XXIII
RUFE mich zu jener deiner Stunden,
die dir unaufhörlich widersteht:
flehend nah wie das Gesicht von Hunden,
aber immer wieder weggedreht,
wenn du meinst, sie endlich zu erfassen.
So Entzognes ist am meisten dein.
Wir sind frei. Wir wurden dort entlassen,
wo wir meinten, erst begrüßt zu sein.
Bang verlangen wir nach einem Halte,
wir zu Jungen manchmal für das Alte
und zu alt für das, was niemals war.
Wir, gerecht nur, wo wir dennoch preisen,
weil wir, ach, der Ast sind und das Eisen
und das Süße reifender Gefahr.
【散文訳】
お前に絶えず反抗しているお前の時間に、わたしを呼びなさい。
お前が、時間をついに捕まえたと思うたびに、しかし、
丁度犬たちの顔がそうであるように、そばで訴え、懇願して、そこにあって、
捕まえようとすると、いつも繰り返し、逃げてしまう。
このように逃げてしまうものは、最もお前のものなのだ。
わたしたちは自由だ。わたしたちは、まづ挨拶されたと思ったところで
解き放たれるのだ。
不安な思いで、わたしたちは、支点を欲求する。
わたしたちは、よく、古いものに対しては、若者たちの傍にあり、
そして、一度もなかったものに対しては、年をとり過ぎている。
わたしたちが、それでも、褒め称えるところで
わたしたちは、ただ公平でいるのだ。というのも、
わたしたちは、ああ、大枝であり、鉄であり、
そして、成熟する危険の甘きものであるからだ。
【解釈】
このソネットは、リルケの自註によれば、読者に宛てられて歌われています。そうすると、お前と呼びかけられているのは読者であり、呼びかけている話者は、オルフェウスと考えることができるでしょう。
第1連、第2連は、歌われている通り。時間というものがどのようなものかを歌っている。そうして、時間がわたしたちに反抗するときには、そのときにこそ、オルフェウスを、わたしを呼びなさいと呼びかけてくれている。
犬が訴えるように顔をこちらへ向けて、そうして捕まえようとすると、首を巡らして逃げてしまうというのは、本当に何か現実感覚があって、その通りだと思い、目に見えるようです。リルケは犬が好きだったのだと思います。第1部ソネットXVIは、自註によれば、犬に向けられて書かれている位です。犬の好きなリルケ。そういえば、狩のソネットもありました。
第3連では、時間を捕まえられないわたしたちの焦燥を、「不安な思いで、わたしたちは、支点を欲求する」と歌っています。わたしたちは、確かな支点を求めている。日本語の世界の言葉でいうならば、流行に対する不易を求めているということができるでしょう。
その試みも、しかし、第3連で歌われているように、なかなかバランスがとれません。新旧というバランスをとることの難しさ、一度もなかったものに対するバランスをとることの難しさが歌われています。後者の場合、一度もなかったものに対しては、わたしたちは往々にして退嬰的な態度をとりがちです。リルケの言葉を使えば、開いていない、受容しない。
第4連で、それではどうしたらよいのかが歌われています。第3連を受けて、それでもなお褒め称えることが、わたしたちのなすべきことです。何故ならば、わたしたちは枝であるから。この枝であるという言葉は、リルケの今まで読み解いてきたヴィジョンによれば明らかです。わたしたちは、死者の眠る大地から垂直に伸びた樹木の枝であり、その次には開いた花から生まれる果実であり、そうして次の種子を残してまた大地に戻る循環の中にある。そうであれば、その摂理を思って、それこそもしそれを(リルケのいう運命とは違いますが)運命と呼ぶのであれば、それを受け容れて、その循環を褒め称えること、そのようにある万物を褒め称えることが、わたしたちの尊い仕事だからです。
わたしたちは鉄であるからとは、どのような意味なのでしょうか。わたしは、鉄は素材として変わらぬものと理解しました。苦しみに堪えるという意味もあるのではないかと思います。
そうしてまた、わたしたちは「成熟する危険の甘きもの」である。危険は成熟する、熟してその危険が表に現れる。そのような危険の甘きものであるとは、何を意味するのでしょうか。甘きものとは、その危険に陥るととることもできるし、そこまで行かなくともそれに惹かれて危険を冒すものともとることができます。そうであれば、そのような人間の名前は冒険者たちと呼ばれて、次のソネットXXIVに歌われております。
枝と鉄と甘きものは、三つともみなund、ウント、且つという接続詞で接続されております。それは、ach、アッハという叫び声とともに。これら三つが同時にある者が人間なのです。
それゆえに、わたしたちは、褒め称えると言う使命を持っている。これは、詩人だけの使命ではない。それが変化する万物の中で不動の支点を獲得する道であるとリルケは歌っています。
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