XXII
O TROTZ Schicksal: die herrlichen Überflüsse
unseres Daseins, in Parken übergeschäumt, —
oder als steinerne Männer neben die Schlüsse
hoher Portale, unter Balkone gebäumt!
O die eherne Glocke, die ihre Keule
täglich wider den stumpfen Alltag hebt.
Oder die eine, in Karnak, die Säule, die Säule,
die fast ewige Tempel überlebt.
Heute stürzen die Überschüsse, dieselben,
nur noch als Eile vorbei, aus dem waagrechten gelben
Tag in die blendend mit Licht übertriebene Nacht.
Aber das Rasen zergeht und läßt keine Spuren.
Kurven des Flugs durch die Luft und die, die sie fuhren,
keine vielleicht ist umsonst. Doch nur wie gedacht.
【散文訳】
おお、運命にもかかわらず、あちこちの公園の中に泡だって溢れている、
わたしたちが今ここにこうしていることの素晴らしい過剰―
または、バルコニーの下に樹木のように立っている高い玄関、入り口の
上の方で収斂している場所の隣にある石の男たちとして!
ああ、青銅の鐘、その鐘舌を毎日、鈍い日常に抗して掲げる鐘よ。
或いは、カルナックにある鐘、柱、柱、
ほとんど永遠の寺院を超えて生き延びる柱よ。
今日、過剰が、墜落し、落ちてくる。剰余が、
かろうじて急ぐものとして通り過ぎ水平の黄色い日の中から出て
目も眩む、光によって誇張された夜の中へと入る過剰が。
しかし、荒れ狂うことは、消え失せ、そして何の痕跡も残さない。
飛行機が空気中を飛ぶ曲線、そして、曲線が走ったその当の空気、
どの痕跡も、ひょっとしたら無駄ではないのだ。しかし、ただそう思っただけの限りで、そうなのだ。
【解釈】
前のソネットで、到達し得ない純粋の空間の存在を思ったリルケは、翻って、わたしたちの日常を思い、そこにある、わたしたち人間の過剰、即ちわたしたちの富である垂直性を思い、歌ったのだと思います。
第1連では、リルケは、「わたしたちが今ここにこうしていること」が過剰だといっている。そうして、その過剰は運命に抗して、垂直に立っている。その樹木のように垂直に立っている石の男の像たちのように。
そしてその過剰は、公園の中にもあると第一行ではそもそも歌っている。これは何を言っているのだろうか。公園にはひとが閑暇を求めて集まる。その様子は確かに高いところからみると泡立っているように見えるだろう。その泡立ち方が過剰だといっているのだ。しかし、その姿ばかりではなく、ひとが垂直に立つのは、そのような閑暇を求める場所であると言っているのだと思います。それはあとで出てくる第4連では、急いでは痕跡を残さないから、急いではならないと歌い、急いでいる場合の過剰のありかたを第3連と第4連を通じて批判していることを見るとわかります。
さて、第2連、第3連をみると、この過剰が垂直方向に立っている。垂直に伸びてゆく意志がそこにある。そういう人間の造形したもの名前として、リルケは、柱を挙げる。悲歌7番の第7連でも、そのような人間の文明の偉業として柱が挙げられている。垂直に立つことは、人間の素晴らしい偉業なのだ。それゆえ、「素晴らしい過剰」と第1連の冒頭で歌われている。
この場合の「素晴らしい」という言葉は、ドイツ語では、herrlich、ヘルリッヒであり、既に第2部ソネットVIIIでも説明をしましたが、これは名詞、Herr、主人、支配者、神という意味の言葉からできた形容詞で、従い主人であることの性質、支配者であることの性質、神であることの性質を意味しています。素晴らしいという訳語がもし誤解を与えるのであれば、荘厳なと、場合によっては訳することができる言葉です。
