2015年3月29日日曜日

【西東詩集111】 PARSI NAMEH BUCH DES PARSEN(パルシー教徒の巻):VERMÄCHTNIS ALTPERSISCHERN GLAUBENS


【西東詩集111】 PARSI NAMEH BUCH DES PARSEN(パルシー教徒の巻):VERMÄCHTNIS ALTPERSISCHERN GLAUBENS


【原文】

VERMÄCHTNIS ALTPERSISCHERN GLAUBENS

Welch Vermächtnis, Brüder, sollt’ euch kommen
Von dem Scheidenden, dem armen Frommen,
Den ihr Jüngeren geduldig nährtet,
Seine letzten Tage pflegend ehrtet?

Wenn wir oft gesehen den König reiten,
Gold an ihm und Gold an allen Seiten,
Edelstein’ auf ihn und seine Grossen
Ausgesät wie dichte Hagelschlossen,

Habt ihr jemals ihn darum beneidet?
Und nicht herrlicher den Blick geweidet,
Wenn die Sonne sich auf Morgenflügeln
Darnawends unzähligen Gipfelhügeln

Bogenhaft hervorhob? Wer enthielte
Sich des Blicks dahin? Ich fühlte , fühlte
Tausendmal, in so viel Lebenstagen,
Mich mit ihr, der kommenden, getragen,

Gott auf seinem Throne zu erkennen,
Ihn den Herrn des Lebensquells zu nennen,
Jenes hohen Anblicks wert zu handeln
Und in seinem Lichte fortzuwandeln.

Aber stieg der Feuerkreis vollendet,
Stand ich als in Finsternis geblendet,
Schlug den Busen, die erfrischten Glieder
Warf ich, Stirn voran, zur Erde nieder.

Und nun sei ein heiliges Vermächtnis
Brüderlichem Wollen und Gedächtnis:
Schwerer Dienste tägliche Bewahrung,
Sonst bedarf es keiner Offenbarung.

Regt ein Neugeborner fromme Hände,
Dass man ihn sogleich zur Sonne wende,
Tauche Leib und Geist im Feuerbade!
Fühlen wird es jeden Morgens Gnade.

Dem Lebenden übergebt die Toten,
Selbst die Tiere deckt mit Schutt und Boden,
Und so weit sich eure Kraft erstrecket
Was euch unrein dünkt es sei bedecket.

Grabet euer Feld ins zierlich Reine,
Dass die Sonne gern den Fleiß bescheine
Wenn ihr Bäume pflanzt, so sei’s in Reihen,
Denn sie lässt Geordnetes gedeihen.

Auch dem Wasser darf es in Kanälen
Nie am Laufe, nie an Reine fehlen;
Wie euch Senderud aus Bergrevieren
Rein entspringt, soll er sich rein verlieren.

Sanften Fall des Wassers nicht zu schwächen,
Sorgt die Gräben fleissig auszustechen;
Rohr und Binse, Molch und Salamander,
Ungeschöpfte! tilgt sie miteinander.

Habt ihr Erd’ und Wasser so im Reinen,
Wird die Sonne gern durch Lüfte scheinen,
Wo sie, ihrer würdig aufgenommen,
Leben wirkt, dem Leben Heil und Frommen.

Ihr, von Müh zu Mühe so gepeinigt,
Seid getrost, nun ist das All gereinigt,
Und nun darf der Mensch, als Priester, wagen
Gottes Gleichnis aus dem Stein zu schlagen.

Wo die Flamme brennt erkennet freudig:
Hell ist Nacht und Glieder sind geschmeidig,
An des Herdes raschen Feuerkräften
Reift das Rohe Tier- und Pflanzensäften.

Schleppt ihr Holz herbei, so tut mit Wonne,
Denn ihr tragt den Samen irdscher Sonne;
Pflückt ihr Pambeh, mögt ihr traulich sagen:
Diese wird als Docht das Heilge tragen.

Werdet ihr in jeder Lampe Brennen
Fromm den Abglanz höhern Lichts erkennen,
Soll euch nie ein Missgeschick  verwehren
Gottes Thron am Morgen zu verehren.

Da ist unsers Daseins Kaisersiegel,
Uns und Engeln reiner Gottesspiegel,
Und was nur am Lob des Höchsten stammelt
Ist in Kreis’ um Kreis dort versammelt.

Will dem Ufer Senderuds entsagen,
Auf zum Daranwend die Flügel schlagen,
Wie sie tagt ihr freudig zu begegnen
Und von dorther ewig euch zu segnen.

WENN der Mensch die Erde schätzet,
Weil die Sonne sie bescheinet,
An der Rebe sich ergötzte,
Die dem scharfen Messer weinet -
Da sie fühlt dass ihre Säfte,
Wohlgekocht, die Welt erquickend,
Werden regsam vielen Kräften,
Aber mehreren erstickend —:
Weiss er das der Glut zu danken
Die das alles lässt gedeihen
Wird Betrunkner stammelnd wanken,
Mäßiger wird sich singend freuen.


【散文訳】


古代ペルシャの信仰の遺言

どんな遺言が、同胞(はらから)よ、お前たちのところに来ることになっているのか
あの分かつ者から、あの貧しい敬虔なる者から
お前たち、より若い者たちが、忍耐強く養った其の者から
お前たちが、その者の最後の日々を大切にしながら、尊敬している其の者から


わたしたちは、王が騎行するのをよく見かけたが、そのたびごとに
王には黄金が、すべての場所には黄金が
王と王の高官たちの上へ、宝石が
密に詰まった雹(ひょう)の粒のように、種子が播(ま)かれた


お前たちは、それ故に、嘗(かつ)て王を羨望したのではないか?
そして、(王を視る)その視線をもっと楽しませなかったのではないか
太陽が朝の翼に乗って
ダルナベンド山脈の数限り無い、山の頂きの丘々に

弓なりになって、立ち上がった其の度ごとに?誰が
その光景を見るのを止めただろうか?わたしは感じた、感じたのだ
幾千回も、かくも沢山の人生(生命)の日々の中で
わたしが、太陽と一緒に、そのやって来るものと一緒に、運ばれるのを

玉座の上にゐる神を認識するために
神を、生命の源泉の主人と呼ぶために
あの高貴な姿に価するように行動するために
そうして、神の光の中で、更に前へと逍遥するために。

しかし、火の円環は、完成して登ったのだ
わたしは、闇の中でのように、目が眩(くら)んで、立ってゐた
胸を打ち、新鮮になった四肢を
わたしは、額を前にして、大地に投げた。

さて、こうして今や、神聖なる遺言は
同胞(はらから)の意志と記憶のために
(神への)重たき奉仕の、日々の維持(勤め)であれ
さなくんば、(神の)啓示など不要であった。

新しく生まれた者が、敬虔な両手を動かすと
この者を直ちに太陽に向けようと
体と精神を、火の浴湯の中に浸(ひた)せ!
日々の朝の(神の)恵みを感じることになるのだから。

生きている者に、死者たちを譲るがいい
動物さへをも、瓦礫と土で覆ふのだ
そして、お前たちの力の伸びて及ぶ限り
お前たちにとって不純に思えるもの、これは覆われてあれ。

お前たちの野原を、優美な純粋なるものの中へと埋めるのだ
太陽が、喜んで勤勉を照らすために
お前たちが数々の樹木を植えるのであれば、秩序正しく植えるがいい
何故ならば、太陽は、秩序立てられたものを繁栄させるからだ。

水もまた、数々の運河の中にあって
走ることにも、純粋であることにも、決して不足することはない
お前たちから、センデルート河が、鉱山警察管区の中から外へと
純粋に飛び出して来るように、センデルート河は、純粋に消失する運命にあるのだ。

水の柔らかな瀧を、弱めないようすることに
数々の墓を勤勉に掘って、中のものを取り出すことに心を砕きなさい
葦とヨシを、井守(イモリ)と蜥蜴(とかげ)を
これらの汲めど尽きないものたち!これらを、互いに互いを使って、消去しなさい。

大地と水を、そのように、純粋なるものの中に持ちなさい、そうすれば、
太陽は、喜んで、空気を貫いて輝き
太陽は、大地と水にふさわしいように受け入れてくれて
生命を働かせ、生命に安寧とご利益を授けてくれる。

お前たちは、苦労から苦労へとかくも苛(さいな)まれているが
慰められてあれ、こうして今や、宇宙が純粋になったのだから
そうして、今や、人間は、僧侶のように、果敢にも
神の似姿(火花)を、石の中から(鑿を加えて)打ち出すことが許されているのだから。

炎が燃える場所で、喜んで認識するがいい、即ち
夜は明るく、四肢は柔らかく、しなやかになり
竈(かまど)の性急な火の諸力に触れて
生(なま)のものが、動物や植物の液体を熟成させるのだ。

お前たちの材木をひきづって持って来い、歓喜を以って、そうするのだ
というのは、お前たちは、地上の太陽の種子を運んでいるのだからだ
お前たちのパムベー(綿花)を引き抜くがいい、そうして、のびのびと気持ちよく、こう言うがいいのだ:
パムベー(綿花)は、ランプの芯として、神聖なるものを運ぶことになるのだ、と。

お前たちは、どのランプの燃え盛る 中にも
敬虔に、より高貴な光の反照を認識するならば
神の玉座を、朝になって礼拝することを
不運や災難が拒むことはないのだ。

そこで、(ランプは)わたしたち此の世の身分の者の持つ皇帝の印章ということになるのだ
わたしたちと天使たちにとっては、純粋な神の鏡だ
そして、最高のものの賞賛にのみ吃るものが
環(わ)になり 環を重ねて、そこに集まっているのだ。

わたしが、センデルード河の岸辺を断念して
ダランヴェンド山脈を目指して、両の翼を以って羽ばたきたい
その山々が朝を迎える通りに、山々に喜んで出逢うために
そして、そこから永遠に、お前たちを祝福するために。

もし人間が大地を大切に思うならば
何故ならば、太陽は大地を照らすという理由で
鋭いナイフに(切られることに)泣くことになる其の
葡萄の蔓に慰めを得て、太陽は楽しむのであるという理由で
そうであれば、太陽は、葡萄の蔓の樹液が
よく煮立てられて、世界を慰めながら
たくさんの力の元で活発に動くようになる
しかし、それ以上多くのものを窒息させながらー
ということを感じるのである。即ち、
もし人間が、それを、こういったこと総てを繁栄させる炎熱に感謝することができるならば
酔っ払いは、吃りながら、よろめき歩くことになり
もっと節度をもって、歌いながら、楽しむことになるだろう。


【解釈と鑑賞】

これは、古代ペルシャの拝火教、ゾロアスター教の僧侶の言葉を詩に仕立てたものです。

第一連の、

あの分かつ者から、あの貧しい敬虔なる者から
お前たち、より若い者たちが、忍耐強く養った其の者から
お前たちが、その者の最後の日々を大切にしながら、尊敬している其の者から

と謳われている、これらの者とは、この僧侶たる話者でありましょう。

この者は、分かつ者、関係を裁断するものであり、同時に貧しく敬虔なる者だと呼ばれています。興味ふかいことは、この者を、より若い世代が育てるのだと歌われていることです。

この分かつ者という呼び名は、最後から二つ目の連の、

わたしが、センデルード河の岸辺を断念して
ダランヴェンド山脈を目指して、両の翼を以って羽ばたきたい
その山々が朝を迎える通りに、山々に喜んで出逢うために
そして、そこから永遠に、お前たちを祝福するために。

という言葉からわかるように、最後にはセンデルード河の流れる町を遠く離れて、ダランヴェンド山脈の中に行って、そこで永遠の命を得て、そのより若いものたちを祝福するのだというのです。

巻末の註釈によれば、センデルード河は、Ispahanという都市の中を流れている河で、その源泉は、ダランヴェンド山脈の中にあるとのことです。ペルシャの古代の旅行記にはそうあると書いております。

そうして、このイスパハンという都市の南に、ダランヴェンド山脈があります。

このゲーテの詩の背景にある歴史的事実は何かといえば、それは、アッバス朝のシャーのうち、偉大なるシャーと呼ばれたシャーの時代に、このシャーがそれまで迫害されて、また所払いにあっていた古い宗教の信者たちを、自分の王宮のある町、即ちイスパハンの、城壁の外にあるGaurabadという土地を譲り、そのために、古い宗教の僧侶である此の詩の話者もイスパハンを出て、従い、最後から二連にあるように町を去り、「センデルード河の岸辺を断念して」「ダランヴェンド山脈」を目指して飛翔することになったということなのです。

恐らく、イスパハンの、城壁の外にあるGaurabadという土地では生きて行けないことであったのでせう。そのような苛烈な植民、移住であったのでせう。

ですから、この巻一巻を当てた此の詩は、年老いた拝火教の僧侶が、若者たちに別れを告げる 遺言の詩であるということができるのです。

それ故の、この詩の題名なのです。

この詩を読みますと、ゾロアスター教の教えは、太陽を礼拝し、その火を尊び、火がすべてを消滅させると共に、すべてを純化してくれる火の中の火であるということです。

しかし、他方、第十一連に、

水もまた、数々の運河の中にあって
走ることにも、純粋であることにも、決して不足することはない
お前たちから、センデルート河が、鉱山警察管区の中から外へと
純粋に飛び出して来るように、センデルート河は、純粋に消失する運命にあるのだ。

とあるように、火を打ち消す水の流れもまた純粋であり、消失する、純粋なものは消失すると考えられています。

最後から3つめの連の、

そこで、(ランプは)わたしたち此の世の身分の者の持つ皇帝の印章ということになるのだ
わたしたちと天使たちにとっては、純粋な神の鏡だ
そして、最高のものの賞賛にのみ吃るものが
環(わ)になり 環を重ねて、そこに集まっているのだ。

とある最後の行の 環は、炎の環であるかも知れません。

しかし、そうとっては、あるいは意味が狭くなるかと思いましたので、そのままに訳しました。この環は、しかし、闇の中にあって、確かに炎の環を含むものだと思います。

この地上にある相反するもの、相矛盾するものをそのままに尊び、その対立と矛盾を炎によって浄化する、それも第七連にあるように、

同胞(はらから)の意志と記憶のために
(神への)重たき奉仕の、日々の維持(勤め)であれ

というこころを以って、日々精進する生活を通じて、その浄化があるということなのです。

この一巻をそのまま、このような一篇の詩を以って当てたゲーテの意図や如何に。これは、このままゲーテの遺言であることは間違いがないでありませう。

詩人は、このように自国からも距離ををかずにはゐられないのです。

次回は、西東詩集最後の巻、天国の巻に入ります。




Psalm(聖歌):第14週 by Hanns Dieter Hüsch(1925 ー 2005)

Psalm(聖歌):第14週 by  Hanns Dieter Hüsch(1925 ー 2005)
 


【原文】

Ich bin vergnügt
Erlöst
Befreit
Gott nahm in seine Hände

Meine Zeit
Mein Fühlen Denken
Hören Sagen
Mein Triumphieren
Und Verzagen
Das Elend und die Zärtlichkeit

Was macht dass ich so fröhlich bin
In meinem kleinen Reich
Ich sing und tanze her und hin
Vom Kindbett bis zur Leich

Was macht dass ich so furchtlos bin
An vielen dunklen Tagen
Es kommt ein Geist in meinen Sinn
Will mich durchs Leben tragen

Was macht dass ich so unbeschwert
Und mich kein Trübsal hält
Weil mich mein Gott das Lachen lehrt
Wohl über alle Welt.


【散文訳】


わたしは満足している
救済され
自由である
神が其の 両の御手に引き取ったのだ

わたしの時間(時代)
わたしの感情、わたしの思考
わたし聴聞、わたしの発言
わたしの勝利
そして、わたしの落胆
悲惨と恋情

わたしがかくも陽気でいるのは何故だ
わたしの小さな帝国の中で
わたしは、歌い、あちこち行ったり来たりと踊り廻っている
子供の寝床(ベッド)から屍体に至るまで

わたしがかくも恐れ知らずでいるのは何故だ
たくさんの暗い日々に
ある精神が、わたしの感覚の中に入って来て
わたしを生命(人生)の中を運ぶというのだ

わたしがかくも不平を鳴らさずに
そして、わたしを、どんな悲嘆も捉えないのは何故か
なぜならば、わたしに、わたしの神が笑うことを教えるからだ
大いに全世界を笑うことを



【解釈と鑑賞】

この詩人の、Wikipediaです。勿論ドイツの詩人です。

Wikipedia:http://de.wikipedia.org/wiki/Hanns_Dieter_H%C3%BCsch

この詩人は何よりもキャバレティス トでありました。キャバレーでのその語りと音楽を、この動画で視聴することができます。

http://goo.gl/PkPJiR

キャバレーというのは、日本の世界とは異なり、女性が侍って接待するような場所ではなく、それは日本語の世界ならば、寄席というべきものです。ですから、この動画は、ドイツの寄席で話し、客席を笑わせる此の詩人の姿です。

最後の連には、この詩人が子供のころ、足の格好が生まれつき良くなくて、何度も手術を受けたとWikipediaにあるように、スリッパも履けず、靴も普通のものは履けないので、友達がいなかったとありますので、そのような幼年時代の反映があるのでしょう。

それ故に、キャバレティストであるのでしょう。






【Eichendorfの詩110】Der Riese(巨人)


【Eichendorfの詩110】Der Riese(巨人)  
 

 

【原文】


Es saß ein Mann gefangen
Auf einem hohen Turm,
Die Wetterfähnlein klangen
Gar seltsam in den Sturm.

Und draußen hört' er ringen
Verworrner Ströme Gang,
Dazwischen Vöglein singen
Und heller Waffen Klang.

Ein Liedlein scholl gar lustig:
Heisa, solang Gott will!
Und wilder Menge Tosen;
Dann wieder totenstill.

So tausend Stimmen irren,
Wie Wind' im Meere gehen,
Sich teilen und verwirren,
Er konnte nichts verstehen.

Doch spürt' er, wer ihn grüße,
Mit Schaudern und mit Lust,
Es rührt' ihm wie ein Riese
Das Leben an die Brust.



【散文訳】

ある男が、囚(とらわ)れの身となって、座していた
高い塔の上に
数々の風見の旗が
嵐の中に鳴り響くことも極く稀だった。

そして、外に、男は
混乱した数々の嵐の道行が格闘するのを聞き
その合間に、小鳥たちが歌を歌うのを聞き
そして、明朗なる武器の響きを聞いた。

小さく可愛らしい歌が、極く陽気に鳴り響いた:
おや、まあ、神の思し召しのある限り!
そして、野生の群衆の騒擾
と、再び、死の静けさ。

このように幾千もの声が、さ迷っている
数々の風が海の中を行くように
別れ別れて、もつれもつれて
男は、何も理解することができなかった。

しかし、男は、誰が挨拶をしているのかを感じていた
戦慄を以って、陽気を以って
巨人のように、生命は、その胸に抱いて
男を感動させたのだ。



【解釈と鑑賞】

この男と有るのは、アイヒェンドルフと考えても良いでしょう。

しかし、大切なことは、男という第三者の名前で、自分ではないものとして、歌ったことです。この置き換えは、文学にとっては、本質的なあることを意味しています。

そうして、この男は、高い塔に囚われている。

私は、この詩の第一連を読んで、そうして風見の旗という言葉を見て、直ぐにヘルダーリンという、やはり高い塔に棲んでいた詩人、狂気のままにそこに棲んでいた詩人のことを思いました。

ヘルダーリンの詩に、風見の旗(風信旗)を歌った、『生の半分』と題した次の詩があります[http://shibunraku.blogspot.jp/2011/01/blog-post_1654.html]。

「黄色の梨とともに
 そして、野生の薔薇で一杯になりながら
 陸が、湖の中へと掛かっているよ
 お前たち、わたしの好きな白鳥たちよ
 そして、口づけに陶酔して
 お前たちは、頭を
 神聖に醒めている水に浸(ひた)しているのだね

 ああ、わたしは悲しい、冬であれば
 わたしはどこで花々を摘み、
 どこで太陽の光を
 そして、どこで地上の影を
 とることがあるだろうか
 壁が連綿と無言に冷たく立っていて、風の中には
 旗という旗(風見の旗)が音を立ててはためいているのだ」

アイヒェンドルフとヘルダーリンは、生きた時代が重なっておrますので、やはり、アイヒェンドルフは、この詩人のことを思い、そうして、それが我がことであることを思って、共感して、この詩を書いたものだと思われます。

ヘルダーリンのWikipediaです:http://goo.gl/uXw3NG

このWikipediaには、ヘルダーリンの棲んだ塔の写真があります。

最後の連の、

Doch spürt' er, wer ihn grüße

とある、このwer ihn grüßeのgrüßeが、接続法I式になっている此の感じ(意味)を日本語にすることが難しい。

間接話法ですので、wer ihn grüßtではなく、それとは違い、内面の声、この男の内面の声という感じが致します。






2015年3月21日土曜日

【西東詩集110】 ES IST GUT(佳きかな)

【西東詩集110】 ES IST GUT(佳きかな)


【原文】

BEI Mondschein im Paradeis
Fand Jehova im Schlafe tief
Adam versunken, legte leis
Zur Seit ein Eichen, das auch entschlief.
Da lagen nun, in Erdeschranken,
Gottes zwei lieblichste Gedanken. —
Gut!! rief er sich zum Meisterlohn,
Er ging sogar nicht gern davon.

Kein Wunder dass es uns berückt,
Wenn Auge frisch in Auge blickt,
Als hätten wirs so weit gebracht
Bei dem zu sein der uns gedacht.
Und ruft er uns, wohlan! es sei!
Nur, das beding ich, alle zwei.
Dich haben dieser Arme Schranken,
Liebster von allen Gottes-Gedanken.



【散文訳】

天国の月の光の元に
エホバは、アダムが眠りの中に深く
沈んでゐるのを見つけ、そつと
脇に、小さな卵ををいた、その卵もまた眠り込んだ。
そこには、かうして今や、地上の幾つもの棚の中に
神の最も愛する二つの思想が横たわっていた。
佳きかな!と、出来栄えの佳さに、神は自分自身に叫んだ
神は、そこから立ち去らうとさへ、なかなかしなかった。

恰も、わたしたちの事を思つた者の元にいる
ことになるようにと、わたしたちが事を運んだかの如くに
目が新鮮に目の中を見るほどに近く相対するならば
それが、わたしたちを魅惑するのは
何の不思議も無いことだ
そして、神は、さあさあ!よし!と、わたしたちに叫けぶ
私は、ただ二人である者達だけに限って、かうしてをきたいだけなのだ。
お前を、この 両の腕(かひな)の棚が所有するのだ
すべての神の思想の中の最も愛すべき思想よ。


【解釈と鑑賞】

この詩では、ゲーテ(話者)と、歌われている神とが一体となつてゐます。

特に、第二連の最後の、

私は、ただ、二人ともに、かうしてをきたいだけなのだ。
お前を、この 両の腕(かひな)の棚が所有するのだ
すべての神の思想の中の最も愛すべき思想よ。

といふ箇所では、さうなつてゐます。

しかし、第一連で、神は何故アダムの傍に卵ををくのでせうか。

これが謎です。

第二連の、

恰も、わたしたちの事を思つた者の元にいる
ことになるようにと、わたしたちが事を運んだかの如くに
目が新鮮に目の中を見るほどに近く相対するならば
それが、わたしたちを魅惑するのは
何の不思議も無いことだ

とあるこの詩行は、神がそつとアダムの傍に卵ををいて、この詩行で歌はれた通りになつてゐることをいつてゐるのでせう。

それと同時に、この詩行は、神の御心を、人間のこのやうな心情から推し量って、第一連で神がアダムと卵の傍を立ち去り難かつたことの理由を述べてゐます。

神の仕事を人間の仕事の場合に置き換えてゐるのです。

さうして、

Nur, das beding ich, alle zwei.

といふ一行をだう解釈するかをあれこれと思案をして、このalle zweiをだう取るかといふと、

1。アダムと卵
2。すべての二人組みのものたち

といふ二つの解釈が成り立つと考へました。

上記2の考へから、この詩を歌つてゐるのは、女性だと考へると、第2連の最後の二行、即ち、

お前を、この 両の腕(かひな)の棚が所有するのだ
すべての神の思想の中の最も愛すべき思想よ。

のお前をのお前が、男性であることの説明がつくと考へました。

さう思へば、何故第一連で、神がアダムの傍に卵ををくのかの説明もつくやうに思ひます。

すると、第二連のわたしたちという複数二人称は、恋人同士の二人、即ちハーテムとズーライカといふことになります。その名前は、この詩の中のどこにも出て参利ませんけれども。

しかし、ゲーテは何故この寓話の巻の最後にこの詩を措いたのでせうか。

この最後の詩は、真ん中のWunderglaube(奇蹟を起こす信心)を挟んで、最初の無題の詩に対応し、照応してゐるのだと、わたしは思ひます。

冒頭の詩にある真珠のこころを以って、2番目の詩、即ち Wunderglaube(奇蹟を起こす信心)といふ寓話詩にある数々の局面での苦労を凌いで生きることができれば、最後のこの、ES IST GUT(佳きかな)といふ神に嘉(よみ)されるところに至るといふことなのではないでせうか。

しかし、確かなことは、この詩中で、ゲーテは、神であり、アダムであり、卵であり、話者たる女性であるといふ事です。

言葉との関係で、実に変幻自在、自由自在、融通無碍の境地にゐるゲーテがゐることになります。



Scheidung(離婚):第13週 by Wistawa Szymborska(1923 ー 2012)

Scheidung(離婚):第13週 by  Wistawa Szymborska(1923 ー 2012)


【原文】

Für die Kinder der erste Weltuntergang im Leben.
Für die Katze ein neues Herrchen.
Für den Hund ein neues Frauchen.
Fuer die Moebel Treppen, Krach, rauf und runter.
Für die Wände hellte Quadrate von den abgenommenen Bildern.
Für die Nachbarn unten ein Thema, das die Langweile verstreut.
Für's Auto wär's besser, wenn es zwei davon gäbe.
Für den Roman, das Gedicht - in Ordnung, nimm, was du willst.
Schlechter sieht's aus mit Enzyklopädie und Videoanlage,
ja, und mit dem Handbuch für Rechtschreibung,
wo wahrscheinlich Hinweise sind auf  zwei Anmahne -
soll man sie noch mit der Konjunktion 》und《 verbinden
oder schon mit einem Punkt trennen.


【散文訳】

子供達にとつては、人生の最初の没落が
猫にとっては、新しい主人が
犬にとつては、新しい奥さんが
家具にとつては、階段、どしんといふ墜落の音、上へ下への。
壁にとつては、取り外づされた絵の跡の明るい四角形が
隣人にとつては、退屈を紛らはせてくれる同じ主題が
自動車にとつては、二台ある方が、もつとよかつただらうに
小説や詩にとつてはー結構なこと、お前の好きなものを取つて行きなさい
もっと悪く見えるのは、百科事典とヴィデオ装置
そう、そして、正書法の手引書(ハンドブック)
そこには、多分、二つの名前を示すものがあつてー
世間は、二つの名前を、まだ》と《という接続詞で結ぶことになるのか
それとも、既に一つのピリオド、終止符を打って、分けることになるのか。


【解釈と鑑賞】

この詩人の、Wikipediaです。ポーランドの有名な詩人です。1996年のノーベル文学賞受賞者です。

毎年このカレンダーに登場します。去年とは違う写真を掲載しました。

日本語のWikipedia:http://goo.gl/bRFrld
ポーランド語のWikipedia:http://pl.wikipedia.org/wiki/Wis%C5%82awa_Szymborska

この詩人の朗読を、この動画で視聴することができます。

http://goo.gl/KV2H7J

この詩人の離婚を歌った詩なのでせう。

さうして、最初の二行と三行を読みますと、詩人の方が家を出たのでせう。

子供は家に残り、母親である話者が家を出たのです。

さうして、

そう、そして、正書法の手引書(ハンドブック)
そこには、多分、二つの名前を示すものがあつてー
世間は、二つの名前を、まだ》と《という接続詞で結ぶことになるのか
それとも、既に一つのピリオド、終止符を打って、分けることになるのか。

といふ最後のところは、やはり何か控えめで、品のある、感情に走らない、この詩人の言葉の才を見せていると思ひます。

写真の通りの人柄であつたのではないかと思腫れます。

幾つもの写真を見ますと、この詩人の癖は、胸の上、顎の辺りから頬にかけてのところに手をやつて触れるという仕草をする人であつたやうです。

【Eichendorfの詩109】Die Freunde5-3(友達5の3)


【Eichendorfの詩109】Die Freunde5-3(友達5の3)  
  



【原文】

In Stein gehauen, zwei Löwen stehen draussen,
Bewachen ewig stumm die heil'ge Pforte.
Wer sich, die Brust voll Weltlust, naht dem Orte,
Den füllt ihr steinern Blicken bald mit Grausen.

Dir wächst dein Herz noch bei der Wälder Sausen,
Dich rühren noch die wilden Riesenworte,
Nur Gott vertrauend, dem höchsten Schirm und Horte−
So magst du bei den alten Wundern hausen.

Ob auch die andern deines Lieds nicht achten,
Der Heldenlust und zarten Liebesblüte,
Gedanken treulos wechselnd mit der Mode:

So felsenfester sei dein grosses Trachten,
Hau klingend Luft dir, ritterlich Gemüte!



【散文訳】

石の中に切り込まれて、二頭の獅子が外に立つている
永遠に黙つて、神聖なる門を見張つてゐる
胸を現世の快楽で一杯にして、その場所に近づく者がゐれば
その者を、二頭の石の視線が、直ぐ様ぞつとする恐怖で満たすのだ

お前の心臓は、まだ森といふ森の轟々と鳴る所で、成長し
お前を、まだ、野生の巨きな言葉たちが感動させてゐて
神だけを信頼しながら、最高の庇護と財宝のもとで(お前の心臓は成長している)ー
このやうに、お前は古い、懐かしい数々の奇蹟の元に棲んでゐる。

他の者たちも、お前の歌に注意を払はないだらうか
英雄の愉楽と柔和な愛の精華には注意を払はないだらうか
といふ考へが、慰めも無く世俗の流行と交代しながら。即ち、

かくも巌のやうにより硬くあれ、お前の偉大な志は
音響かせて、お前の空気を切り込むのだ、騎士の心情よ!
(といふ考えが)



【解釈と鑑賞】



連詩5篇からなる詩『友達』の第5の3の詩です。

石の中に切り込まれて、二頭の獅子が外に立つている
永遠に黙つて、神聖なる門を見張つてゐる

とある最初の出だしの門の中の向かうに、お前と呼ばれる詩人はゐるのです。

そこは、第2連にあるように、

古い、懐かしい数々の奇蹟の元

なのです。

この永遠の場所が、どんなに素晴らしい場所かが、第2連で歌われてをります。

この森のある、森の中の世界は、いつもの変わらぬアイヒェンドルフの世界です。

この世界の中へは、世俗の快楽をしか知らぬ者は入ることができません。二頭の獅子の視線に当たると、怖気付いてしまふからです。

さて、しかし、第3連と第4連を読みますと、この詩人は、その森の世界の門の扉を開けて、世俗の世界へと脚を踏み入れるのではないかと予感されます。

世俗の世界に棲む人間たちの心がわからないので、あれこれを思つてみるのです。さうして、最後に、

かくも巌のやうにより硬くあれ、お前の偉大な志は
音響かせて、お前の空気を切り込むのだ、騎士の心情よ!

と、その出発の決心と覚悟が歌われてをります。











2015年3月15日日曜日


【Eichendorfの詩108】Die Freunde5-2(友達5の2)


【Eichendorfの詩108】Die Freunde5-2(友達5の2)
  
  


【原文】


Von Seen und Wäldern eine naechtig' Runde
Sah ich, und Drachen ziehn mit glühenden Schweifen,
In Eichelwipfeln einen Horst von Greifen,
Das Nordlicht schräge leuchtend überm Grunde.

Durch Qualm dann klingend brach die Morgenstunde,
Da schweiften Ritter blank durch Nebelstreifen,
Durch Winde scharf, die auf der Heide pfeifen,
Ein Hafner sang, lobt' Gott aus Herzensgrund.

Tiefatmend stand ich über diesen Klüften,
Des Lebens Mark rührt' schauernd an das meine,
Wie ein geharnischter Riese da erhoben.

Kein ird'scher Laut mehr reichte durch die Lüfte,
Mir war's, als stände ich mit Gott alleine,
So einsam, weit und sternhell war's da oben.



【散文訳】

数々の海と数々の森の、一つの夜毎の円陣を
わたしは見た、そして、数々の龍が、燃え輝く尻尾をして
柏の木の頂きの中に、グリフィンの財宝を引いて行くのを
北極光が、斜めに傾(かし)いで光りながら地上の上にあるのを。

煙雲の中を通って、次に、音を響かせながら発したのは、曙光だ
と、騎士が、霧の帯の中を通って白く輝きながら遊弋していた
荒野の上で笛を吹く数々の風を鋭く通り抜けて
一人の陶工が歌った、こころの底から神を褒め称えた。

深く息をしながら、わたしはこれらの峡谷の上に立っていた
生命の髄が、震ひ慄(おのの)きながら、わたしの髄に触れてきた
そこに立ち上がった、甲冑を身に纏(まと)った巨人のやうに。

地上の音は、もはや、空気を通っては届かなかった
わたしは、恰も神と二人だけで立っているかの如くであった
その上は、かくも孤独に、遥かに、そして星の明るさであった。


【解釈と鑑賞】



連詩5篇からなる詩『友達』の第5の2の詩です。

小説の場合でもそうですが、このような幻想夢幻の言葉を連ねると、アイヒェンドルフの世界が現出します。
これは、このまま味わう以外にはありません。











【西東詩集109】 Wunderglaube(奇蹟を起こす信心)

【西東詩集109】 Wunderglaube(奇蹟を起こす信心)


【原文】

ZERBRACH einmal eine schöne Schal
Und wollte schier verzweifeln,
Unart und Übereil zumal
Wünscht ich zu allen Teufeln.
Erst ras’t ich aus, dann weint ich weich
Beim traurigen Scherbelesen,
Das jammerte Gott, er schuf es gleich
So ganz als wie es gewesen.


DIE Perle die der Muschel entrann,
Die schönste, hochgeboren,
Zum Jeweliger, dem guten Mann,
Sprach sie: Ich bin verloren!

Duchbohrst du mich, mein schönes All
Es ist sogleich zerrüttet,
Mit Schwestern muß ich, Fall für Fall,
Zu schlechten sein geküttet.

》Ich denke jetzt nur an Gewinn,
Du muß es mir verzeihen:
Denn wenn ich hier nicht grausam bin,
Wie soll die Schnur sich reihen?《


ICH sah, mit Staunen und Vergnügen,
Eine Pfauenfeder im Koran liegen:
Willkommen an dem heiligen Platz,
Der Erdgebilde höchster Schatz!
An dir wie an des Himmels Sternen
Ist Gottes Größe im Kleinen zu lernen;
Daß er, der Welten überblickt,
Sein Auge hier hat aufgedrückt,
Und so den leichten Flaum geschmückt
Daß Könige kaum unternahmen
Die Pracht des Vogels nachzuahmen.
Bescheiden freue ich dich des Ruhms,
So bist du wert des Heiligtums.


EIN Kaiser hatte zwei Kassiere,
Einen zum Nehmen, einen zum Spenden;
Diesem fiel nur so aus den Händen,
Jener wußte nicht woher zu nehmen.
Der Spendende starb; der Herrscher wußte nicht gleich
Wem das Geber-Amt sei anzuvertrauen,
Und wie man kaum tat um sich schauen,
So war der Nehmer unendlich reich;
Man wußte kaum vor Gold zu leben,
Weil man Einen Tag nichts ausgeben.
Da ward nun erst dem Kaiser klar
Was schuld an allem Unheil war.
Den Zufall wußte er wohl zu schätzen
Nie wieder die Stelle zu besetzen.


ZUM Kessel sprach der neue Topf:
Was hast du einen schwarzen Bauch!
》Das ist bei uns nun Küchgebrauch;
Herbei, herbei du glatter Tropf,
Bald wird dein Stolz sich mindern.
Behält der Henkel ein klar Gesicht,
Darob erhebe du dich nicht,
Besieh nur deinen Hintern.《


ALLE Menschen groß und klein
Spinnen sich ein Gewebe fein,
Wo sie mit ihrer Scheren Spitzen
Gar zierlich in der Mitte sitzen.
Wenn nun darein ein Besen fährt,
Sagen sie es sei unerhört,
Man habe den größten Palast zerstört.


VOM Himmel steigend Jesus bracht
Des Evangeliums ewige Schrift,
Den Jüngern las er sie Tag und Nacht;
Ein göttlich Wort es wirkt und trifft.
Er stieg zurück, nahm wieder mit;
Sie aber hatten gut gefühlt,
Und jeder schrieb, so Schritt vor Schritt,
Wie erst in seinem Sinn behielt,
Verschieden. Es hat nichts zu bedeuten:
Sie hatten nicht gleiche Fähigkeiten;
Doch damit können sich die Christen
Bis zu dem Jüngsten Tage fristen.



【散文訳】

ある時、美しい肩掛けが破れました
そして、私は、全く自暴自棄にならうとしました
特に無作法の起こることと、何でも早く早くと火急に急(せ)かすことを
私は、あらゆる悪魔に向かって願いました。
私は、まづさんざんに暴れて胸をすかし、次に多感に泣きました
悲しく破片を拾っていると
それを神が嘆いて、直ちに旧に復してくれました
かうして、以前と全く同じようになりました。



貝殻からまろび出た真珠は
最も美しく、高貴の生まれの真珠は
宝石商の、善良なる男に向かって
話しかけました:わたしはお終いだ!

お前は、私の美しい宇宙よ、私に穴を開けるのですね
(わたしは)直(ただ)ちに紊乱するのですよ
姉妹の真珠と一緒に、一つ一つ場合を弁(わきま)えながら
しっかりと繋ぎ合せてもらうには、私は余りに拙劣である以外にはないのですから。

》私は、これからは自分の利益のことのみを考えます
お前は、私がそうすることを許さなければならないのです
というのも、もし私がここで不人情ではないとしたら
紐は、どうやって整列したらよいのでしょうか?《



私は見たのです、驚きと満足を以って、
孔雀の羽がコーランの中にあるのを
ようこそ、神聖な場所にいらっしゃいました
地上の創造物の内の最高に美しい宝物(孔雀の羽)よ!
お前(孔雀の羽)に、天の星々にと同様に、お前に
神の偉大は、小さなものの中で学ばれるものだ
神が、数々の世界を眺望し給ふ神が
その目(孔雀の紋様)を、ここに押し当てたのです
そして、かうして軽い和毛(にこげ)を飾ったので
王様達は、鳥の華麗を模倣しようとは
ほとんどしませんでした
謙虚に、私はお前(孔雀の羽)を、その名声の事で喜ばせるのです
かやうに、お前は神聖なる此の場所に値するのです。



ある皇帝が、二人の会計(出納)係を雇っていました
一人は取る係、もう一人はお布施をする係として
後者は、ただ両手の中からのみ落ちるように施し
前者は、どこから取るのかは知りませんでした。
お布施をする係が死にました。主人は
お布施の公務を、誰に委託するものかは直ぐには分かりませんでした
そして、自分の周囲を見回すや
取る係の者が、際限なく豊かになっておりました
この係の者は、黄金を前にして、生きるすべをほとんど知りませんでした
何故ならば、1日たりとも何も支出をしなかったからです。
すると、こうして今や、皇帝にとって明らかになったことは
何が総ての災厄の罪であったかということでした。
決して二度とその地位を占有しないという
偶然の価値を、自分でよく評価することができたのです。



薬缶に、新品の壺がこう言いました:
お前は何という黒い腹をしているんだ!
》それこそ、俺たち薬缶の世間では、台所使いというんだ
だから、だから、お前ピッカピカの阿呆よ
ぢきに、お前の自慢も小さくなって行くのだ。
壺の取っ手は、輝いた顔をしてピカピカだが
その為に、お前は自分を持ち上げられなからう
お前の尻をよくよく見るんだな《



総ての人間たちは、大きい奴も小さい奴も
織物を素敵に織るものだ
そのハサミのとんがった先で
真ん中に座っている場所では、全く優美に。
もしその真ん中で、箒が行き来していたら
人間どもは、そいつは前代未聞だと言うのさ
最大の宮殿を滅茶滅茶にしたのだと言ってね。



天から降りてきながら、イエスは
福音の永遠の文書を持ってきた
イエスよりも若い者たちに、昼も夜もこれを読んで聞かせた
聖なる言葉があり、それが効いて、肯綮に当たる。
イエスは天に戻って行き、再び福音を取って来た
しかし、若い者たちはよく感じて
そして、誰もが、そのように一歩一歩と、書き留(と)めた
まづ自分の心の中で留めておくところに従って
様々に。何が意味があるというものではないのだ。
つまり、若い者達は、同じ能力を持っていなかったのだ
しかし、それによって、キリスト教徒は
最後の審判の日までの命の猶予があり得るのだ。


【解釈と鑑賞】

題名のWunderglaubeというドイツ語は、論理的には、二つの意味があります。

一つは、その信仰の強さや見事な様が奇蹟のやうである場合。まうひとつは、奇蹟を信ずる信仰である場合。

辞書に当たると、後者の訳となりました。

さて、さうだとして、この詩といふよりは詩篇の一つ一つを訳してみると、このWunderglaube、wonder-belief、奇蹟を信ずる信仰というゲーテの名付けた名前は誠に辛辣な名前であることが判ります。

この7つの詩が、すべてwonder-beliefなのだというのがゲーテの意図なのでせう。

このやうに考へて来ると、冒頭に解釈した最初の意味、即ちその信仰の強さや見事な様が奇蹟のやうである信仰といふこの解釈が、しかも辛辣な意味を伴って、あり得るといふことを考えることができます。恰も、料理の隠し味の香辛料のやうに。

この一つ一つの詩をどのように理解をするのかは、全く読者に委ねられてゐるといふのがゲーテの意図ではないでせうか。

しばし、お楽しみあれかし。




Zu einem Besuch(ある訪問に際して):第12週 by Melih Cevdet Anday(1915 ー 2002)

Zu einem Besuch(ある訪問に際して):第12週 by  Melih Cevdet Anday(1915 ー 2002)


【原文】

Wenn ich zu einem Besuch ginge
Wenn man mir ein sauberes Bett richtete
Wenn ich alles, auch meinen Namen vergäße
Und einschliefe...


【散文訳】

もし、わたしがある訪問に際して、尋ねて行き
もし、わたしに清潔な寝床を設(しつら)えてくれ
もし、私が、総てのものを、わたしの名前も、忘れるとしたら
そして、眠りに入るとしたら...


【解釈と鑑賞】

この詩人の、Wikipediaです。トルコのの詩人です。

トルコ語のWikipedia:http://tr.wikipedia.org/wiki/Melih_Cevdet_Anday

接続法II式で書かれた詩です。

即ち、この世の話ではない。

単純な詩ですが、味わいのある詩です。

現実は、すべてこの逆で、

わたしは誰をもおとなふことなく
わたしは清潔な寝床をしつらえてもらえず
私は、総てを記憶し、自分の名前さへも覚えなければならず
そして、眠りが浅い

といふことになりませうか。

2015年3月7日土曜日

【西東詩集108】 MATHAL NAMEH BUCH DER PARABELN(寓話の巻)


【西東詩集108】 MATHAL NAMEH   BUCH DER PARABELN(寓話の巻)


【原文】

VOM Himmel sank in wilder Meere Schauer
Ein Tropfe bangend, grässlich schlug die Flut,
Doch lohnte Gott bescheidnen Glaubensmut
Und gab dem Tropfen Kraft und Dauer.
Ihn schloss die stille Muschel ein.
Und nun, zu ewgem Ruhm und Lohne,
Die Perle glänzt an unsers Kaisers Krone
Mit holdem Blick und mildem Schein.

BULBULS Nachtlied, durch die Schauer,
Drang zu Allahs lichtem Throne,
Und dem Wohlgesang zu Lohne
Sperrt’ er sie in goldnen Bauer.
Dieser sind des Menschen Glieder.
Zwar sie fühlet sich beschränket;
Doch wenn sie es recht bedenket,
Singt das Seelchen immer wieder.


【散文訳】

天から来て、荒々しい海の驟雨の中にあって、沈んだのは
一雫(ひとしづく)、恐れながら、無残にも満潮を打つた
しかし、神は、信仰心の謙虚な勇気を褒めた
そして、その雫に力と持続を与へ給ふた。
その雫を、静かな貝殻が、その身の内に閉ぢ込めた。
そして、かうして今や、永遠の名声と褒賞となつて
真珠が、わたしたちの皇帝の王冠に輝いてゐる
高い眼差しと、柔和な輝きを以って。

ブルブル鳥の夜の歌が、驟雨を貫いて
アッラーの輝く玉座に押し寄せた
そして、ブルブル鳥の歌う褒賞への賛歌を遮(さへぎ)つて
アッラーは、その真珠を黄金の鳥籠の中に閉ぢこめた。
鳥籠は、人間の四肢だ。
成程、真珠は限られたやうに感じるが
しかし、雫が正しくそのことを熟慮する度に
小さな魂は、繰り返し繰り返し歌ふのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩は、寓話の巻の最初の出だしの、露払ひの詩で、無題です。

この冒頭の詩そのものが、この巻の意図を表してゐます。

天から落ちた一滴の雫が貝殻の中で真珠になり、それが更に黄金の鳥籠の中に入れられて、小さな魂、即ち真珠が、歌を歌ふといふ構図です。

人間の四肢の中に宿る魂を、結局小さな美しい一個の真珠に譬えた 詩だといふことになりませう。




Der Reisbecher(旅行用の杯):第11週 by Conrad Ferdinand Meyer(1825 ー 1898)


Der Reisbecher(旅行用の杯):第11週 by  Conrad Ferdinand Meyer(1825 ー 1898)




【原文】

Gestern fand ich, räumend eines
 längstvergeßnen Schrankes Fä-
  cher, Den vom Vater mir vererb-
   ten, meinen ersten Reisebecher.
    Währenddes ich, leise singend,
     reinigt' ihn vom Staub der
     Jahre, War's, als höbe mir
     ein Bergwind aus der Stirn
      die grauen Haare, War's,
       als dufteten die Matten,
       drein ich schlummernd
       lag versunken, War's, als
       rauschten alle Quelle,
        draus ich wandernd
          einst getrunken.


【散文訳】

昨日、わたしは、長い事忘れていた戸棚の
棚を整理してゐて、父がわたしに遺してくれた
わたしの最初の旅行用の杯を見つけた。
その間、わたしは、小声で歌を歌ひながら
長年の埃(ほこり)をほろつて、それを綺麗にしたが、
それは、恰も山岳の風が、わたしの額の中から吹いて来て
わたしの灰色の髪の毛を吹き上げるかの如くであり、それは、
恰もアルプスの牧場(まきば)が香り高く香つて
その中に、わたしは微睡(まどろ)みながら
沈んで、横たわつているかの如くであり、それは、
恰もすべての泉が、さやけき音を立ててゐて
わたしは、その泉から旅に出てゐて、その途上で
嘗てその水を飲んだことがあるかの如くであつた。


【解釈と鑑賞】

この詩人の、Wikipediaです。スイスの詩人です。

日本語のWikipedia:http://goo.gl/6DVFBD
ドイツ語のWikipedia:http://de.wikipedia.org/wiki/Conrad_Ferdinand_Meyer

この詩の行の配列は、上のドイツ語の原文で示したやうに、旅行用の杯の姿をかたどってゐるものです。日本語の訳ではそれは再生できませんでした。

実に、味わひのあるいい詩だと思ひます。

この旅行に持参する杯、コップとはどのやうなものなのかを写真でお見せして、その形象(イメージ)をご覧ください。

古さうなものを選びましたが、今ではプラスチツク製のものが主流のやうです。











【Eichendorfの詩107】Die Freunde5(友達5)の1


【Eichendorfの詩107】Die Freunde5(友達5)の1 
  

【原文】

          1

Seh ich des Tages wirrendes Beginnen,
Die bunten Bilder fliehn und sich vereinen,
Mögt ich das schöne Schattenspiel beweinen,
Denn eitel ist, was jeder will gewinnen.

Doch wenn die Strassen leer, einsam die Zinnen
Im Morgenglanze wie Kometen scheinen,
Ein stiller Geist steht auf den dunklen Steinen,
Als wollt er sich auf alte Zeit besinnen:

Da nimmt die Seele rüstig sich zusammen,
An Gott gedenkend und an alles Hohe,
Was rings gedeihet auf der Erden Runde.

Und aus dem Herzen lang verhaltne Flammen,
Sie brechen fröhlich in des Morgens Lohe,
Da Grüß ich, Sänger, dich aus Herzensgrund!


【散文訳】

わたしは、昼間の混乱した始まりを目にする
多彩な形象が逃亡し、四散し、そして一つに成る
わたしは、この美しい影絵を泣きたい
といふのも、ひと誰もが獲得したいと思ふものは、虚栄であるからだ。

とはいへ、通りといふ通りが空虚に、屋根が孤独に
朝日の光の中で、彗星のやうに輝くならば
静かな精神が、暗い石畳の上に立つている
恰も古い時代を思ひ出すかの如くに。

さあ、そこで、魂は武装をして身を引き締める
神を祈念しながら、さうして、周囲にあつて、
地上の円の上で繁栄する全ての高みを思ひながら

さうして、こころの中からは、長く保たれた数々の炎が
陽気に、朝の烈火の中に押し入るのだ
そこで、わたしは挨拶をする、お前歌い手よ、お前に、こころの底から!


【解釈と鑑賞】

連詩5篇からなる詩『友達』の第5の詩です。

この第5の詩が更に3つに分かれています。その最初の詩が、これです。

第1連では、昼間の世界は虚栄に満ちたものであることが歌われています。この昼間の世界は影絵の世界であるという。これは全く、世間の目から見れば倒立し、倒錯したものに見えますが、しかし、この方が真実であり、真理なのです。

さうして、「恰も古い時代を思ひ出すかの如くに」静かな精神が、暗い石畳の上に立っているのだといふ。この恰も(als ob)とある以上、この精神のたっている暗い石畳という場所には時間がないのですし、それ故に、この精神は静かなのです。沈黙せる精神といってもよいでせう。

しかし、やはり朝が来る、さうして昼が来る。そのために、魂は武装をして、どのように生きるかが歌われているのが、第3連と第4連です。

訳していて思ふことは、この詩のドイツ語は、言葉としてみると、全くその通りで、即ち話者であるアイヒェンドルフと径庭がなく、言葉の方がアイヒェンドルフだということです。










2015年3月1日日曜日

【西東詩集107】 Sommernacht(夏の夜)


【西東詩集107】 Sommernacht(夏の夜)


【原文】

             Dichter

NIEDERGANGEN ist die Sonne,
Doch im Westen glänzt es immer;
Wißen möcht ich wohl, wie lange
Dauert noch der goldne Schimmer?

             Schenke

Willst du, Herr, so will ich bleiben,
Warten außer diesen Zelten;
Ist die Nacht des Schimmers Herrin,
Komm ich gleich es dir zu melden.

Denn ich weiß du liebst das Droben,
Das Unendliche zu schauen,
Wenn sie sich einander loben
Jene Feuer in dem Blauen.

Und das hellste will nur sagen:
》Jetzo glänz ich meiner Stelle,
Wollte Gott euch mehr betragen
Glänztet ihr wie ich so hellte.《

Denn vor Gott ist alles herrlich,
Eben weil er ist der Beste,
Und so schläft nun aller Vogel
In dem gross- und kleinen Beste.

Einer spitzt auch wohl gestängelt
Auf den Besten der Zypresse,
Wo der laue Wind ihn gängelt
Bis zu Thaues luftiger Nässe.

Solches hast du mich gelehret
Oder etwas auch dergleichen,
Was ich je dir abgehörtet
Wird dem Herzen nicht entweichen.

Eule will ich, deinetwegen,
Kauzen hier auf der Terrasse,
Bis ich erst des Nordgestirnes
Zwillings- Wendung wohl erpasse.

Und da wird es Mitternacht sein,
Wo du oft zu früh ermunterst,
Und dann wird es eine Pracht sein,
Wenn das All mit mir bewunderst.


                 Dichter

Zwar in diesem Duft und Garten
Tönet Bulbul ganze Nächte,
Doch du könntest lange warten
Bis die Nacht so viel vermöchte.

Denn in dieser Zeit der Flora,
Wie das Griechen-Volk sie nennet,
Die Strohwitwe, die Aurora,
Ist in Hesperus entbrennet.

Sieh dich um! sie kommt! wie schnelle!
Ueber Blumenfelds Gelänge! -
Hüben hell und drüben helle,
Ja die Nacht kommt ins Gedränge.

Und auf roten leichten Sohlen
Ihn, der mit der Sonne entlaufen,
Eilt sie irrig einzuholen;
Fühlst du nicht ein Liebe-Schnaufen?

Geh nur, lieblichster der Söhne,
Tief ins Innre, schliess die Türen;
Denn sie möchte deine Schöne
Als den Hesperus entführen.


      Der Schenke (schläfrig)

So HAB’ ich endlich von dir erharrt:
In allen Elementen Gottes Gegenwart.
Wie du mir das so lieblich gibst!
Am lieblichsten aber daß du liebst.


                       Hatem

Der schläft recht süß und hat ein Recht zu schlafen.
Du guter Knabe! hast mir eingeschenkt,
Vom Freund und Lehrer, ohne Zwang und Strafen,
So jung vernommen wie der Alte denkt,
Nun aber kommt Gesundheit holder Fülle
Dir in die Glieder dass du dich erneust.
Ich trinke noch, bin aber stille, stille,
Damit du mich erwachend nicht erfreust.


【散文訳】

       詩人

沈んでしまったな、太陽が
しかし、西の方は、相変わらず明るく輝いているぞ
わたしは知りたいのだ、どれ位長く
まだ続くのかな、この黄金の輝きは?

       酌人

旦那、もしお望みならば、わたしはここに留まって
このテントの外で待っていたいと思いますよ
夜が、輝きの女主人になったら
直ぐに旦那のところに来て、報告しますよ。

というのも、旦那があの上のものが好きだと知っているからですよ
無窮のものを見るためにね
もしこの二つ(あの上のものと無窮のもの)が、青の中にあるあの火をお互いに褒め合うならば

そして、最も明るいものが、ただこう言うだけなのさ
》今これから、わたしは私の地位を輝かせるのだ
神が、お前たちをもっと支えたいと思うならば
お前たちは、わたしがこのように明るいのと同様に輝くであろう。《

というのもは、神の御前では全ては素晴らしく、荘厳であり
まさに、神が最善の者であるという理由によって
そういう訳で、このように、こうして今やすべての鳥達が眠っているですから
大きな、そして小さな 最善の中で。

ある者は、実際間違いなく、支柱の棒に取り付けられて尖(とが)る
糸杉の最善最良のものの上で
そこでは、純粋な風が、その者を(手引き紐で幼児に歩行を教えるように)歩き方を教える
その者が、タウエの、風に吹かれる湿気に到るまで

かくなるものを、旦那はわたしに教えて下さった
或いはまた、何かそのようなものを教えて下さった
嘗て旦那から聞いたことは
こころから消え去ることはありませんよ。

わたしは梟(ふくろう)なのですよ、旦那のために、このテラスの上にとまって、うづくまっている梟でいたいのですよ
わたしが、やっと北の空の星辰の
双子座の回転を捕らえるまではね。

そうなれば、それは夜中なのであり
そこ(夜)では、旦那はしばしば余りに早くに人を元気づけ
そうなれば、それは壮麗、豪奢なことになりますよ
これらすべてが、おいらと一緒に人を驚かせるならば。

      詩人

なるほど、この芳香と庭の中には
ブルブル(ペルシャの鳴鳥)の声が、いつも夜通し響いている
しかし、お前は長い間待つがいいのだ
夜がかくも たくさんのことをする力を出すまではな。

というのも、フローラ(花と春の女神)のこの季節の中では
ギリシャ民族がそう(フローラと)呼んだわけだが
藁の未亡人、即ちアウローラ(曙の女神)が
ヘスペルス(宵の明星、金星)の中で燃え尽きるのだからな。

お前の周りを見てみるがいい!アウローラが来るぞ!何という速さだ!
花の野原のその場所一面に!ー
こっちも明るい、あっちも明るい
そうだ、その通りだ、夜が押し籠められている。

そして、赤い軽い足裏で
太陽と一緒に逃げて行ったヘスペルスを
アウローラは、思い違いをして追いつこうと急ぐのだ
お前は、愛の喘ぎを感じないか?

ひたすらに行け、息子の中の最愛の息子よ
深く(居酒屋の)中に入るのだ、扉という扉を閉めるのだ
というのも、アウローラは、ヘスペルスよりもお前の美しさを
誘拐したいからなのだ。


      酌人(眠た気に)

さあ、こうして、やっと、旦那を待ち焦がれていたものを手に入れたってわけでさあ
神の現在する其のあらゆる要素の中にいてね。
旦那が、それを、このおいらに、何と愛らしく与えてくださることか!
最も愛らしいのは、しかし、旦那が愛するということなんですよ。

      ハーテム

こいつは、まさしく甘く眠っていて、そうして、眠る権利があるというものだ
お前、善き子供よ!お前はわたしに酒をついでくれたのだったな
友と教師から、強制もなく罰もなく
お前は、老人が考えるように斯くも若いと知ったのだが
さて、しかし、こうなってみると、優美な充実たる健康がやって来る
お前の四肢の中にな、そうすると、お前は新しくなるのだ
わたしは、まだ酒を飲むぞ、しかし、静かに、静かにしているのだ
お前が覚醒しながら、わたしを喜ばせることのないようにな。


【解釈と鑑賞】

この詩を読むには、この詩人の酒の飲んでいる居酒屋の前には庭園があると思って下さい。そうしてこの庭の中には、夜鳴く、他の詩にも出てきたあのブルブルという鳥が鳴いているのです。

そうして、日がな一日詩人はこのペルシャの居酒屋で酒を飲み、飲み疲れてうつらうつらしている。眠っているのか起きているのか。そうして、そこに酌人がいる。そのような情景を思って下さい。

さて、昼が終わり、夜が始まる、この間(あわい)の時間についての詩人の言葉で、この長い詩は始まります。

第2連の最後から2行目の、

夜が、輝きの女主人になったら

という此の女主人とあるのは、夜が女性名詞だからです。

第3連の、

あの上のものと無窮のもの

とあるこの言葉の意味は、前者、即ちあの上のものとは、既に到来した夜であり、後者、即ち無窮のものとは、遥か地平線に逃れ行く昼の太陽の残光であろうと思います。

この二つのものが共有する此の間(あわい)の時間の色を、

青の中にあるあの火

とゲーテは歌っているのです。

このような目的のない詩こそ、優美な詩、装飾の詩、言葉の最高の技能、即ち藝術という術たる技能を駆使した作品というべきでありませう。

よい時代など詩人には一度もありません。大切なことは、時代に抗して、トーマス・マンの言葉を借りれば、trotzdem、そうであるにも拘らず、それに打ち勝って、作品をものすることが大切なことなのです。

そのために、この時代のゲーテは、ハーフィスの力を借りたということであり、しかし、その動機以上に、やはりこの東西の混交し、融合した此のドイツ語の詩は素晴らしい。と、そう思います。

今の日本で、このような詩を書く詩人がいるかどうか。この詩を読んで、そう思いました。

この詩が、SAKI NAMEH, DAS SCHENKENBUCH、即ち居酒屋の 巻の最後の詩です。









Sieben Häute(7つの皮膚):第10週 by Sarah Kirsch(1935 ー 2013)


Sieben Häute(7つの皮膚):第10週 by  Sarah Kirsch(1935 ー 2013)



【原文】

Die Zwiebel liegt weißgeschält auf dem kalten Herd
Sie leuchtet aus ihrer innersten Haut daneben das Messer
Die Zwiebel allein das Messer allein die Hausfrau
Lief weinend die Treppe hinab so hatte die Zwiebel
Ihr zugesetzt oder die Stellung der Sonne überm Nachbarhaus
Wenn sie nicht wiederkommt wenn sie nicht bald
Wiederkommt findet der Mann die Zwiebel sanft und das
     Messer beschlagen


【散文訳】

玉葱が、白く皮を剥(む)かれて、冷たい竃(かまど)の上にいる
玉葱は、その内側の皮膚の中から発光していて、その横にナイフがある
玉葱は一人、ナイフは一人、その家の主婦は
泣きながら、階段を走って降りたが、それほど、玉葱は
主婦を苦しめたのだ、或いは、隣家の上の太陽の位置が、主婦を苦しめたのだ
もし主婦が再び戻って来なければ、もし主婦がぢきに
再び戻って来なければ、夫は玉葱が柔らかくなっているのを見つけ、そして、その
ナイフが錆びているのを見つける


【解釈と鑑賞】

この詩人の、Wikipediaです。ドイツの詩人、それも東ドイツの詩人です。ベルリンの壁の崩壊も経験した詩人です。

日本語のWikipedia:http://goo.gl/u2NdEY
ドイツ語のWikipedia:http://de.wikipedia.org/wiki/Sarah_Kirsch

7つの皮膚という題名ですが、これは何を意味しているのでしょう。

隣家の上の太陽の位置が、主婦を苦しめたのだ、とありますので、日本語で言えば
隣の家の芝生は青く見えたということ、何か隣の家の家庭は明るく太陽の光に照らされて
いたということ、それに対して、この主婦の家は暗く、太陽の陽が差し込まないので、
主婦は孤独で一人、ナイフも一人で孤独、しかし、太陽の代わりに、玉葱が内部から
光を発して、毎日毎日仕事をする台所を照らしてくれているということなのでしょう。

そうして、その玉葱は、例によって涙腺を刺激しますから、このことに掛けて、詩人は
主婦の苦しみからなのか、この玉葱が光を発してくれていて自分を救ってくれていることに
涙したのか、泣きながら階段を降りて外へ走り出るのです。

しかし、こうしてみると、台所が階段の上にあるというのも解せません。従い、この詩の第一行の竃は、二階のこの主婦の部屋にあるのでしょう。しかし、ということは、この主婦は、この玉葱を二階の自分の部屋の竃の上の置いていたということになります。何故ならば、玉葱は内部から光を発して、その暗い部屋を照らしてくれたからでしょう。二階に竃など本来ありませんから、それほどこの女性は孤独であったということなのです。

この女流詩人は、同じ詩人の夫と離婚をしておりますので、その前に書いた詩ではないかと思います。


かうしてみますと、冒頭の問い、即ち、7つの皮膚という題名ですが、これは何を意味しているのでしょうか、という問いに答えることができます。

玉葱のように7つの皮膚を持って自分は、生活に堪えに堪えたけれども、もうその数々の皮を剥いて、自分は裸になりたいし、なったのだと、そうして、家を出るのだ、もう毎日料理をして来たナイフも孤独に錆びついているのだと、そのように、この詩は言っているのではないでしょうか。



【Eichendorfの詩106】Die Freunde4(友達4)


【Eichendorfの詩106】Die Freunde4(友達4) 
  

【原文】

Schalkhafte Augen reizend aufgeschlagen,
Die Brust empört, die Wünsche zu verschweigen,
Sieht man den leichten Zelter dich besteigen,
Nach Lust und Scherzen durch den Lenz zu jagen.

Zu jung, des Lebens Ernste zu entsagen -
Kann ich nicht länger spielen nun und schweigen,
Wer Herrlichs fühlt, der muß sich herrlich zeigen,
Mein Ruhen ist ewig frisches Wagen.

Lass mich, solang noch trunken unsre Augen,
Ein'n blühnden Kranz aus den vergangenen Stunden
Dir heiter um die weiße Stirne winden;

Frag nicht dann, was mich deinem Arm entwunden,
Drück fest den Kranz nur in die muntern Augen,
Mein Haupt will auch und soll den seinen finden!



【散文訳】

悪戯(いたず)っぽい目を、魅力的に開けて
望みについては沈黙するほどに、胸は憤激して
軽い(側対歩で歩む婦人用の)馬に、お前が乗馬するのをみる
春の中を通って、陽気と冗談を狩るために。

生の持つ真剣さを捨てるには、余りにも若すぎるー
わたしは、これ以上長く、遊ぶことは今やできず、そして沈黙することができないのだろうか?
素晴らしいものを感じる者は、素晴らしく自分を示さねばならない
わたしの休息は、永遠に新鮮な馬車である。

わたしたちの眼が、未だに酩酊している間は、
過ぎ去った数々の時間の中から生まれた花咲く一個の王冠を、
明朗に、お前の白い額に巻かせてくれ

そして、お前の腕(かいな)からわたしをもぎとったものが何かを問うな
その王冠を、しっかりと、ただ陽気な眼の中に押し入れよ
わたしの頭(こうべ)もまたそうしたいと思い、そして、その頭の王冠を見つけることになるのだ!


【解釈と鑑賞】

連詩5篇からなる詩『友達』の第4の詩です。

後手に廻りましたが、この連作の詩のそれぞれには、誰それに宛てられたということが、その冒頭に示されています。

最初の詩には、特定の宛名がありませんので、この詩は、その後に続く4つの詩の意味を歌った詩だということになります。

ふたつめと三つ目の詩は、An L...と、Lで始まる友人に宛てられたものです。四つ目の今回の詩は、An Fraeulein...と書かれていて、詩の第二連の一行のこの書き出しを併せて考えますと、十代の少女だと思われます。

その愛らしい姿を、詩人は、乗馬をしているときに目にしたのでしょう。そして、季節は春です。

第2連の最後の行の、

わたしの休息は、永遠に新鮮な馬車である。

とは、言い換えれば、いつも新鮮に進むこと、そのような者であることが、わたしの休息であり、安らぎなのだ、という意味です。

この一行は、その前にある、この女性が馬に乗っていることから言われたことです。

最後の連には、

そして、お前の腕(かいな)からわたしをもぎとったものが何かを問うな

とありますから、愛し合ってから実際に別れたのか、しかしそうではなく、この少女と距離をおいて、もはや自分はそのような少女と一緒にいるような人間ではないと思って、そのように歌ったのか、これは解釈が分かれるところでしょう。

しかし、最後の連の最後の一行がありますので、詩人のこころは、この少女から離れることはないのです。

以上は、少女と思って解釈しましたが、しかし、20代の初めの女性と思っても、よいと思います。

夢が現であり、うつつが夢であるような詩です。アイヒェンドルフは、そのように生きたのでしょう。

そうして、最初の詩に戻って、この詩を読むと、アイヒェンドルフの、この女性に対するこころが一層よく判ります。以下に引用します。最初の連が、今回の詩の最初の連に照応していることがお分かりでしょう。


誰でも、大波の上で眠ってゐる者がゐれば、その者は
一人の、優しく揺り籠に揺られている子供なのであり
生の深さを知らず
甘く夢見る余りに、盲目である。

しかし、数々の嵐が、この者を捕(とら)まへる
野生の踊りと祝宴の場で
高く、暗い数々の通りで
間違つた世界が、この者を唆(そそのか)す:

この者は、勇敢に活動することを学ぶ
夜と崖を通り抜けて
この者は、操縦桿を握るのだ
確実な、真剣なこころを以つて

この者は、本物の芯が備わってゐて
陽気と苦痛で試される
この者は、神と星々を信仰する
この者こそ、わたしの船の船乗りならむ!