2010年1月8日金曜日

オルフェウスへのソネット(XXIX)(第2部)

XXIX

Stiller Freund der vielen Fernen, fühle,
wie dein Atem noch den Raum vermehrt.
Im Gebälk der finsteren Glockenstühle
laß dich läuten. Das, was an dir zehrt,

wird ein Starkes über dieser Nahrung.
Geh in der Verwandlung aus und ein.
Was ist deine leidendste Erfahrung?
Ist dir Trinken bitter, werde Wein.

Sei in dieser Nacht aus Übermaß
Zauberkraft am Kreuzweg Deiner Sinne,
ihrer seltsamen Begegnung Sinn.

Und wenn dich das Irdische vergaß,
zu der stillen Erde sag: Ich rinne.
Zu dem raschen Wasser sprich: Ich bin.

【散文訳】
たくさんの距離、たくさんの遠さの静かな友よ、
どのようにお前の呼吸がまだ空間を増大させるかを感じよ。
昏い鐘楼の釣り下がっている台座の梁の中で
お前を鳴り響かせよ。お前を貪(むさぼ)るものは

この養いによって、一個の強きものになる。
変身の中を、出入りせよ。
お前の最も苦しい経験は何だ?
酒を飲むことが苦(にが)いのであれば、お前が酒になりなさい。

この夜の中で、過剰の中から外へと
お前の五感の感覚の交差路に、魔法の力があれよかし、
魔法の力の稀なる遭遇の感覚よ。

そうして、もし地上的なものがお前を忘れたならば
静かな大地に向かって言え。わたしは、迸(ほとばし)り、流れている。
急激に流れる水に向かって話せ。わたしは存在している。

【解釈】
これが、ソネットの全篇を通じて、最後のソネットです。

棹尾を飾るにふさわしく、やはり、オルフェウスが歌われている。このソネットは、今まで歌われた54篇のソネットの集大成です。既に思弁的なソネットをあとにしているので、リルケの言葉も、言葉の、語彙の上では、易しく、優しい。

第1連の冒頭、「たくさんの距離、たくさんの遠さの静かな友」とは、オルフェウスのことを言っている。距離、遠さとは、リルケが歌ってきた、真の意思疎通に必要なも距離、遠さです。第1部ソネットIIの眠れる娘が、世界を眠り、その純粋な距離をわがものとしておりました。第1部ソネットXIIでは、近代技術のアンテナの距離ではなく、音楽が純粋な距離を現出せしめるのでした。第1部ソネットXXIIIでは、飛行機がその孤独の空の果てに飛んでいって、距離に近しいものとなるのでした。第2部ソネットXIIでは、変身を欲しないものには、距離の中から、最も厳しいものが、厳しいものを呼んできて、いわば不在の鉄槌を下すのでした。オルフェウスは、そのような意味をもつ距離の中にいて変身を重ね続ける神的な若者です。

神的な美しい若者が我が身を犠牲にし、青春のときにs死ぬことによって、新しい生命、新しい世界が躍動するという主題は、最晩年のリルケの悲歌と、このオルフェウスへのソネットの大きな、また典型的な主題です。

静かな友という、その静かなとは、このように死にも親しいという意味が入っていると思います。リルケは、この言葉もあちこちで多用しておりました。その言葉の意味に、わたしたちの理解は従いたいと思います。このソネットの第4連で、静かな大地と言われていますので、それは、静かなということは、豊穣であるということも意味しています。自然の豊かさについては、やはり今まで読んできた複数のソネットで歌われていた通りです。今、ひとつひとつを挙げることをいたしません。

さて、やはり、オルフェウスの呼吸は、空間を増大させ、増加させる。これは、オルフェウスの獲得する純粋な空間を前提に歌われていることです。オルフェウスは純粋な空間を歌い上げることができる。それは、どのようにできるのかというのが、第1連の鐘の音を鳴り響かせよという一行です。それは、第2部ソネットXXIIで歌われていたように、鐘楼の鐘の音とは、日常に抗して、毎日垂直方向に樹木のようにそそり立つものなのでした。

このようなオルフェウスの変身の人生は、無私の、我が身を捨てての苦行でありますが、第2連では、そのお前を食い尽くすものが、お前を滋養にして、強いものになるのだと歌われています。だから、変身の中で、出入りをしなさい。苦しいことがあったら、苦(にが)い酒を飲むのではなく、お前が酒に変身しなさいと歌っている。このお酒(葡萄酒)についての一行は、全篇のソネットを通じて、第2部ソネットXXに出てくる魚の行と一緒に、わたしの好きな一行です。わたしも苦しければ、葡萄酒、酒に変身しよう。これはわたしの本懐であります。

さて、そうして、やはり過剰ということが、第3連で歌われる。第1部ソネットXIVの死者たちの眠る地下の根の世界で、死者たちはその過剰をわたしたち人間に恵んでくれるのでした。また、第2部ソネットXXIIの冒頭で、運命に抗して、わたしたちが今こうしてここにあることの素晴らしい、herrlich、ヘルリッヒな過剰を歌っておりました。その同じ過剰が、この最後のソネットのこの連でも歌われております。昼にではなく、夜に、過剰の中から(これをわたしたちのそのような現存在の過剰から生まれる過剰だということを否定する言葉は、このソネットにはありません。あるいは、どのようなものに由来する過剰を考えてもよいと思います)、魔法の力が生まれてくる。それも、交差路、十字路に生まれてくる。「お前の五感の交差路」とは、第1部ソネットIIIの第2連で歌われているものと同じだと思います。普通のわたしたち人間は、そのような場所では、こころも感覚もふたつに引き裂かれるが、オルフェウスと、そのような努力をして能力を獲得したものは、その場所でひとつの存在としていることができる。そのような存在として、歌われているのは、第1部ソネットIVの第1連の風であり、小さく吐く息であり、そうであれば、空間なのでありました。それゆえ、「魔法の力の稀なる遭遇の感覚」と歌われているのでしょう。ふたつに分かれたものが、ひとつになることが稀だといっているのです。そうであれば、わたしたちは、また、第1部ソネットXIのふたりの、そうしてふたりで、孤独な旅をする騎士たちを思い出すことにいたしましょう。

そうして、最後の連では、お前、オルフェウスを最もよく知っている筈の大地がお前を忘れることがあれば、静かな豊かな大地に向かって、わたしは流れているといえ、激しく流れている水に向かっては、わたしは変わらずに留まっている、即ち存在しているといえと、そう歌って、最後に話者はオルフェウスに命じているのです。

激しく水のように流れ、変身をひとに知られず重ねること、そうして変わらずに存在していること、これがオルフェウスの姿、Figur、フィグーアなのでありました。そのentity、実在、存在を、わたしたち過ぎ行く人間は、認識し、この「友の健康な祝祭のために」(第2部ソネットXXVIIIの第4連)褒め称え、荘厳しようではありませんか。

2010年1月7日木曜日

オルフェウスへのソネット(XXVIII)(第2部)

XXVIII

O KOMM und geh. Du, fast noch Kind, ergänze
für einen Augenblick die Tanzfigur
zum reinen Sternbild einer jener Tänze,
darin wir die dumpf ordnende Natur

vergänglich übertreffen. Denn sie regte
sich völlig hörend nur, da Orpheus sang.
Du warst noch die von damals her Bewegte
und leicht befremdet, wenn ein Baum sich lang

besann, mit dir nach dem Gehör zu gehn.
Du wußtest noch die Stelle, wo die Leier
sich tönend hob —; die unerhörte Mitte.

Für sie versuchtest du die schönen Schritte
und hofftest, einmal zu der heilen Feier
des Freundes Gang und Antlitz hinzudrehn.

【散文訳】
ああ、来い、そして去れ。お前、ほとんど子供であるお前よ、
一瞬、踊りの姿を補って、それを、あの踊りという踊りのうちのひとつの
純粋な星座となせ、その中で、わたしたちは、鈍く、重苦しく秩序立てる自然を、

過ぎ行きながら、超えるのだ。何故ならば、自然は、オルフェウスが
歌ったならば、全く耳傾けながら、活発に、盛んになるばかりなのであったから。
お前は、まだ、その当時から感動して、動かされた者であったし、
そして、一本の樹木が、

お前と一緒に聴覚の方へ行こうと、長い間思っていたときにはいつでも、
一寸違っていた、奇異に思われた。お前は、竪琴が音高く鳴り響いていた場所を、まだ
覚えていた。― 聞きとることのできない真ん中を。

この真ん中のために、お前は、美しい足どり、美しい歩調を試みたし、
そして、男の友人、即ちオルフェウスの健康な祝祭のために、一度は、
歩行と顔(かんばせ)を、そちらへと向けることを願ったのだ。


【解釈】
リルケの自註によれば、このソネットは、Wera、亡くなった友人の娘に宛てられている。
第1連冒頭の「来い、そして去れ」とは、オルフェウスに倣って、留まることなく、変身を続けよというこころだ。(この命令形は、次の、最後のソネットXXIXの第2連の「変身の内と外を出入りせよ」という命令形にまで響いている。)第2部ソネットXVIIIでは踊り子を歌っていたが、踊ることの究極の姿は、一本の樹木のように垂直に立つことなのであった。そのような本質的な踊りのできるお前ならば、「踊りの姿」に力を貸して、その姿を踊りの星座にすることができると歌っている。

この「踊りの姿」の姿については、既に何度か述べてきたところです。第1部ソネットXIでは、騎士の星座が歌われていました。また、その次の同じ部のソネットXIIでも、精神との関係でFigur、フィグーア、姿を歌っています。それから、第2部ソネットXIIで歌われている、生命が蘇生をするときの姿、いや姿が、schwingen、シュヴィンゲンする、躍動することによって、精神が創造する宇宙が歌われていた。さて、これらの姿は、何故そのように歌われているのでしょうか。姿とは何でしょうか。

それは、騎士の星座であれ、この踊りの星座であれ、星座というものは、精神が点と線を結んでできる、時間によって変化しないentity、実在、存在であることを、ここでも言っているからです。この星座というentity、実在、存在をいうときには、リルケはまた同時に空間を思っているのです。それは、第2部ソネットXIIで、やはり精神が星座を認識する能力によって、そうしてそう認識することと関係して、「認識すること」がそうであったように、他のソネットでも、何々することとリルケが書いたときには、それは、空間を意味しているのでした。Entityは、精神が認識し、認識された対象、空間です。従い、このソネットの第3連でも、場所、即ち空間が歌われています。

しかも、この第1連第3行の踊りの星座は、「純粋な星座」と歌われているので、既に今まで述べてきたように、rein、ライン、純粋なという言葉をリルケが使うときには、時間を捨象しているという意味ですから、この星座は時間と無縁の空間、entity、存在を意味しています。そうして、これらの言葉の使い方は、その概念から言っても、その組合せから言っても、正しいのです。リルケは言葉の人であり、詩人であります。一語も狂うことがありません。

さて、第1連第1行の「ほとんど子供である者」、そのような子供とは一体なにを行っているのでしょうか。わたしたちは、第1部ソネットIIで同じ表現をみています。それは、

UND fast ein Mädchen wars und ging hervor
aus diesem einigen Glück von Sang und Leier
und glänzte klar durch ihre Frühlingsschleier
und machte sich ein Bett in meinem Ohr.

