2010年1月7日木曜日

オルフェウスへのソネット(XXVIII)(第2部)

XXVIII

O KOMM und geh. Du, fast noch Kind, ergänze
für einen Augenblick die Tanzfigur
zum reinen Sternbild einer jener Tänze,
darin wir die dumpf ordnende Natur

vergänglich übertreffen. Denn sie regte
sich völlig hörend nur, da Orpheus sang.
Du warst noch die von damals her Bewegte
und leicht befremdet, wenn ein Baum sich lang

besann, mit dir nach dem Gehör zu gehn.
Du wußtest noch die Stelle, wo die Leier
sich tönend hob —; die unerhörte Mitte.

Für sie versuchtest du die schönen Schritte
und hofftest, einmal zu der heilen Feier
des Freundes Gang und Antlitz hinzudrehn.

【散文訳】
ああ、来い、そして去れ。お前、ほとんど子供であるお前よ、
一瞬、踊りの姿を補って、それを、あの踊りという踊りのうちのひとつの
純粋な星座となせ、その中で、わたしたちは、鈍く、重苦しく秩序立てる自然を、

過ぎ行きながら、超えるのだ。何故ならば、自然は、オルフェウスが
歌ったならば、全く耳傾けながら、活発に、盛んになるばかりなのであったから。
お前は、まだ、その当時から感動して、動かされた者であったし、
そして、一本の樹木が、

お前と一緒に聴覚の方へ行こうと、長い間思っていたときにはいつでも、
一寸違っていた、奇異に思われた。お前は、竪琴が音高く鳴り響いていた場所を、まだ
覚えていた。― 聞きとることのできない真ん中を。

この真ん中のために、お前は、美しい足どり、美しい歩調を試みたし、
そして、男の友人、即ちオルフェウスの健康な祝祭のために、一度は、
歩行と顔(かんばせ)を、そちらへと向けることを願ったのだ。


【解釈】
リルケの自註によれば、このソネットは、Wera、亡くなった友人の娘に宛てられている。
第1連冒頭の「来い、そして去れ」とは、オルフェウスに倣って、留まることなく、変身を続けよというこころだ。(この命令形は、次の、最後のソネットXXIXの第2連の「変身の内と外を出入りせよ」という命令形にまで響いている。)第2部ソネットXVIIIでは踊り子を歌っていたが、踊ることの究極の姿は、一本の樹木のように垂直に立つことなのであった。そのような本質的な踊りのできるお前ならば、「踊りの姿」に力を貸して、その姿を踊りの星座にすることができると歌っている。

この「踊りの姿」の姿については、既に何度か述べてきたところです。第1部ソネットXIでは、騎士の星座が歌われていました。また、その次の同じ部のソネットXIIでも、精神との関係でFigur、フィグーア、姿を歌っています。それから、第2部ソネットXIIで歌われている、生命が蘇生をするときの姿、いや姿が、schwingen、シュヴィンゲンする、躍動することによって、精神が創造する宇宙が歌われていた。さて、これらの姿は、何故そのように歌われているのでしょうか。姿とは何でしょうか。

それは、騎士の星座であれ、この踊りの星座であれ、星座というものは、精神が点と線を結んでできる、時間によって変化しないentity、実在、存在であることを、ここでも言っているからです。この星座というentity、実在、存在をいうときには、リルケはまた同時に空間を思っているのです。それは、第2部ソネットXIIで、やはり精神が星座を認識する能力によって、そうしてそう認識することと関係して、「認識すること」がそうであったように、他のソネットでも、何々することとリルケが書いたときには、それは、空間を意味しているのでした。Entityは、精神が認識し、認識された対象、空間です。従い、このソネットの第3連でも、場所、即ち空間が歌われています。

しかも、この第1連第3行の踊りの星座は、「純粋な星座」と歌われているので、既に今まで述べてきたように、rein、ライン、純粋なという言葉をリルケが使うときには、時間を捨象しているという意味ですから、この星座は時間と無縁の空間、entity、存在を意味しています。そうして、これらの言葉の使い方は、その概念から言っても、その組合せから言っても、正しいのです。リルケは言葉の人であり、詩人であります。一語も狂うことがありません。

さて、第1連第1行の「ほとんど子供である者」、そのような子供とは一体なにを行っているのでしょうか。わたしたちは、第1部ソネットIIで同じ表現をみています。それは、

UND fast ein Mädchen wars und ging hervor
aus diesem einigen Glück von Sang und Leier
und glänzte klar durch ihre Frühlingsschleier
und machte sich ein Bett in meinem Ohr.

