2010年1月1日金曜日

オルフェウスへのソネット(XVI)(第2部)

XVI

IMMER wieder von uns aufgerissen,
ist der Gott die Stelle, welche heilt.
Wir sind Scharfe, denn wir wollen wissen,
aber er ist heiter und verteilt.

Selbst die reine, die geweihte Spende
nimmt er anders nicht in seine Welt,
als indem er sich dem freien Ende
unbewegt entgegenstellt.

Nur der Tote trinkt
aus der hier von uns gehörten Quelle,
wenn der Gott ihm schweigend winkt, dem Toten.

Uns wird nur das Lärmen angeboten.
Und das Lamm erbittet seine Schelle
aus dem stilleren Instinkt.

【散文訳】

何度も何度も、私たちによって、引き裂かれるように引き開けられても、

神というものは、治癒する場所であるのだ。わたしたちは、鋭い者たちだ。

何故ならば、わたしたちは知っているから。しかし、神は明朗で且つ分かち与える。

純粋な、清められたお布施でさへ、神は、微動だにせず、放たれて何もない端に対立して位置する以外の仕方では、神の世界の中へと取り入れない。

ただ死者だけが飲むのだ

ここの、わたしたちによって聴かれている源泉の中から

神が死者に沈黙しながら合図をするときにはいつでも

わたしたちには、喧騒のみが提供される。

そして、羊は、静かな本能から

自分の鈴を懇願して得るのだ。

【解釈】

何か、前のソネットといい、このソネットといい、それまでのソネットと調子が違っている。変な言い方かも知れないが、極度に思弁的ではないときの、リルケの言葉の美しさが現れている。

1連の「引き裂かれるように引き開けられて」と訳した、aufgerissen、アウフゲリッセンは、瘡蓋(かさぶた)をとるのは、きっとそれに当たることだと思う。いかにも、そんな感じがする。

人間は知りたいと欲する。知ることは、傷つき、出血し、瘡蓋のできる行為なのだ。しかし、これに対して、神は明朗であり、与える。明朗とは、第2部ソネットXI4連では、精神に冠して使われた形容詞でもありました。より明朗なる精神は死をも受け入れ、新しい世界を創造する。それは、神に一歩なりとも近づく精神のありかたなのでしょう。

さて、神は治癒する場所だといっている。原文は、神に定冠詞がついているので、神というものはと訳したように、そもそも神とは何かと言えばそれは、という意味。それは、場所であるといっている。しかし、これはリルケのいつもの、悲歌とソネットの読者には親しい考え方。リルケの「空間論(一般論)」(2009718日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/07/blog-post_3081.html)で論じたように、(もの、場所、空間)は、同義です。リルケは、神もまた空間だといっているのです。詳細は、このときのブログをご覧いただけるとうれしい。

2連は、神様に奉納するのに、そのお布施もまづ清められ純粋になる必要がある。そのようなお布施、喜捨でさへも、神という空間が自らの中へ受け容れる仕方があるのだ。それが、「微動だにせず、放たれて何もない端に対立して位置する」という仕方、方法です。「放たれて何もない端」とは、直線を描くのに、ある点から発して直線を描く様子を想像してみると、その他方の点が無限に続く様子を思い描くことができれば、それは「放たれて何もない端」ということになるでしょう。他の端があるのですが、それは制限を受けていない、無限である。神はその他の端に立って均衡をとることによって、ものごとの全体を現す。均衡あるこの世界を創造する。そうしていながら、神は微動だにしない。微動だにしないとは、相対的なものではないのです。

3連には、神と死者とわたしたち人間の関係が歌われています。「わたしたちによって聴かれている源泉」とは、第1部ソネットVIII1連を思い出すとよいのではないでしょうか。そこでは、

NUR im Raum der Rühmung darf die Klage
gehn, die Nymphe des geweinten Quells,
wachend über unserm Niederschlage,
daß er klar sei an demselben Fels,

der die Tore trägt und die Altäre.

【散文訳】

賞賛することという空間の中でのみ、悲嘆は行くことが

ゆるされる。悲嘆とは、涙を流し泣かれた源泉の精、ニンフであり、

わたしたちの落下が、門を担い、祭壇を担っている同じ岩のところで、

清澄であると思って(清澄であることを)見張っているのだ。

とあり、わたしたちは源泉から流れ出る水の流れに譬えられています。

確かに、わたしたちは源泉の音を聞いているのです。

そうして、死者たちは、わたしたちの生からその(変ないいかたかも知れませんが)命を得ているのだと歌われています。死者が、わたしたちの生の源泉から飲むとは、そのような意味でしょう。神は、死者に、わたしたちの生の源泉から飲むように合図をし、そうして、死者は飲む。

この死者に対して、という意味で、第4連最初の一行最初の一語の原文では、「わたしたちには」が配置されているのでしょう。強意のための倒置です。

わたしたちには、喧騒のみが提供される。

これは、死者の世界は、静かな世界だと対比的に省略的に言っている。第4連最後の、

そして、羊は、静かな本能から

自分の鈴を懇願して得るのだ。

とは、一体何を言っているのでしょうか。

もし羊がわたしたち人間を意味しているとしたら、わたしたちの本性はやはり静寂を求めているのであり、喧騒をではなく、その帰属する静かな空間に鳴り響く鈴の音を求めているのだと解釈することができます。あるいは、羊を人間としてとるのではなく、文字通りの動物だとして、人間の姿と対比させて、そう歌ったと解釈することもできます。やはり、動物に対するリルケの詩想からいって、後者ととることがよいかも知れません。

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