2014年9月23日火曜日

【西東詩集87】 Suleika


【西東詩集87】 Suleika


【原文】

Suleika

AN DES lustgen Brunnes Rand
Der in Wasserfaeden spielt,
Wusst ich nicht was fest mich hielt;
Doch da war von deiner Hand
Meine Chiffre leis’ gezogen,
Nieder blickt ich , dir gewogen.

Hier, am Ende des Kanals
Der gereihten Hauptallee,
Blick ich wieder in die Höh,
Und da seh ich abermals
Meine Lettern fein gezogen.
Bleibe! bleibe mir gewogen!



【散文訳】

ズーライカ

陽気な泉の縁(へり)、
数々の水糸の中に遊んでいるその縁に凭(もた)れて
わたしは、何がわたしを引き止めるのかを知らなかった
しかし、ほら、お前の手によって
わたしの暗号は、微かにそっと、その線を引かれたのだ
下を、わたしは見た、お前に好意を持って

ここ、この運河の終りで
並べて置かれた主街道の並木道の終りで
わたしは再び高みを見る
そして、そこに、わたしはまたしても
わたしの文字が、繊細にその線を引かれているのをみるのだ。
そのまま動くな!わたしに好意を持ったままでいよ!



【解釈と鑑賞】

後半の連の

Hier, am Ende des Kanals
Der gereihten Hauptallee,
Blick ich wieder in die Höh,
ここ、この運河の終りで
並べて置かれた主街道の並木道の終りで

というところは、運河の終点と、主要な街道の並木路の終りでと解しました。

「並べて置かれた主街道の」と訳したドイツ語は、

der gereihten Hauptallee

ですが、これの意味は、

(1)複数の主たる街道(実際並木路です)が、設計によって整然と配置されている、そのような街道か、または、
(2)単数のそのような主たる街道が、整然と配置されてそのようにあるそのような街道

という意味か、いづれかです。

この語の前の「運河」が単数なので、後者(2)の解釈がよいかも知れません。しかし、これも絶対ではなく、前者(1)の意味として解釈し、陸路も幾つも、数々通って、運河も通って、最後に辿り着いたここで、という解釈もあり得ます。

つまり、どこまで行っても、どこに行っても、ハーテムの賛美して歌う、ズーライカについての詩の言葉とその文字が、ついて廻るのでしょう。

前半の連の、

AN DES lustgen Brunnes Rand
Der in Wasserfaeden spielt,
Wusst ich nicht was fest mich hielt;

陽気な泉の縁(へり)、
数々の水糸の中に遊んでいるその縁に凭(もた)れて
わたしは、何がわたしを引き止めるのかを知らなかった

とあり、次に、

Doch da war von deiner Hand
Meine Chiffre leis’ gezogen,
Nieder blickt ich , dir gewogen.

しかし、ほら、お前の手によって
わたしの暗号は、微かにそっと、その線を引かれたのだ
下を、わたしは見た、お前に好意を持って

とあるのは、泉の水の中をみて、ハーテムの書いた恋の暗号があるのを見るからでしょう。

かうしてみると、前半の連は、静かに泉にいるときに、後半の連は、反対に動いてその行きつくところまで遠くに行ってもという意味になります。

とすると、後半の主要な街道の解釈は、前者(1)の意味として解釈がよいということになります。






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