【Eichendorfの詩68】Entgegnung(邂逅)
【原文】
》Sei antik doch, sei teutonisch,
Lern, skandiere unverdrossen,
Freundchen, aber nur ironisch!
Und vor allem lass die Possen,
Die man sonst genannt: romantisch.《―
Also hoers man’s rings her schallen;
Aber mich beduenkt: pedantisch,
Sei das Schlimmste doch von allen.
Wem der Herr den Kranz gewunden,
Wird nach alledem nicht fragen,
Sondern muss, wie er’s befunden,
Auf die eigne Weise sagen,
Stets aufs neu mit freudigem Schrecken,
Ist sie auch die alte blieben,
Sich die schöne Welt entdecken,
Ewig jung ist, was wir lieben!
Oft durch des Theaters Ritzen
Bricht’s mit wunderbarem Lichte,
Wenn der Herr in feur’gen Blitzen
Dichtend schreibt die Weltgeschichte,
Und das ist der Klang der Wehmut,
Der durch alle Dichtergeister
Schauernd geht, wenn sie in Demut
Ueber sich erkannt den Meister.
【散文訳】
》古代風であれよ、チュートン(ゲルマン)風であれ
学べ、根気よく韻律を踏んで朗読せよ
友よ、しかし、ただ皮肉を以てだ!
そして、何よりも、茶番はやめだ
普通人がロマンチックと呼ぶ茶番は《
かくして、周囲には、この言葉が響き亘るのを聞く
しかし、わたしは思うのだ。それは、衒学的だと
総てのもののうちで最悪のものであれ、と言っているのだと。
神が冠を編んでやったその人は
なんでもかんでも問うのではなく
その人がそう思う通りに
独自の方法で言わねばならない
絶えず新しく、悦びの驚きを以て
美しい世界を発見するのに
その方法も実際古風のままならば
永遠に若くあるのだ、わたしたちの愛するものは!
劇場の割目を通じて、しばしば
不思議な光と共に、それはこぼれ落ちる
神が、炎の稲妻の中に
世界史を詩作するならば
そして、それが、哀愁の響きであるならば
その哀愁は、すべての詩人の精神を通じて
震えながら行く、そのような哀愁の響きであるならば、
哀愁が(神に対して)恭謙なこころで
自らについて、自分が支配者(マイスター)だと認識したならば。
【解釈と鑑賞】
第1連は、当時盛んに言われたことなのでしょうか。どうも、そのように思います。
アイヒェンドルフは、それを否定して、遠ざけている。
独自の方法が古く、古風であれば、われわれの愛するものが永遠に古びることなく、若いままであるということが、この詩の、もし主張というならば、主張でありませう。
アイヒェンドルフにとって、古いということは、この詩を読むと、神に恭順であること、それが詩人であることを言っています。
第3連の第1行にある劇場とは、この世界、この世の舞台のことでしょう。
そうして、実は、そのようにあれば、詩人はその支配者、マイスターであるというのです。
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