2010年1月1日金曜日

オルフェウスへのソネット(XVII)(第2部)

XVII

Wo, in welchen immer selig bewässerten Gärten, an welchen
Bäumen, aus welchen zärtlich entblätterten Blüten-Kelchen
reifen die fremdartigen Früchte der Tröstung? Diese
köstlichen, deren du eine vielleicht in der zertretenen Wiese

deiner Armut findest. Von einem zum anderen Male
wunderst du dich über die Größe der Frucht,
über ihr Heilsein, über die Sanftheit der Schale,
und daß sie der Leichtsinn des Vogels dir nicht vorwegnahm und nicht die Eifersucht

unten des Wurms. Giebt es denn Bäume, von Engeln beflogen,
und von verborgenen langsamen Gärtnern so seltsam gezogen,
daß sie uns tragen, ohne uns zu gehören?

Haben wir niemals vermocht, wir Schatten und Schemen,
durch unser voreilig reifes und wieder welkes Benehmen
jener gelassenen Sommer Gleichmut zu stören?

【散文訳】

どこに、どのいつも祝福されて神聖に散水されている(複数の)庭園の中で、どの木々にて、どの優しく葉の落ちた花のガクの中から外へと、慰め、慰安の、異質、異様、珍しい(複数の)果実が実るのだろうか。これらの美味で見事な果実、そのひとつを、お前は

ひょっとしたら、踏み荒らされた、お前の貧しさの草原の中に見つけるのかも知れないけれども。何度でも、毎回あらたに、お前は、果実の大きさ、その偉大さについて驚き、不思議がる、果実の健康であることについて、外皮の柔らかさについて、そうして、鳥の軽率が、お前が食べようとしたときに、目の前から果実をかっさらってしまわなかったということについて、そして地下に棲む虫の嫉妬心が、

やはりそうしなかったということについて。宇宙を飛ぶ天使が達しなかった、そんな木々が存在するだろうか、そして、隠れたる、仕事のゆっくりとした庭師たちが、かくも珍しく育てたので、わたしたちに帰属することなく、わたしたちを担う木々、そんな木々が存在するだろうか。

わたしたち、影と蔭であるわたしたちは、わたしたちの性急な成熟と、また繰り返す枯れる行為によって、あの平然たる夏の無関心を妨げ、波風を立てることが、ついには一度もできなかったのだろうか。

【解釈】

宇宙のどこかに、このソネットで歌ったような庭園を思い描いている。そのような場所はあるだろう。そうして、そこに慰めの、慰安の果実が実る。

お前とは、オルフェウスのこと。いうまでもない。オルフェウスが、こころを慰める庭なのだ。そこには、天使も至り、「隠れたる、仕事のゆっくりとした庭師たち」も住んでいる。リルケは、簡単にlangsam、ラングザーム、ゆっくりとという形容詞を使っているが、このゆっくりは、時間が進んでいないように響く。時間がこの庭に存在していたとしても、時間の尺度が、わたしたち人間の世界の時間の尺度とは、大きく、違うのだ。

この庭には、オルフェウスばかりではなく、わたしたち人間も入ることをゆるされているらしい。そうして、わたしたち人間が果実に譬えられている。リルケの、果実を巡るヴィジョンについては、第1部ソネットXIIIXIVで論じた通りです。このソネットも、それらのソネットに連なるソネットです。

地下には、死者たちが棲み、そこから樹木が垂直に成長し、果実を実らせる。死者たちは、第2部ソネットXVIの第3連でみたように、神の合図によって、わたしたちという生の流れの水を飲む。

4連の「わたしたちの性急な成熟と、また繰り返す枯れる行為」とは、わたしたちの成熟のむつかしさを歌っている。いつも成熟は早く、行為は枯れてしまう。真の成熟の時間は瞬く間に過ぎている。これでは、「あの平然たる夏の無関心を妨げ」ることができないでしょう。この夏を、人生の夏ととってもよく、自然の夏ととってもよく、何かの象徴的な朱夏、盛期ととってもよいと思います。

