2012年10月31日水曜日

【Eichendorfの詩 14】Spielleute (軍楽隊)


【Eichendorfの詩 14】Spielleute (軍楽隊) 

【原文】

Spielleute
                         
Frühmorgens durch die Klüfte
Wir blasen Victoria!
Eine Lerche faehrt in die Luefte:
>>Die Spielleu sind schon da!<<
Da dehnt ein Turm und reckt sich
Verschlafen im Morgengrau,
Wie aus dem Träume streckt sich
Der Strom durch die stille Au,
Und ihre Aeuglein balde
Tun auf die Bächlein all
Im Wald, im grünen Walde,
Das is ein lustiger Schall!

Das ist ein lustiges Reisen,
Der Eichbaum kühl und frisch
Mit Schatten, wo wir speisen,
Deckt uns den gruenen Tische.
Zum Fruehstueck musizieren
Die muntern Voeglein,
Der Wald, wenn sie pausieren,
Stimmt wunderbar mit ein,
Die Wipfel tut er neigen,
Als gesegnet' er uns das Mahl,
Und zeigt uns zwischen den Zweigen
Tief unten das weite Tal.

Tief unten da ist ein Garten,
Da wohnt eine schöne Frau,
Wir können nicht lange warten,
Durchs Gittertor wir schaun,
Da ist's so still und kuehl,
Die Wasserkünste gehen,
Der Flieder duftet schwuel.
Wir ziehen vorbei und singen
In der stillen Morgenzeit,
Sie hoert's im Traume klingen,
Wir aber sind schon weit.


【散文訳】

軍楽隊
                         
朝早くにいつも、峡谷を通って
わたしたちは勝利の曲を吹奏する!
一羽の雲雀が空中にあちこちと飛んで
>>軍楽隊が、ほらもう来たぞ!<<という
すると、ひとつの塔が延びていて、伸びながら
朝の灰色の中に眠り呆けている
夢の中からのように、流れが
静かな沃野を抜けて、伸びている
そして、沃野の小さな両目が、じきに
数々の小川の方をみな見ている
森の中にある、緑の森の中にある流れの方を
これが、陽気な響きなのだ!

これが、陽気な旅なのだ
柏の木が、冷たく、新鮮に
影を以て、わたしたちの演奏するところで
わたしたちに緑の食卓を用意する。
朝食に、演奏するのは
機嫌のよい鳥達だ
森は、鳥達が休憩すると
素晴らしく共鳴して、和音を合わせる
梢(こずえ)を、柏の木は、頷かせ
わたしたちの食事を祝福するかの如くに
そして、わたしたちに、枝枝の間に
深く、下方に、広い谷を示すのだ。

深く、その下方、そこには、ひとつの庭があり
そこには、ひとりの美しい女性が住んでいて
わたしたちは、長く待つ事ができずに
格子戸を通じて、わたしたちは見るのだ
そこは、かくも静かで、そして冷たい
人工の噴水が行き
ライラックが、鬱陶しく薫っている。
わたしたちは通り過ぎ、そして、歌う
静かな朝の時間の中で
朝の静かな時間は、夢の中で響く音を聞くが
わたしたちは、しかし、既に遠いところにいるのだ。


【解釈と鑑賞】

題名の通り、軍楽隊の行進しながらの演奏を歌った詩です。

アイヒェンドルフによれば、軍楽隊もまた旅をするのです。

アイヒェンドルフにかかれば、何にもかもすべてが、旅をするようです。

音楽、演奏、雲雀、沃野、行進、谷、緑の森、陽気な雰囲気、静けさ、庭、美しい女性、朝の時間、楽の音の響き、そうして、遠くへ行く事。

知った時には、既に遠くへ過ぎ去っていること。

これら、すべて、アイヒェンドルフの世界の構成要素です。

味わうままに、味わうのが、よろしいのだと思います。

いつ、どの詩を読んでも、不思議な世界だと思います。

繰り返し、飽く事無く、この世界を詩人は歌う。


2012年10月25日木曜日

もぐらの永劫回帰

もぐらの永劫回帰




わたしは人生に一筆書きで

円環を描こうとしたので

16歳のときに

87歳で死亡する線表を書き

逆算して自覚的に人生を始めた



その前には、小学生のときに

歴史の授業で分厚い教科書を

ぱらぱらとめくりながら

1万年後の生徒は大変だな

どんなに分厚い教科書を読むことになるのだろう

ああ、今生まれていてよかったと

思ったことが、わたしのこの世での

時間の終結を

円環を一筆書きで閉じて

もとの場所に、しかし

上の次元に回帰して螺旋の

人生の終結を繰り返し

永劫回帰に至るはじめの

思いだった



さあ、時間の外へ出よう

そして、時間を裏返そう

忍耐強く

もぐらのように

2012年10月24日水曜日

【西東詩集18】 Beiname(渾名)



【西東詩集18】 Beiname(渾名)


【原文】

Beiname

         Dichter

MOHAMED Schemseiddin, sage,
Warum hat dein Volk, das hehre,
Hafis dich genant?

          Hafis
            Ich ehre,
Ich erwidre deine Frage,
Weil, in gluecklichem Gedaechtnis,
Des Korans geweiht Vermaechtnis
Unveraendert ich verwahre,
Und damit so fromm gebarte,
Dass gemeinen Tages Schlechtnis
Weder mich noch die beruehret
Die Propheten-Wort und -Samen
Schätzen wie es sich gebühret:
Darum gab man mir den Namen.

          Dichter
Haffs, drum, so will mir scheinen,
Moecht ich dir nicht gerne weichen:
Denn wenn wir wie andre meinen,
Werden wir den andern gleichen.
Und so gleich ich dir vollkommen,
Der ich unsrer heiligen Bücher
Herrlich Bild an mich genommen,
Wie auf jenes Tuch der Tuecher
Sich des Herren Bildnis drueckte,
Mich in stiller Brust erquickte,
Trotz Verneinung, Hindrung, Raubens,
Mit dem heitren Bild des Glaubens.

