とあるように、この行に対応する『乙女たち』の行を読みますと、
「そして、詩人たちは、お前たちに触れて、遥かな距離を生きることを学ぶのだ
夕べ夕べが、偉大な星々に触れて
永遠というものに慣れるように。」
とあることから判るように、「夕暮れがもはや目覚めることはない」ということは、「夕べ夕べが/偉大な星々に触れて/永遠というものに慣れるように」なって、夕暮れは永遠に慣れてしまい、夕暮れは永遠に来ないということを言っているのです。即ち、二人が交わって、性愛を交わす夜の時間は、この存在の部屋には、訪れて来ないのです。それ故に、
「そして、あなたは、わたしを、あの、夜の、暗い家の中へと
あなたの声で閉じ籠めるためにやってくるのでないのであれば、」
即ち、永遠にやって来ないあなた、即ち永遠にやって来ているあなたが、存在の部屋の中にではなく、現実の「あの、夜の、暗い家の中へと」「あなたの声で閉じ籠めるためにやってくるのでないのであれば」、今度は逆に、
「私は、私を、私の両手の中から外へと出して
暗い青色の庭々の中へと
注ぎ込まねばならないのです。」
と、この花嫁は歌うことになるのです。
『乙女たち』によれば、この同じ箇所は、詩人の側から次のように歌われておりました。
「詩人というものを、その庭の中で、孤独であるがままにさせて置いてくれ
お前たちを、永遠なる者として迎え容れた其の庭の中で」
即ち、この庭に、恰も水のように「私」を「注ぎ込」むのであれば、水は常に1になり、別れてもいつも一つになる全体、即ち存在でありますから、この乙女は、一つの庭でだけではなく、存在となって複数の「暗い青色の庭々の中へと」我が身を注ぎこむことになります。
何故そのような献身が可能であるかといえば、
「古い、プラタナスの並木道には
夕暮れがもはや目覚めることはないのよ。
プラタナスの並木道は空っぽなのです。」
とあるように、その心は、永遠に来ない夕暮れ、あるいは永遠に夜になることはない夕暮れ、即ち昼と夜の間、その差異にある時間、即ち時差であり隙間である時間には、「プラタナスの並木道は空っぽ」だからなのであり、それは何故空っぽかといえば、『乙女たち』によれば、
「行け!....暗くなって来たぞ。詩人の五感は求めることが、もはや、ない
お前たちの声と姿を。
そして、道という道を、詩人は愛する、長く、そして空虚に
そうして、暗い山毛欅(ぶな)の木々の下の白い色は愛さない
そして、沈黙した部屋を、詩人は非常に愛する」
とあるように、空虚な「古い、プラタナスの並木道」は、詩人の愛する「道という道」、道々であるからであり、それは、存在への接続の通路であり、トンネルであるからであり、それ故に『乙女たち』によれば、
「ただ娘たちだけが、訊かないのだ
どの橋々が形象たちへと通じているのかを」
と歌われている、この「橋々が」「通じている」「形象たちへと」至るための、これは全く同じ(乙女たちが訊く必要のないほどに自明の)「空っぽ」の「古い、プラタナスの並木道」であるからです。
「空っぽ」の「古い、プラタナスの並木道」は、「橋々が」「通じている」「形象たちへと」、即ち存在から、時間を脱して生まれる形象に至るための、同じ接続なのです。
ここまで来ると、もう全く安部公房の小説の世界と変わりがありません。」
何故天使たちは神の庭々で沈黙しているかといえば、それは、上の[註7]に
「この庭に、恰も水のように「私」を「注ぎ込」むのであれば、水は常に1になり、別れてもいつも一つになる全体、即ち存在でありますから、この乙女は、一つの庭でだけではなく、存在となって複数の「暗い青色の庭々の中へと」我が身を注ぎこむことになる」
というのが、乙女という未分化の実存なのであり、上に述べたような祝福された両手を持つ処女なのであり、また乙女に限らず其のような人間の両手は、
「(略)ご婦人(成熟した女性)の許(もと)では成熟しないのであり、
縁(へり)の中から外へと、かくもきらきらと輝いていて、即ち、
わたし(天使)は日であり、わたし(天使)は朝露であり、
