2010年1月4日月曜日

オルフェウスへのソネット(XXVI)(第2部)

XXVI

WIE ergreift uns der Vogelschrei...
Irgend ein einmal erschaffenes Schreien.
Aber die Kinder schon, spielend im Freien,
schreien an wirklichen Schreien vorbei.

Schreien den Zufall. In Zwischenräume
dieses, des Weltraums, (in welchen der heile
Vogelschrei eingeht, wie Menschen in Träume —)
treiben sie ihre, des Kreischens, Keile.

Wehe, wo sind wir? Immer noch freier,
wie die losgerissenen Drachen
jagen wir halbhoch, mit Rändern von Lachen,

windig zerfetzten. — Ordne die Schreier,
singender Gott! daß sie rauschend erwachen,
tragend als Strömung das Haupt und die Leier.

【散文訳】
鳥の叫び声がどのようにわたしたちを捕まえることだろうか、
そのように、嘗て創造された叫び声が。
しかし、子供たちは既に、野外で遊びながら、実際の叫び声のそばを
叫びながら走り過ぎて行く。

偶然を叫ぶこと。この、世界空間の数多くの中間空間の中へと
(健康な鳥の叫び声がその世界空間の中へと入る。人間たちが数多くの
夢の中へと入るように―)、子供たちは、自分たちの、金属的な鋭い叫び声の
楔を打っている。

悲しいかな、わたしたちはどこにいるのだ?もっと自由に、
頚城(くびき)を脱して解き放たれた龍たちのように、
わたしたちは、少し高いところを、笑いの複数の縁(へり)を以って、

風に吹かれて散りぢりになって、狩をしている―叫ぶものを秩序だてよ、
歌う神よ、そうして、叫ぶものたちが、ざわめく音をたてながら覚醒し、流れとなって
首(こうべ)と竪琴を担うように。



【解釈】

このソネットにある明瞭な主題のひとつは、叫びです。

叫び声といえば、悲歌1番第1連に、

Wer, wenn ich schriee, hörte mich denn aus der Engel
Ordnungen?

【散文訳】
もしわたしが叫ぶとして、一体天使の序列の階層の中から外へと誰が、どの天使がわたしの叫び声を聞いてくれることだろうか?(そんな天使は現実にはいる筈がない。)

この一人称であるわたしの叫び声は、この悲歌1番を通じてみると、天使という高次元の存在に触れて、自分自身が殺されることへの恐怖心、死への恐怖心に発するものでした。そうして、わたしの死が単なる死に終わって、それは無、なにもならない無なのではないかという思いに対する恐怖心でありました。

また、悲歌7番第1連に、

Werbung nicht mehr, nicht Werbung, entwachsene Stimme,
sei deines Schreies Natur; zwar schrieest du rein wie der Vogel,

【散文訳】
もはや求めるのではない、求めるのではないのだ、逃れて成長した(または成長を免れた)声よ、お前の叫び声の自然であれかし。なるほど、お前は鳥のように純粋に叫ぶけれども、

また、悲歌10番第5連には、

und manchmal schreckt ein Vogel und zieht, flach ihnen fliegend durchs Aufschaun, weithin das schriftliche Bild seines vereinsamten Schreis

【散文訳】
そして、しばしば一羽の鳥が驚かし、彼らの見上げる中を通って低くまっすぐに飛んで行き、遥か向こうに、鳥の孤独な叫びの文字の像が。


また、第1部ソネットXXVの第1連には、

Dich aber will ich nun, Dich, die ich kannte
wie eine Blume, von der ich den Namen nicht weiß,
noch ein Mal erinnern und ihnen zeigen, Entwandte,
schöne Gespielin des unüberwindlichen Schrei's.