【散文訳】
そして、それは、ほとんど娘である者であった、そして、
歌と竪琴のこの幾つかの幸福の中から姿をあらわして、
歌と竪琴の春のヴェールを通じて、清澄に輝いたし、
そして、自らのために、わたしの耳の中で、寝床をしつらえた。

この娘は、世界中を眠らせ、世界を眠っているのであるが、そのような、死を超えて目覚めることのない娘だ。この娘は、何なのだろうか。

最初に読んだときには、はっきりとはわからなかったが、ソネットもここまで読むと、リルケが「ほとんど」であるといっている子供や娘、そのような人間がどのような人間かは、はっきりとしている。

「ほとんど子供」とは、いってしまえば「子供であって子供でない者」という意味である。第1部ソネットIIの「ほとんど娘」である娘は、娘であって娘ではない者である。それは、大人であって子供のこころを失わない、大人であって乙女のこころを失わない人間のことをいっているのだ。そのような大人であるとは、このソネット全篇を通じてリルケが歌っているように、空間、もの、人間、宇宙、変身、態度、こころ、孤独、死と生、循環、二重性、自由、意識と無意識等々とその規則、即ち法則を知悉し、慣れ親しんで我がものとしている人間、ひとことで言えば、純粋な空間を願い、知っている人間のことです。

さて、そのような純粋な星座、純粋な空間の中で、わたしたち「過ぎ行きながら」生きている人間は、自然を超えることができると歌っています。自然は、鈍重に、重苦しく秩序立てますが、これはオルフェウスが秩序立てるのとは違って対比的に考えることができると思います。オルフェウスが、絶対絶命の場所から叫び声をあげつづけるわたしたち人間に対して、どのようにその叫びを秩序立ててくれるのかは、既に第2部XXVIでみた通りです。

確かに、純粋な星座、即ち純粋な空間の中では、わたしたちは、過ぎ行くものといえども、そのまま、自然を超越することができるでしょう。それは、ここまでの第1連の解釈でも予感され、理解されることです。

そして、なぜ、それができるのかを歌ったのが、第2連です。なぜならば、オルフェウスが歌うと、それだけで、その場合のみ、自然はそれをすべて聞きながら、盛んになったからです。「鈍く、重苦しく秩序立てる自然」が、そうではなくなったと言っている。これは、何を言っているのでしょうか。それは、第2部ソネットXIIIで、

Zu dem gebrauchten sowohl, wie zum dumpfen und stummen
Vorrat der vollen Natur, den unsäglichen Summen,
zähle dich jubelnd hinzu und vernichte die Zahl.

【散文訳】
一杯の自然の、使用されたまた鈍く黙した貯蔵に、即ち言葉で言い表すことのできぬ合計に、お前自身を歓喜を以って付け加えて勘定し、そして数を破壊しなさい。

と歌っているように、数を破壊して、自然の貯蔵された富の中へと自らを加えることができるということを言っているのだと思います。そうすることによって、過ぎ行く者、影であるわたしたちは、存在の一部となることができる。そこでみた空間には、宇宙の中心が現れる。これが、どのような経験であり、どのような場所であるかは、リルケは悲歌5番において歌っていて、これについては、このソネットの中でも度々言及してきたことです。これについては、「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(2009年8月15日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)をご覧ください。

さて、この空間のことから、第3連では、やはり、場所とういことが出てきます。そうして、その場所は、「竪琴が音高く鳴り響いていた場所」であり、それは、「聞きとることのできない真ん中」、宇宙の中心だといっています。この順序は、リルケの歌うべき順序なのです。この「聞きとることのできない真ん中」を、悲歌5番の最後の連でも、また第2部ソネットXXIの第4連でも、Teppich、テピッヒ、絨毯と呼ばれておりました。これは、宇宙の活動のバランスの中心が現出する場所です。

このふたつの例で、絨毯という言葉が、その詩篇の最後に出てくるということは、この言葉をいうことで、リルケの気持ちとしては、それまで言ってきたところのものを、またすべて言いたいことを、この言葉で言いおおせているということを示しているのではないかと思います。

この宇宙の中心のために、お前と呼ばれる踊り子は踊った。ここまでの踊り子の行為がみな過去形であるのは、このソネットを献じたWeraという若い娘が既に死者であるからだと思います。

最後に、「男の友人」と呼ばれているのは、勿論オルフェウスです。その健康な祝祭のために、踊り子は踊る。オルフェウスとは文字の上では出ていませんが、訳では、それを表に出しました。そうしてみると、第4連の、

オルフェウスの健康な祝祭のために、一度は、
歩行と顔(かんばせ)を、そちらへと向けることを願ったのだ。

とは、第1連に戻って、踊りの星座という純粋な空間の中、絨毯の上に、宇宙のバランスの中心を現出せしめる試みと願いを歌っているのです。踊りをオルフェウスの祝祭に捧げることによって。この「ほとんど子供」である娘が、どれ位オルフェウスに親しいか、その踊りを踊る高さを持っているかは、第3連から第4連に歌われている通りです。

2010年1月6日水曜日

オルフェウスへのソネット(XXVII)(第2部)

XXVII

GIEBT es wirklich die Zeit, die zerstörende?
Wann, auf dem ruhenden Berg, zerbricht sie die Burg?
Dieses Herz, das unendlich den Göttern gehörende,
wann vergewaltigts der Demiurg?

Sind wir wirklich so ängstlich Zerbrechliche,
wie das Schicksal uns wahr machen will?
Ist die Kindheit, die tiefe, versprechliche,
in den Wurzeln — später — still?

Ach, das Gespenst des Vergänglichen,
durch den arglos Empfänglichen
geht es, als war es ein Rauch.

Als die, die wir sind, als die Treibenden,
gelten wir doch bei bleibenden
Kräften als göttlicher Brauch.

【散文訳】
本当に、時間は存在するのだろうか、この破壊するものは。
いつ、静かに憩う山の上で、時間は城を破壊するのだろうか?
このこころ、果てしなく神々に帰属しているものを
いつ、デミウルクは、暴力を以って我が物とするのだろうか?

わたしたちは、本当に、かくも心配で不安でいる壊れやすいものたちなのだろうか?
運命がわたしたちを、そうだ、それが本当だ、真実だとしたいように。
子供時代は、この深い、約束された、約束することの豊かな、
根っこの中にある子供時代は―後になってその威力を発揮するのではないか?―静かに、静かなままで、そうではないのか?

ああ、過ぎ行くものの亡霊が、
悪意無く、無邪気に受け容れる者を通じて、
恰も煙の如くに行く。

わたしたちは、急ぎ、駆り行くものたちであるわたしたちは、
留まる諸力のもとで、神々しい、神の慣例、風習、必要として通用しているのだ。


【解釈】
このソネットの主題は、時間です。そうして、時間と人間であり、そのふたつの間の関係です。

最初の一行の問いは、いい。これが、ずっと、このソネット全篇を通じて、リルケが発したかった問いである。この問いを発するために、これまで56のソネットを書いてきたのだ。

時間は本当に存在するのだろうか?この破壊する時間という奴は。
ドイツに行きますと、山々の上に城がある。Burg、ブルクと呼ばれる城があります。そのような、高いところにある、余人の行かぬ城をも、時間は破壊するのだろう、そうしてそれはいつなのだ。そのとき、その瞬間はいつなのだと話者は問うています。そんなことがあるのだろうか。

城を問うたのは、やはり、今までのソネットの中に、中世的なものが歌われていたからだと思います。特に印象深いのは、第1部ソネットXIに歌われるふたりの騎士たちです。それから、第2部XIの騎士の、死の罠を仕掛けて動物を殺すことをも正当化する者と激しく戦う、騎士の従者。それ以外に、言葉の上で、直接その者の名前を呼ばず、異名で呼ぶ、リルケの心性。このことに関係していますが、概念を生きたもののごとくに、擬人法ではなく、それそのものとして感じ、呼び、歌う、リルケの心性。第2部ソネットXXIVの第4連で、Tod、トート、死を、死ではなく、死神と訳したくなるような、そうしてわたしはそう訳しましたが、そのような感性と感覚。同じものは、第1部ソネットVIIIの妖精の名前が、Klage、クラーゲ、嘆きというところにも明瞭に現れておりました。嘆きという名前は擬人法による名前ではない。これは、このまま、悲歌の感性と心性でもあります。リルケからみれば、擬人法は堕落です。と、そういいたい。そのように思われます。それから、泉というモチーフ、主題、素材。

さて、しかし、そのような中世的な、時間を越えて存在する世界を破壊するかと問うに足るような時間であっても、それは本当に存在するのだろうか。仮りにそうだとしよう、そうだとして、破壊されないものがあるのだ、それが、こころだとリルケは歌っている。

それは、神々に帰属しているものだからだ。第2部ソネットXXIV第3連では、神々は、不死のものたちと呼ばれています。それゆえ、プラトンが世界の創造者と考えて、そう呼んだデミウルゴスも、暴力を以ってしては我が物とすることも、破壊することもできないのだ。そのような瞬間があるとは思われない。それが、こころだといっている。

これが第1連です。第2連では、

運命がそう信じ込ませようとしているように、わたしたちは壊れやすい存在なのだろうかと問うて始まります。しかし、そうではない、わたしたちには、子供時代という時期がある。それは、深く、約束されることの多い、樹木の根の、この生の根、純粋な生の根の中に眠る、死に脈絡する純粋な空間の時代があって、それが大きくなったら、威力を発揮する、それも騒がしくなく、静かに。

第3連。

ああ、過ぎ行くものの亡霊が、
悪意無く、無邪気に受け容れる者を通じて、
恰も煙の如くに行く。

この「悪意無く、無邪気に受け容れる者」とは、オルフェウスです。「過ぎ行くものの亡霊」とは時間です。時間は、「恰も煙の如くに行く」。

この第3連で、リルケが時間をどのように考えて来たかは、明瞭だと思います。

しかし、わたしたち人間は、「急ぎ、駆り行くものたちである。」しかし、そうではあるが、そのようなものとして、流れる川として(第1部ソネットVIIIの第1連。第2部ソネットの第4連)、神々に仕えるものとして、不易の、留まる諸力のもとに、意義あるもの、意味あるもの、価値あるものとして通用しているのだ。

