XXVII
GIEBT es wirklich die Zeit, die zerstörende?
Wann, auf dem ruhenden Berg, zerbricht sie die Burg?
Dieses Herz, das unendlich den Göttern gehörende,
wann vergewaltigts der Demiurg?
Sind wir wirklich so ängstlich Zerbrechliche,
wie das Schicksal uns wahr machen will?
Ist die Kindheit, die tiefe, versprechliche,
in den Wurzeln — später — still?
Ach, das Gespenst des Vergänglichen,
durch den arglos Empfänglichen
geht es, als war es ein Rauch.
Als die, die wir sind, als die Treibenden,
gelten wir doch bei bleibenden
Kräften als göttlicher Brauch.
【散文訳】
本当に、時間は存在するのだろうか、この破壊するものは。
いつ、静かに憩う山の上で、時間は城を破壊するのだろうか?
このこころ、果てしなく神々に帰属しているものを
いつ、デミウルクは、暴力を以って我が物とするのだろうか?
わたしたちは、本当に、かくも心配で不安でいる壊れやすいものたちなのだろうか?
運命がわたしたちを、そうだ、それが本当だ、真実だとしたいように。
子供時代は、この深い、約束された、約束することの豊かな、
根っこの中にある子供時代は―後になってその威力を発揮するのではないか?―静かに、静かなままで、そうではないのか?
ああ、過ぎ行くものの亡霊が、
悪意無く、無邪気に受け容れる者を通じて、
恰も煙の如くに行く。
わたしたちは、急ぎ、駆り行くものたちであるわたしたちは、
留まる諸力のもとで、神々しい、神の慣例、風習、必要として通用しているのだ。
【解釈】
このソネットの主題は、時間です。そうして、時間と人間であり、そのふたつの間の関係です。
最初の一行の問いは、いい。これが、ずっと、このソネット全篇を通じて、リルケが発したかった問いである。この問いを発するために、これまで56のソネットを書いてきたのだ。
時間は本当に存在するのだろうか?この破壊する時間という奴は。
ドイツに行きますと、山々の上に城がある。Burg、ブルクと呼ばれる城があります。そのような、高いところにある、余人の行かぬ城をも、時間は破壊するのだろう、そうしてそれはいつなのだ。そのとき、その瞬間はいつなのだと話者は問うています。そんなことがあるのだろうか。
城を問うたのは、やはり、今までのソネットの中に、中世的なものが歌われていたからだと思います。特に印象深いのは、第1部ソネットXIに歌われるふたりの騎士たちです。それから、第2部XIの騎士の、死の罠を仕掛けて動物を殺すことをも正当化する者と激しく戦う、騎士の従者。それ以外に、言葉の上で、直接その者の名前を呼ばず、異名で呼ぶ、リルケの心性。このことに関係していますが、概念を生きたもののごとくに、擬人法ではなく、それそのものとして感じ、呼び、歌う、リルケの心性。第2部ソネットXXIVの第4連で、Tod、トート、死を、死ではなく、死神と訳したくなるような、そうしてわたしはそう訳しましたが、そのような感性と感覚。同じものは、第1部ソネットVIIIの妖精の名前が、Klage、クラーゲ、嘆きというところにも明瞭に現れておりました。嘆きという名前は擬人法による名前ではない。これは、このまま、悲歌の感性と心性でもあります。リルケからみれば、擬人法は堕落です。と、そういいたい。そのように思われます。それから、泉というモチーフ、主題、素材。
さて、しかし、そのような中世的な、時間を越えて存在する世界を破壊するかと問うに足るような時間であっても、それは本当に存在するのだろうか。仮りにそうだとしよう、そうだとして、破壊されないものがあるのだ、それが、こころだとリルケは歌っている。
それは、神々に帰属しているものだからだ。第2部ソネットXXIV第3連では、神々は、不死のものたちと呼ばれています。それゆえ、プラトンが世界の創造者と考えて、そう呼んだデミウルゴスも、暴力を以ってしては我が物とすることも、破壊することもできないのだ。そのような瞬間があるとは思われない。それが、こころだといっている。
これが第1連です。第2連では、
運命がそう信じ込ませようとしているように、わたしたちは壊れやすい存在なのだろうかと問うて始まります。しかし、そうではない、わたしたちには、子供時代という時期がある。それは、深く、約束されることの多い、樹木の根の、この生の根、純粋な生の根の中に眠る、死に脈絡する純粋な空間の時代があって、それが大きくなったら、威力を発揮する、それも騒がしくなく、静かに。
第3連。
ああ、過ぎ行くものの亡霊が、
悪意無く、無邪気に受け容れる者を通じて、
恰も煙の如くに行く。
この「悪意無く、無邪気に受け容れる者」とは、オルフェウスです。「過ぎ行くものの亡霊」とは時間です。時間は、「恰も煙の如くに行く」。
この第3連で、リルケが時間をどのように考えて来たかは、明瞭だと思います。
しかし、わたしたち人間は、「急ぎ、駆り行くものたちである。」しかし、そうではあるが、そのようなものとして、流れる川として(第1部ソネットVIIIの第1連。第2部ソネットの第4連)、神々に仕えるものとして、不易の、留まる諸力のもとに、意義あるもの、意味あるもの、価値あるものとして通用しているのだ。
こうして、この詩を読んでも、第1連で、城というBurg、ブルクと、プラトンの考えた創造主、Demiurg、デミウルクが、脚韻を踏んでいるなどというのは、読んでいて楽しい。どのソネットでも脚韻を踏んでいることはひとことも、今まで言いませんでしたが、これはソネット全篇を読んでいて、詩を読む楽しさ、よろこびを覚える、何か詩というものの本質に通じる感動なのだと思います。韻律こそは、詩の命なのだといいたくなります。韻律と意味の斉合性によって生まれる世界です。
「留まる諸力」、不易の諸力とは、こうして第2部ソネットXXVIIまで来てみると、空間を成立させ、存在せしめている諸力なのだと思います。そうして、その空間の交換を成り立たしめている。第1部ソネットXIIの第3連では「諸力の音楽」として歌われた、それは純粋な距離を現出せしめる。第1部ソネットXVIの第2連では、われわれ人間が日々部分の仕事をなしても、それを全体にならしめる、死者の持つ諸力。第2部Xの第3連では、その前に跪(ひざまづ)き、驚くべき諸力。そのような力として歌われて来た力です。
そうして、そのような諸力に拠るわたしたちの普通の淡々とした生活は、立派なものだといっているのです。立派なものだというわたしのこの解釈は、余りに通俗に響くかも知れませんが。しかし、そこには、確かに不易があるのです。「悪意無く、無邪気に受け容れる者」の故に。その者は、日々、生活の中で、わたしたちひとりひとりでありたい。
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