【散文訳】
お前に、しかし、わたしは、今こうして、お前に、わたしが知った、名前を知らない花のようなお前に、もう一度だけ、思い出させて、そうして、彼らに示してやりたい、盗まれた者、克服できない、克服とは無関係の(克服できない、それ以上のものはない)叫びの美しい遊び友達よ。

また、第1部ソネットIで、森の動物たちが、叫びには、

sondern aus Hören. Brüllen, Schrei, Geröhr
schien klein in ihren Herzen. Und wo eben
kaum eine Hütte war, dies zu empfangen,

【散文訳】
そうではなく、聞くというこころから、そのように静かであったということなのである。唸ったり、叫んだり、咆哮したりすることは、その動物たちのこころの中では、小さいことに思われた。そうして、これ(このような状態)を受け容れてくれるまさにほとんどひとつの小屋もなかったところに、
それから、第1部ソネットXXVIでは、オルフェウスを殺すものたちの叫び声が響いている。
これらが、悲歌とソネットに出てくる叫びのすべてです。

リルケは叫ぶということ、叫び声というものに、それぞれの場合に応じて、上に挙げてみるような幾つもの意味を持たせています。人間の場合には、悲歌1番の叫びがその最たるものだと思います。

鳥の場合には、悲歌7番第1連に「お前は鳥のように純粋に叫ぶけれども」とあるように、鳥の叫びは純粋だといわれています。リルケは動物に純粋な空間を見ることのできる能力を見ていますが、鳥も動物ですから、同じ能力を持っているのだと考えることがひとつ。もうひとつは、孤独という観点からいうと、鳥は編隊を組んでいつも意思疎通を互いに図り、風が分かれても一つになるように(第1部ソネットIVの第1連)、孤独ではない存在として歌われています。これは、悲歌の中にそう歌われていたと記憶しているのですが、残念ですが、今そこを見つけることができません。しかし、この意味においても、鳥は純粋だといわれているのです。

さて、そのような鳥の叫び声はわたしたち人間を捉えます。それが第1連冒頭の一行です。あるいは、そのような捉え方をする叫び声がある。それは、何か一度創造された叫び声である。

しかし子供たちはそうではない。自然の中で、野外で、自由の中に(ドイツ語では、この後者ふたつは同じ表現です)、遊びながら、遊戯をしながら、「実際の叫び声のそばを
叫びながら走り過ぎて行く。」リルケが子供の時代をどんなに大切にしたかは、悲歌を論じるときに重要な意味を持っていましたから、「天使と死者を語る前に」(2009年6月21日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/06/blog-post_21.html)で論じたところです。ご興味のある方は、このときのブログをご覧戴けるとうれしく思います。

さて、そうして、第2連にある通り、子供たちが遊ぶことには、目的がありませんから、子供たちは偶然を叫ぶことになる。それも、「世界空間の数多くの中間空間の中へと」叫ぶことによって、「自分たちの、金属的な鋭い叫び声の楔を打っている。」これは一体何をいっているのでしょうか。

中間空間とは、第2部ソネットIIIにも出てきて、

SPIEGEL noch nie hat man wissend beschriebe
was ihr in euerem Wesen seid.
Ihr, wie mit lauter Löchern von Sieben
erfüllten Zwischenräume der Zeit.

【散文訳】,
鏡を、今だ嘗て、お前たちが、お前たちの本質の中に何があるのかを知って、ひとは叙述したことはない。お前たち、篩(ふるい)のただ穴だけで満たされているように、満たされている時間の中間空間(時間と時間の狭間の空間)よ。
と歌われています。

これをみると、リルケは時間との関係で、時間に無関係に存在する空間で、時間の外にではなく、時間の流れの中にある空間を中間空間と言っていることがわかります。
また、悲歌4番第3連には、

Und waren doch, in unserem Alleingehn,
mit Dauerndem vergnügt und standen da
im Zwischenraume zwischen Welt und Spielzeug,
an einer Stelle, die seit Anbeginn
gegründet war für einen reinen Vorgang.

【散文訳】
(わたしたちは)、しかし、わたしたちのひとりで行くことの中で、
持続するものに満足していたし、そして、世界と玩具の間にある
中間空間の中に立っていたのだ。その中間空間の中、即ち、ある場所、
最初から、ひとつの純粋な出来事のために基礎をおかれ、建てられた場所に、わたしたちは立っていたのだ。

悲歌4番のここは、その前に子供の観劇する人形芝居のことが歌われていて、やはり、子供と遊び、子供と遊戯について言われているところなのですが、その脈絡の中で、この連が歌われているのです。子供の時代には、わたしたちは、中間空間にいたということを歌っている。それは、世界と玩具の間にある中間空間です。この空間は、やはり「純粋な出来事のために」基礎付けられているので、rein、ライン、純粋にという言葉のリルケの使用については何度も述べてきましたが、時間がないという意味ですから、この空間も時間とは無縁の空間ということが前提になっています。