   
【散文訳】

     詩人

モハメッド•シェムザイディン、教えてくれ
何故お前の民は、高貴なるものは
お前をハーフィスと呼んだのだ?

     ハーフィス
       わたしは敬う
わたしは、お前の問いに答えよう
何故ならば、幸福の記憶の中にあって
コーランの捧げられたる神聖な財産を
変わらずに、わたしが保有しているからなのだ
そして、それによって、かくも敬虔に振る舞ったので
卑俗な日の悪しきことが
わたしにも、また預言者の言葉と預言者の種子にも触ることがなく
彼らのの言葉と種子が
その相応しくある様を評価をし
それ故に、ひとはわたしに其の名を与えたのだ。

     詩人
ハーフィスよ、だから、お前はわたしには光り輝いているのだ
わたしはお前から喜んで逃れようとは思わない
何故ならば、わたしたちが互いに他のように思うならば
わたしたちは互いに他の者に似ていることになるだろうから。
そうして、かくもわたしは完璧にお前に似ているのだ
わたしたちの神聖なる数々の書物の
荘厳なる画像を我が身に取ったこのわたしだ
布の中のあの布の上にであるかのように
神の姿は自らを捺(お)し
わたしを、静かな胸の中で、生気溌剌とさせた
否定や、妨害や、強奪にも負けずに
信仰の明朗なる画像を以て



【解釈】

これが、Buch Hafis、即ちハーフィスの巻の最初の詩です。

モハメッド•シェムザイディンというのが、ハーフィスの本名なのです。

ハーフィスという詩人の名前の意味が、ハーフィスとゲーテの対話の形式で歌われています。

ハーフィスの最初にいう、わたしは敬うという始めの言葉は、定型的な、伝統的な、このような高い地位に在る人間同士の間の、ペルシャの言い方なのでしょう。日本語ならば、謹んで申し上げる、敬いて申し上げるということです。しかし、少し変かも知れませんが、原文のままに訳しました。

最後の詩人の歌う連は、ゲーテの心中を吐露しています。

ハーフィスという遠いペルシャの詩人に出逢って、ゲーテは当時の生活の中で、それに負けずに生きて行くことのできる模範としての詩人、亀鏡としての詩人を発見し、これを歌ったのです。

自分がハーフィスと全く完璧に同じであるという一行には、ゲーテの深い思いを感じますし、また、

布の中のあの布の上にであるかのように
神の姿は自らを捺(お)し
わたしを、静かな胸の中で、生気溌剌とさせた
否定や、妨害や、強奪にも負けずに
信仰の明朗なる画像を以て

という最後の5行には、世間の悪意や妨害や、盗人猛々しい振る舞いに負けない明るさ、明朗さを恢復したゲーテのこころがあります。

明朗なと訳したheiter、ハイターという形容詞は、ゲーテの好きな言葉です。

学生の頃、東京のあるドイツレストランの壁に、ゲーテの言葉で、"Leben ist ernst, Kunst ist heiter"と額が掛かっていたのを想い出します。

人生は厳粛なり、藝術は明朗なり。

しかし、厳粛なる人生は、我々を往々にして窒息させるものです。

ゲーテのこころや、推して知るべし。




第45週: 無題 by 俵万智(1962 - )




第45週: 無題 by 俵万智(1962 - ) 

【原文】

"Kalt ist's heute!"
sag ich, und zurück 
kommt
"Kalt ist's heute!"
… diese Wärme,
dass da einer ist,
der Antwort gibt!

【散文訳】

「寒いね、今日は」
と、わたしがいうと、返って
来るのは
「寒いね、今日は」
…この暖かさ
返事をしてくれる
誰かがいるということ!

【解釈と鑑賞】

今回は、俵万智さんの歌でした。

もともと日本語の詩ですから、解釈は不要かと思います。

原詩、もとの歌をご存知の方は、お教え下さい。

【Eichendorfの詩 13】Seemanns Abschied (船乗りの別れ)


【Eichendorfの詩 13】Seemanns Abschied (船乗りの別れ) 

【原文】

Seemanns Abschied
                         
Ade, mein Schatz, du mochtet mich nicht,
Ich war dir zu geringe.
Einst wandelst du bei Mondlicht
Und hörst ein Süßes Klingen,
Ein Meerweib singt, die Nacht ist lau,
Die stillen Wolken wandern,
Da denk an mich, 's ist meine Frau,
Nun such dir einen andern!

Ade, ihr Landsknecht, Musketier!
Wir ziehen auf wildem Rosse,
Das bäumt und überschlägt sich schier
Vor manchem Felsenschlosse,
Der Wassermann bei Blitzesschein
Taucht auf in dunklen Naechten,
Der Haifisch schnappt, die Moewen schrein ―
Das ist ein lustiges Fechten!

Streckt nur auf eurer Bärenhaut
Daheim die faulen Glieder,
Gott Vater aus dem Fenster schaut,
Schickt seine Sündflut wieder,
Feldwebel, Reiter, Musketier,
Sie muessen all ersaufen,
Derweil mit frischem Winde wir
Im Parides einlaufen.


【散文訳】

船乗りの別れ
                         
さようなら、我が恋人よ、お前はわたしを好かなかった
わたしは、お前には、余りに卑しい者だった
いつか、お前は月影のもと、散策をし
そして、甘い響きを聞くのだ
人魚は歌い、夜は生温(なまぬる)く、心地よい
静かな雲達が彷徨い
さあ、そうであれば、わたしを思え、それであればこそ、わたしの妻だ
しかし、それも終わったこと、お前の他の男を捜すがよい

さようなら、お前達、兵士よ、銃兵よ!
わたしたちは、後ろ脚で立ち上がり、斜めにでんぐり返る
荒々しい馬に乗って
幾多の岩城の前を行くのだ
水の精が、稲妻の一閃の光りによって
暗い幾多の夜の中で、浮かび出る
鮫が跳ね、鴎が啼き―
それは、陽気な決闘だ!