お前(人間)は、しかし、樹木なのだ。」
とある以上、このようにある人間に対して、これも既に上で見ましたように、天使たちは、そのような謂わば存在の両手は持つことなく、上で詳述した理由で、
「ある憧れが(罪への憧れであるような憧れが)
折々に、天使たちの夢を通って行く。」
というのである以上、謂わば天使たちは夢を見ているのであり、それは何故かといえば、天使は両手を持った未分化の実存たる人間ではありませんので、内部から外部へと出たいという憧れが「折々に、天使たちの夢を通って行く」からなのです。
しかし、未分化の実存たる人間に倣って其れを行うと、天使は神の元へと近づくことになり、遥かな距離を以って神に仕えることができなくなり、神の意志の布告者とはなることができないのです。それ故に、「ある憧れが(罪への憧れであるような憧れが)」とあって、
「神の庭々の中で[註7]、天使たちは沈黙しているからなのであり、」
という詩行が成り立つのです。
さて、此のように天使たちは神の庭々では沈黙していることになり、
「それは、神の権力と旋律の中にある
たくさんの、たくさんの間(あいだ)のように。」
と歌われていれば、ここでもまた、『音楽』という詩の第1連に既に次のように歌われているように、
「何を演奏しているんだい?子供よ。それは数々の庭園を通り抜けてやって来たよ
数多くの規則正しい行進のように、囁(ささや)いている命令のように。
何を演奏しているんだい?子供よ。お前の魂を見てごらん
お前の魂は、シリンクスの精(ニンフ)の葦笛の管の中に捉えられているよ。」
とあるのを見ればお判りの通り、音楽の旋律は命令であり、少年という未分化の実存にとっては牢獄であり(第2連)ますから、天使たちは、
「神の権力と旋律の中にある
たくさんの、たくさんの間(あいだ)」
に閉じ籠められて、縁のない魂を抱いたままに旋律の隙間に閉じ籠められてあって、外部へと出ることができないのです。
このように此処まで読み解いてくれば、最後の第3連はほとんど自明です。
「天使たちが、その翼を広げる場合だけ、
天使たちは、一つの風の眼を覚ますものたちなのだ、即ち、
恰も神が、自分の、広い
彫刻家の両手を以って
最初の暗い書物の中のページたちを通って
歩むかの如くに。」
古来キリスト教圏のやはり天使ですから天使は羽を広げて飛翔することができる。そうして、天使は羽を広げれば、その時までは夢を見て神の庭に、楽の音の旋律の隙間(差異)に閉じ籠められている天使たちが、今度は逆に謂わば目覚まし時計になつて、風を起こすのです。最後の4行、即ち、
「恰も神が、自分の、広い
彫刻家の両手を以って
最初の、始源の、暗い書物の中のページたちを通って
歩むかの如くに。」
とある最初の行は「恰も」何々の如くにとあるように、神ではなく、天使たちが風を其の羽を以って起こす能動的な覚醒者となって、神の意志を伝える布告者となることができて、恰も天使たちのひとりひとりが神の如くに(現実にはそうではない)、自らの羽で起こした風に乗って天翔け、神の意志を布告するために地上に降り立つこともできるのです。
神は、人間の小さな両手に対して、幅の広い、従い大きな彫刻家の両手を持っている。彫刻家の両手とは、パリでリルケが秘書として仕えて観察したロダンの手を抽象化したものでありましょうし、しかし其の様な歴史的事実はどうあれ、それを離れてリルケが概念化した両手なのであり、彫刻家のなす仕事は石という経時には不変の素材を用いて時間を捨象して造形することであり、神の両手は其の業(わざ)をなすのです。恰も天使は、その大きな、無時間の両手を持つ神の如き者である。
「彫刻家の両手を以って
最初の暗い書物の中のページたちを通って
歩む」
とは、神が其の両手で書物のページをめくって始源の書物を読み通すということを言っているのです。それ故に、「持って」ではなく、「以って」と訳した次第です。
さてしかし、そうして、これが、他方、小さな両手を持った未分化の実存のなす業でもあるのです。リルケはそう言いたいのです。
