倉田良成の「グラベア樹林篇」を読む
倉田さんの「グラベア樹林篇」を読んだので、その感想をここに書き記すことにします。
全部で18編の文章からなる、これは詩集です。
一篇一篇は、形式は散文ですが、その散文的スタイルの根底にあるのは、一貫して詩であり、Poesieのある場所から言葉が発せられ、記述されています。
「17 祝祭譜」に、
このマツリの中心的概念というべきものは、マツリの意義をなすものであると同時に、最も空虚な中心でもあって、いわば語根が活用を持ち、言語が用法のうちに姿を表すごとき、言葉のあらわれについての秘事だが、そのこと自体の本質は絶対的に明かされることはない。
と書いているこの一行が示す通りに、倉田さんは間違いなく宇宙が生まれる瞬間を知っている、知悉している人間、即ち芸術家、更に即ち言語芸術家、更に即ち詩人であるということを証明しています。
上の一行は無駄がなく、言葉が正確に使用されています。誤解を恐れずに言えば、言葉を正しく使用することのできる詩人は少ない。詩人の特権は言葉に意義と意味を賦与する能力ですが、(それが譬喩の能力、特に隠喩の能力です)、体系、システムの均衡、バランスを知り、感覚して言葉を正しく使用することのできる詩人は少ない。このバランスを知らない人間には、上の一行は書けないことをわたしは知っています。
この一行は、他の詩篇にもそのまま適用され、他の詩篇をも説明する一行です。この一行からみても、この詩篇は、「樹林篇」という名前が示す通りの「入り組み、錯綜しを極め、見通しがたい、相互に絡み合う世界の諸神話の様態を喚起させる」(「18 ヤムタラ帝紀」)ものとなっています。
しかし、その複雑錯綜の根底にあるのは、実に単純な思想です。あるいは、倉田さんが言語と詩の探究の果てに発見した、賢者だけの知る宇宙の唯一の絶対的な規則です。上の一行は賢者の石です。詩人ならばdie Poesieというでせう。
この18編は、理論(註釈と解釈)と実践(実作)からなっています。実作たる詩篇の後ろに註釈または解説としての理論篇がついているというセットの構成になっている。
この理論と実践という考えと実行がまた倉田さんの人生の道筋であり、如何にも倉田さんらしいと思います。また、この理論と実践という考え方は、わたしの人生の脈絡に大いに通じてもいるのです。
さて、普通の思考ならば、最初に来る筈の「18 ヤムタラ帝紀」という系図、系譜の話が最後に置かれています。それは何故でしょうか。
これは、この詩篇が、構造を備えていて、時間を捨象している、即ちこの詩篇が神話であることを保証している詩篇の順序であることを示しています。
その構造を保証しているのは、上で引用した一行に代表される思想です。(同じ値、valueを持った一行は、この詩篇の至るところにあります。)思想であり、また認識です。
この詩篇を読んでいて、わたしはトーマス•マンの言葉を思い出しました。それは、作品は自分の意志を超えて、自分の意志とは別の意志を持った生物として成長し、増殖して行くという認識を語った言葉です。
倉田さんの理論篇を読んで、同じ意識によって、言及されている文を散見しましたので、この詩篇はまさしく、そのようにして生まれた生物なのです。
小説に限らず、詩というものは、言語による芸術作品というものは、そのような生物ではないでしょうか。それ故に、多様な解釈、多義的な解釈を許容する。安部公房も自分の作品についてマンと同じことを言っていたことを今思い出します。
倉田さんが理論と実践で、この詩篇をまとめあげたということは何を、これから意味するかというと、倉田さんの詩の言葉に神話が宿る、そのような詩を書く事が一層できるようになった、そのような段階に来たということを、倉田さんの人生において、意味しています。
このように考えて来ると、この詩篇は、今の現代の日本語圏の詩人達、社会を忘れて呆けて、自分のことしか書く事のできない、あるいは自分のことすら書く事のできない、自分自身の無能についての自覚のない、そういう意味では愚かな、詩人達の在り方に対する、強烈な徹底的な批判となっていることに気づきます。
これから倉田さんが書く詩篇を楽しみとする読者の一人です。
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