お前達の熊の肌の上に、ただ
憩うて、その怠惰な四肢を伸ばすがよい
父なる神は、窓から眺めて
ノアの大洪水を再び送り
曹長、騎士、銃兵は
みな、溺れ死ねばよいのだ
その間に、新鮮な風とともに、わたしたちは
天国に走り込むのだ。


【解釈と鑑賞】

題名の通り、船乗りを歌った詩です。

アイヒェンドルフの詩は、全く別様の世界を現出せしめて、読者を魅了します。

何か、恋人も、兵士達も、馬も何もかも、どうでもよいものであって、ただこのように歌われている世界だけが、実は現実であるように思われます。

第2連の、

水の精が、稲妻の一閃の光りによって
暗い幾多の夜の中で、浮かび出る
鮫が跳ね、鴎が啼き―
それは、陽気な決闘だ!

というところは、わたしの気に入った4行です。

鮫と鴎が決闘している。それを陽気だという。

アイヒェンドルフのlustig、陽気なという形容詞は、これ以前の詩にも頻繁で出て来ますが、何か常軌を逸したときに使われて、一寸普通ならば異様なといいたいときに、陽気な、lustigと使っていることに気付きます。

この独特の形容詞の使い方は、これからも出て来ることでしょう。

2012年10月20日土曜日

鰺のフライ讃歌 ~ファミリーマートにて~



鰺のフライ讃歌 ~ファミリーマートにて~


鰺よ
お前美味なるものよ
美味なる三角形よ
ストリッパーのバタフライのような、妖しい
ヨットの帆掛けのような、海を行く
杓子定規のような、几帳面な
平安朝の貴族の両手にする扇のような、美しい
ピラミッドのような、偉大なる
左右対称の宇宙のような
折れば鶴になりそうな
そうして、最後には、我が腹中に入って
我が満足に解消する
儚きもの、鰺のフライよ
お前の、豊かな海の中でのことを
わたしに伝えてよ

【西東詩集18】 エピグラム(題辞の詩)



【西東詩集18】 エピグラム(題辞の詩)


【原文】

Sei das Wort die Braut genannt,
Bräutigam der Geist;
Diese Hochzeit hat gekannt
Wer Hafisen preist.


【散文訳】

言葉を花嫁と呼ぶならば
花婿は、精神ということになるだろう
この結婚式を
ハーフィスを褒め称える者は
よく知ったのだ。

【解釈】

いよいよ、第2巻のハーフィスの書、ハーフィスの巻です。

その巻頭に掲げられている詩が、この詩です。

言葉と精神の結婚。ハーフィスを知るものは、その意義を知っている。

ハーフィスを褒め称える者は
よく知ったのだ。

と訳したように、知るという動詞が現在完了形になっています。

従い、ハーフィスを褒め称える者は、ゲーテその人ということになるでしょう。

ハーフィスを褒め称えるこころを以て、言葉と精神の結合から生まれるハーフィスの詩、そうしてゲーテの詩を享受することに致しましょう。

第44週: Nit Eiges Meh (もはや独自のものではない)by Jacob Burckhardt (1818 - 1897)




第44週: Nit Eiges Meh (もはや独自のものではない)by Jacob Burckhardt (1818 - 1897) 

【原文】

Was wie -n-e Flamme-n-uf mym Scheitel rueht,
Du bisch die Gluet!
Was wie -n-e helli Wulke-n-um mi wallt,
Du bisch die Gwalt!

Und s'Morgenroth schynt dur e Rosenhag,
Du bisch der Tag!
Und d'Sterne glaenze-n-in der hellste Pracht,
Und Du bisch d'Nacht!

Es ghoert mer weder Denke, Gseh noch Thue
Meh eige zue, -
Wer het mi au mit Allem was i bi
Verschenkt an Di?


【散文訳】

わたしの頭蓋に、ひとつの炎のように、憩うもの
お前は、白熱だ!
ひとつの明るい雲のように湧(わ)き上がるもの
お前は、力だ!

そして、燭光が、薔薇の生け垣に輝いている
お前は、朝だ!
そして、星が、明るい荘厳の中に輝いている
そして、お前は夜だ!

もはや、思考にも、視覚にも、ましてや行為にも属してはいない
むしろ、それは独自のもの ー
総てを以てわたしを抱える者は、わたしであることを
お前に贈るのだろうか?


【解釈と鑑賞】

歴史家として有名なヤーコブ•ブルクハルトの詩です。この詩人のWikipediaです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Jacob_Burckhardt

バーゼルの生まれとあります。この詩は、いわゆるドイツの正書法では全然書かれていません。スイス方言で書かれています。一寸難儀ですが、なんとか訳しました。誤りあらば、ご指摘下さい。

しかし、方言で書かれたドイツ語詩も、なかなか味があって、いいものです。

最後の連の「zue」の意味が不明でした。仮に「もの」と訳してあります。ご教示下さい。



2012年10月17日水曜日

【Eichendorfの詩 12】Der Soldat (兵士)


【Eichendorfの詩 12】Der Soldat (兵士) 

【原文】

Der Soldat
                         1

Ist auch schmuck nicht mein Roesslein,
So ist's doch recht klug,
Trägt im Finstern zu 'nem Schloesslein
Mich rasch noch genug.

Ist das Schloss auch nicht prächtig:
Zum Garten aus der Tür
Tritt ein Mädchen doch all naechtig
Dort freundlich herfuer.

Und ist auch die Kleine
Nicht die Schönst auf der Welt,
So gibt's doch just keine,
Die mir besser gefällt.

Und spricht sie vom Freien:
So schwing ich mich auf mein Ross -
Ich bleibe im Freien,
Und sie auf dem Schloss.

                       2

Wagen musst du und flüchtig erbeuten,
Hinter uns schon durch die Nacht hör ich's schreiten,
Schwing auf mein Ross dich nur schnell
Und küss noch imi Flug mich, wildschönes Kind,
Geschwind,
Denn der Tod ist ein rascher Gesell.