子供たちは、確かに時間の中で遊ぶのだが、それは世界と玩具の中間空間で遊ぶのであり、そこには純粋な空間が出現しているのだとリルケはいっているのだと思います。

子供たちは、そのような中間空間に入ってゆく。また健康な(純粋な時間の無い空間を目の前に持ち、他の仲間と意思疎通が行って一体となることのできる鳥は健康なのだ)、その鳥の叫び声は、やはり、そのような時間を欠いた中間空間の中に入って行く。人間の場合には、大人の人間ということだと思いますが、夢の中に入ってゆくことがそれに当たるのだとリルケは言っています。夢の中には時間が存在しない。リルケはそのように考えている。確かに因果律、時間の連鎖は、そこにはありません。それは、わたしたちの経験からもいえることだと思います。

さて、従い、「子供たちは、自分たちの、金属的な鋭い叫び声の楔を打っている。」の「楔を打っている」とは、時間の流れの中にあって、中間空間を現出せしめている子供のいわば純真な、遊ぶという行為を言っているのでしょう。それは、時間の流れを帳消しにする。うまい言い方が、なかなかできませんけれども。

さて、それでは、大人であるわたしたちは、一体どこにいるのだろうと問うのが、第3連です。自らの意志で頚城(くびき)を脱した龍たちに、わたしたちを譬えています。そうして宙を飛んでいる。それも、halbhoch、ハルプホーホ、少しだけ宙に浮いている。また、風に煽(あお)られてばらばらになった雲の切片のように、いや龍のように。しかし、わたしたちは、笑いの縁(へり)を笑っているのです。

リルケは、よくこのRand、ラント、縁という言葉を用います。中心ではなく、周縁、縁(へり)なのです。笑いにも縁がある。第2部ソネットXIの第2連に出てくる、騎士の従者の戦いも縁で戦われ、そこには、かろうじて踏みこたえるという意味を読み取ることができましたから、ここでもそのように解釈することはできると思います。さて、そのような、いづれにせよ、笑いを以って、わたしたちは狩りをしている。

その狩りがどのようなものか、それに対して、明朗な精神がどのような態度をとるかは、第2部ソネットXIにおいて、考察した通りです。

平俗にいってしまえば、殺し殺される世界に生きているわたしたち。そうしてみると、第4連で叫んでいるのは、大人であるわたしたちのことなのだ。話者は、オルフェウスに向かって、その叫んでいるわたしたちを秩序立てよと命じている、お願いをしている。それは、わたしたちが、ざわめいているとはいへ、殺されたオルフェウスの首(こうべ)と竪琴を流れとして担いながら、目覚めているためなのだ。

このわたしたちの叫びが、上の子供や鳥の例でみたような純粋の空間を求める、のっぴきならない、絶体絶命のところから発せられる叫び声だと理解をすると、そのようなわたしたちにも、オルフェウスの首と竪琴を担う資格が生まれるということなのでしょう。そのために、オルフェウスよ、わたしたちを秩序立てよ。たとえ、我が身を引き裂かれようとも、そのような殺戮の行為の中にあってさへ、オルフェウスの楽の音は響き、殺戮の行為をすら秩序立てて、美と快を創造することが、第1部ソネットXXVIに歌われていたオルフェウスの超人的な神的な力なのでした。

わたしたちの生が、源泉から流れ出る水の流れであるということは、その源泉を守っている末娘の妖精を歌っているソネット、第1部ソネットVIIIで歌われている通りです。それはまた時間の中にいるわたしたちをも意味しているでしょう。

こうしてみると、Ordnen、オルドネン、秩序立てるとは、我が身を引き裂かれ、殺されてなお生きているオルフェウスが、わたしたち人間に平安を齎(もたら)す、オルフェウスの神的な行為なのだということがわかります。そうして、わたしたちは、オルフェウスの打ち建てる秩序の中に、初めて安んじることができる。

このような、ヴィジョンとしての人物を創造できることが、そもそも詩人という者の、素晴らしい、リルケ好みの言葉を使えば、herrlich、ヘルリッヒな力なのだと、わたしは思います。

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