2014年1月25日土曜日

【西東詩集57-5】 Buch der Sprüche(箴言の書)

【西東詩集57-5】 Buch der Sprüche(箴言の書)


【原文】

GUTES tu rein aus des Guten Liebe,
Was du tust verbleibt dir nicht;
Und wenn es auch dir verbliebe
Bleibt es deinen Kindern nicht.

SOLL man dich nicht aufs schmählichste berauben,
Verbirg dein Gold, dein Weggehn, deinen Glauben.

Wie kommts dass man an jedem Orte
So viel Gutes, so viel Dummes hört?
Die Juengsten wiederholen der Aeltesten Worte,
Und glauben dass es ihnen augehoert.

LASS dich nur in keiner Zeit
Zum Widerspruch verleiten,
Weise fallen in Unwissenheit
Wenn sie mit Unwissenden streiten.

》WARUM ist Wahrheit fern und weit?
Birgt sich hinab in tiefste Gruende?《

Niemand versteht zur rechten Zeit!―
Wenn man zur rechten Zeit verstuende:
So wäre Wahrheit nah und breit,
Und wäre lieblich und gelinde.

WAS willst du untersuchen
Wohin die Milde fliesst!
Ins Wasser wirf deine Kuchen,
Wer weiss wer sie geniesst.

ALS ich einmal eine Spinne erschlagen,
Dacht ich ob ich das wohl gestillt?
Hat Gott ihr doch wie mir gewollt
Einen Anteil an diesen Tagen!

》DUNKEL ist die Nacht, bei Gott ist Licht.
Warum hat er uns nicht auch so zugereicht?《


【散文訳】

善きことを純粋に善きものの愛の中から為せ
お前が為すことは、お前のもとには留まることがない
そして、もしそれがお前のもとに留まることがあるならば
それはお前の子供達のもとには留まらない。

もし人がお前を最も辱める仕方で奪うことがないのであれば(実際はそうではないので)
お前の黄金を隠せ、お前が立ち去ることを隠せ、お前の信仰を隠せ。

人がどの場所にあっても
それだけ多くの善き事を、それほど多くの愚かさを聞くことがあるのは、どのようにだろうか?
最も若いひとたちは、最も年取ったひとたちの言葉を繰り返し
そして、それが、自分たちの場合だと思うのだ。

決してどんな時でも、矛盾にお前自身を
誤って導くことをしてはならない
聡明な人々は、無知に落ちるのだ
もし無知な人々と争うのであれば。

》何故真理は遠く遥かなのか?
何故真理は下へと最も深い根拠の中へと隠れて入るのか?《

誰も正しい時に理解をしないのだ!
もし人が正しい時に理解をすれば(現実はそうではないが)
真理は近く、広い
そして、愛すべきものであり、柔和で寛大なものであることだろう(現実はそうではないが)。

お前が研究したいと思っているもの
そこへと、柔和さ(寛大さ)は流れて行くのだ!
水の中へと、お前の菓子を投げ入れてみるがよい
誰がそれを味わうのかを誰が知ろうか。

わたしは嘗(かつ)て一匹の蜘蛛を打ち殺したときに
わたしはそいつを間違いなく静かにさせたのだろうかと考えた。
同じ様に、神がその蜘蛛に対して、わたしに対してと同様に欲したのだ
今のこの日々の分け前を!。

》暗いのは夜であり、神のみもとには光がある。
何故神はわたしたちに、そのようには整えなかったであろうか?《


【解釈】

第1連は、その通りの箴言です。自分に執着して人に与えなければ、子々孫々の栄えるためしはないということでしょう。

第2連は、これも世間を生きる為の知恵であると思います。日本にあっても然りと、わたしは思います。世には隠れて生きなければなりません。デカルトの座右の銘のふたつの箴言を思い出しました。

ひとつは、オヴィディウスからとった『よく隠れた者こそよく生きた者である』、bene vixit, bene qui latuitであり、もうひとつは、セネカの悲劇『ティーエステス』からとった、「万人に識(し)られつつおのれ自身には識られざる者は、死に臨んで死を怖れる」、illi mors gravis incubat, qui notus nimis omnibus ignotus moritur sibi、です。

第3連の詩は、若いひとは、やはり人生で年老いたひとたちと同じ過ちを犯し、それを繰返すが故に、老いたひとたちの言葉は自分たちの言葉だと思うという意味でしょう。

第4連の詩は、これも世に生きる知恵というべきでありましょう。無知蒙昧なるものたちと争うことは人生の時間をどぶに捨てるようなものです。

第5連は、真理を探究する者にとっては、その通りの疑問と、或いは嘆きでありましょう。

第6連は、第5連を引き継いで、いつも真理を知ることと、それを知るタイミング(時機)とは、一致しない人間の常を歌っています。

第7連は、更に第6連を引き付いて、柔和さと寛大さを歌っています。その徳を、水に投げやるお菓子に譬(たと)えるゲーテの心情や如何に。確かに、その通りではないでしょうか。

こうしてみると、いづれも孤独に堪える言葉であるようです。

第8連は、蜘蛛を撃ち殺したように、神はわたしに同じことをしているということを歌った詩です。蜘蛛がそうであったように、それで生きていることが鎮まるこことはないのでしょうし、蜘蛛を殺しただけの報いをこの日々で甘受しているという風にも解釈ができるのではないかと思います。

最後の連は、神のみもとに光があるようには、人間のもとのにはいつも光があるのではないということを疑問文として歌った歌ということになります。

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