こうして、この詩を読んでも、第1連で、城というBurg、ブルクと、プラトンの考えた創造主、Demiurg、デミウルクが、脚韻を踏んでいるなどというのは、読んでいて楽しい。どのソネットでも脚韻を踏んでいることはひとことも、今まで言いませんでしたが、これはソネット全篇を読んでいて、詩を読む楽しさ、よろこびを覚える、何か詩というものの本質に通じる感動なのだと思います。韻律こそは、詩の命なのだといいたくなります。韻律と意味の斉合性によって生まれる世界です。

「留まる諸力」、不易の諸力とは、こうして第2部ソネットXXVIIまで来てみると、空間を成立させ、存在せしめている諸力なのだと思います。そうして、その空間の交換を成り立たしめている。第1部ソネットXIIの第3連では「諸力の音楽」として歌われた、それは純粋な距離を現出せしめる。第1部ソネットXVIの第2連では、われわれ人間が日々部分の仕事をなしても、それを全体にならしめる、死者の持つ諸力。第2部Xの第3連では、その前に跪(ひざまづ)き、驚くべき諸力。そのような力として歌われて来た力です。

そうして、そのような諸力に拠るわたしたちの普通の淡々とした生活は、立派なものだといっているのです。立派なものだというわたしのこの解釈は、余りに通俗に響くかも知れませんが。しかし、そこには、確かに不易があるのです。「悪意無く、無邪気に受け容れる者」の故に。その者は、日々、生活の中で、わたしたちひとりひとりでありたい。

2010年1月4日月曜日

オルフェウスへのソネット(XXVI)(第2部)

XXVI

WIE ergreift uns der Vogelschrei...
Irgend ein einmal erschaffenes Schreien.
Aber die Kinder schon, spielend im Freien,
schreien an wirklichen Schreien vorbei.

Schreien den Zufall. In Zwischenräume
dieses, des Weltraums, (in welchen der heile
Vogelschrei eingeht, wie Menschen in Träume —)
treiben sie ihre, des Kreischens, Keile.

Wehe, wo sind wir? Immer noch freier,
wie die losgerissenen Drachen
jagen wir halbhoch, mit Rändern von Lachen,

windig zerfetzten. — Ordne die Schreier,
singender Gott! daß sie rauschend erwachen,
tragend als Strömung das Haupt und die Leier.

【散文訳】
鳥の叫び声がどのようにわたしたちを捕まえることだろうか、
そのように、嘗て創造された叫び声が。
しかし、子供たちは既に、野外で遊びながら、実際の叫び声のそばを
叫びながら走り過ぎて行く。

偶然を叫ぶこと。この、世界空間の数多くの中間空間の中へと
(健康な鳥の叫び声がその世界空間の中へと入る。人間たちが数多くの
夢の中へと入るように―)、子供たちは、自分たちの、金属的な鋭い叫び声の
楔を打っている。

悲しいかな、わたしたちはどこにいるのだ?もっと自由に、
頚城(くびき)を脱して解き放たれた龍たちのように、
わたしたちは、少し高いところを、笑いの複数の縁(へり)を以って、

風に吹かれて散りぢりになって、狩をしている―叫ぶものを秩序だてよ、
歌う神よ、そうして、叫ぶものたちが、ざわめく音をたてながら覚醒し、流れとなって
首(こうべ)と竪琴を担うように。



【解釈】

このソネットにある明瞭な主題のひとつは、叫びです。

叫び声といえば、悲歌1番第1連に、

Wer, wenn ich schriee, hörte mich denn aus der Engel
Ordnungen?

【散文訳】
もしわたしが叫ぶとして、一体天使の序列の階層の中から外へと誰が、どの天使がわたしの叫び声を聞いてくれることだろうか?(そんな天使は現実にはいる筈がない。)

この一人称であるわたしの叫び声は、この悲歌1番を通じてみると、天使という高次元の存在に触れて、自分自身が殺されることへの恐怖心、死への恐怖心に発するものでした。そうして、わたしの死が単なる死に終わって、それは無、なにもならない無なのではないかという思いに対する恐怖心でありました。

また、悲歌7番第1連に、

Werbung nicht mehr, nicht Werbung, entwachsene Stimme,
sei deines Schreies Natur; zwar schrieest du rein wie der Vogel,

【散文訳】
もはや求めるのではない、求めるのではないのだ、逃れて成長した(または成長を免れた)声よ、お前の叫び声の自然であれかし。なるほど、お前は鳥のように純粋に叫ぶけれども、

また、悲歌10番第5連には、

und manchmal schreckt ein Vogel und zieht, flach ihnen fliegend durchs Aufschaun, weithin das schriftliche Bild seines vereinsamten Schreis

【散文訳】
そして、しばしば一羽の鳥が驚かし、彼らの見上げる中を通って低くまっすぐに飛んで行き、遥か向こうに、鳥の孤独な叫びの文字の像が。


また、第1部ソネットXXVの第1連には、

Dich aber will ich nun, Dich, die ich kannte
wie eine Blume, von der ich den Namen nicht weiß,
noch ein Mal erinnern und ihnen zeigen, Entwandte,
schöne Gespielin des unüberwindlichen Schrei's.

【散文訳】
お前に、しかし、わたしは、今こうして、お前に、わたしが知った、名前を知らない花のようなお前に、もう一度だけ、思い出させて、そうして、彼らに示してやりたい、盗まれた者、克服できない、克服とは無関係の(克服できない、それ以上のものはない)叫びの美しい遊び友達よ。

また、第1部ソネットIで、森の動物たちが、叫びには、

sondern aus Hören. Brüllen, Schrei, Geröhr
schien klein in ihren Herzen. Und wo eben
kaum eine Hütte war, dies zu empfangen,

【散文訳】
そうではなく、聞くというこころから、そのように静かであったということなのである。唸ったり、叫んだり、咆哮したりすることは、その動物たちのこころの中では、小さいことに思われた。そうして、これ(このような状態)を受け容れてくれるまさにほとんどひとつの小屋もなかったところに、
それから、第1部ソネットXXVIでは、オルフェウスを殺すものたちの叫び声が響いている。
これらが、悲歌とソネットに出てくる叫びのすべてです。

リルケは叫ぶということ、叫び声というものに、それぞれの場合に応じて、上に挙げてみるような幾つもの意味を持たせています。人間の場合には、悲歌1番の叫びがその最たるものだと思います。

鳥の場合には、悲歌7番第1連に「お前は鳥のように純粋に叫ぶけれども」とあるように、鳥の叫びは純粋だといわれています。リルケは動物に純粋な空間を見ることのできる能力を見ていますが、鳥も動物ですから、同じ能力を持っているのだと考えることがひとつ。もうひとつは、孤独という観点からいうと、鳥は編隊を組んでいつも意思疎通を互いに図り、風が分かれても一つになるように(第1部ソネットIVの第1連)、孤独ではない存在として歌われています。これは、悲歌の中にそう歌われていたと記憶しているのですが、残念ですが、今そこを見つけることができません。しかし、この意味においても、鳥は純粋だといわれているのです。

さて、そのような鳥の叫び声はわたしたち人間を捉えます。それが第1連冒頭の一行です。あるいは、そのような捉え方をする叫び声がある。それは、何か一度創造された叫び声である。

しかし子供たちはそうではない。自然の中で、野外で、自由の中に(ドイツ語では、この後者ふたつは同じ表現です)、遊びながら、遊戯をしながら、「実際の叫び声のそばを
叫びながら走り過ぎて行く。」リルケが子供の時代をどんなに大切にしたかは、悲歌を論じるときに重要な意味を持っていましたから、「天使と死者を語る前に」(2009年6月21日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/06/blog-post_21.html)で論じたところです。ご興味のある方は、このときのブログをご覧戴けるとうれしく思います。

さて、そうして、第2連にある通り、子供たちが遊ぶことには、目的がありませんから、子供たちは偶然を叫ぶことになる。それも、「世界空間の数多くの中間空間の中へと」叫ぶことによって、「自分たちの、金属的な鋭い叫び声の楔を打っている。」これは一体何をいっているのでしょうか。

中間空間とは、第2部ソネットIIIにも出てきて、

SPIEGEL noch nie hat man wissend beschriebe
was ihr in euerem Wesen seid.
Ihr, wie mit lauter Löchern von Sieben
erfüllten Zwischenräume der Zeit.

【散文訳】,
鏡を、今だ嘗て、お前たちが、お前たちの本質の中に何があるのかを知って、ひとは叙述したことはない。お前たち、篩(ふるい)のただ穴だけで満たされているように、満たされている時間の中間空間(時間と時間の狭間の空間)よ。
と歌われています。

これをみると、リルケは時間との関係で、時間に無関係に存在する空間で、時間の外にではなく、時間の流れの中にある空間を中間空間と言っていることがわかります。
また、悲歌4番第3連には、

Und waren doch, in unserem Alleingehn,
mit Dauerndem vergnügt und standen da
im Zwischenraume zwischen Welt und Spielzeug,
an einer Stelle, die seit Anbeginn
gegründet war für einen reinen Vorgang.

【散文訳】
(わたしたちは)、しかし、わたしたちのひとりで行くことの中で、
持続するものに満足していたし、そして、世界と玩具の間にある
中間空間の中に立っていたのだ。その中間空間の中、即ち、ある場所、
最初から、ひとつの純粋な出来事のために基礎をおかれ、建てられた場所に、わたしたちは立っていたのだ。

悲歌4番のここは、その前に子供の観劇する人形芝居のことが歌われていて、やはり、子供と遊び、子供と遊戯について言われているところなのですが、その脈絡の中で、この連が歌われているのです。子供の時代には、わたしたちは、中間空間にいたということを歌っている。それは、世界と玩具の間にある中間空間です。この空間は、やはり「純粋な出来事のために」基礎付けられているので、rein、ライン、純粋にという言葉のリルケの使用については何度も述べてきましたが、時間がないという意味ですから、この空間も時間とは無縁の空間ということが前提になっています。

子供たちは、確かに時間の中で遊ぶのだが、それは世界と玩具の中間空間で遊ぶのであり、そこには純粋な空間が出現しているのだとリルケはいっているのだと思います。

子供たちは、そのような中間空間に入ってゆく。また健康な(純粋な時間の無い空間を目の前に持ち、他の仲間と意思疎通が行って一体となることのできる鳥は健康なのだ)、その鳥の叫び声は、やはり、そのような時間を欠いた中間空間の中に入って行く。人間の場合には、大人の人間ということだと思いますが、夢の中に入ってゆくことがそれに当たるのだとリルケは言っています。夢の中には時間が存在しない。リルケはそのように考えている。確かに因果律、時間の連鎖は、そこにはありません。それは、わたしたちの経験からもいえることだと思います。

さて、従い、「子供たちは、自分たちの、金属的な鋭い叫び声の楔を打っている。」の「楔を打っている」とは、時間の流れの中にあって、中間空間を現出せしめている子供のいわば純真な、遊ぶという行為を言っているのでしょう。それは、時間の流れを帳消しにする。うまい言い方が、なかなかできませんけれども。

