2010年1月2日土曜日

オルフェウスへのソネット(XX)(第2部)

XX

ZWISCHEN den Sternen, wie weit; und doch, um wievieles noch weiter,
was man am Hiesigen lernt.
Einer, zum Beispiel, ein Kind... und ein Nächster, ein Zweiter —,
o wie unfaßlich entfernt.

Schicksal, es mißt uns vielleicht mit des Seienden Spanne,
daß es uns fremd erscheint;
denk, wieviel Spannen allein vom Mädchen zum Manne,
wenn es ihn meidet und meint.

Alles ist weit —, und nirgends schließt sich der Kreis.
Sieh in der Schüssel, auf heiter bereitetem Tische,
seltsam der Fische Gesicht.

Fische sind stumm..., meinte man einmal. Wer weiß?
Aber ist nicht am Ende ein Ort, wo man das, was der Fische
Sprache wäre, ohne sie spricht?

【散文訳】

星と星の間、それがどれほど遠いか、そして、しかし、ひとがここにあるものから学ぶことは、どれほどもっと遠いことだろうか。

ある者が、例えば、子供がそして、隣にいる者が、二人目の者が―

ああ、なんと捉えられぬほどに遠いことだろう。

運命が、ひょっとしたらわたしたちを、存在することの間隔(存在することが張っているその長さ、距離)を以って、わたしたちを測定しているので、運命はわたしたちには、

奇異に見えるのだ。

考えよ、娘が男を避け、そして思う度に、娘から男までの間だけでも、どれだけの距離があるかを考えよ。

全ては遠いのだ―、そして、円環はどこの場所においても閉じてはいない。

見よ、ボウルの中に、明朗に準備された食卓の上に、

魚の顔が稀であることを。

魚たちは黙して話さないと、だれかが嘗て言ったことがある。誰がそのことを知っているのだ?(だれも知らない)しかし、結局は、魚の言語が何であるか、その本質を、魚の言語無しで、ひとが話しをする場所が存在しないだろうか?

【解釈】

わたしは、このソネットが好きで、何故か惹かれるものがある。それは考えてみると、出てくる魚に惹かれているのです。魚が出てくるので、このソネットに、読むたびに、魅力を感ずるのです。それは、何故なのだろう。このソネットを読み解きながら、その問いに答えることができればいいと思う。

ふたたび、隣にいる人が、どれほど遠くにいるか、人間がどれほど孤独であるかという主題を歌っている。それが、はっきりと第1連と第2連に出ている。それに対して、第3連と第4連は、ものが開かれていることがどのようなことであるかを歌っている。これは、前のソネットの手についての歌い方と同じだ。

しかし、人間の間の距離が遥かに遠いということと、人間やものが開かれてるということの間にはどのような関係があるのだろうか。ひとつひとつ見てみよう。

1連は、ここに歌われている通り。子供が歌われているのは、大人からみると、子供も遠い存在なのでしょう。第1部のソネットXIIIの第1連と第2連を読むと、子供はまた、果実の味が遠いところからやって来ることを知ることのできる、そのような表情をするのでした。

「二人目の者」とは、第1部ソネットXIで歌われたように、並んで道を行く二人の騎士の間の距離を思い浮かべるとよいと思います。

2連では、運命が出てくる。第1部ソネットXIIでも、既にこの距離が歌われていました。それは、近代文明のアンテナとアンテナの間の距離を埋め、張り渡される電線の距離として歌われていました。距離とか間隔とか訳しているドイツ語は、Spanne、シュパンネ、何かを張り渡して緊張させること、そのひとわたりの長さのことです。第1部ソネットXIIでは、電線の距離に対して、音楽の力の齎(もたら)す距離がゼロであることから、reine Spannung、ライネ・シュパヌング、純粋な距離と歌われていました。

運命は、「存在することの間隔(存在することが張っているその長さ、距離)」を以って、わたしたちを測定しているという。それは、直ぐ隣にいるのに、わたしたち同士の間の距離を、意思疎通の悪さを測定しているということでしょう。そのことによって、運命が転変することがある。それが、わたしたちには理解ができず、一旦我が身に何かが起きたときには、突然のように、奇異に見える。それは、男と女の関係とコミュニケーションの難しさをみるだけでもわかるだろうというのです。それは、娘が男を避けても、思ってもと、娘が主語なのは、リルケが男だからでしょう。

さて、第3連です。こうして、すべては遠い、遥かだという。こうして読むと、距離があること、遥かであること、そのこと自体が、円環が閉じていないことを意味しているのだと言っている。ひとつのまとまりある人間の社会を考えてみてもよいと思いますが、それは、こうしてみると、人間の社会も、そもそも、どこにおいても、閉じていないのです。それは、ふたつのものの間が遠いから考えられることです。これが、リルケの思想なのです。

同じ例として、だから、何かお祝いの席で、その食卓の上のボウルに魚の顔があることは稀だろうとリルケはいっている。これは、何を意味しているのでしょうか。お祝いの席でとわたしが解釈したのは、それが、heiter、ハイター、明朗に準備された食卓とあるからです。日本と違って、お祝いの席には、魚は出ないのだ。

しかし、このheiter、ハイター、明朗にという言葉、これは、精神が明朗とリルケが歌うときの言葉で、開いていて、受け容れるさまをいうときに、そういう重要な契機にリルケが使う言葉です。第2部ソネットXIの第4連で、より明朗なる精神の人間は、自分自身が殺されることになろうと、それを受け容れるのだと歌われていることを思い出してください。また、第2部ソネットVでも、花が光を受け容れる生き物だということに対比して、人間が果たしてそうであるかを問うておりました。これは、人間のあるべき理想の状態なのです。それを成り立たしめているのが距離だということになります。これが、人間の運命だとリルケは言っている。

何故、そのような食卓に魚は稀なのでしょうか。それは、こうして各連を読んでくると、魚は閉じていて、開いてはいないからだというのがその答えだと思います。それが、魚は黙して語らない、話をしないと歌っている言葉の意味です。

これに対して、果物は開かれている。第1部ソネットXIIIXIVを読むとそのことが解ります。そこでは、果物は開かれているものとして歌われている。こうして更に考えてみると、リルケの考えていることは、果物は死を含むが、魚は死を含まないからだと考えているからではないでしょうか。つまり、果実の死は、次の生を産むが、魚の死は次の生を産まない。

しかし、果実とは違って、魚は黙して語らないとだれかが言ったが、それは本当なのだろうか。そうではないのではないか。ついには、ある場所があって、魚の言語の本質を、魚の言語なしで話しをする人間の場所があるのではないか?そのような純粋な場所があるのではないか?そのような純粋な空間があるのではないか?と。

こうして考えてきますと、わたしが何故リルケがこのように歌う魚に惹かれるかというと、魚が死を含み、生を産まないというあり得ないことのうちに、そう歌われていることにうちに、またこの最後の連が最後に疑問文の形で問うているが、その問いに対するわたしの考える答えのうちに、肯定の回答を、そのような場所を予感するからなのだと思います。そう予感したい、そうでありたい、純粋な空間が存在している、そうであるといいたい自分自身が魚の中にいるのです。明朗に準備された食卓のボウルの中にいることが稀な、魚の顔。そうして、そのように、多分わたしも多くを黙して語ることのない生き物に惹かれる人間なのでしょう。このように、余りにも饒舌であるとはいへ。

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