【散文訳】

兵士
                         1

実際、わたしの馬が、高雅な馬であるならば
それは、なんといっても、誠に聡明な馬なのであり
闇の中を、とある城まで
わたしを、迅速に、まだ十分に運んでくれるのだ。

城が、実際、壮麗なものでないとしても
庭で、その戸から外へと
ひとりの娘が、勿論、夜毎夜通し
そこで、親しげに、こちらへと歩み来るのだ。

そして、その可愛らしい女性が
世界で一番の美女でなければ
わたしの気に入った美女は
勿論、全くいないのだ。(それ位、その女性は美しい。)

そして、その女性が、郊外について話すならば
わたしは、わたしの馬の背の上で、我が身を振り動かす
わたしは郊外に留まり
そして、女性は城に留まるのだ。

                       2

馬車を、お前は奪わねばならぬし、それもあっという間に奪わねばならぬし
わたしたちの後ろには、既に、夜中中、わたしには行進する足音が聞こえているし
わたしの馬の背中に、お前を素早く乗せるがよい
そして、まだ飛んでいる最中に、わたしに口づけをせよ、酷く美しい子供よ、速やかに
何故ならば、死神は、素早い仲間だからだ。


【解釈と鑑賞】

兵士を歌った詩です。

しかし、何か奇妙な兵士です。これは、いわゆる戦争詩、普通に戦争を歌った詩ではない。

城に美女がいるという設定は、これまでの詩でも、たびたび見て来たところです。

第3連の言い方は、一寸複雑ですが、しかし、わたしにとっての絶世の美女がそのお城にいるのです。

しかし、第2連は、一体何をいっているのでしょうか。城が壮麗ではない場合には、娘は、夜に、親しそうにしてわたしの方へと歩を進めるというのは、どういう意味なのでしょうか。

アイヒェンドルフの小説を読みますと、王子が臣下の者を引き連れて旅にでて、途上、お城に行き、そこで美女とであうわけですが、その場合にも、何かこう城の庭というものが重要な役割を演じています。何か出来事の起こる場所であり、城の中の出来事を王子が伺う場所でもあります。

この第2連から、何か物語が始まる、そのような予感がします。

第4連を読むと、この美女は、城の外へ出たいといっているように読めます。あるいは、城の外、町の城壁の外はどうなっているのですか?と訊かれて、わたしは馬に揺られて、城門の外へ出る。そうして、わたしは城門の外に留まり、美女は城に留まる。

そうして、これは別れを意味しているのかどうか、詩人は何も言葉を費やしておりません。

二つ目の詩篇は、趣を一つ目の詩篇と異にしていて、実際の兵士の行進が歌われています。これは敵方の兵士の行進です。

この詩篇を読むと、わたしという兵士は、一つ目の詩篇の美女を城から出して、あるいは美女は城を出て、わたしと一緒に、わたしの馬に飛び乗って、飛ぶ様に走っている。何故ならば、死神は、素早い、迅速な仲間だからだ。

このように読んで来ると、この詩は、美女と一緒に一瀉千里に走る馬に乗って、死から逃れるわたしという兵士を歌った歌だということになります。



2012年10月13日土曜日

金子光晴の墓を詣でる


金子光晴の墓を詣でる

今日は土曜日とて、安部公房の墓参に参りました。

と、調べると、同じ墓所に、石川淳、それから金子光晴も眠っています。

これらの文学•者(文•学者ではない)の墓は、わたしの住む八王子の郊外にあるのでした。

安部公房、石川淳の墓を詣でた後に、金子光晴の墓を詣でました。

その墓所の写真を下に上梓します。

詩人らしからぬ、立派な墓所でした。だからといって、幻滅したわけではありませぬ。

墓というものは、生者の建てるもので、死者の建てるものではないからです。

戦争という近代国家間の戦争に抗して、素晴らしい、しかし苦しくもある、また悲しくもある詩をものした、この詩の深い先達に感謝し、この一文を捧げるものです。

追伸:
安部公房の墓を詣でたことは、安部公房の広場に書きましたので、お読み戴ければありがたく思います。


【西東詩集17】 Selige Sehnsucht(聖なる憧憬)



【西東詩集17】 Selige Sehnsucht(聖なる憧憬)


【原文】

Selige Sehnsucht

Sagt es niemand, nur den Weisen,
Weil die Menge gleicht verhöhnet,
Das Lebendge will ich preisen
Das nach Flammentod sich sehnet.

In der Liebesnaechte Kuehlung,
Die dich zeugt, wo du zeugtest,
Ueberfaellt dich fremde Fuehlung
Wenn die stille Kerze leuchtet.

Nicht mehr bleibest du umfangen
In der Finsternis Beschattung,
Und dich reisset neu Verlangen
Auf zu höherer Begattung.

Keine Ferne macht dich schwierig,
Kommst geflogen und gebannt,
Und zuletzt, des Lichts begierig,
Bist du Schmetterling verbrannt.

Und solang du das nicht hast,
Dieses: Stirb und werde!
Bist du nur ein trüber Gast
Auf der dunklen Erde.

Tut ein Schilf sich doch hervor
Welten zu versüßen!
Möge meinem Schreibe-Rohr
Liebliches entfliessen!


【散文訳】

聖なる憧憬

誰にも言うんじゃない、ただ賢者にだけいいなさい
何故ならば、有象無象どもは直ぐに軽蔑するからだ
生き生きしているものを、わたしは賞賛する
炎へ向かって死ぬことに憧憬するものを

愛の夜々の、お前を生む冷たさの中で
またお前が生むのであるその感覚の中で
お前を、異質な感じが襲うのだ
静かな蝋燭が輝くたびに

お前はもはや捕われていることには留まらない
暗闇の影の中で
そして、お前を、新しい欲求が奪い取り
無理矢理、より高次の性交へと連れて行くのだ

どんな距離もお前を困難にしはしない
お前は、飛んで、そして焼かれて来るのだ
そして、最後には、光を熱烈に求めて
お前、蛾は、焼け死ぬのだ

そして、お前がこれを自分のものにしない限り
この言葉を:死ね、そして成れ!
お前は、単なる昏い客だ
この暗い地上では

一本の葦が現れて
数多くの世界を甘くするように
わたしの筆から
愛らしいものが流れ出て来ますように!




【解釈】

Das Buch des Sängers(歌手の歌、あるいは歌手の巻)のこの詩が、最後の詩です。

歌い手、朗唱者、即ち詩人を一匹の蛾に譬えて、夜にその光を求める衝動を歌っています。それも、実にエロティックに女性との性交を歌いながら、詩人という創造者の創造の秘密を明かしている。

また、既に見たように、詩人の高慢無礼な様子と、身を粉にして勤める勤勉をも歌っています。また、最後に自分の筆を一本の名も無い葦に譬えて、詩人自身のこころの素晴らしい均衡を保っています。

こうしてみると、この巻の最後にあって、それまでの詩篇をすべて含んでいる詩だということができるでしょう。

この巻を読んで来て、ゲーテが、Liebliches、愛らしいもの、好ましいものというときには、常に詩のことを指していました。

それを創造することが、詩人のつとめであるといっております。

最後の連は、何かそれまでの連とは異なり、急に詩人の筆の話になって、とって付けたような感じがしますが、やはり、詩人が創作することについての願いの連ですから、それまでの連とは無関係ではなく、ゲーテが必要としてここに置いた連なのだと考えることがよいのです。

この最後の連のあることで、詩人が、あるいはゲーテが、終始一貫、言葉と言葉による表現に意を用いていることがわかります。

即ち、この巻きの最初の詩、古代の父祖の、族長の時代のあの質朴な、正直な言葉が話されていた時代を歌ったHegire(ヘジラ)をもう一度読んでみて下さい。ゲーテのこころが一層解ることと思います。

次回は、Buch Hafis、ハーフィスの巻です。いよいよ、ゲーテの親炙したハーフィスというペルシャの詩人の巻になります。

こうして考えて来ますと、やはり最初に歌手の巻、詩人の巻という巻を置いて、ゲーテは自分自身の詩人としての在り方を一度整理する必要があったのだということがわかります。

そうして、敬愛するハーフィスの詩の巻をその次に配置したということなのでしょう。いよいよ深く、詩と詩人の世界に足を踏み入れることになります。

やはり、その巻頭のエピグラムは、言葉と精神のことが歌われて、この巻が始まるのです。



第43週: 無題 by Emily Dickinson (1830 - 1886)



第43週: 無題 by Emily Dickinson (1830 - 1886) 

【原文】

Sturmnaechte - Sturmnaechte!
             Wäre ich bei dir
       In solchen Sturmnächten
                        Schwelgten wir!

Wozu - noch Winde -
         Das Herz ist im Port -
   Fort mit dem Kompass -
                        Die Karte fort!

   Ein Boot in Eden -
         Ich - das Meer!
Verankert sein - heut nacht -
                          in dir!


【散文訳】

嵐の夜 ー 嵐の夜!
もしわたしが、あなたのところで
そんな嵐の夜にいたとしたら
わたしたちは、耽溺することだろう!

何のために ー まだ風が ー
       心臓が港にある ー
  コンパスよ、進め ー
       海図は、進め!

 エデンの園にある一艘の小舟
   わたしが ー 海だ!
碇を降ろして係留されていること ー 今晩 ー
                  あなたの中に!


【解釈と鑑賞】

この詩人のWikipediaです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/エミリー・ディキンソン

ここに、この詩人の写真2葉が載っています。これ以外の写真はないのだそうです。ご覧になるとよいでしょう。

これは、恋愛詩なのだと思います。

原語は、英詩。アメリカの有名な詩人です。

第1連は、接続法II式を使っているので、ここでうたわれていることは未だ実現していません。この歌い手の想像の中の、時間の無い世界での出来事です。

第2連と第3連は、現在形で書かれていますので、今そのようなことが起きるか、これから間違いなく起きるということを歌っています。それ故、第1連の話法が生きるということなのでしょう。

簡単に言ってしまうと、初めての夜をこれから恋人のところで過ごす、若い女性の悦びということになるでしょう。



2012年10月10日水曜日

【Eichendorfの詩 11】Der Maler (画家)


【Eichendorfの詩 11】Der Maler (画家) 

【原文】

Der Maler

Aus Wolken, eh im naecht'gen Land
Erwacht die Kreature,
Langt Gottes Hand,
Zieht durch die stillen Fluren
Gewaltig die Konturen,
Strom, Wald und Felsenwand.

Wach auf, wach auf! die Lerche ruft,
Aurora taucht die Strahlen
Vertraeumt in Duft,
Beginnt auf Berg und Talen
Ringsum ein himmlisch Malen
In Meer und Land und Luft.

Und durch die Stille, lichtgeschmückt,
Aus wunderbaren Locken
Ein Engel blickt. ―
Da rauscht der Wald erschrocken,
Da gehn die Moregenglocken,
Die Gipfel stehen verzückt.

O lichte Augen, ernst und mild,
Ich kann nicht von euch lassen!
Bald wieder wild
Stuermt's her von Sorg und Hassen ― 
durch die verworrnen Gassen
Führ mich, mein göttlich Bild!

【散文訳】

画家

雲の中から、夜にいる国で
生物が目覚め
神の手をつかみ
静かな平野を通って
力強く、輪郭線を引く
嵐を、森を、そして岸壁の輪郭線を引く

目覚めよ、目覚めよ、と雲雀(ひばり)が叫ぶ
オーロラがたくさんの光線を水中に浸(ひた)す
芳香の中で夢見ながら
山と谷で始まるのは
その周囲で、天国的に絵を描くことである
海、そして陸で、そして空気の中で

そして、静寂を通じて、光に装飾されて
素晴らしい巻き毛の中から
一人の天使が見ているのだ。
と、森が驚いてざわめきの音を立て
と、朝の鐘の音が通り
山巓は、恍惚と立っている。

ああ、明るい眼よ、真剣で柔和なる
わたしは、お前達を打っ遣(や)ることができない
ぢきに再び荒々しく
奔流がこちらへやって来るのだ、心配と憎悪から
混乱して縺(もつ)れた小路を通り抜けて
わたしを導けよ、わたしの聖なる像よ!


【解釈と鑑賞】

これは、画家を歌った歌です。

しかし、この場合の画家とは人間ではなく、眼に見えない自然です。

その何か擬人的な何かを、第1連で生物と呼び、題名で画家と呼んでいるのです。

この生物という名詞の選択は何か非常に独特な感じがします。

更にしかし、この自然は人間の画家と一体になっているようです。

この画家は、景色を確かに描きます。その様を歌っている詩です。

どの連もアイヒェンドルフらしい。細かな註釈は不要かと思います。

巻き毛の中から見える天使の眼という一行は、不思議な感じを与えます。

そうして、やはり混乱、惑乱と、静寂の対比。

これが、この詩人の詩の特徴なのだと思います。

2012年10月8日月曜日

【西東詩集16】 All-Leben(生命こそ全て)



【西東詩集16】 All-Leben(生命こそ全て)


【原文】

All-Leben

Staub ist eine der Elemente,
Das du gar gechickt bezwingest,
Haffs, wenn zu Liebchens Ehren
Du ein zierlich Liedchen singest.

Denn der Staub auf ihrer Schwelle
Ist dem Teppich vorzuziehen,
Dessen goldgewirkte Blumen
Mahmuds Guenstlinge beknieen.

Treibt der Wind von ihrer Pforte
Wolken Staubs behend vorueber,
Mehr als Moschus sind die Düfte
Und als Rosenöl dir lieber.

Staub den hab' ich laengst entbehret
In dem stets umhüllten Norden,
Aber in dem heissen Süden
Ist er mir genugsam worden.

Doch schon längst dass liebe Pforten
Mir auf ihren Angeln schwiegen!
Heile mich, Gewitterregen,
Lass mich dass es grunelt riechen!

Wenn jetzt alle Donner rollen
Und der ganze Himmel leuchtet,
Wird der wilde Staub des Windes
Nach dem Boden hingefeuchtet.

Und sogleich entspringt ein Leben,
Schwillt ein heilig, heimlich Wirken,
Und es gruselt und es gruenet
In den irdischen Bezirken.


【散文訳】

命こそ全て

塵(ちり)は、全くお前が器用にもの言わせる
要素のひとつだ、ハーフィスよ、愛する者の玄関で
お前が優美な歌を歌うたびに

何故ならば、塵とは愛する者の閾(しきい)の上にあって
絨毯よりもよいものとして選ばれるべきものだからだ
その絨毯の金色に輝く花々が
モハメッドのお気に入りたちを跪(ひざま)づかせるその絨毯よりも

風は、愛する者の門から
塵の雲をさっととり払う
と、麝香以上に、様々な芳香がする
そして、その香は、薔薇の油以上に、お前に好ましい

塵を、わたしはもうずっと無しではいられなかった
絶えず(塵に)包まれている北で
しかし、熱い南で
塵は、わたしには十分なものとなった。

わたしのために、その蝶番(ちょうつがい)に載って揺れている!
わたしを治(なお)せよ、雷雨よ、夕立よ
わたしをして、青い萌芽が生まれて匂い立つようにあらしめよ!

今すべての雷鳴が鳴り渡るならば
そして、すべての天が光るならば
風の荒々しい塵は
地面に向かって落ちて、地面を濡らすだろう。

そして、そこから直ちに、生命が飛び出て
神聖な、密やかな働きが漲(みなぎ)るのだ
そして、身の毛がよ立ち、青葉の香がするのだ
地上の様々な領域で


【解釈】

All-Lebenとは普通には言わぬ造語です。

Allは全て、Lebenは生命、命という意味です。このふたつの言葉をハイフンで結合して一個の概念となしている。訳すると、全ての生命という意味ですが、しかし、このハイフンで結合したというところにゲーテの割り当てた意味があって、その意を汲んで、敢えて生命こそ全てと訳しました。

ゲーテが、この歌い手の書と題した第1巻で歌った詩の中には、既に見て来たように、現世に対して詩人としてあることの難しさ、苦しさを歌った詩、そのような詩を歌うことで自分自身を救う詩が幾つかありましたが、この詩はこの巻の中で最後のその種の詩です。

この詩では、もはや苦しさは表には出ず、むしろハーフィスの力を借りて、詩の源である生命というものを、全く詩であるが故に、塵という風に吹かれる素材、普通ひとはむしろ逆に思う筈の素材に自分の命を託して歌われています。

わたしはこの詩を読んで、思いもかけず、同じ発想をする安部公房という作家の感覚を想い出しました。

このような自分自身を救い、苦しみを癒す詩を書いて、次の詩、聖なる憧憬というこの巻の、素晴らしい、エロティックな最後の詩をおくのです。









2012年10月6日土曜日

【西東詩集15】 Derb und Tuechtig(無作法と有能)


【西東詩集15】 Derb und Tuechtig(無作法と有能)


【原文】

Derb und Tuechtig

DICHTEN ist ein Übermut,
Niemand schelte mich!
Habt getrost ein warmes Blut
Froh und frei wie ich.

Sollte jeder Stunde Pein
Bitter schmecken mir,
Werd' ich auch bescheiden sein
Und noch mehr als ihr.

Denn Bescheidenheit ist fein
Wenn das Mädchen blüht,
Sie will zart geworben sein
Die den Rohen flieht.

Auch ist gut Bescheidenheit
Spricht ein weiser Mann,
Der von Zeit und Ewigkeit
Mich belehren kann.

Dichten ist ein Übermut!
Treib' es gern allein.
Freund' und Frauen, frisch von Blut,
Kommt nur auch herein!

Moenchlein ohne Kapp und Kutt,
Schwatz nicht auf mich ein!
Zwar du manchest mich kaputt,
Nicht bescheiden, nein!