さて、それでは、大人であるわたしたちは、一体どこにいるのだろうと問うのが、第3連です。自らの意志で頚城(くびき)を脱した龍たちに、わたしたちを譬えています。そうして宙を飛んでいる。それも、halbhoch、ハルプホーホ、少しだけ宙に浮いている。また、風に煽(あお)られてばらばらになった雲の切片のように、いや龍のように。しかし、わたしたちは、笑いの縁(へり)を笑っているのです。

リルケは、よくこのRand、ラント、縁という言葉を用います。中心ではなく、周縁、縁(へり)なのです。笑いにも縁がある。第2部ソネットXIの第2連に出てくる、騎士の従者の戦いも縁で戦われ、そこには、かろうじて踏みこたえるという意味を読み取ることができましたから、ここでもそのように解釈することはできると思います。さて、そのような、いづれにせよ、笑いを以って、わたしたちは狩りをしている。

その狩りがどのようなものか、それに対して、明朗な精神がどのような態度をとるかは、第2部ソネットXIにおいて、考察した通りです。

平俗にいってしまえば、殺し殺される世界に生きているわたしたち。そうしてみると、第4連で叫んでいるのは、大人であるわたしたちのことなのだ。話者は、オルフェウスに向かって、その叫んでいるわたしたちを秩序立てよと命じている、お願いをしている。それは、わたしたちが、ざわめいているとはいへ、殺されたオルフェウスの首(こうべ)と竪琴を流れとして担いながら、目覚めているためなのだ。

このわたしたちの叫びが、上の子供や鳥の例でみたような純粋の空間を求める、のっぴきならない、絶体絶命のところから発せられる叫び声だと理解をすると、そのようなわたしたちにも、オルフェウスの首と竪琴を担う資格が生まれるということなのでしょう。そのために、オルフェウスよ、わたしたちを秩序立てよ。たとえ、我が身を引き裂かれようとも、そのような殺戮の行為の中にあってさへ、オルフェウスの楽の音は響き、殺戮の行為をすら秩序立てて、美と快を創造することが、第1部ソネットXXVIに歌われていたオルフェウスの超人的な神的な力なのでした。

わたしたちの生が、源泉から流れ出る水の流れであるということは、その源泉を守っている末娘の妖精を歌っているソネット、第1部ソネットVIIIで歌われている通りです。それはまた時間の中にいるわたしたちをも意味しているでしょう。

こうしてみると、Ordnen、オルドネン、秩序立てるとは、我が身を引き裂かれ、殺されてなお生きているオルフェウスが、わたしたち人間に平安を齎(もたら)す、オルフェウスの神的な行為なのだということがわかります。そうして、わたしたちは、オルフェウスの打ち建てる秩序の中に、初めて安んじることができる。

このような、ヴィジョンとしての人物を創造できることが、そもそも詩人という者の、素晴らしい、リルケ好みの言葉を使えば、herrlich、ヘルリッヒな力なのだと、わたしは思います。

オルフェウスへのソネット(XXV)(第2部)

XXV

SCHON, horch, hörst du der ersten Harken
Arbeit; wieder den menschlichen Takt
in der verhaltenen Stille der starken
Vorfrühlingserde. Unabgeschmackt

scheint dir das Kommende. Jenes so oft
dir schon Gekommene scheint dir zu kommen
wieder wie Neues. Immer erhofft,
nahmst du es niemals. Es hat dich genommen.

Selbst die Blätter durchwinterter Eichen
scheinen im Abend ein künftiges Braun.
Manchmal geben sich Lüfte ein Zeichen.

Schwarz sind die Sträucher. Doch Haufen von Dünger
lagern als satteres Schwarz in den Aun.
Jede Stunde, die hingeht, wird jünger.

【散文訳】
来た、最初の熊手の仕事の音に耳傾け、聞きなさい。
強い早春の大地の、抑制された沈黙の中に、再び起こる人間の拍子に。
お前には、来るものは、

没趣味だとみえる。あの、かくもしばしばお前のところに既に来ていたものが、
再び新しいもののように、お前のところに来るように見える。
いつも、望んで、お前はそれをとることがなかった。それがお前をとったのだ。

越冬した柏の木の葉でさへ、夕方には、招来の茶色と見える。
ときには、空気がある合図をすることがある。

潅木は黒い。しかし、肥料の堆積は、
より満ち足りた黒として、アウンの中に、貯蔵されている。
過ぎてゆくどの時間も、より若くなる。

【解釈】
前のソネットの主題である時間と人間を受けているソネットです。今度は、自然の周期的な時間が歌われています。

呼びかけている相手、お前をオルフェウスととってもよいし、わたしたち読者ととってもよいと思います。

「いつも、望んで、お前はそれをとることがなかった。それがお前をとったのだ。」とは、わたしたちが望んで春が来るのではなく、春がわたしたち人間を、若い時間の中に来さしめたのだといっている。それは、第4連の最後の行、

過ぎてゆくどの時間も、より若くなる。

に通じていると思います。

第3連と第4連も、第1連、第2連と同様に、春の来る予感を歌っています。第4連では、黒という色ですら、新しい再生の色であることが歌われている。

Aun、アウンという名詞の意味が手元の辞書にはなく、解りません。ご存じのかたはご教示ください。再生に関係のある言葉なのだと思います。

オルフェウスへのソネット(XXIV)(第2部)

XXIV

O DIESE Lust, immer neu, aus gelockertem Lehm!
Niemand beinah hat den frühesten Wagern geholfen.
Städte entstanden trotzdem an beseligten Golfen,
Wasser und Öl füllten die Krüge trotzdem.

Götter, wir planen sie erst in erkühnten Entwürfen,
die uns das mürrische Schicksal wieder zerstört.
Aber sie sind die Unsterblichen. Sehet, wir dürfen
jenen erhorchen, der uns am Ende erhört.

Wir, ein Geschlecht durch Jahrtausende: Mütter und Väter,
immer erfüllter von dem künftigen Kind
daß es uns einst, übersteigend, erschüttere, später.

Wir, wir unendlich Gewagten, was haben wir Zeit!
Und nur der schweigsame Tod, der weiß, was wir sind
und was er immer gewinnt, wenn er uns leiht.

【散文訳】
ああ、このよろこび、いつも新しく、緩(ゆる)くした粘土の中から生まれてくる。
だれもほとんど、一番初期の冒険者たちに力を貸さなかった。
それにもかかわらず、都市という都市が、祝福された湾のところに生まれ、
それにもかかわらず、水と油が甕という甕を満たした。

神々を、わたしたちは敢然たる企図の中で計画するが、
気むづかしい運命は、わたしたちが折角計画したのに、その企図を再び破壊してしまう。
しかし、神々は、不死のものたちだ。そうだろう、わたしたちは、終(つい)には
わたしたちの願いを聞き届けてくれる者のいうことを盗み聞きしてよいのだ。

わたしたちは、幾千年を通じて亘る種族だ。父たちと母たち、
子供が、境界を越えて行って、いつかは、そのあとも
わたしたちを驚かせよという思いを以って、未来の子供によって、
いつも一層満たされる、そのような父たち、母たち。

わたしたちは、わたしたち果てしない冒険者たちは、時間が何だというのだ!
そして、沈黙がちな死神だけが、わたしたちが何であるか、
そして、死神が貸与するときには、いつも、何を獲得するかを知っているのだ。


【解釈】
前のソネットで、時間がわたしたちに反抗することと、その克服を主題としたので、同じ主題が、別の視点から、歌われている。個人に焦点を当てた時間ではなく、歴史的な、人類の時間に焦点を当てている。

第1連第1行の粘土は、第4行目に出てくる壺や甕を作る粘土です。これは手による仕事だということが意識されている。手がものを創造し、都市と文明を創造する。

そうして一番最初の草創の時期に苦労をした人間たち、後から来る者たちのために、未知の領域に挑戦した無償の冒険者たち、この先駆者には、ほとんど誰も力を貸さなかった。これはいつもそうであったのではないでしょうか。しかし、それでも、それにもかかわらず、数多くの都市は生まれた。祝福された複数の湾のほとりにとあるので、世界的な交易が想像されます。そのように都市は繁栄し、文明は栄えてきた。そうしてまた、冒険者たちの苦労をひとは全く省みることがなかったにもかかわらず、水と油は甕を満たした。水と油が甕を満たすとは、生活が豊かであることの謂いです。

この「にもかかわらず」に、わたしは、第1部ソネットXIに歌われている「大地から生まれでた名誉心」を感じます。話者のもつ、騎士の名誉心を。これは、冒険者の名誉心でもあるでしょう。ひとに敢て省みられなくとも挑戦するという無私のこころ。旅する騎士。

第2連では、わたしたちは、神々をも計画するといっている。しかし、それは運命がやってきて再三再四壊してしまう。神々を計画するという表現は微妙です。神々を創造するとはいっていない。そこに至らない。計画しては、その計画は壊される。しかし、他方神々は既に存在していて、不死のものとしてある。だから、願いを聞き届けてくれる神のひとりのいうことを盗み聞きしてもゆるされるだろう。わたしたちが勝手に神を選んでもゆるされるだろう。そういっているのだと思います。

第1連は人間の営み。第2連は神々と人間の関係。第3連では、神々のように不死ではない人間が、どのように時間を越えてきたかを歌っています。それは、平俗な言い方でいえば、子々孫々、代々何かを受け継ぎ、後生が先生を乗り越えて、新しいものを創造してきたのだといっている。

第4連では、わたしたちは、第1連から第3連で歌った、そのような冒険者であると歌っている。

だから、Was haben wir Zeit!、ヴァス・ハーベン・ヴィア・ツァイト!、時間が何だってんだ。時間なんか糞くらえだ!と過激に訳したい。第4連の最後の2行、

そして、沈黙がちな死神だけが、わたしたちが何であるか、
そして、死神が貸与するときには、いつも、何を獲得するかを知っているのだ。

これは何を言っているのでしょうか。

わたしたち冒険者は、死神から何かの貸与を受けるということをしない。それは時間の中で享楽に身を任せるということは、それまでの連の冒険者からいって、しないのです。ですから、死神が何かを獲得して、それ一代で冒険者の仕事を終わりにするということもないし、できない。それが冒険者だといっている。

他方、この2行のような、死神のすることがこれだという表現の仕方をしたのは、人間というものは、一体にそのようなものだからでしょう。つまり、別に享楽ばかりではなくとも、前のソネットに歌われているように、時間は、不断にわたしたちに抵抗する。この世の生の時間には限りがある。それが人間に与える限界と、その限界を突破するために、人間が死神の力を借りて、無限の命を授けることを願うことを死神は待っている。あるいは、限られた時間の中で、個人的な夢を実現することの願いを待っている。自分だけの人生を考えるために、死神と取引することを人間は考える。冒険者はそうではない。死神が何を貸与し、何を獲るかは、その目的語をリルケは敢て略しているので、そのような与奪の関係にあり得るものがすべて、死神との取引の目的語になります。

わたしはこの最後の2行で、第1部ソネットIXの第2連を思い出します。そこでは、

Nur wer mit Toten vom Mohn
aß, von dem ihren,
wird nicht den leisesten Ton
wieder verlieren.

【散文訳】
死者と一緒に、ケシの花を食べたもの、死者のケシの花を食べたものだけが
かすかな音をも、再び、決して失うことはない。

2010年1月3日日曜日

オルフェウスへのソネット(XXIII)(第2部)

XXIII

RUFE mich zu jener deiner Stunden,
die dir unaufhörlich widersteht:
flehend nah wie das Gesicht von Hunden,
aber immer wieder weggedreht,

wenn du meinst, sie endlich zu erfassen.
So Entzognes ist am meisten dein.
Wir sind frei. Wir wurden dort entlassen,
wo wir meinten, erst begrüßt zu sein.

Bang verlangen wir nach einem Halte,
wir zu Jungen manchmal für das Alte
und zu alt für das, was niemals war.

Wir, gerecht nur, wo wir dennoch preisen,
weil wir, ach, der Ast sind und das Eisen
und das Süße reifender Gefahr.

【散文訳】
お前に絶えず反抗しているお前の時間に、わたしを呼びなさい。
お前が、時間をついに捕まえたと思うたびに、しかし、
丁度犬たちの顔がそうであるように、そばで訴え、懇願して、そこにあって、

捕まえようとすると、いつも繰り返し、逃げてしまう。
このように逃げてしまうものは、最もお前のものなのだ。
わたしたちは自由だ。わたしたちは、まづ挨拶されたと思ったところで
解き放たれるのだ。

不安な思いで、わたしたちは、支点を欲求する。
わたしたちは、よく、古いものに対しては、若者たちの傍にあり、
そして、一度もなかったものに対しては、年をとり過ぎている。

わたしたちが、それでも、褒め称えるところで
わたしたちは、ただ公平でいるのだ。というのも、
わたしたちは、ああ、大枝であり、鉄であり、
そして、成熟する危険の甘きものであるからだ。

【解釈】
このソネットは、リルケの自註によれば、読者に宛てられて歌われています。そうすると、お前と呼びかけられているのは読者であり、呼びかけている話者は、オルフェウスと考えることができるでしょう。

第1連、第2連は、歌われている通り。時間というものがどのようなものかを歌っている。そうして、時間がわたしたちに反抗するときには、そのときにこそ、オルフェウスを、わたしを呼びなさいと呼びかけてくれている。

犬が訴えるように顔をこちらへ向けて、そうして捕まえようとすると、首を巡らして逃げてしまうというのは、本当に何か現実感覚があって、その通りだと思い、目に見えるようです。リルケは犬が好きだったのだと思います。第1部ソネットXVIは、自註によれば、犬に向けられて書かれている位です。犬の好きなリルケ。そういえば、狩のソネットもありました。

第3連では、時間を捕まえられないわたしたちの焦燥を、「不安な思いで、わたしたちは、支点を欲求する」と歌っています。わたしたちは、確かな支点を求めている。日本語の世界の言葉でいうならば、流行に対する不易を求めているということができるでしょう。

その試みも、しかし、第3連で歌われているように、なかなかバランスがとれません。新旧というバランスをとることの難しさ、一度もなかったものに対するバランスをとることの難しさが歌われています。後者の場合、一度もなかったものに対しては、わたしたちは往々にして退嬰的な態度をとりがちです。リルケの言葉を使えば、開いていない、受容しない。

第4連で、それではどうしたらよいのかが歌われています。第3連を受けて、それでもなお褒め称えることが、わたしたちのなすべきことです。何故ならば、わたしたちは枝であるから。この枝であるという言葉は、リルケの今まで読み解いてきたヴィジョンによれば明らかです。わたしたちは、死者の眠る大地から垂直に伸びた樹木の枝であり、その次には開いた花から生まれる果実であり、そうして次の種子を残してまた大地に戻る循環の中にある。そうであれば、その摂理を思って、それこそもしそれを(リルケのいう運命とは違いますが)運命と呼ぶのであれば、それを受け容れて、その循環を褒め称えること、そのようにある万物を褒め称えることが、わたしたちの尊い仕事だからです。

わたしたちは鉄であるからとは、どのような意味なのでしょうか。わたしは、鉄は素材として変わらぬものと理解しました。苦しみに堪えるという意味もあるのではないかと思います。

そうしてまた、わたしたちは「成熟する危険の甘きもの」である。危険は成熟する、熟してその危険が表に現れる。そのような危険の甘きものであるとは、何を意味するのでしょうか。甘きものとは、その危険に陥るととることもできるし、そこまで行かなくともそれに惹かれて危険を冒すものともとることができます。そうであれば、そのような人間の名前は冒険者たちと呼ばれて、次のソネットXXIVに歌われております。

枝と鉄と甘きものは、三つともみなund、ウント、且つという接続詞で接続されております。それは、ach、アッハという叫び声とともに。これら三つが同時にある者が人間なのです。

それゆえに、わたしたちは、褒め称えると言う使命を持っている。これは、詩人だけの使命ではない。それが変化する万物の中で不動の支点を獲得する道であるとリルケは歌っています。

オルフェウスへのソネット(XXII)(第2部)

XXII

O TROTZ Schicksal: die herrlichen Überflüsse
unseres Daseins, in Parken übergeschäumt, —
oder als steinerne Männer neben die Schlüsse
hoher Portale, unter Balkone gebäumt!

O die eherne Glocke, die ihre Keule
täglich wider den stumpfen Alltag hebt.
Oder die eine, in Karnak, die Säule, die Säule,
die fast ewige Tempel überlebt.

Heute stürzen die Überschüsse, dieselben,
nur noch als Eile vorbei, aus dem waagrechten gelben
Tag in die blendend mit Licht übertriebene Nacht.

Aber das Rasen zergeht und läßt keine Spuren.
Kurven des Flugs durch die Luft und die, die sie fuhren,
keine vielleicht ist umsonst. Doch nur wie gedacht.

【散文訳】

おお、運命にもかかわらず、あちこちの公園の中に泡だって溢れている、

わたしたちが今ここにこうしていることの素晴らしい過剰―

または、バルコニーの下に樹木のように立っている高い玄関、入り口の

上の方で収斂している場所の隣にある石の男たちとして!

ああ、青銅の鐘、その鐘舌を毎日、鈍い日常に抗して掲げる鐘よ。

或いは、カルナックにある鐘、柱、柱、

ほとんど永遠の寺院を超えて生き延びる柱よ。

今日、過剰が、墜落し、落ちてくる。剰余が、

かろうじて急ぐものとして通り過ぎ水平の黄色い日の中から出て

目も眩む、光によって誇張された夜の中へと入る過剰が。

しかし、荒れ狂うことは、消え失せ、そして何の痕跡も残さない。

飛行機が空気中を飛ぶ曲線、そして、曲線が走ったその当の空気、

どの痕跡も、ひょっとしたら無駄ではないのだ。しかし、ただそう思っただけの限りで、そうなのだ。

【解釈】

前のソネットで、到達し得ない純粋の空間の存在を思ったリルケは、翻って、わたしたちの日常を思い、そこにある、わたしたち人間の過剰、即ちわたしたちの富である垂直性を思い、歌ったのだと思います。

1連では、リルケは、「わたしたちが今ここにこうしていること」が過剰だといっている。そうして、その過剰は運命に抗して、垂直に立っている。その樹木のように垂直に立っている石の男の像たちのように。

そしてその過剰は、公園の中にもあると第一行ではそもそも歌っている。これは何を言っているのだろうか。公園にはひとが閑暇を求めて集まる。その様子は確かに高いところからみると泡立っているように見えるだろう。その泡立ち方が過剰だといっているのだ。しかし、その姿ばかりではなく、ひとが垂直に立つのは、そのような閑暇を求める場所であると言っているのだと思います。それはあとで出てくる第4連では、急いでは痕跡を残さないから、急いではならないと歌い、急いでいる場合の過剰のありかたを第3連と第4連を通じて批判していることを見るとわかります。

さて、第2連、第3連をみると、この過剰が垂直方向に立っている。垂直に伸びてゆく意志がそこにある。そういう人間の造形したもの名前として、リルケは、柱を挙げる。悲歌7番の第7連でも、そのような人間の文明の偉業として柱が挙げられている。垂直に立つことは、人間の素晴らしい偉業なのだ。それゆえ、「素晴らしい過剰」と第1連の冒頭で歌われている。

この場合の「素晴らしい」という言葉は、ドイツ語では、herrlich、ヘルリッヒであり、既に第2部ソネットVIIIでも説明をしましたが、これは名詞、Herr、主人、支配者、神という意味の言葉からできた形容詞で、従い主人であることの性質、支配者であることの性質、神であることの性質を意味しています。素晴らしいという訳語がもし誤解を与えるのであれば、荘厳なと、場合によっては訳することができる言葉です。

確かに、柱という人間の文明の偉業を褒め称えるときのリルケの感情には、荘厳なものがあるのだと思います。

そうして、運命に抗して同じ垂直の姿をもつものとして、第2連で鐘を挙げています。鐘も、鐘の音もまた、鈍い日常に抗して垂直に立つものなのです。そもそも鐘楼が垂直の建物でありましょう。

この第1連、第2連ときて、リルケは垂直なるものと、herrlich、ヘルリッヒ、素晴らしい、荘厳なものを思うときには、いつも軌跡、痕跡、跡を連想するのです。それは、対象そのものではなく、対象の動いた跡のことです。

この対象を歌わず、その、言ってみれば陰や影や痕跡を歌うというリルケの思考と感覚は、第2部ソネットIIの第3連にも明確に歌われていて、そこでは暖炉に燃える火、炎を見て、生の眼差し、生の視線を忘れろと歌われておりました。また、第1部ソネットVIIIの子供の投げるボールの軌跡。それから、第1部ソネットIVの矢の軌跡を思い出すことにしましょう。

そのように、第4連では、飛行機の飛行の痕跡が歌われております。飛行機がリルケの注意を惹き、詩の主題となるのは、痕跡を残すからだということがわかります。同じ理由で、1部ソネットXXIIの第3連では、飛行機の速度ということから、その言わば悪しき面が、歌われていました。また、続く同じ部のソネットXXIIIでは、飛行の獲得する、空間の果ての孤独ということから、言わばその良き面が歌われておりました。

さて、第4連では、第2部ソネットXXIIIと同様に、急ぐなということが歌われている。急いでは、駄目なのです。それは実を結ばない。そうではなく、逆に潰えてしまう。リルケは、現代文明がわたしたちに与えてくれる利便性とは逆のことを言っております。飛行機のように速度の速いものでも、それがよいのは、痕跡を残すからだ。

それでも、第3連の脈絡で、この第4連では、飛行機の軌跡も何か力の弱いもののように歌われている。それが最後の一行です。それは、

どの痕跡も、ひょっとしたら無駄ではないのだ。しかし、ただそう思っただけの限りで、そうなのだ。

と歌われている。

何故第4連がこのように弱くなったかというと、第1連、第2連で歌ってきたわたしたちの「わたしたちが今ここにこうしていること」の過剰が、第3連にあるように、やはり崩れ落ちる日があるからです。それは、ここに歌われているように、やはり急ぐからです。急いでしまうと、水平の鈍い黄色い色の日常の中から抜け出て、垂直方向へと伸びても、その機会は、夜の都会の摩天楼の、まぶしいばかりのイルミネーションで明るい、誇張された垂直の夜でしかないからです。これは、リルケの都会批判、現代文明批判でもあります。折角のわたしたちの過剰が、これはわたしたちの富なのですが、それが浪費され、消費されてしまい、決して垂直に成長し、または建造されないのです。

このリルケのいう過剰の豊かさについては、例えば、第1部ソネットXIVの第4連に、

Sind sie die Herrn, die bei den Wurzeln schlafen,
und gönnen uns aus ihren Überflüssen
dies Zwischending aus stummer Kraft und Küssen?

【散文訳】

死者たちというのは、根のところで眠っている男たち(または、主人たちと訳せる)なのだろうか、そうして、わたしたちに、その剰余(過剰)の中から、物言わぬ力と、数々の接吻から生まれたこの中間物(果実)を恵んでくれるのだろうか?

とありました。

また、飛行機の飛ぶ空気、Luft、ルフトとは、リルケの世界では、Hauch、ハオホ、そっと吐く息、Raum、ラウム、空間と同義であることもあらためて銘記することにしましょう。

垂直に立つわたしたちの姿を否定する運命については、様々な主題とともに、第2部ソネットXIVの第1連、第2部ソネットXIXの第3連、第2部ソネットXXの第2連、第2部ソネットXIVの第2連、第2部ソネットXXVIIの第2連と歌われております。こうしてみると、第2部は、運命ということが相当言われている篇だということになります。そうして、それに対抗する人間の姿、オルフェウスの姿が歌われていると考えることができると思います。

オルフェウスへのソネット(XXI)(第2部)

XXI

SINGE die Gärten, mein Herz, die du nicht kennst; wie in Glas
eingegossene Gärten, klar, unerreichbar,
Wasser und Rosen von Ispahan oder Schiras,
singe sie selig, preise sie, keinem vergleichbar.

Zeige, mein Herz, daß du sie niemals entbehrst.
Daß sie dich meinen, ihre reifenden Feigen.
Daß du mit ihren, zwischen den blühenden Zweigen
wie zum Gesicht gesteigerten Lüften verkehrst.

Meide den Irrtum, daß es Entbehrungen gebe
für den geschehnen Entschluß, diesen: zu sein!
Seidener Faden, kamst du hinein ins Gewebe.

Welchem der Bilder du auch im Innern geeint bist
(sei es selbst ein Moment aus dem Leben der Pein),
fühl, daß der ganze, der rühmliche Teppich gemeint ist.

【散文訳】

わたしのこころよ、お前が知らない庭たちを歌えよ。

清澄で、到達できぬところにある、ガラスの中に水を注ぎこまれた庭たちのように、

イスパハンやシラスの水(川)と薔薇のように、

庭たちを祝福して神聖に歌え、褒め称えよ、誰に比較されることなく。

わたしのこころよ、お前が決して庭なしではいられないことを示せよ。

庭たちの成熟した無花果(いちじく)がお前を思っていることを。

お前が、庭たちの間で、花咲く枝の間に顔面のところでのように高められた空気と

交わっていることを。

既に起きた決心、即ち、あれ、存在するのだ、という決心

無しでも済ますことができるということがあるのだという過ちを回避せよ。

お前は、絹の糸の織物の中へと入って来たのだ。

お前が内部において、像のうちのどんな像とひとつになっていようとも

(それが、たとえ、苦痛の生の中から生まれる一瞬であろうとも)、

完全な、光栄ある絨毯が言われている(意味されている)のだということを感じよ。

【解釈】

庭という言葉は、何かどこか、全く別の世界を思わせる言葉です。それは、家と隣接していながら、家から最も遠い世界である。確かに、こう考えてみると、庭はリルケの世界です。人と人の距離がそうであるように。しかし、これは、リルケばかりではなく、世界中にある庭という庭が、人間にとっては、そのようなものなのではないでしょうか。そのようなものとしての庭は、第2部ソネットXVIIにも歌われておりました。

さて、このソネットは、話者が自分自身の心臓、こころに向かって、自分自身の知らないところにある庭という庭をみな褒め称えよと歌っているソネットです。わがこころが「知らない庭たち」というところに、前のソネットの最後の連が響いていると思います。それは、どこにもない場所を歌っているのでした。リルケは、よくこのような発想をする。第2部ソネットXIの第3連でも、見る者の見えない場所にまで、悲しむことの息がどれも存在するようにと歌っておりました。それは、空間の詩人、宇宙の詩人としては、やはり、想像力の及ぶ限り、またそれを超える空間にまで、思いを馳せるということなのでしょう。ここでは、いつも内と外、内部と外部が意識されることになる。

1連では、鉢の中にあって、水を注いだ小さな水中の庭園という細工物があるのでしょう。その庭の中には確かに入ることはできず、水があることから、それはklar、クラール、清澄でした。このklar、クラール、清澄という言葉もリルケの言葉でありました。第1部ソネットIの第2連に出てくる動物たちの棲む森は清澄な森でした。その他あちこちで頻出するこの言葉の意味を考えると、それはほとんど、rein、ライン、純粋なというリルケ好みの言葉と変わらないのです。Reinは明瞭に時間を欠いている形容ですが、klarは、どちらかというとその語義からして、やはり透明で澄んでいるということ、その様子に重きがあるのだと思います。リルケのrein、ライン、純粋なと言う言葉についての考察は、「リルケの空間論(個別論4):悲歌5番」(2009814日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_14.html)に詳述しましたので、そこをご覧下さい。

そうして、そのような到達できない庭の名前として、イスパハンやシラスの名前を挙げ、庭の造作である、水、川や薔薇のことを歌っています。

2連では、わがこころに向かい、そのような到達できない清澄な庭がお前には必要だ、それがなしでは、こころは存在しないということを歌っています。

顔面のところでのように」とあるのは、顔が内部の空間と外部の空間の交換される場所だからです。これは、リルケの思想でした。悲歌1番でも、天使は外に流出した美を顔の中に回収するのでした。これは美ですが、しかし、そのほかの例もみてみると、確かに顔はもの、空間が出入りをする場所なのです。そうして、こころは、その庭で、花咲く枝々の間にある空気、空間と交流し、交わるのです。交わるとは、交換するということでしょう。

そうして、第3連では、存在するためには、真にあるためには、変わらずあるためには、そうして、そうあるぞと決心するためには、もう既に決心したのだから、その決心がなくてはいいなどと思い誤ってはいけないと言っています。何故ならば、わがこころよ、お前は、既に、絹の糸で織られた織物の中へと入ったからだ。

織物に譬えたことは意味があります。これは、垂直と水平の糸から織られる構築物だからです。この同じ構造を備えたものが、薔薇です。花の好きなリルケが、宇宙の究極の構造の象徴として歌った薔薇、自らの墓碑銘に遺言した薔薇です。入籠構造の宇宙。

さて、こうしてみると、この話者は、死んだオルフェウスと考えることができると思います。

完全な、光栄ある絨毯が言われている(意味されている)のだ」とはどういうことでしょうか。この絨毯という言葉から、わたしたちは直ぐ悲歌5番に歌われている絨毯を思いだすことができます。その絨毯とは、場所であり、従い空間であり、そこでは、宇宙が中心を見出して、万物が均衡して、その真理を現出せしめている空間なのでした。この空間については、「リルケの空間論(個別論2):悲歌5番」(200989日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/2.html)にて詳細に論じましたので、そこをご覧いただければと思います。この空間は、何度かソネットを論ずる中でも言及しましたが、この場所では、悲歌のその絨毯を歌った核心の場所のひとつを引用しますと、

wo sich das reine Zuwenig unbegreiflich verwandelt -, umspringt in jenes leere Zuviel. Wo die vielstellige Rechnungzahlenlos aufgeht.

そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。

そのような場所、そのような空間なのです。

このような空間が、入籠構造をしていること、リルケの薔薇と同じであることは、「リルケの空間論(個別論2):悲歌5番」(200989日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/2.html)にて論じた通りです。このソネットの第1連に、到達し得ない、清澄なる空間に薔薇が咲いているという言葉は、故無しとはしないのです。このようにして、確かにこのソネットの第1連で歌われている庭たちは、第4連で歌われている通りに、そこでは「完全な、光栄ある絨毯が言われている(意味されている)」のです。連の詩想は首尾一貫して連なっております。

水が流れ、川が流れているということも、今までのソネット、例えば第1部ソネットX、第2部ソネットVII、第2部ソネットXV、第2部ソネットXXIVなどをみると、それは豊かなものの象徴であり、万物の間をへ巡り流れるものであり、死の傍をも通り、また死にかけている花をも蘇生さえ、そしてまた、わたしたち人間の生の姿でもあります。

4連の「お前が内部において、像のうちのどんな像とひとつになっていようとも」という言葉は、内部とあるからといって何もリルケに特有の表現なのではなく、こうしてみると、わたしたちはいつもこのようにして生きているのだと思うことができます。わたしたちはいつもどこにもない空間、到達できない空間を思い願って生きている。たとえそれが苦しみの像であったとしても。そう願うならば、確かにその空間は存在しているのです。

2010年1月2日土曜日

オルフェウスへのソネット(XX)(第2部)

XX

ZWISCHEN den Sternen, wie weit; und doch, um wievieles noch weiter,
was man am Hiesigen lernt.
Einer, zum Beispiel, ein Kind... und ein Nächster, ein Zweiter —,
o wie unfaßlich entfernt.

Schicksal, es mißt uns vielleicht mit des Seienden Spanne,
daß es uns fremd erscheint;
denk, wieviel Spannen allein vom Mädchen zum Manne,
wenn es ihn meidet und meint.

Alles ist weit —, und nirgends schließt sich der Kreis.
Sieh in der Schüssel, auf heiter bereitetem Tische,
seltsam der Fische Gesicht.

Fische sind stumm..., meinte man einmal. Wer weiß?
Aber ist nicht am Ende ein Ort, wo man das, was der Fische
Sprache wäre, ohne sie spricht?

【散文訳】

星と星の間、それがどれほど遠いか、そして、しかし、ひとがここにあるものから学ぶことは、どれほどもっと遠いことだろうか。

ある者が、例えば、子供がそして、隣にいる者が、二人目の者が―

ああ、なんと捉えられぬほどに遠いことだろう。

運命が、ひょっとしたらわたしたちを、存在することの間隔(存在することが張っているその長さ、距離)を以って、わたしたちを測定しているので、運命はわたしたちには、

奇異に見えるのだ。

考えよ、娘が男を避け、そして思う度に、娘から男までの間だけでも、どれだけの距離があるかを考えよ。

全ては遠いのだ―、そして、円環はどこの場所においても閉じてはいない。

見よ、ボウルの中に、明朗に準備された食卓の上に、

魚の顔が稀であることを。

魚たちは黙して話さないと、だれかが嘗て言ったことがある。誰がそのことを知っているのだ?(だれも知らない)しかし、結局は、魚の言語が何であるか、その本質を、魚の言語無しで、ひとが話しをする場所が存在しないだろうか?

【解釈】

わたしは、このソネットが好きで、何故か惹かれるものがある。それは考えてみると、出てくる魚に惹かれているのです。魚が出てくるので、このソネットに、読むたびに、魅力を感ずるのです。それは、何故なのだろう。このソネットを読み解きながら、その問いに答えることができればいいと思う。

ふたたび、隣にいる人が、どれほど遠くにいるか、人間がどれほど孤独であるかという主題を歌っている。それが、はっきりと第1連と第2連に出ている。それに対して、第3連と第4連は、ものが開かれていることがどのようなことであるかを歌っている。これは、前のソネットの手についての歌い方と同じだ。

しかし、人間の間の距離が遥かに遠いということと、人間やものが開かれてるということの間にはどのような関係があるのだろうか。ひとつひとつ見てみよう。

1連は、ここに歌われている通り。子供が歌われているのは、大人からみると、子供も遠い存在なのでしょう。第1部のソネットXIIIの第1連と第2連を読むと、子供はまた、果実の味が遠いところからやって来ることを知ることのできる、そのような表情をするのでした。

「二人目の者」とは、第1部ソネットXIで歌われたように、並んで道を行く二人の騎士の間の距離を思い浮かべるとよいと思います。

2連では、運命が出てくる。第1部ソネットXIIでも、既にこの距離が歌われていました。それは、近代文明のアンテナとアンテナの間の距離を埋め、張り渡される電線の距離として歌われていました。距離とか間隔とか訳しているドイツ語は、Spanne、シュパンネ、何かを張り渡して緊張させること、そのひとわたりの長さのことです。第1部ソネットXIIでは、電線の距離に対して、音楽の力の齎(もたら)す距離がゼロであることから、reine Spannung、ライネ・シュパヌング、純粋な距離と歌われていました。

運命は、「存在することの間隔(存在することが張っているその長さ、距離)」を以って、わたしたちを測定しているという。それは、直ぐ隣にいるのに、わたしたち同士の間の距離を、意思疎通の悪さを測定しているということでしょう。そのことによって、運命が転変することがある。それが、わたしたちには理解ができず、一旦我が身に何かが起きたときには、突然のように、奇異に見える。それは、男と女の関係とコミュニケーションの難しさをみるだけでもわかるだろうというのです。それは、娘が男を避けても、思ってもと、娘が主語なのは、リルケが男だからでしょう。

さて、第3連です。こうして、すべては遠い、遥かだという。こうして読むと、距離があること、遥かであること、そのこと自体が、円環が閉じていないことを意味しているのだと言っている。ひとつのまとまりある人間の社会を考えてみてもよいと思いますが、それは、こうしてみると、人間の社会も、そもそも、どこにおいても、閉じていないのです。それは、ふたつのものの間が遠いから考えられることです。これが、リルケの思想なのです。

同じ例として、だから、何かお祝いの席で、その食卓の上のボウルに魚の顔があることは稀だろうとリルケはいっている。これは、何を意味しているのでしょうか。お祝いの席でとわたしが解釈したのは、それが、heiter、ハイター、明朗に準備された食卓とあるからです。日本と違って、お祝いの席には、魚は出ないのだ。

しかし、このheiter、ハイター、明朗にという言葉、これは、精神が明朗とリルケが歌うときの言葉で、開いていて、受け容れるさまをいうときに、そういう重要な契機にリルケが使う言葉です。第2部ソネットXIの第4連で、より明朗なる精神の人間は、自分自身が殺されることになろうと、それを受け容れるのだと歌われていることを思い出してください。また、第2部ソネットVでも、花が光を受け容れる生き物だということに対比して、人間が果たしてそうであるかを問うておりました。これは、人間のあるべき理想の状態なのです。それを成り立たしめているのが距離だということになります。これが、人間の運命だとリルケは言っている。

何故、そのような食卓に魚は稀なのでしょうか。それは、こうして各連を読んでくると、魚は閉じていて、開いてはいないからだというのがその答えだと思います。それが、魚は黙して語らない、話をしないと歌っている言葉の意味です。

これに対して、果物は開かれている。第1部ソネットXIIIXIVを読むとそのことが解ります。そこでは、果物は開かれているものとして歌われている。こうして更に考えてみると、リルケの考えていることは、果物は死を含むが、魚は死を含まないからだと考えているからではないでしょうか。つまり、果実の死は、次の生を産むが、魚の死は次の生を産まない。

しかし、果実とは違って、魚は黙して語らないとだれかが言ったが、それは本当なのだろうか。そうではないのではないか。ついには、ある場所があって、魚の言語の本質を、魚の言語なしで話しをする人間の場所があるのではないか?そのような純粋な場所があるのではないか?そのような純粋な空間があるのではないか?と。

こうして考えてきますと、わたしが何故リルケがこのように歌う魚に惹かれるかというと、魚が死を含み、生を産まないというあり得ないことのうちに、そう歌われていることにうちに、またこの最後の連が最後に疑問文の形で問うているが、その問いに対するわたしの考える答えのうちに、肯定の回答を、そのような場所を予感するからなのだと思います。そう予感したい、そうでありたい、純粋な空間が存在している、そうであるといいたい自分自身が魚の中にいるのです。明朗に準備された食卓のボウルの中にいることが稀な、魚の顔。そうして、そのように、多分わたしも多くを黙して語ることのない生き物に惹かれる人間なのでしょう。このように、余りにも饒舌であるとはいへ。

オルフェウスへのソネット(XIX)(第2部)

XIX

IRGENDWO wohnt das Gold in der verwöhnenden Bank
und mit Tausenden tut es vertraulich. Doch jener
Blinde, der Bettler, ist selbst dem kupfernen Zehner
wie ein verlorener Ort, wie das staubige Eck unterm Schrank.

In den Geschäften entlang ist das Geld wie zuhause
und verkleidet sich scheinbar in Seide, Nelken und Pelz.
Er, der Schweigende, steht in der Atempause
alles des wach oder schlafend atmenden Gelds.

O wie mag sie sich schließen bei Nacht, diese immer offene Hand.
Morgen holt sie das Schicksal wieder, und täglich
hält es sie hin: hell, elend, unendlich zerstörbar.

Daß doch einer, ein Schauender, endlich ihren langen Bestand
staunend begriffe und rühmte. Nur dem Aufsingenden säglich.
Nur dem Göttlichen hörbar.

【散文訳】

どこかに、金(きん)が、ひとを甘やかし我がままにする銀行の中のどこかに住んでいて、そして金は、幾千ものものたちと親しくしている。しかし、あの目くら、即ちこじきは、、銅(かね)で出来た最小の貨幣単位(ツェーナー)にとってさへも、失われた場所のようであり、棚の下の埃っぽい角(かど)のようである。

商売では、ビジネスに従えば、お金(かね)は、自家(うち)にいるかのようであり、

見かけ上は、絹、カーネーションや毛皮の衣装をまとって変装している。

彼、沈黙する者は、全ての目覚めまたは眠りながら呼吸をしているお金の息継ぎの休止の中に立っている。

ああ、このいつも開いている手は、夜のもとで、閉ぢることができるのだろうか。

明日になれば、手は運命を再び取り戻し、そして毎日

手は運命に堪える。明るく、悲惨に、果てしなく破壊されて。

しかし、ある者が、ひとりの見るものがいて、ついには手の長い耐久を、驚きを以って理解し、褒め称えることよ。歌い上げるものにとってのみ、言葉で言い表すことができるのだ。神々しいものにとってのみ、聞こえるのだ。

【解釈】

前のソネットのKrug、クルーク、甕、壺ということから、手が思われ、手が歌われています。そうして、この手のする仕事と対比されて、お金と黄金(きん)が歌われている。

1連では、黄金が歌われている。それは銀行の内部にあって、幾千ものものたちと親しい。第2連にあるように様々なものに姿も変える。それは、ビジネスの世界ではあたかも我が家にいるがごとく自由自在、変幻自在である。

しかし、その価値と全く無関係な者がいて、それが第1連の盲目の乞食である。目も見えないし、乞食であるのでものをそもそも所有ということをしていない、その意志もない人間である。そのような者には、貨幣単位の最小単位のお金ですら、何の価値もないのだ。

それから、もうひとり、黄金やお金の生み出す価値に無縁のものがいる。それが、der Schweigende、デア・シュヴァイゲンデ、沈黙する者だ。

お金というものを、リルケは変身、変形するという視点から捉えている。これは、神々しい存在であるオルフェウスの変身と比較しているということだと思う。お金の無数の変身とオルフェウスの変身とはどこが違うのだろうか。それが乞食なのであって、乞食の所有しないという状態なのだ。お金は、人間との関係では全く逆で、お金を変身させて、人間は何かを所有したいと思うからだ。そこには、人間の無私の姿はない。

そして、そのような人間の傍にいて、近いしい者がいる。それが、沈黙する者だ。この者は、お金が呼吸をするその呼吸の休止、息継ぎの時間の中に立っていると歌われている。お金も呼吸する空間だ。お金も何かと何かを交換しているのだ。これは、リルケのおなじみの考えに沿った理解だ。お金も自分自身の中の空間を、その外の空間と交換している。そうやって変身し、他のものに姿を変えている。

こう考えてくると、リルケが呼吸をするということをいうときには、空間と空間の交換をしていると考えて来たが、そのことは、更に一歩をすすめると、交換をする主体がそれによって変身し、変形しているのだということを明瞭に思い、考える必要があると思う。その変身こそが、リルケのいう成長、垂直への成長であり、上昇なのだ。

全ての目覚めまたは眠りながら呼吸をしているお金」と歌っているが、これはお金が夜も昼も、寝ている間も起きている間も生きていて呼吸をしていることをいっている。リルケは、お金が循環すると考えていただろうか。もしそうであれば、リルケのいう呼吸とは、循環する行為であるということになる。呼吸をすることによって、人間とものは循環するのだ。あるいは、循環ということが、人間とものに呼吸をさせるのだ。

しかし、とはいえ、人間は、2部ソネットXIIIに出てきたように、また悲歌2番第3連で歌っているように、さらにまた悲歌9番第3連でも歌っているように、、schwinden、シュヴィンデン、収縮する、縮こまる、小さくなってゆく人間なのではあるが。そうして、死に(リルケは決して死ぬとは言わないが、しかしそうやって)死者になり、地下の世界に眠り、その死者の眠る大地から樹木が垂直に育ち、花を開き、果実をつけるという循環の世界。人間とものがそこで呼吸をする世界が生まれる。

夜お金は眠っている。この連想から、夜のもとで手が閉ぢていることを歌うのです。手は、夜、閉ぢているのでしょうか。第3連の第1行では、手は閉ぢることがなく、いつも開いているのだと思います。Offen、開いているというリルケの思想については、第1部ソネットXの第2連の棺、第1部ソネットXIVの第1連の果実、第1部ソネットXXVの第4連の死者の扉、第2部ソネットVの第4連の花、第2部ソネットIXの第2連のオルフェウスのこころに、それぞれ形象を変えて、開いているものが歌われている。

そうして、手は、よくる朝からまた運命に堪える。手はお金のように慾によっては変身しない。もっと純粋に(そういっていいでしょう)、無欲に創造する。手は何かを変形させて創造する。そうして過酷な一日が終わる。夜がくる。夜のもとで、手は休むことができる。それが、「夜のもとで、閉ぢることができるのだろうか」と疑問形で歌っていることなのだと思います。

さて、もう一度沈黙する者を。沈黙とは、リルケの場合、どこか死者と繋がっている形象でした。それから、静寂な空間と。第1部ソネットVIIの第1連に、

RÜHMEN, das ists! Ein zum Rühmen Bestellter,
ging er hervor wie das Erz aus des Steins
Schweigen.

【散文訳】

賞賛すること、これだ。賞賛するように決められている者、

オルフェウスは、石の沈黙の中から生まれる鉱石のように、

現れた。

とある。

そこから、何か尊い存在が生まれてくる源のひとつ。こうしてみると、リルケは、お金という変身能力を有するものに、死というものを連想していたのかも知れません。もちろんその死の縁者である沈黙する者は、直接お金に触り、影響力を行使するのではなく、「お金の息継ぎの休止の中に立っている」だけなのですが。

最後の連、第4連に「見る者」が歌われています。これは、第2部ソネットXIの第3連でも歌われていました。

Fern von dem Schauenden sei jeglicher Hauch des Bedauerns,
nicht nur vom Jäger allein, der, was sich zeitig erweist,
wachsam und handelnd vollzieht.

【散文訳】

見る者から遠く離れて、憐れみの吐息はどの吐息も、あれ。いいタイミングで証明するものを、用心深く且つ規則に従って行うことで執行する狩人ばかりから離れているだけではなく。

この引用の箇所では、見る者の見えないところまでも、息が存在せよ、見えない者もみないようなところまでも世界中隅々まで隈なく、その空間が存在せよということが歌われています。が、しかし、見る者は、やはり見ることをする。手の長い忍耐を驚きを以って理解し、褒めたたえるのです。見る者は、またオルフェウスと同様に、褒め称える者なのです。そのような者にとってのみ、即ち万物を褒め称え、歌いあげる者にとってのみ、言葉で言い表すことができるのであり、そのような神々しい者にとってのみ、耳に聞こえることがあるのだ。リルケは、そのように歌っています。

オルフェウスへのソネット(XVIII)(第2部)

XVIII

TÄNZERIN : o du Verlegung
alles Vergehens in Gang: wie brachtest du's dar.
Und der Wirbel am Schluß, dieser Baum aus Bewegung,
nahm er nicht ganz in Besitz das erschwungene Jahr?

Blühte nicht, daß ihn dein Schwingen von vorhin umschwärme,
plötzlich sein Wipfel von Stille? Und über ihr,
war sie nicht Sonne, war sie nicht Sommer, die Wärme,
diese unzählige Wärme aus dir?

Aber er trug auch, er trug, dein Baum der Ekstase.
Sind sie nicht seine ruhigen Früchte: der Krug,
reifend gestreift, und die gereiftere Vase?

Und in den Bildern: ist nicht die Zeichnung geblieben,
die deiner Braue dunkler Zug
rasch an die Wandlung der eigenen Wendung geschrieben?

【散文訳】

踊り子。ああ、お前、すべての過ぎ行くことを動かすようにすることよ。どうやって、お前はそうしたのだ。そして、最後の決めの旋回、動きの中から生まれるこの樹木、

この樹木は、振動し飛躍した歳を完全には手に入れていなかったのだろうか。

花が咲かなかったのだろうか、だから、お前の振動が、その樹木の周りに、前から、群がっているのだろうか、突然に、樹木の沈黙の頂点が。そして、沈黙の上に、暖かさ、お前の中から外へと出るこの数えることのできない暖かさは、太陽であり、夏ではなかったのだろうか。

しかし、彼も担ったのだ、彼は担ったのだ、陶酔の頂点、忘我の、お前の樹木は。

それらは、お前の樹木の静かなる果実ではないのか、甕、成熟して豊かに塗られている、そしてより成熟した花瓶は。

そして、絵という絵の中には、素描が残っていたのではないか、お前の眉毛の暗い線がすばやく独自の転回の変身、変形、変態に書き付けた素描が。

【解釈】

前のソネットから果実を引き継いでいる。果実とは何か。主題は踊り子。それから、前のソネットにあった、tragen、トラーゲン、担うというリルケの好きな、言ってみれば、リルケ好みの言葉が引き継がれている。

1連では、踊り子の踊る踊りを歌っている。踊りの最後に激しく渦を巻いて旋回するのであろう。それを垂直の伸びる樹木に譬えている。この譬えは、第1部ソネットIから終始一貫して流れる、このソネット全体における形象のひとつです。

この樹木は、振動し飛躍した歳を完全には手に入れていなかったのだろうか。」とは、何を言っているのでしょうか。これは、樹木ですから、花を咲かせることが前提になっているのでしょう。それは、第2連の第1行をみると判ります。その歳になれば、花を咲かせて果実を成熟させるそのような歳月の繰り返されるその歳を所有しなかったのかと問うている。

このソネットの特徴は、すべての連が疑問文になっていることです。

「振動し飛躍した歳」と訳したドイツ語は、das erschwungene Jahr、ダス・エアシュヴンゲネ・ヤールですが、このerschwungenの原形はerschwingen、エアシュヴィンゲンで、既に何度か言及しましたように、schwingen、シュヴィンゲン、振動するという、死を代償に生じる生命のあたらしい世界、動かぬ死んだような世界に命を吹き込んで動かす力、あるいは動いた結果の生命の動的な姿を表わす言葉なのでした。このような復活、蘇生は、変身によって齎(もたら)される。繰り返し、悲歌1番の最後の連のことを思い出すことにいたしましょう。

2連では、踊り子のそのような振動が樹木の廻りに群がり集まってくる様を歌っています。そうして、plötzlich、プレッツリッヒ、突然に「樹木の沈黙の頂点」が出現する。plötzlich、プレッツリッヒ、突然にとは、悲歌で考察したように、天使のように高位の存在が時間とは無関係にある空間に出現する場合に、リルケがいつも使う副詞でした。ここでも、同じと考えることができます。この頂点は、高度な、高位の存在だとリルケは歌っているのです。このplötzlich、プレッツリッヒ、突然にについての考察については、「天使論」(200974日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/07/blog-post.html)をご覧いただければと思います。

そうして、やはり踊り子は女性ですから、第1部ソネットXV、第2部ソネットVIIで歌っているように、若い女性は暖かさを放出する。その暖かさは、女性の内部から外へと出てきて、数えることができないものだと言われている。第2部ソネットXIIIの第4連で論じたように、数で数えることができないとは、時間の中にはないことを意味しているのでした。この言葉の根拠になっている、リルケの普遍的な体験については、悲歌5番で論じた通りです(「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(2009815日):http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html))。数で言い表すことができない暖かさとは、いつも変わらぬ、尽きることのない暖かさという意味である。第2部ソネットXIIIを読むと、リルケは、それを自然の豊かさとの関係で考えているのです。

さて、第1連と第2連が、踊り子の時間の中での動き、過ぎ去るものを表現するその体の動きと、最後に決める旋回という垂直の樹木の実現を歌っているのに対して、第3連は、踊り子は自分自身の身を、いわば削るだけではなく、確かに果実を実らせるではないかということを歌っている。踊りの頂点の沈黙の樹木が担うものの証の果実として、壺と花瓶の名前をリルケは挙げるのです。これらは、いづれも、手の仕事の成果だと言いたいのでしょう。

手に関するリルケの独特の感覚と思想は、第1部ソネットVの第4連、第2部ソネットVIIの第1連(このソネットには娘の暖かさも出てきます)、第2部ソネットXIXの第3連に出てきます。手の仕事の成果であるKrug、クルーク、壺については、第1部ソネットVI4連、第2部ソネットVIIの第3連(ここでは娘の手もまた出てきます)、第2部ソネットXVの第4連でも繰り返し出てきます。

また、若い女性についての暖かさと踊りと果実については、第1部ソネットXVの第1連以下をご覧下さい。

2部ソネットXXIVの第1連第4行に出てくるKrug、クルーク、壺をみると、それは、都市と文明の豊かさの象徴として出てきています。ここで都市や文明が歌われているわけではありませんが、壺というと、果実であり、豊かさであることが歌われているのだと思います。それは、この女性が踊るということの結実の豊かさ、自然の豊かさです。

4連は絵画に言及しています。「独自の転回」と訳したドイツ語は、Wendung、ヴェンデゥング、即ち、第1部ソネットXIの第2連に出てきた、騎士の分岐点、分かれ目と同じ言葉です。ですから、ドイツ語の言葉の上では、今までの考察から、この別れることと変身とは繋がっているのです。第2部ソネットXIIで、

jener entwerfende Geist, welcher das Irdische meistert,
liebt in dem Schwung der Figur nichts wie den wendenden Punkt.

【散文訳】

地上的なるものを支配する、企図する精神、企画する精神は、姿の振動と跳躍の中に、転回点のような無を愛しているのだ。

と歌われていることを再び思い出しましょう。リルケは繰り返し同じ主題、同じ主調を歌っております。わたしは、これが考えるということ、思考することだと思います。思考は歳月を超える。

さて、こうして、踊ることは、幾つもの分岐を経験し、変身することだと言っている。踊り子の眉毛の動きの表現するものが、そのような変身の素描だとリルケは歌っているのです。絵画を踊りによる表現と結合した連だということができるでしょう。普通には思いもよらない接続だと思います。