2010年1月2日土曜日

オルフェウスへのソネット(XIX)(第2部)

XIX

IRGENDWO wohnt das Gold in der verwöhnenden Bank
und mit Tausenden tut es vertraulich. Doch jener
Blinde, der Bettler, ist selbst dem kupfernen Zehner
wie ein verlorener Ort, wie das staubige Eck unterm Schrank.

In den Geschäften entlang ist das Geld wie zuhause
und verkleidet sich scheinbar in Seide, Nelken und Pelz.
Er, der Schweigende, steht in der Atempause
alles des wach oder schlafend atmenden Gelds.

O wie mag sie sich schließen bei Nacht, diese immer offene Hand.
Morgen holt sie das Schicksal wieder, und täglich
hält es sie hin: hell, elend, unendlich zerstörbar.

Daß doch einer, ein Schauender, endlich ihren langen Bestand
staunend begriffe und rühmte. Nur dem Aufsingenden säglich.
Nur dem Göttlichen hörbar.

【散文訳】

どこかに、金(きん)が、ひとを甘やかし我がままにする銀行の中のどこかに住んでいて、そして金は、幾千ものものたちと親しくしている。しかし、あの目くら、即ちこじきは、、銅(かね)で出来た最小の貨幣単位(ツェーナー)にとってさへも、失われた場所のようであり、棚の下の埃っぽい角(かど)のようである。

商売では、ビジネスに従えば、お金(かね)は、自家(うち)にいるかのようであり、

見かけ上は、絹、カーネーションや毛皮の衣装をまとって変装している。

彼、沈黙する者は、全ての目覚めまたは眠りながら呼吸をしているお金の息継ぎの休止の中に立っている。

ああ、このいつも開いている手は、夜のもとで、閉ぢることができるのだろうか。

明日になれば、手は運命を再び取り戻し、そして毎日

手は運命に堪える。明るく、悲惨に、果てしなく破壊されて。

しかし、ある者が、ひとりの見るものがいて、ついには手の長い耐久を、驚きを以って理解し、褒め称えることよ。歌い上げるものにとってのみ、言葉で言い表すことができるのだ。神々しいものにとってのみ、聞こえるのだ。

【解釈】

前のソネットのKrug、クルーク、甕、壺ということから、手が思われ、手が歌われています。そうして、この手のする仕事と対比されて、お金と黄金(きん)が歌われている。

1連では、黄金が歌われている。それは銀行の内部にあって、幾千ものものたちと親しい。第2連にあるように様々なものに姿も変える。それは、ビジネスの世界ではあたかも我が家にいるがごとく自由自在、変幻自在である。

しかし、その価値と全く無関係な者がいて、それが第1連の盲目の乞食である。目も見えないし、乞食であるのでものをそもそも所有ということをしていない、その意志もない人間である。そのような者には、貨幣単位の最小単位のお金ですら、何の価値もないのだ。

それから、もうひとり、黄金やお金の生み出す価値に無縁のものがいる。それが、der Schweigende、デア・シュヴァイゲンデ、沈黙する者だ。

お金というものを、リルケは変身、変形するという視点から捉えている。これは、神々しい存在であるオルフェウスの変身と比較しているということだと思う。お金の無数の変身とオルフェウスの変身とはどこが違うのだろうか。それが乞食なのであって、乞食の所有しないという状態なのだ。お金は、人間との関係では全く逆で、お金を変身させて、人間は何かを所有したいと思うからだ。そこには、人間の無私の姿はない。

そして、そのような人間の傍にいて、近いしい者がいる。それが、沈黙する者だ。この者は、お金が呼吸をするその呼吸の休止、息継ぎの時間の中に立っていると歌われている。お金も呼吸する空間だ。お金も何かと何かを交換しているのだ。これは、リルケのおなじみの考えに沿った理解だ。お金も自分自身の中の空間を、その外の空間と交換している。そうやって変身し、他のものに姿を変えている。