確かに、柱という人間の文明の偉業を褒め称えるときのリルケの感情には、荘厳なものがあるのだと思います。
そうして、運命に抗して同じ垂直の姿をもつものとして、第2連で鐘を挙げています。鐘も、鐘の音もまた、鈍い日常に抗して垂直に立つものなのです。そもそも鐘楼が垂直の建物でありましょう。
この第1連、第2連ときて、リルケは垂直なるものと、herrlich、ヘルリッヒ、素晴らしい、荘厳なものを思うときには、いつも軌跡、痕跡、跡を連想するのです。それは、対象そのものではなく、対象の動いた跡のことです。
この対象を歌わず、その、言ってみれば陰や影や痕跡を歌うというリルケの思考と感覚は、第2部ソネットIIの第3連にも明確に歌われていて、そこでは暖炉に燃える火、炎を見て、生の眼差し、生の視線を忘れろと歌われておりました。また、第1部ソネットVIIIの子供の投げるボールの軌跡。それから、第1部ソネットIVの矢の軌跡を思い出すことにしましょう。
そのように、第4連では、飛行機の飛行の痕跡が歌われております。飛行機がリルケの注意を惹き、詩の主題となるのは、痕跡を残すからだということがわかります。同じ理由で、第1部ソネットXXIIの第3連では、飛行機の速度ということから、その言わば悪しき面が、歌われていました。また、続く同じ部のソネットXXIIIでは、飛行の獲得する、空間の果ての孤独ということから、言わばその良き面が歌われておりました。
さて、第4連では、第2部ソネットXXIIIと同様に、急ぐなということが歌われている。急いでは、駄目なのです。それは実を結ばない。そうではなく、逆に潰えてしまう。リルケは、現代文明がわたしたちに与えてくれる利便性とは逆のことを言っております。飛行機のように速度の速いものでも、それがよいのは、痕跡を残すからだ。
それでも、第3連の脈絡で、この第4連では、飛行機の軌跡も何か力の弱いもののように歌われている。それが最後の一行です。それは、
どの痕跡も、ひょっとしたら無駄ではないのだ。しかし、ただそう思っただけの限りで、そうなのだ。
と歌われている。
何故第4連がこのように弱くなったかというと、第1連、第2連で歌ってきたわたしたちの「わたしたちが今ここにこうしていること」の過剰が、第3連にあるように、やはり崩れ落ちる日があるからです。それは、ここに歌われているように、やはり急ぐからです。急いでしまうと、水平の鈍い黄色い色の日常の中から抜け出て、垂直方向へと伸びても、その機会は、夜の都会の摩天楼の、まぶしいばかりのイルミネーションで明るい、誇張された垂直の夜でしかないからです。これは、リルケの都会批判、現代文明批判でもあります。折角のわたしたちの過剰が、これはわたしたちの富なのですが、それが浪費され、消費されてしまい、決して垂直に成長し、または建造されないのです。
このリルケのいう過剰の豊かさについては、例えば、第1部ソネットXIVの第4連に、
Sind sie die Herrn, die bei den Wurzeln schlafen,
und gönnen uns aus ihren Überflüssen
dies Zwischending aus stummer Kraft und Küssen?
【散文訳】
死者たちというのは、根のところで眠っている男たち(または、主人たちと訳せる)なのだろうか、そうして、わたしたちに、その剰余(過剰)の中から、物言わぬ力と、数々の接吻から生まれたこの中間物(果実)を恵んでくれるのだろうか?
とありました。
また、飛行機の飛ぶ空気、Luft、ルフトとは、リルケの世界では、Hauch、ハオホ、そっと吐く息、Raum、ラウム、空間と同義であることもあらためて銘記することにしましょう。
垂直に立つわたしたちの姿を否定する運命については、様々な主題とともに、第2部ソネットXIVの第1連、第2部ソネットXIXの第3連、第2部ソネットXXの第2連、第2部ソネットXIVの第2連、第2部ソネットXXVIIの第2連と歌われております。こうしてみると、第2部は、運命ということが相当言われている篇だということになります。そうして、それに対抗する人間の姿、オルフェウスの姿が歌われていると考えることができると思います。
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