XXI
SINGE die Gärten, mein Herz, die du nicht kennst; wie in Glas
eingegossene Gärten, klar, unerreichbar,
Wasser und Rosen von Ispahan oder Schiras,
singe sie selig, preise sie, keinem vergleichbar.
Zeige, mein Herz, daß du sie niemals entbehrst.
Daß sie dich meinen, ihre reifenden Feigen.
Daß du mit ihren, zwischen den blühenden Zweigen
wie zum Gesicht gesteigerten Lüften verkehrst.
Meide den Irrtum, daß es Entbehrungen gebe
für den geschehnen Entschluß, diesen: zu sein!
Seidener Faden, kamst du hinein ins Gewebe.
Welchem der Bilder du auch im Innern geeint bist
(sei es selbst ein Moment aus dem Leben der Pein),
fühl, daß der ganze, der rühmliche Teppich gemeint ist.
【散文訳】
わたしのこころよ、お前が知らない庭たちを歌えよ。
清澄で、到達できぬところにある、ガラスの中に水を注ぎこまれた庭たちのように、
イスパハンやシラスの水(川)と薔薇のように、
庭たちを祝福して神聖に歌え、褒め称えよ、誰に比較されることなく。
わたしのこころよ、お前が決して庭なしではいられないことを示せよ。
庭たちの成熟した無花果(いちじく)がお前を思っていることを。
お前が、庭たちの間で、花咲く枝の間に顔面のところでのように高められた空気と
交わっていることを。
既に起きた決心、即ち、あれ、存在するのだ、という決心
無しでも済ますことができるということがあるのだという過ちを回避せよ。
お前は、絹の糸の織物の中へと入って来たのだ。
お前が内部において、像のうちのどんな像とひとつになっていようとも
(それが、たとえ、苦痛の生の中から生まれる一瞬であろうとも)、
完全な、光栄ある絨毯が言われている(意味されている)のだということを感じよ。
【解釈】
庭という言葉は、何かどこか、全く別の世界を思わせる言葉です。それは、家と隣接していながら、家から最も遠い世界である。確かに、こう考えてみると、庭はリルケの世界です。人と人の距離がそうであるように。しかし、これは、リルケばかりではなく、世界中にある庭という庭が、人間にとっては、そのようなものなのではないでしょうか。そのようなものとしての庭は、第2部ソネットXVIIにも歌われておりました。
さて、このソネットは、話者が自分自身の心臓、こころに向かって、自分自身の知らないところにある庭という庭をみな褒め称えよと歌っているソネットです。わがこころが「知らない庭たち」というところに、前のソネットの最後の連が響いていると思います。それは、どこにもない場所を歌っているのでした。リルケは、よくこのような発想をする。第2部ソネットXIの第3連でも、見る者の見えない場所にまで、悲しむことの息がどれも存在するようにと歌っておりました。それは、空間の詩人、宇宙の詩人としては、やはり、想像力の及ぶ限り、またそれを超える空間にまで、思いを馳せるということなのでしょう。ここでは、いつも内と外、内部と外部が意識されることになる。
第1連では、鉢の中にあって、水を注いだ小さな水中の庭園という細工物があるのでしょう。その庭の中には確かに入ることはできず、水があることから、それはklar、クラール、清澄でした。このklar、クラール、清澄という言葉もリルケの言葉でありました。第1部ソネットIの第2連に出てくる動物たちの棲む森は清澄な森でした。その他あちこちで頻出するこの言葉の意味を考えると、それはほとんど、rein、ライン、純粋なというリルケ好みの言葉と変わらないのです。Reinは明瞭に時間を欠いている形容ですが、klarは、どちらかというとその語義からして、やはり透明で澄んでいるということ、その様子に重きがあるのだと思います。リルケのrein、ライン、純粋なと言う言葉についての考察は、「リルケの空間論(個別論4):悲歌5番」(2009年8月14日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_14.html)に詳述しましたので、そこをご覧下さい。
そうして、そのような到達できない庭の名前として、イスパハンやシラスの名前を挙げ、庭の造作である、水、川や薔薇のことを歌っています。
第2連では、わがこころに向かい、そのような到達できない清澄な庭がお前には必要だ、それがなしでは、こころは存在しないということを歌っています。
「顔面のところでのように」とあるのは、顔が内部の空間と外部の空間の交換される場所だからです。これは、リルケの思想でした。悲歌1番でも、天使は外に流出した美を顔の中に回収するのでした。これは美ですが、しかし、そのほかの例もみてみると、確かに顔はもの、空間が出入りをする場所なのです。そうして、こころは、その庭で、花咲く枝々の間にある空気、空間と交流し、交わるのです。交わるとは、交換するということでしょう。
そうして、第3連では、存在するためには、真にあるためには、変わらずあるためには、そうして、そうあるぞと決心するためには、もう既に決心したのだから、その決心がなくてはいいなどと思い誤ってはいけないと言っています。何故ならば、わがこころよ、お前は、既に、絹の糸で織られた織物の中へと入ったからだ。
織物に譬えたことは意味があります。これは、垂直と水平の糸から織られる構築物だからです。この同じ構造を備えたものが、薔薇です。花の好きなリルケが、宇宙の究極の構造の象徴として歌った薔薇、自らの墓碑銘に遺言した薔薇です。入籠構造の宇宙。
さて、こうしてみると、この話者は、死んだオルフェウスと考えることができると思います。
「完全な、光栄ある絨毯が言われている(意味されている)のだ」とはどういうことでしょうか。この絨毯という言葉から、わたしたちは直ぐ悲歌5番に歌われている絨毯を思いだすことができます。その絨毯とは、場所であり、従い空間であり、そこでは、宇宙が中心を見出して、万物が均衡して、その真理を現出せしめている空間なのでした。この空間については、「リルケの空間論(個別論2):悲歌5番」(2009年8月9日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/2.html)にて詳細に論じましたので、そこをご覧いただければと思います。この空間は、何度かソネットを論ずる中でも言及しましたが、この場所では、悲歌のその絨毯を歌った核心の場所のひとつを引用しますと、
wo sich das reine Zuwenig unbegreiflich verwandelt -, umspringt in jenes leere Zuviel. Wo die vielstellige Rechnungzahlenlos aufgeht.
そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。
そのような場所、そのような空間なのです。
このような空間が、入籠構造をしていること、リルケの薔薇と同じであることは、「リルケの空間論(個別論2):悲歌5番」(2009年8月9日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/2.html)にて論じた通りです。このソネットの第1連に、到達し得ない、清澄なる空間に薔薇が咲いているという言葉は、故無しとはしないのです。このようにして、確かにこのソネットの第1連で歌われている庭たちは、第4連で歌われている通りに、そこでは「完全な、光栄ある絨毯が言われている(意味されている)」のです。連の詩想は首尾一貫して連なっております。
水が流れ、川が流れているということも、今までのソネット、例えば第1部ソネットX、第2部ソネットVII、第2部ソネットXV、第2部ソネットXXIVなどをみると、それは豊かなものの象徴であり、万物の間をへ巡り流れるものであり、死の傍をも通り、また死にかけている花をも蘇生さえ、そしてまた、わたしたち人間の生の姿でもあります。
第4連の「お前が内部において、像のうちのどんな像とひとつになっていようとも」という言葉は、内部とあるからといって何もリルケに特有の表現なのではなく、こうしてみると、わたしたちはいつもこのようにして生きているのだと思うことができます。わたしたちはいつもどこにもない空間、到達できない空間を思い願って生きている。たとえそれが苦しみの像であったとしても。そう願うならば、確かにその空間は存在しているのです。
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