こう考えてくると、リルケが呼吸をするということをいうときには、空間と空間の交換をしていると考えて来たが、そのことは、更に一歩をすすめると、交換をする主体がそれによって変身し、変形しているのだということを明瞭に思い、考える必要があると思う。その変身こそが、リルケのいう成長、垂直への成長であり、上昇なのだ。

全ての目覚めまたは眠りながら呼吸をしているお金」と歌っているが、これはお金が夜も昼も、寝ている間も起きている間も生きていて呼吸をしていることをいっている。リルケは、お金が循環すると考えていただろうか。もしそうであれば、リルケのいう呼吸とは、循環する行為であるということになる。呼吸をすることによって、人間とものは循環するのだ。あるいは、循環ということが、人間とものに呼吸をさせるのだ。

しかし、とはいえ、人間は、2部ソネットXIIIに出てきたように、また悲歌2番第3連で歌っているように、さらにまた悲歌9番第3連でも歌っているように、、schwinden、シュヴィンデン、収縮する、縮こまる、小さくなってゆく人間なのではあるが。そうして、死に(リルケは決して死ぬとは言わないが、しかしそうやって)死者になり、地下の世界に眠り、その死者の眠る大地から樹木が垂直に育ち、花を開き、果実をつけるという循環の世界。人間とものがそこで呼吸をする世界が生まれる。

夜お金は眠っている。この連想から、夜のもとで手が閉ぢていることを歌うのです。手は、夜、閉ぢているのでしょうか。第3連の第1行では、手は閉ぢることがなく、いつも開いているのだと思います。Offen、開いているというリルケの思想については、第1部ソネットXの第2連の棺、第1部ソネットXIVの第1連の果実、第1部ソネットXXVの第4連の死者の扉、第2部ソネットVの第4連の花、第2部ソネットIXの第2連のオルフェウスのこころに、それぞれ形象を変えて、開いているものが歌われている。

そうして、手は、よくる朝からまた運命に堪える。手はお金のように慾によっては変身しない。もっと純粋に(そういっていいでしょう)、無欲に創造する。手は何かを変形させて創造する。そうして過酷な一日が終わる。夜がくる。夜のもとで、手は休むことができる。それが、「夜のもとで、閉ぢることができるのだろうか」と疑問形で歌っていることなのだと思います。

さて、もう一度沈黙する者を。沈黙とは、リルケの場合、どこか死者と繋がっている形象でした。それから、静寂な空間と。第1部ソネットVIIの第1連に、

RÜHMEN, das ists! Ein zum Rühmen Bestellter,
ging er hervor wie das Erz aus des Steins
Schweigen.

【散文訳】

賞賛すること、これだ。賞賛するように決められている者、

オルフェウスは、石の沈黙の中から生まれる鉱石のように、

現れた。

とある。

そこから、何か尊い存在が生まれてくる源のひとつ。こうしてみると、リルケは、お金という変身能力を有するものに、死というものを連想していたのかも知れません。もちろんその死の縁者である沈黙する者は、直接お金に触り、影響力を行使するのではなく、「お金の息継ぎの休止の中に立っている」だけなのですが。

最後の連、第4連に「見る者」が歌われています。これは、第2部ソネットXIの第3連でも歌われていました。

Fern von dem Schauenden sei jeglicher Hauch des Bedauerns,
nicht nur vom Jäger allein, der, was sich zeitig erweist,
wachsam und handelnd vollzieht.

【散文訳】

見る者から遠く離れて、憐れみの吐息はどの吐息も、あれ。いいタイミングで証明するものを、用心深く且つ規則に従って行うことで執行する狩人ばかりから離れているだけではなく。

この引用の箇所では、見る者の見えないところまでも、息が存在せよ、見えない者もみないようなところまでも世界中隅々まで隈なく、その空間が存在せよということが歌われています。が、しかし、見る者は、やはり見ることをする。手の長い忍耐を驚きを以って理解し、褒めたたえるのです。見る者は、またオルフェウスと同様に、褒め称える者なのです。そのような者にとってのみ、即ち万物を褒め称え、歌いあげる者にとってのみ、言葉で言い表すことができるのであり、そのような神々しい者にとってのみ、耳に聞こえることがあるのだ。リルケは、そのように歌っています。

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