Deiner Phrasen leeres Was
Treibet mich davon,
Abgeschliffen hab' ich das
An den Sohlen schon.

Wenn des Dichters Mühle geht
Halte sie nicht ein:
Denn wer einmal uns versteht
Wird uns auch verzeihn.


【散文訳】

無作法と有能


詩作するとは、我がままなこと、不遜なことだ
誰もわたしを責めるな!
お前達は、暖かい血を慰めたではないか
明るく、そして自由に、わたしも同様なのだ。

一刻一刻の苦しみが
更に苦く、わたしにあろうとも
わたしはいつも謙虚である
そして、更にもっとお前達以上に

何故ならば、謙虚とは繊細であるからだ
乙女というものが花咲けば
彼女は優しく求められる
粗野な男から逃れる乙女は

実際、謙虚とはよきものである
と、聡明な男が話をする
時間と永遠について
わたしに教えることのできる男が

詩作するとは、我がままなこと、不遜なことだ
それは一人でするのがよいのだ
男の友よ、ご婦人方よ、血で鮮烈なる者であらばこそ
さあさあ是非ここに入って来なさい!

僧帽と僧衣を着ない坊主め
わたしのやることにつべこべと口挟むんじゃない!
なるほどお前は、わたしを駄目にするが
お前は決して謙虚ではない、決して!

お前の句の空虚な言葉は
わたしをそこから追い立てる
わたしはそれを磨(す)り減らしたのだよ
靴底で、もうとっくの昔に

詩人の水車が廻っているならば
それを止めてはならない
何故ならば、一度わたしたちを理解する者は
わたしたちを必ず赦すからである。



【解釈】

世間というものを相手にして、この前の幾つかの詩から、ゲーテは、詩人という人間の営為の意義と意味を歌って来ました。

この詩もその延長にある詩です。

一読、註釈の不要の詩であると思います。

ゲーテの詩人としてのこころがよく現れています。

詩人の水車という譬喩(ひゆ)は、何かいい感じをわたしたちに与えます。特に都会に棲んでいると尚。

もしあなたが詩作をするならば、幾ばくかの不遜を自分自身に拒むことはできません。何故ならば、詩作とは自分の言葉を持つことだからです。

それは、坊主どもの言葉と相対し、拮抗する。

坊主どもの言葉は、ひとのこころを救っているのだろうか?騙しているだけではないのだろうか?ひとの苦しむこころの弱さにつけ込むことをして。

しかし、似非(えせ)詩人、似非作家、似非文学者は、自分を甘やかすことによって、似非坊主と同じことをしていないだろうか?詩人が高慢であるには、不遜であるには、然るべき理由があるのだ。

宗教も勿論大切ですが、文学も大切だと、こうして、わたしは思うのです。



第42週: Nach dem Gelage (宴の後) by Ralf Rothmann (1953 - )



第42週: Nach dem Gelage (宴の後) by Ralf Rothmann (1953 - ) 

【原文】

Nach dem Gelage

Wo sind wieder meine Socken.
Und wer ist diese Frau.
Poeten mit Pappnasen sassen beim Bier,
alle wie Tinte, blass und blau.

Wer legt sich schlagen in welchem Verlag?
Quasselte Bücher und hat nichts gesagt?
Sprache, die aus dem Zapfhahn schäumet.
Der rote Faden war nur geträumt.

Wer wäscht mir die Hände nach so einer Nacht,
ich muss noch Socken signieren. Wer verlegt
meine Leber, ihr schmerzhaftes Grau.
Und wer ist diese schöne Frau.


【散文訳】

宴の後

まただ、わたしの靴下はどこにあるのだ。
それに、この女は誰なのだ。
厚紙で作った鼻をした詩人達がビールを飲みながら椅子に座っていたのだ
皆インクのように、青ざめて、そして青く。

誰がどの出版社に横たわって眠るんだって?
見せかけの本の数々、そして、何も言わなかったのか?
水道の蛇口から泡立って出て来る言葉は。
赤い糸がただ夢見られていただけだったのだ。

そんな夜の後で、誰がわたしの両手を洗ってくれるというのか
わたしはまだ靴下に図書番号をつけなければならないのだ。誰が
わたしの肝臓を出版するのか、お前達の苦痛に満ちた灰色を。
そして、誰なのだ、この美しい女は。


【解釈と鑑賞】

この詩人のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Ralf_Rothmann

この詩人はわたしとほぼ同じ歳の詩人です。

この宴とは、何かどうやら詩人達と出版社の編集者達との宴会の終わった次の朝の様子のようです。

詩人達の鼻が厚紙でできているというのも、文字通りに譬喩ととるのもよし、実際にそんな鼻をつけて,戯(おど)けてどんちゃん騒ぎをしたととってもよいでしょう。

どうやら、狂騒の夜が明けて、ベッドの上で隣りを見ると見知らぬ美女がいるらしい。そうして、二日酔いとともに(とは書いてありませんが、如何にもありそうです)、昨日のことを思い出す。

出版の約束があったり、なかったり。水道の蛇口から泡立って出て来る言葉というのは、垂れ流しの流れっぱなしで、無責任な、編集者の約束の事を言っているのでしょう。それを、ただ赤い糸が夢見られているだけだったと言っています。

両手を洗うというのも、そのような否定的な昨夜の夜のことで、汚れた自分を綺麗にするということなのでしょう。勿論、そんなひとはだれもいなくて、これから自分で靴下に図書番号をつけなければならない。この一行が、こうして第1連の第1行に反響して戻って行きます。

靴下を履いて、部屋の外へ出て、生きて行く。この詩人にとって、生きて行くとは、靴下をまづ履く事、そして詩を書いて行く事。それを、結びつけて、靴下に図書番号を付すといっているのです。

誰がわたしの肝臓を出版するのか、という一行には、酒を飲んでこんな乱痴気騒ぎをしなければならないことへの風刺です。「お前達の苦痛に満ちた灰色を」の「お前達」とは、こうしてみると、同業の詩人達のことでしょう。