そのような庭のあることを歌った後に、最後の連で、われわれ人間の日常的なといっていい姿を歌ったことは、連想の順序なのだと思います。自然の夏を驚かすような夏を創造してみたいものです。創造の夏を。

この、「わたしたちの性急な成熟と、また繰り返す枯れる行為」」と同じ論理、同じ発想の言葉を、リルケは悲歌9番第2連でも歌っています。これらは、何を意味しているかというと、時間というものに対するリルケの思想を表わしているのです。悲歌9番は、

Warum, wenn es angeht, also die Frist des Daseins
hinzubringen, als Lorbeer, ein wenig dunkler als alles
andere Grün, mit kleinen Wellen an jedem
Blattrand (wie eines Windes Lächeln) -: warum dann
Menschliches müssen - und, Schicksal vermeidend,
sich sehnen nach Schicksal?...

Oh, nicht, weil Glück ist,
dieser voreilige Vorteil eines nahen Verlusts.
Nicht aus Neugier, oder zur Übung des Herzens,
das auch im Lorbeer wäre.....

散文訳

何故に、もしその話しになれば、つまり、今ここにこうしてあるということ、即ち

現存在の期限に、月桂樹として堪えるということについて言えば、月桂樹は、全てのほかの青々としているものよりも少しばかり昏い色をしていて、葉っぱのどの縁(へり)(風の微笑のようだ)にもある小さな波形があって。何故に、それでは、人間的なものは―そして、運命を回避しながら、運命に、憧れなければならないのだろうか。

ああ、決して、そんな必要などないのだ、何故ならば、幸せとは、近いところにある損失の、性急なる利益、利点であるからだ。好奇心からではなく、また、月桂樹の中に存在するこころの練習のためでもなく…..

(そうして、これらの連のあとに、第3連として、第2部ソネットXIIIに、schwinden、収縮する、縮こまる、小さくなる人間との関係で引用した連が来るのです。)

「近いところにある損失の、性急なる利益、利点」とは、はっきりと時間を表に出してはいませんが、時間の順序を意識していて、後から来る(そこにもう来ている)損失と、頂点に来る前に何かを得るという意味では「性急なる利益、利点」を歌っています。

詩人たちは、いつもこの夏を歌うことのようです。水島英己さんは、詩集「今帰仁で泣く」(なきじんでなく)の詩「今帰仁で泣く」では、こう歌っている。

そのとき「もはや」ない、「いまだ」ないもう一人のおまえも泣く

今帰仁で泣く

泣いた

柿沼徹さんは、詩集「ぼんやりと白い卵」の詩「亀の音」では、こう歌っている。

爪がガラスを掻く音がつづき

なんのいわれもなく、亀の音と私は

同じ今に塗り込められている

歌い方は、ある意味では対照的ですが、問題にしていることは、時間を意識するという視点からみると、同じ主題が歌われています。

話しが少し横道にそれるようですが、どうもリルケを読んでなおそう思うことなのですが、詩人という人種は、その人間としての典型は、時間を捨象する、したいと願っている人間であると定義することができるとわたしは考えています。その最たるものは、隠喩です。隠喩には時間がありません。その論理的な説明は悲歌5番でも試みたことでした(「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html」。そうして、また、実は、隠喩の形式は命題の形式と同じです。ここに詩の面白さ、不思議があるのだと思います。

閑話休題。

わたしたちの性急な成熟と、また繰り返す枯れる行為」とは、わたしたちには成熟はないのだといっているようにも解釈することができます。しかし、夏は来る。これはどういうことだろうか。果実も成熟するのだ。果実の成熟には、わたしたちの生も大いに寄与しているのだ。いや、わたしたちの生こそ、その果実に他ならないのだ。

しかし、第4連、最後の連のリルケの文は、何か余情というべきものがあります。自然の夏に何らかの影響力を行使することはできないのだろうか。したいものだ。しかし、影であり蔭であるわたしたち人間には、それは無理なのだろうか。そうしたことがあっただろうか、あったのではないか?時間の因果の連鎖から抜け出ることができたときには。

0 件のコメント: