2009年8月14日金曜日

リルケの空間論(個別論4):悲歌5番



悲歌10篇を通して、rein、ライン、純粋なという形容詞や、純粋にという副詞の使い方をみると、リルケが、どのような思い、すなわち意義と意味をこの言葉に籠めたか、観ているかが、よくわかります。

純粋な行為をするものたちがいて、それは、死者であり、愛する者たちであり、愛する男女であり、植物であり、噴水であり、動物なのです。これらの行為は、純粋なものだといわれています。死者の場合は、悲歌1番第5 連に、愛する者たちや、愛する男女の場合は、それぞれ悲歌2番第5連と悲歌3番第1連に、植物と噴水の場合は、悲歌6番第1連に、そうして動物のうち鳥については、悲歌7番第1連に、動物と一般名称で呼ばれる動物一般については、悲歌8番第1連に、植物である花々が無心に咲く様子とともに。同じ動物を、さらに悲歌8番第2連では、動物の眺めやる空間が、純粋だといっている。また、悲歌9番第4連には、植物のリンドウの花が純粋なものとしてあげられています。悲歌9番第6連では、苦しみには純粋への浄化作用があるのでしょうか、嘆きの苦しみが、形をとることに対する決心を、純粋に行うとあります。

また、上に挙げたもの以外に、リルケは、手というものに特別の考えを抱いていて(これをここではこれ以上論じませんが、また別の機会に)、悲歌10番第8 連では、次のように歌っています。散文訳とともにかかげます。

Aber im südlichen Himmel, rein wie im Innern einer gesegneten Hand, das klar erglänzende >M<, das die Mütter bedeutet ...... –
しかし、ある祝福された手の内側、内部に存在するかのように純粋に、南の天には、はっきりと明るく輝いているMという文字があって、これは、母たちのMという意味なのだ。

さらに、春という循環する季節の一日も、ein reiner bejahender Tag、アイン・ライナー・ベヤエンダー・ターク、純粋な、肯定する一日と呼ばれています(悲歌7番第2連)。
リルケが悲歌10篇で、しばしば春という季節を歌うのは、このような文脈もあるということなのでしょう。
またそのひとの運命が、無償と奉仕の生涯であれば、それは、das reine Verhängnis、ダス・ライネ・フェアフェングニス、純粋な運命と、リルケは呼んでいます(悲歌3番第4連)。
また、順序が前後しましたが、悲歌4番第6 連には、次のような箇所があります。散文訳とともに。

Und waren doch, in unserem Alleingehn, mit Dauerndem vergnügt und standen da im Zwischenraume zwischen Welt und Spielzeug, an einer Stelle, die seit Anbeginn gegründet war für einen reinen Vorgang.
(わたしたちは)、そうはいっても、一人で道を行くことにおいては、持続するものに満足していたのだし、あそこ、すなわち世界と玩具の間の場所、つまり、最初から純粋ななり行き(または優越)のために基礎付けられた場所に、立っていたのだ。
さらに、また、悲歌8番第2連には、次のような表現があります。散文訳とともに。

Immer ist es Welt und niemals Nirgends ohne Nicht: das Reine, Unüberwachte, das man atmet und unendlich weiß und nicht begehrt.
いつも、世界ということになるのだ、そして、決して一度も、どこの場所にも、否定辞のnichtがなくしては、ひとが呼吸をし、果てしなく知っていて、そして求めるものではないその純粋なもの、見張られてはいないものは、存在しないのだ。

例示の最後にもうひとつだけ。次の用例があります。悲歌2番の最後の連に。

Fänden auch wir ein reines, verhaltenes, schmales
Menschliches, einen unseren Streifen Fruchtlands
zwischen Strom und Gestein.

もし、わたしたちが、純粋な、隠されている、狭い、人間のすまいできる土地を、流れ(流行)と巌(いわおー不易)の間に、果実のたわわになる豊かな土地の一筆でもみつけていればいいのだが(現実には、そのような場所はない)。

ここでいう場所は、時間の無い場所をいっています。不易と流行の間にある純粋な場所。
ですから、時間がないということも、純粋なという言葉には、籠められています。

さて、以上が、悲歌10篇の中にでてくるrein、ライン、純粋なという言葉のすべての使い方の例です。
最後から2番目に挙げた悲歌8番第1連の例は、そのdas Reine、ダス・ライネ、純粋なものを提示するその論理的な提示の仕方が、悲歌5番の、宇宙の中心であるどこにもない場所の中に、名状しがたき場所があらわれるという表現のしかたに、よく似ていることにご注意ください。これがリルケの持つ論理のひとつなのだと思います。純粋なるものは、そのような否定辞なくしては、否定的にいわなければ、表現し得ないのです。否定しても否定しても、残っている、否定できない、過剰な、残余の純粋なるものの存在。
このように考えてくると、何故リルケが、過少と過大という言葉を選択したかがわかるのではないでしょうか。それは、いづれにせよ、余っている、過剰であるものたちなのです。バランスの中心、宇宙の中心から眺めれば。
わたしは、詩、die Posie、ポエジーとは、ここにあり、ここから生まれてくると考えていますが、いかがなものでしょうか。感情、感覚としては、そうしてみると、余っているという感情、感覚ということになるでしょう。それでもなお余るもの。
閑話休題。さて、上の列挙したこれらの例をみると、リルケは、ひとことでいうと、時間に左右されない、つまり時間がたっても変わらない、無償の行為、対価を求めない行為を純粋であると考えていることがわかります。これは、人類学の用語で、聞き覚えたところによれば、絶対贈与といってもよいかも知れません。それは、上に挙げた例のなかの、それぞれの文脈においては、無目的のという意味も含んでいますし、(性的な行為も含めて)行為それ自体の行為という解釈にもなりますし、もっと強く言えば、遊び、遊戯の行為のことを、そのように形容したのだということができます。しかし、遊びといっても、リルケのrein、ラインの使い方は、もっと倫理的な色彩が濃いと思いますので、この方向で極端に解釈することはいましめなければなりません。
おもしろいことは、上に挙げた例のうち、噴水の管の中を水が循環して高くあがるように、草や木の内部の液体が高く上がる例のところで、リルケは、その汁液、樹液が、眠りの中から直接外へでてきて(リルケの好きな前置詞、aus、アウスが使われています)飛び出すと歌われていることです。純粋なこのような行為は、眠りの中にあるのだ、そこから出てくるのだ、出てきても、ほとんど目覚めない、眠ったままなのだということが歌われているのです。
わたしたちは、後で、リルケの墓碑銘の詩の中に、同じ思想をみることができるでしょう。すなわち、宇宙の中心には薔薇が咲いており、それは眠りの中にあるという表象です。なんだか、一挙に空間論の結論に行ってしまったようですが、まだリルケの薔薇がどのような姿をしているのかについては、論じておりません。これは、もっと後の楽しみとしたいと思います。
あともうひとつ付け加えると、rein、ラインという言葉を使うときには、どうもリルケの念頭には、静寂と死という言葉が縁語のように周囲にあるということなのです。眠りという言葉も、その縁語のひとつではないかと思います。

さて、これまで、rein、ライン、純粋なという形容詞または副詞について考察してきたことをもとにして、最初の問題、すなわち、das reine Zuwenig、ダス・ライネ・ツーヴェーニッヒ、純粋の過少とは何かという話に戻りましょう。

純粋な過少とは、そうすると、無償の過少、対価を要求しない過少、掛け値なしの、自らを失って悔いない過少、そのようなものとしての過剰な少なさということになります。
そうして、わたしは、それは、リルケの悲歌5番の歌い方からいって、自然数でいうならば、2という数だといいました。最小、2という数なのだと思います。秤を想像してください。秤のバランスの中心からみたら、それは過少というならば、過多を前提に、ふたつ均衡している過少ということができます。

そうして、このふたつのものは、時間とは無関係に、無償を、また無償に与える存在として、そこにあるのです。

こうして考えてみると、リルケの思想は、悲歌1番の最後の連にあるように、自分自身の死を以って、何かより高次の尊きものへと報われようとするその強い願いが、悲歌5番にも鳴り響いていることがわかります。

さて、こうして、ここに至った結論をもとにして、もう一度リルケの言葉に耳を傾けることにしましょう。再掲します。

wo sich das reine Zuwenig unbegreiflich verwandelt -, umspringt in jenes leere Zuviel
. Wo die vielstellige Rechnungzahlenlos aufgeht.

そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。

ここでリルケは、次の2つのことを言っています。

1.ここでは、純粋な過少が、あの空虚な過多に、急激に変化する、転ずる。
2. ここでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に、行われる。
そうです、ふたつあることによって、それらふたつのこと、すなわち純粋な過少から、あの空虚な過多に、急激に変化する。

一体リルケは、何をいっているのでしょうか。次回、「リルケの空間論(一般論)」(2009718日)に戻って、考えることにしましょう。

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