しかし、そのようなと全ての代償のように、隣りに美女が眠っている。

しかし、何故わたしはこの詩がこのようによくわかるのでしょうか。多分酒を飲んで乱痴気騒ぎをするという過去の経験が、このような容易な解釈を可能にしているのだと思われます。往時茫茫。

Quasselte Bücher(見せかけの本の数々)のQuaseltという形容詞の意味を探すことができませんでした。Quasiという言葉から類推してそのような訳としましたが、ご存じの方がいれば、ご教示下さい。



2012年10月3日水曜日

【Eichendorfの詩 10】Der wandernde Student (旅する学生)


【Eichendorfの詩 10】Der wandernde Student (旅する学生) 

【原文】

Der wandernde Student

Bei dem angenehmsten Wetter
Singen alle Voeglein,
Klatscht der Regen auf die Blätter,
Sing ich so für mich allein.

Denn mein Aug kann nichts entdecken,
Wenn der Blitz auch grausam glüht,
Was im Wandern koennt erschrecken
Ein zufriedenes Gemuet.

Frei von Mammon will ich schreiten
Auf dem Feld der Wissenschaft,
Sinne ernst und nehme zuzeiten
Einen Mund voll Rebensaft.

Bin ich müde vom Studieren,
Wann der Mond tritt sanft herfuehr,
Pfleg ich dann zu musizieren
Vor der Allerschoensten Tuer.


【散文訳】

旅する学生

一番気持ちのいい天気のときには
すべての小鳥達が歌を歌い
雨が木の葉を打って音を立て
わたしは、かくもわたし一人のために歌を歌う。

わたしの眼は何も発見できないので
もし稲妻が恐ろしく燃えて輝くのであるのならば
旅の中にある何かが、満足したこころを驚かせることがあるだろう。

わたしは、マンモンの神(財物の神)から自由になって行進したい
学問の野原(分野)を
真剣に考えを凝らし、そして時折は
口一杯に葡萄の果汁を頬ばるのだ。

勉学に疲れるならば
そしてもし月が優しくこちらに歩み寄って来るならば
わたしはいつも音楽を奏でる
最も美しい扉の前で


【解釈と鑑賞】

日本の現代の学生とは違い、ドイツの学生は、伝統的に何かこういうのんびりとしたところがあるのだと思います。

それは、学生の自治と裏腹に、そうなのでしょう。

ハイデルベルクという、わたしの好きな中世の美しい町には学生牢があって、そこには投獄された(というべきでせうか)、蟄居を命ぜられた学生の落書きが壁一面に書かれています。

ドイツの学生は、大学から大学へと旅をして学んだのです。

最後の連の最後の一行、最も美しい扉とは何を意味するのでしょうか。

そのような慣用句が既にあるという解釈がひとつ、もうひとつは、他の詩人の場合にも象徴的に出て来るように、しかしまた同時に実に具体的に出て来るように、現実的な何かの言い換えであるのだと思います。

扉、ドアという主題は、今もわたしたち人間の意識に深く関わっています。即ち、そこには閾(しきい)があり、閾を跨ぐと家の中に、建物の中に入り、いつも何かが始まる。たとえ、それが日常の、家のドアであろうとも。





2012年10月1日月曜日

リービ英雄の講演を聴いて




リービ英雄の講演を聴いて

先週の土曜日にリービ英雄の万葉集についての講演があり、聴きに行った。

これは、音楽のコンサートの前段の講演として企画されたものですが、後段の楽曲が万葉集の歌を歌うというものですから、後段の歌曲の丁寧な解説篇ということになっていました。

印象に残ったのは、リービ英雄が20代早々の若者であったときに、京都から奈良まで歩き、道々の土地、景色、景勝を尋ねるわけですが、別にそれを求めなくとも、2、3キロ歩くと石碑や歌碑が立っていて、ここにだれそれという歌人が来て、このような歌を歌ったということが、至るところにしるされているということ、自分よりも必ず先に、自分よりも素晴らしい力を持った人が、既にその地を歌っているということ、だから、アメリカ人がアメリカの景色を見ると、自分自身が初めてこの景色を見たということになるのに、日本人の景色はそうではないのだということを言ったことでした。

確かに、改めて言われると、日本のどの土地にも、弘法大師やら、昔の有名な歌人や俳人が既に行っていて、既にその地を詠んでいる。

その歴史と伝統の上に、日本文学は成り立っている。

しかし、他方、わたしが思ったことは、わたしの育った北海道という島は、やはり全然そうではなく、わたしの見る景色が、わたしの最初に見た景色だといえる、そのような土地だったということでした。

そこには、弘法大師も芭蕉も脚を踏み入れたことのない島です。

考えてみれば、古事記や日本書紀では、日本の国生みの話には、北海道はないのです。

また、印象に残ったことは、やはり当時奈良へ徒歩で入ったときに、大和三山を初めてみて幻滅したこと、アメリカで英語で読んでいた万葉集には、heavenly mountainと天の香具山がいわれているので、mountainというからどんなに高い山かと思って来てみたら、それは全然mountainではなかったということ、しかし、アメリカに帰って更に万葉集を読んで行ったら、次第次第に古代の日本人のヴィジョンとその構造の創造されていたことに気づき、強く魅了されていったこと、これが非常にこころに伝わって来ました。

リービ英雄は、天の香具山の山を、mountainではなく、hillと訳していました。

また、山部赤人の田子ノ浦ゆ打出て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りけるの歌を詠み、自分の英訳をまた詠んで、真白の真、ぞという助詞、これをどうやって英語に直したかという苦心談を語りましたが、真白の真を、pure whiteと訳し、ぞという助詞の意味を更に重ねて、white pure whiteとしたという話をし、これは評判をとった訳となったことを謙虚に自慢しておりました。さもありなんと思いました。

講演中、同じ翻訳者として同感すること多々あり、やはり、このひとも、異言語間を往来することによろこびを感じているのだと思った次第です。