そうして、恰も神の如き天使たちは、「最初の、始源の、暗い書物の中のページたちを通って/歩むかの如くに」歩むのです。
この詩集の題名が世間には『形象詩集』と訳されてはいるけれども、しかし原題をそのまま移せば、それは『形象の書物』だというお話は、この連載の最初の詩『入り口』と題して此の詩を説明するときに、この書物という言葉の持っているヨーロパ文明での歴史的な意味を説いた通りです。もぐら通信第32号より引用して、以下に再掲します。
「もう少し、この詩集の題名についての説明をしてから、本題に入ります。迂遠なようですが、安部公房という人間を理解するために大切なことですので、お聞きください。
この詩集は「形象詩集」と日本語訳されておりますが、正確には「形象詩集」ではなく、「形象の本」「形象の書物」「形象の巻」と訳されるべきものです。The Book of Imagesと英語であれば訳されるべき原題なのです。
『形象詩集』の後に、1905年、リルケは『時祷詩集』(『Das Stundenbuch』)と訳されている詩集を出しますが、この詩集も正しくは『時間の本』「時間の書物」「時間の巻」という意味です。この時間は、宗教的な祈りの時間ですので、日本語の訳では『時祷詩集』にある「時祷」という言葉を冠して呼ばれているわけです。The Book of Hours、或いはThe Book of The Hoursということになります。
本といえば、16世紀にドイツのグーテンベルグが印刷機を発明して以来、今では普通の所謂(いわゆる)本であり、紙の本ですし、最近では電子書籍という本まで出ていますが、ヨーロッパの人間にとって、その素材の如何を問わず、本とは単なる物体としての書物であるばかりではなく、歴史的・伝統的に、その構造を以って読むべき何ものかなのです。
「世間という書物を読む」という言い方、この慣用句が、古代ギリシャのプラトンの(確か)『国家』に出てきます。つまり社会を一冊の本として読み解くという意味です。時代が下って17世紀のバロック様式の時代になりますと、バロックの哲学者、デカルトの有名な著作『方法叙説』に書いてあることですが、スコラ哲学を学び尽くした後、やはり「世間という書物を読む」ために学窓を去って、従軍して、当時のドイツの30年戦争を実見する旅に出ますし、デカルトの旅をした同じこの時代のドイツには、ドイツのバロック小説の傑作『阿呆物語』が生まれており、この作品の当時の其の表紙は次のようなものです。
この表紙の中で、奇怪な姿をした主人公(人間という生き物はこのような奇怪な姿をしているのです)が手に持って指差している本が、書物としての世間であり人間社会なのです。この本の中には、王冠、大砲、城、杯等々世俗の諸物が描かれています。また、足元にはたくさんの人間の顔の仮面が落ちていて、これもまたバロック文学の形象(イメージ)と動機(モチーフ)の一つなのですが、これらのことを挙げるだけでも、またこの絵を見るだけでも、バロック文学が相当に安部公房の散文の世界に通じていることがお分かりでしょう。[註3]
[註3]
安部公房は、コリーヌ・プレのインタビューで次のように、日本文学と世界文学に関する自分自身の位置について語っています(全集第28巻、104~105ページ)。
(略)
また、19世紀末から20世紀初頭のアメリカの詩人、Hart Crane(ハート・クレイン)という素晴らしい男色者の詩人、30歳でメキシコからニューヨークへ帰るその船上で異性の恋人にさようならと一言言って身を翻し海の中へ身投げをして自殺をした素晴らしい詩人がおりますが、この詩人の傑作『ブルックリン橋にて』の収められている詩集『橋』(『The Bridge』)のエピグラフは聖書のヨブ記を引用していて、そのヨブ記を英語でThe Book of Jobというのだというと、欧米人の本、書物、BOOKという言葉に抱いて来た歴史的・伝統的な意味がおわかりいただけるでしょう。(このJob(ヨブ)は、仕事のjob(ジョブ)に掛けた詩人らしい言葉遊びなのですし、この聖書のヨブ記の引用をして始まる世界は、実は昼間のjob(生業)の終わった後に、男色の男達が命を賭けて行う背徳的な男色の夜毎の地下室でのjob(性交)の話なのです。キリスト教の神聖なる名前を冒瀆する、この詩人のその歓喜と恐怖を思って下さい。)
わたしたち日本語の世界で、これに相当する本は、巻物と呼ばれる書物なのではないでしょうか。源氏物語絵巻、平清盛が厳島神社に奉納した平家納経の絵巻、一遍上人絵伝の絵巻、鳥獣戯画の絵巻物、藝道の免許皆伝の巻物、果ては忍者の巻物や、今ではコンビニエンスストアの棚に並んでいる海苔巻きや納豆巻きに至るまで。谷崎潤一郎はその『文章読本』の中で、日本人の作家の書く小説は、西洋のような立体的な構造を持つものではなくて、絵巻物だと言っております。わたしもその通りではないかと思います。この議論は今横に置いておくことに致します。
さて、リルケも同様に、その歴史的・伝統的なBookの意味を知った上で、その伝統に従って、その詩集、Das Buch der Bilder(ダス・ブーフ・デア・ビルダー)、即ち「形象(イメージ)の本」或いは「形象の巻」という題名を付けて、計87篇の詩を収めたのです。[註4]
[註4]
『もぐら感覚3』(もぐら通信第1号)から、安部公房の、書物ともぐらに関する言葉を引用します。安部公房にとって、現実という書物を読むことは、もぐらとして地中を掘り進むことであったことがわかります。即ち、陰画の世界をすべて言語に変換する行為、即ち「消しゴムで書く」という行為のことです。
「安部公房全集第28巻に「クレオールの魂」というエッセイが収録されています。
これは、題名の通りにクレオールという言語形態を論じた論考です。これは、安部公房の言語論です。
このエッセイの最後に、次のような文章があります。文脈がわかるように、少し長いのですが、引用します。一番最後の段落です。政治、即ち言語による人間の組織化と儀式、そして伝統と、それらと言語の関係を論じてから、次のように言葉を終えています。
「だからと言って絶望するのはまだ早い。バイオ•プログラムとして言語を約束された人間、伝統に刃向かうことを生得的に運命づけられた人間が、こんな儀式過剰の世界に甘んじていられるわけがないだろう。外では最大規模にまで肥大した国家群が辺境の隅々にまで監視の目を光らせ、異端の侵入を拒みつづけるつもりなら、伝統拒否者は足元の地面に穴を掘りはじめるだけの話である。たとえばカフカやベケットのような先例もある。伝統からはかぎりなく遠い、クレオールの魂を思わせる中性的な文体で地面を掘りすすんだ作家たちだ。だからこれからは書物の時代なのかもしれない。内なる辺境への探索には、なんと言っても書物がいちばんだろう。
人間の脳は欲が深いのだ。 [1987.2.24]」
また、同じ歳の6月3日に書かれたチャールスという人物に書かれた書簡の言葉を。このチャールスという男性が、安部公房をアメリカに来るように招待したことが、その前後の文面から察せられます。その、やはり、一番最後の段落を以下に引用します。安部公房が超能力少年(スプーン曲げの少年)の話を構想していたときの手紙です。
こうしてみると、何故か「もぐら」という言葉、もぐらの譬喩(ひゆ)は、いつも一番最後に出て来ます。それが、安部公房にとってのもぐらなのでしょう。
「来春ぼくのモグラがアメリカで這い出すまでには、超能力少年との勝負にも決着をつけてしまいたいものです。」
これらの引用を読むと、安部公房が、もぐらというイメージをどう考えて、それが何だと思っていたかは、明らかです。」
また、書物、本、BOOKということから、1973年に何故安部公房は安部公房スタジオを立ち上げたかと言いますと、それは安部公房の世界観、即ち20歳のときの、詩人のあり方を理論的に確立した論文『詩と詩人(意識と無意識)』に明確に「生の戯曲」と書かれてるように、安部公房は、生(life)の世界を一冊の戯曲(本)であると考えていたからです。即ち普通は戯曲(本)があって、舞台があると考えているのですが、安部公房はそうではなく、舞台(時間と空間が「自立しながら交差する場所としての舞台」(『時空の交差点としての舞台』、全集第24巻、512ページ)、即ち「十字路」[註4-1]としての現実である世界)の上に、書物である戯曲を書こうとし、創造しようとしたのです。戯曲を書くとは、文字と記号を使って生を言語に変換することです。
この意味でも、『阿呆物語』の表紙絵でお伝えしたように、安部公房はバロックの作家です。勿論、この思想は、10代の詩群によって完成しておりました。当然のことながら、その書物は、『ガイドブック』(人が差異の通路を通ってその向こうのまたしても贋である現実という差異へと導く案内のための本)と呼ばれ、言語(言葉)で書かれており、言語の意味とは差異(隙間)であり、関係であり、関数であり、媒介であり、実体の無いものでありますから(安部公房の言語機能論)、役者には「言葉、あるいは意味の伝達人になるなということを、くどいくらいに」教え(全集第22巻の『贋月報』の井川比佐志の言葉)、役(機能)を演じることは、双方の役者の間に、隙間に、差異に、関係を動態的に創造することだ、それこそが科白(せりふ)であり、演技であり、演劇であり、世界が劇場だという意味だと教えたのです。一言で言えば、安部公房は、安部公房スタジオの若い役者に役者以前の人間として存在(媒介)になることを教えたのです。詳細な安部公房スタジオ論は後日と致します。
[註4-1]
安部公房がリルケに学んだ十字路の深い意味は、『もぐら感覚:ミリタリィ・ルック』(もぐら通信第27号と第28号)をご覧ください。そうして其の更に一層深い意味は、『安部公房の奉天の窓~安部公房の数学的能力~』(もぐら通信第32号、第33号、第34号)で論じていますので、これをお読み下さい。
言い換えれば、本とは、時代や現実や世界を映す鏡だと言ってもいいでしょう。鏡としての本、言葉で記述された、世界の鏡です。
『形象詩集』の最初の詩は、Eingang(アインガング)、英語でEntrance、Doorway、日本語で入り口という題名の詩です。その最後の詩は、Schluszstück(シュルスシュテュック)、Closing Piece、終わりの作品、締めの作品と題されていて、その内容は、死と「笑う唇」を歌った詩です。
このように話をしますと、後者の詩と同類の発想の詩を、わたしたちは『無名詩集』の最初の詩『笑ひ』に見ることができます。安部公房は、『形象詩集』の最後の詩を、自分の詩集の最初に置いたことになります。(勿論、詩の内容は、安部公房独自の確立したものになっております。)
こうしてみますと、入り口は出口であり、出口は死であり、出口が死であるならば、これから読むこの入り口もまた死なのではないでしょうか。何故なら、それは親しい者と別れることだからです。そうして、この別れは、単なるこの世での、一次元の時間の中での普通の死ではないのです。
リルケは、その別れを門出と呼び、旅立ちと呼ぶのです。この動機(モチーフ)とそのような遥かなる距離を、リルケは繰り返し歌います。これは、そのまま生涯の安部公房の主題です。」
さて、いよいよ最後です。
リルケは、明らかに上に引用したヨーロッパの伝統的な書物の概念を以って、この詩集を編み、そう命名したのです。そのことが、この詩の此の最後の1行によって判ります。
そして、この最後の行で大切なことは、この書物のページは皆、始源の暗闇の中にあるということです。この暗闇については、既に此の稿でも論じましたように、甲冑あり、庭あり、詩人が存在を沈思黙考(sinnen)し、自身が未分化の実存として存在を歌い、存在、即ち生きた人間として透明な関数に化する際には必ずやってくる暗闇であるのです。
この始源の暗闇は、20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』において、リルケはもうすっかり、数学的な観点からも、その言語論的な語彙から言っても、安部公房独自のものに、思想と言って良いものになっております。
次回は、『守護天使』です。