【散文訳】
そして、それは、ほとんど娘である者であった、そして、
歌と竪琴のこの幾つかの幸福の中から姿をあらわして、
歌と竪琴の春のヴェールを通じて、清澄に輝いたし、
そして、自らのために、わたしの耳の中で、寝床をしつらえた。

この娘は、世界中を眠らせ、世界を眠っているのであるが、そのような、死を超えて目覚めることのない娘だ。この娘は、何なのだろうか。

最初に読んだときには、はっきりとはわからなかったが、ソネットもここまで読むと、リルケが「ほとんど」であるといっている子供や娘、そのような人間がどのような人間かは、はっきりとしている。

「ほとんど子供」とは、いってしまえば「子供であって子供でない者」という意味である。第1部ソネットIIの「ほとんど娘」である娘は、娘であって娘ではない者である。それは、大人であって子供のこころを失わない、大人であって乙女のこころを失わない人間のことをいっているのだ。そのような大人であるとは、このソネット全篇を通じてリルケが歌っているように、空間、もの、人間、宇宙、変身、態度、こころ、孤独、死と生、循環、二重性、自由、意識と無意識等々とその規則、即ち法則を知悉し、慣れ親しんで我がものとしている人間、ひとことで言えば、純粋な空間を願い、知っている人間のことです。

さて、そのような純粋な星座、純粋な空間の中で、わたしたち「過ぎ行きながら」生きている人間は、自然を超えることができると歌っています。自然は、鈍重に、重苦しく秩序立てますが、これはオルフェウスが秩序立てるのとは違って対比的に考えることができると思います。オルフェウスが、絶対絶命の場所から叫び声をあげつづけるわたしたち人間に対して、どのようにその叫びを秩序立ててくれるのかは、既に第2部XXVIでみた通りです。

確かに、純粋な星座、即ち純粋な空間の中では、わたしたちは、過ぎ行くものといえども、そのまま、自然を超越することができるでしょう。それは、ここまでの第1連の解釈でも予感され、理解されることです。

そして、なぜ、それができるのかを歌ったのが、第2連です。なぜならば、オルフェウスが歌うと、それだけで、その場合のみ、自然はそれをすべて聞きながら、盛んになったからです。「鈍く、重苦しく秩序立てる自然」が、そうではなくなったと言っている。これは、何を言っているのでしょうか。それは、第2部ソネットXIIIで、

Zu dem gebrauchten sowohl, wie zum dumpfen und stummen
Vorrat der vollen Natur, den unsäglichen Summen,
zähle dich jubelnd hinzu und vernichte die Zahl.

【散文訳】
一杯の自然の、使用されたまた鈍く黙した貯蔵に、即ち言葉で言い表すことのできぬ合計に、お前自身を歓喜を以って付け加えて勘定し、そして数を破壊しなさい。

と歌っているように、数を破壊して、自然の貯蔵された富の中へと自らを加えることができるということを言っているのだと思います。そうすることによって、過ぎ行く者、影であるわたしたちは、存在の一部となることができる。そこでみた空間には、宇宙の中心が現れる。これが、どのような経験であり、どのような場所であるかは、リルケは悲歌5番において歌っていて、これについては、このソネットの中でも度々言及してきたことです。これについては、「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(2009年8月15日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)をご覧ください。

さて、この空間のことから、第3連では、やはり、場所とういことが出てきます。そうして、その場所は、「竪琴が音高く鳴り響いていた場所」であり、それは、「聞きとることのできない真ん中」、宇宙の中心だといっています。この順序は、リルケの歌うべき順序なのです。この「聞きとることのできない真ん中」を、悲歌5番の最後の連でも、また第2部ソネットXXIの第4連でも、Teppich、テピッヒ、絨毯と呼ばれておりました。これは、宇宙の活動のバランスの中心が現出する場所です。

このふたつの例で、絨毯という言葉が、その詩篇の最後に出てくるということは、この言葉をいうことで、リルケの気持ちとしては、それまで言ってきたところのものを、またすべて言いたいことを、この言葉で言いおおせているということを示しているのではないかと思います。

この宇宙の中心のために、お前と呼ばれる踊り子は踊った。ここまでの踊り子の行為がみな過去形であるのは、このソネットを献じたWeraという若い娘が既に死者であるからだと思います。

最後に、「男の友人」と呼ばれているのは、勿論オルフェウスです。その健康な祝祭のために、踊り子は踊る。オルフェウスとは文字の上では出ていませんが、訳では、それを表に出しました。そうしてみると、第4連の、

オルフェウスの健康な祝祭のために、一度は、
歩行と顔(かんばせ)を、そちらへと向けることを願ったのだ。

とは、第1連に戻って、踊りの星座という純粋な空間の中、絨毯の上に、宇宙のバランスの中心を現出せしめる試みと願いを歌っているのです。踊りをオルフェウスの祝祭に捧げることによって。この「ほとんど子供」である娘が、どれ位オルフェウスに親しいか、その踊りを踊る高さを持っているかは、第3連から第4連に歌われている通りです。

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