2010年1月2日土曜日

オルフェウスへのソネット(XVIII)(第2部)

XVIII

TÄNZERIN : o du Verlegung
alles Vergehens in Gang: wie brachtest du's dar.
Und der Wirbel am Schluß, dieser Baum aus Bewegung,
nahm er nicht ganz in Besitz das erschwungene Jahr?

Blühte nicht, daß ihn dein Schwingen von vorhin umschwärme,
plötzlich sein Wipfel von Stille? Und über ihr,
war sie nicht Sonne, war sie nicht Sommer, die Wärme,
diese unzählige Wärme aus dir?

Aber er trug auch, er trug, dein Baum der Ekstase.
Sind sie nicht seine ruhigen Früchte: der Krug,
reifend gestreift, und die gereiftere Vase?

Und in den Bildern: ist nicht die Zeichnung geblieben,
die deiner Braue dunkler Zug
rasch an die Wandlung der eigenen Wendung geschrieben?

【散文訳】

踊り子。ああ、お前、すべての過ぎ行くことを動かすようにすることよ。どうやって、お前はそうしたのだ。そして、最後の決めの旋回、動きの中から生まれるこの樹木、

この樹木は、振動し飛躍した歳を完全には手に入れていなかったのだろうか。

花が咲かなかったのだろうか、だから、お前の振動が、その樹木の周りに、前から、群がっているのだろうか、突然に、樹木の沈黙の頂点が。そして、沈黙の上に、暖かさ、お前の中から外へと出るこの数えることのできない暖かさは、太陽であり、夏ではなかったのだろうか。

しかし、彼も担ったのだ、彼は担ったのだ、陶酔の頂点、忘我の、お前の樹木は。

それらは、お前の樹木の静かなる果実ではないのか、甕、成熟して豊かに塗られている、そしてより成熟した花瓶は。

そして、絵という絵の中には、素描が残っていたのではないか、お前の眉毛の暗い線がすばやく独自の転回の変身、変形、変態に書き付けた素描が。

【解釈】

前のソネットから果実を引き継いでいる。果実とは何か。主題は踊り子。それから、前のソネットにあった、tragen、トラーゲン、担うというリルケの好きな、言ってみれば、リルケ好みの言葉が引き継がれている。

1連では、踊り子の踊る踊りを歌っている。踊りの最後に激しく渦を巻いて旋回するのであろう。それを垂直の伸びる樹木に譬えている。この譬えは、第1部ソネットIから終始一貫して流れる、このソネット全体における形象のひとつです。

この樹木は、振動し飛躍した歳を完全には手に入れていなかったのだろうか。」とは、何を言っているのでしょうか。これは、樹木ですから、花を咲かせることが前提になっているのでしょう。それは、第2連の第1行をみると判ります。その歳になれば、花を咲かせて果実を成熟させるそのような歳月の繰り返されるその歳を所有しなかったのかと問うている。

このソネットの特徴は、すべての連が疑問文になっていることです。

「振動し飛躍した歳」と訳したドイツ語は、das erschwungene Jahr、ダス・エアシュヴンゲネ・ヤールですが、このerschwungenの原形はerschwingen、エアシュヴィンゲンで、既に何度か言及しましたように、schwingen、シュヴィンゲン、振動するという、死を代償に生じる生命のあたらしい世界、動かぬ死んだような世界に命を吹き込んで動かす力、あるいは動いた結果の生命の動的な姿を表わす言葉なのでした。このような復活、蘇生は、変身によって齎(もたら)される。繰り返し、悲歌1番の最後の連のことを思い出すことにいたしましょう。

2連では、踊り子のそのような振動が樹木の廻りに群がり集まってくる様を歌っています。そうして、plötzlich、プレッツリッヒ、突然に「樹木の沈黙の頂点」が出現する。plötzlich、プレッツリッヒ、突然にとは、悲歌で考察したように、天使のように高位の存在が時間とは無関係にある空間に出現する場合に、リルケがいつも使う副詞でした。ここでも、同じと考えることができます。この頂点は、高度な、高位の存在だとリルケは歌っているのです。このplötzlich、プレッツリッヒ、突然にについての考察については、「天使論」(200974日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/07/blog-post.html)をご覧いただければと思います。

そうして、やはり踊り子は女性ですから、第1部ソネットXV、第2部ソネットVIIで歌っているように、若い女性は暖かさを放出する。その暖かさは、女性の内部から外へと出てきて、数えることができないものだと言われている。第2部ソネットXIIIの第4連で論じたように、数で数えることができないとは、時間の中にはないことを意味しているのでした。この言葉の根拠になっている、リルケの普遍的な体験については、悲歌5番で論じた通りです(「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(2009815日):http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html))。数で言い表すことができない暖かさとは、いつも変わらぬ、尽きることのない暖かさという意味である。第2部ソネットXIIIを読むと、リルケは、それを自然の豊かさとの関係で考えているのです。

さて、第1連と第2連が、踊り子の時間の中での動き、過ぎ去るものを表現するその体の動きと、最後に決める旋回という垂直の樹木の実現を歌っているのに対して、第3連は、踊り子は自分自身の身を、いわば削るだけではなく、確かに果実を実らせるではないかということを歌っている。踊りの頂点の沈黙の樹木が担うものの証の果実として、壺と花瓶の名前をリルケは挙げるのです。これらは、いづれも、手の仕事の成果だと言いたいのでしょう。

手に関するリルケの独特の感覚と思想は、第1部ソネットVの第4連、第2部ソネットVIIの第1連(このソネットには娘の暖かさも出てきます)、第2部ソネットXIXの第3連に出てきます。手の仕事の成果であるKrug、クルーク、壺については、第1部ソネットVI4連、第2部ソネットVIIの第3連(ここでは娘の手もまた出てきます)、第2部ソネットXVの第4連でも繰り返し出てきます。

また、若い女性についての暖かさと踊りと果実については、第1部ソネットXVの第1連以下をご覧下さい。

2部ソネットXXIVの第1連第4行に出てくるKrug、クルーク、壺をみると、それは、都市と文明の豊かさの象徴として出てきています。ここで都市や文明が歌われているわけではありませんが、壺というと、果実であり、豊かさであることが歌われているのだと思います。それは、この女性が踊るということの結実の豊かさ、自然の豊かさです。

4連は絵画に言及しています。「独自の転回」と訳したドイツ語は、Wendung、ヴェンデゥング、即ち、第1部ソネットXIの第2連に出てきた、騎士の分岐点、分かれ目と同じ言葉です。ですから、ドイツ語の言葉の上では、今までの考察から、この別れることと変身とは繋がっているのです。第2部ソネットXIIで、

jener entwerfende Geist, welcher das Irdische meistert,
liebt in dem Schwung der Figur nichts wie den wendenden Punkt.

【散文訳】

地上的なるものを支配する、企図する精神、企画する精神は、姿の振動と跳躍の中に、転回点のような無を愛しているのだ。

と歌われていることを再び思い出しましょう。リルケは繰り返し同じ主題、同じ主調を歌っております。わたしは、これが考えるということ、思考することだと思います。思考は歳月を超える。

さて、こうして、踊ることは、幾つもの分岐を経験し、変身することだと言っている。踊り子の眉毛の動きの表現するものが、そのような変身の素描だとリルケは歌っているのです。絵画を踊りによる表現と結合した連だということができるでしょう。普通には思いもよらない接続だと思います。

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