2013年12月7日土曜日

【Eichendorfの詩 50】Mandelkerngedicht(巴旦杏の種の詩)

【Eichendorfの詩 50】Mandelkerngedicht(巴旦杏の種の詩)

【原文】

            Mandelkerngedicht

Zwischen Akten, dunkeln Waenden
Bannt mich, Freheitsbegehrenden,
Nun des Lebens strenge Pflicht,
Und aus Schränken, Aktenschichten
Lachen mir die beleidigten
Musen in das Amtsgesicht.

Als an Lenz und Morgenröte
Noch das Herz sich erlabete,
O du stilles, heitres Glueck!
Wie ich nun auch heiss mich sehne,
Ach, aus dieser Sandeebene
Führt kein Weg dahin zurück.

Als der letzte Balkentreter
Steh ich armer Enterbeter
In des Staates Symphonie,
Ach, in diesem Schwall von Tönen
Wo fand ich da es eigenen
Herzens suesse Melodie?

Ein Gedicht soll ich euch spenden:
Nun, so geht mit dem Leidenden
Nicht zu strenge ins Gericht!
Nehmt den Willen fuer Gewaehrung,
Kuehnen Reim fuer Begeisterung,
Diesen Unsinn als Gedicht!


【散文訳】

            巴旦杏の種

公の書類の間で、暗い壁の間で
自由を求める人間達よ、わたしを追放するがいい
さてこそ、人生の厳格な義務も一緒に
そして、棚から、書類の層の中から
侮辱された詩の女神達が、
役人顔のわたしを笑うのだ

春と朝日の赤い燭光に
まだ心臓が元気になったときには
ああ、お前、静かな明朗な幸福よ!
わたしが、こうなった今、どんなに熱く渇望しようとも
ああ、この砂の地平からは
そこへと戻る道はないのだ。

梁の上を歩く最後の者として
わたし、哀れな遺産相続の資格を剥奪された者は
国家の交響曲の中に立っているのだ
ああ、音のこの響きの中で
それでは、どこに、わたしは自分自身の心臓を以て
それが甘い戦慄だというのか?

わたしは一篇の詩をお前達に施さずにはいられない:
さてこういう次第となれば、この苦しむものと一緒に行くが良い
厳格に過ぎて裁判所には行くのではない!
授けるための意志を受け取るがいい
熱狂のための勇敢なる韻律を受け取るがいい
この理不尽を詩として受け取るがいい!


【解釈と鑑賞】

巴旦杏とは、アーモンドのことです。


そのアーモンドの実を、多分、そのような硬い自分自身に譬えたのがこの詩ではないでしょうか。



第3連をみると、遺産の継承者であることを剥奪されたとあるので、そのような目にあったときに歌った歌なのだと思います。

第1連からは、何かそれまで自分の領地の支配下にあった人間達であったものが自由を求めて、そのような行為に及んだ、或いは法律が変わって、そのようなことができるようになったのではないかと推測します。アイヒェンドルフも具体的な事実を、詩の常として、また詩人の矜持として、歌っておりません。

ドイツ語のWikipeidaによれば、


1818年に父親が死に、その財産であったお城も借金の方にとられてしまったとあります。そうして、アイヒェンドルフは、子供時代の想い出のあるこの城、Lubowitzと、そのSeidlnitzの地所を手放すことになって、これらを惜しみ、懐かしんだとあります。無念であったことでしょう。

2008年に撮影されたLubowitz城の写真です。








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